追分(おいわけ)
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福井県敦賀市追分 福井県敦賀郡愛発村追分 |
追分の概要《追分の概要》 「追分」という所は各地にもあるが、もとは「牛馬を追い、分ける場所」のことだという、街道の荷物は牛馬の背や、それが引く荷車で運ばれたが、ここで行き先によって分けたのであろう。そこから街道の分岐点を意味するようになったという。 ついでに、民謡の追分というのは、街道稼業の博労たちの馬子唄から発生したという。長持唄も同様でテンポがゆるやかで哀調を帯び規則的な拍節をもたない。 当地は事実、その分岐点であった。 集落の少し南で街道が別れていた。橋を渡りまっすぐに行けば 『敦賀志』 追分村 疋田の南八丁バかりに在
氏神山王権現、宝蔵山真正寺(浄土宗御影堂前町善妙寺末) むかしハ此村より東西への追分也(今ハ疋田より分る)、此村の東の山を深坂と云、此坂を登りて新道野の南へ出、沓掛村を歴て塩津へ出ツ、是昔の官道也、 慶長11年(1606)頃の越前国絵図では疋田村に含まれた。 安政3年(1856)深坂越開削を行い一時繁栄を取戻したが、明治2年新道野道が改修され、車道が開かれたため再び往来は絶えた。 《追分の人口・世帯数》 61・21 《追分の主な社寺など》 日吉神社 真正寺前に社標がある。社殿が山の上↑に見えるが参道が荒れていた。車を留める所がなく、下から参拝した。 氏神は字上出屋敷に鎮座する日吉神社(旧称山王権現)、祭神は大山咋命。旧村社。文禄年間(1592~96)宮谷山より移転したと伝える。 『敦賀郡神社誌』 村社 日吉神社 敦賀郡愛發村追分字上出屋敷
位置と概況 本區は北五町にて疋田區に、南二十五町にて駄口區に隣し、山嶽重疊して、田畑及伍位川を隔てゝ東西に封峙してゐる。追分區と稱するは、往昔道路が、この區より東西に分かれたたれば、この名を存すると、敦賀志稿にも見えてある。今は道路が、疋田區より分岐せる西近江道(海津方面)に沿ひ、人家の多くは此道路の西側に面して建てられてある。天智天皇大津に宮居を定め給ひ、伊勢の鈴鹿美濃の不破と共に、此の愛發にも關所を置かれ、關守をして通行人を糺す所とされたのである。天皇御踐祚又は御即位の時は、前日或は三日前に、固關使といふを遣はされる例であつたが、後には國司をして代理せしむることもあつた。その關所趾は、この海津道により駄口區を經て、二十七町を距りたる山中區の附近てあつて、この山中區より尚南十七町の七里半越の國境であらうとのことである。萬葉集等の歌書に有名なる愛發山は、今その名稱をを存せざるも、岩籠山の南方に連峙せる高嶺を云ふので、岩籠・鷹・愛發の嶺を、疋田八郷の三大山と稱したのである。山中區は滋賀縣高島郡との境界で、之れに通ずる阪路を七里半越と稱した。桓武天皇延暦八年通路の便を失いしが、元長九年六月二十八日、坂井郡の人で秦乙麿といふものが、荒道なりしを開いたと云ふのは、この阪路であらう。今は坦々たる道路でも、往時は如何に行路難であつたかを偲ばせる。元は追分區より深坂峠を越へ、新道野附近を過ぎ、江州沓掛區を經て、鹽津村に通じた。これが昔の國道であつて、古歌古書に見ゆる鹽津山も、或はこの邊の山であらう。今左に塩津山の古歌一・二を記るす・ことゝする。 萬葉集笠朝臣金村 塩津山うち越えゆけばわれ乗れる馬ぞつまづく家戀ふらしも 続古今集雑四紫式部 しりぬらむ往来になれて塩津山、よにふる道はからき物そと 新後撰集國助 朝ほらけひかたをかけて塩津山、吹きこす風につもる白雪 大木抄後九條内大臣 風ふけば空にひかたの塩津山、花そみちくる冲つ白浪 飛鳥井雅緑卿紀行歌 にほの海や磯屋のけふりたてながら、やかぬ塩津の浦風ぞふく など此の外にも多く見えてある。又追分區を貫通する、海津街泣に沿へる愛發山についても、古歌に詠まれたものが甚だ多い、こは山中區の部に於て書くが本意なれど、駄口・山中兩區の神社は、先年當區日吉神社へ合祀されたれば、今當社の一部に於て其の梗概を記すことゝする。 當社は追分・駄口・山中三區の氏神に座して、海津街道に沿ひ、参道入口には社標が立てられてある。ここより一町足らずの孤立せる山陵形の丘陵に、六十餘級の石階を設けられ、こゝを上りつむれば、鳥居を潛り拜殿に至る。こゝより進みて高さ五尺の石垣を以て區分せられ、そこに設けられた、石階数段にて、本殿は東南面して鎭座し給ふ。社地は四方開けたる景勝の地にて、區の中央南端に當つてゐる。この丘陵の西麓は淡々たる五位川の清流にて、こゝより山田を隔てゝ深山幽谷が見える。こゝを宮ヶ谷と稱して、元當社が文禄年間まで鎭座し給ひし舊趾である。 祭神 大己貴命 大山喰命 八王子大神 由緒 抑ゝ當社の由来を按ずるに、嵯峨天皇弘仁年間、空海巡錫の際に奉祀されたる古社にて、延喜式神名帳、敦賀郡質覇村峰紳社とあるは、是即ち當社であると云ふ。明治十一年三月村社に列せられた。又明治四十三年十二月十日駄口區宮ノ脇地籍に座して、山王権現と尊稱せる、日吉神社祭神大山咋命をも合祀した。元この社は龜山天皇弘長二年二月の創立なりしも、何時の頃にか廢絶の態となりしが、文政三年四月再建して、明治十一年三月村社に列せられたのである。又山中區南深山地籍に座せし日吉神社、祭神大山咋命は、弘仁元年四月の剣立にかゝり、明治十一年三月村社に列せられたが、明治四十三年十二月十日合祀した。當時同社の境内社八王子寺神社、祭神素佐之男尊の御子五男三女神をも同日合祀した。合祀後、大正十一年二月十一日神饌幣帛料供進の神社に指定せられたのである。 祭日 例祭 五月四日(元舊四月三日) 祈年祭 三月二十五日 新嘗祭 十二月四日 本殿 … 舊社地 舊社地宮ヶ谷遺趾 宮ヶ谷の舊社地帯には杉樹の植林をな、数十年前前では、老杉巨椎鬱茂せりと云ふ、曾て同地一帶の地下より、大なる樹根又は古き巨幹を發掘し、最近に於ても、周圍八・九尺長数間の神代杉、又は土器類の小破片数個を發見したることもあると。 … 氏子戸数 三十九町 追分十七戸・駄口十八戸・山中四戸 … 神明講 古くより神明講と稱し、毎月の講日には講員一同氏神に參拜し、殊に祈年・新嘗の兩祭には、撤饌を各戸に分與して、祈願報賽の誠を致してゐる。 愛發山の古歌及古文獻 伏見院御製 今朝のあさけ寒きあらちの山颪、初雪ふりぬ野邊の浅ちふ。 萬葉集 読人不知(倭漢三一才圖繪に人丸とあり) 八田の野の漫茅色づく有乳山、みねの沫雪さむく降るらし。 全葉集源雅光 あらち山雪ふりつもろ高根より、さえても出るよはの月影。 菌葉集 読人不知 男につきて越前國にまかりけるに、男心かはりて常にはしたなければ、都なる親のもとへいひ遣しける。 打ちたのむ人の心はあらち山、越路くやしき旅にもあるかな。 同親返し 思ひやる心さへこそ苦しけれ、有乳の山の冬のけしきは、 『続日本紀』卷二十五 「天平寶字八年九月… 其他高貴高官の古歌、又古文章等多けれど省略する。 關趾 は山中區地籍なるも、その確證ある遺趾は未だ明かでない。山中區は享保年間には四十六戸あり。明治初年には二十五戸あうしも、北陸鐡道開通して以来、戸数年次減少して現状に至った。 … 『敦賀郡誌』 追分 疋田の南にあり。昔は海津・鹽津の追分なり。天明五年、一村火災に罹る。 氏神。日吉神社、村社。往古、宮谷山に鎮座ありしを、文祿年間、之に移せりと云。明治十一年三月、村社に列せらる。四十三年十二月十日、駄口村社日吉神社・山中村社日吉神社を合祀す。 眞正寺、(寶藏山)淨土宗鎮西派、敦賀善妙寺末、慶長四年八月、徳遊開基。 深坂峠、鹽津及大浦に出づ。古道廃したるを、安政年間開鑿したるに、明治十一年、新道野道を修め、車道を開きて以来、亦往来絶えたり。鹽津浦は近江なれども、鹽津山は八雲御抄・歌枕・名寄等には越前とせり。兩國の境なればなるべし。然らば此峠即鹽津山なるか。或は鹽律谷のことなるか、然らば近江なり。
浄土宗宝蔵山真正寺 淨土宗鎮西派、敦賀善妙寺末、慶長四年八月、徳遊開基という。 《交通》 深坂越 深坂越は、敦賀市追分と滋賀県西浅井町沓掛の間にある約4・5kmの峠道。最高地点深坂峠は標高約370m。一帯は花崗岩が深層風化し、集福寺断層沿いの谷に位置して、敦賀市道口と滋賀県の塩津を結ぶ最短経路である。しかし追分からの傾斜が急で雪も多く江戸初期に三足富士の東を迂回する新道野越が開発されると深坂越の重要性は低下した。現在は追分から峠にかけては廃道となっている。沓掛から峠にかけては林道があり峠近くに深坂地蔵へ通じる小道がある。深坂地蔵には昔、平重盛が琵琶湖と日本海を結ぶ運河を計画し、この境内で試掘を行ったところ地蔵を掘り出したという伝説がある。現在のJR北陸本線は新疋田と近江塩津の間で深坂越の下をトンネルで通過している。傾斜の緩やかな新道野越が開かれて利用が減った。安政3年深坂越の開削が行われたが明治11年新道野越が車道になり以後往来はほぼ絶えた。 《産業》 《姓氏・人物》 追分の主な歴史記録追分の伝説追分の小字一覧追分 下出畑 地ノ口 橋向 西北ノ口 川向 向山 中河原 上出屋敷 上ノ山 半田 経塚 中之切 宮ノ腰 地蔵田 下嵐山田 嵐山田 北嵐 川庄田 道ノ下 五郎田 カセノ下 宮之前 嵐 宮谷 北ノ庄谷口 庄谷口 西庄谷口 焼山 下焼山 古道 下掛橋 西掛橋 東掛橋 小谷 川原谷 崩谷 萱尾山 鞍馬山 琴和谷 向山 嵐山 正谷 焼ケ原関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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