丹後の地名 越前版

越前

奥麻生(おくあそう)
福井県敦賀市奥麻生


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福井県敦賀市奥麻生

福井県敦賀郡愛発村奥麻生

奥麻生の概要




《奥麻生の概要》
市の南東部で、国道8号から東ヘ、奥麻生川に沿って1㎞ばかり山地に入った小盆地に立地する。慶長3年(1598)の奧麻生村検地帳写に、当村の田畠は2町3反、分米16石5斗(奧麻生区有文書)。慶長国絵図では疋田村666石余の一部。
近世の奥麻生村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。「享保郷帳」には奥莇生村と見えるという。享保12年(1727)の家数17(高持13 ・ 無高3・寺1)・人数102。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数16(全戸農)・人数74、産物は麻8貫・繭20貫・桑1万貫(売先は滋賀県塩津)・炭3万貫。同22年愛発村の大字となった。
近代の奥麻生は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数16、人口は男38・女53。


《奥麻生の人口・世帯数》 20・9


《奥麻生の主な社寺など》

日吉神社

集落の中央の日吉神社のケヤキの巨木、長者屋敷の大スギは市天然記念物。
『敦賀郡神社誌』
村社 日吉神社 敦賀郡愛發村奥麻生字富谷口
位置と概況 本區は舊時の書類には奥莇生と書きたるものもある。山間地にて、東西南の三方は悉く山を負ひ、北は稍々開けて田畑がある。西数町にて鹽津街道に出で、更に舊北陸街道即ち柳ヶ瀨街道に出で、陸路三里餘にて敦賀に至り、二里餘にて滋賀縣鹽津に至る、又北西方は、二十一町を隔てゝ麻生區に隣す。江州との國境をなす三方嶽、行市連峯より出づる溪流は、随所に渦を書きて淵をなし、其上には雑樹生茂り、葛藤恣に纏綿して、恰も蛟龍の深淵に臨むが如き、凄じき勝景も少くない。當區人家は山ふところに散在し、神社境域に隣接して、小寺院がある。社域は山麓にて、域内には幹圍二丈餘に及ぶ欅の大木殊に多く、椿・杉等の老樹も亦本殿背後及其兩側に林立し、背後の山林は、橅等の大木天を覆ひ、山気沈々として迫るを覚ゆ、境内地は三區に分たれ、参道より石段数階を上れば、緑樹を背景としたる、朱塗の兩部鳥居があり。更に三四級の石階を上れば、直に拝殿に到る。こゝより進めぱ、更に石垣にて割し、中央に設けられたる数段の石階を上り進めば、本殿に詣づるのである。本殿は西南面して鎭座し給ひ、區の東南部に當りてゐる。古色蒼然たる拝殿の建築に比して、本殿の内殿は稍々粗造の嫌ひがあれども外殿に萱葺にて神々しく、樹木もまた古色湛ヘ神さび、其の風致は神國の神國たる所以を偲ばしめてゐる。
祭神 大山咋命
由緒 按ずるに、往昔より山王權現と尊称し奉り、その創立年代は詳かでなけれども、既に天正十八年八月十八日に鳥居の建立があり、降つては明和八年八月に拝殿の再建があり、祭器具の残存せるものにも、明暦元年霜月の刻銘あるもの等があり、其他往古より尊重せる原始的神像を、今尚寶物として、殿内に安置するなどを推考すれば、實に由絡古き神社なることを知るのである。明治十一年三月村社に列せられた。
祭日 例祭 舊八月十五日 祈年祭 舊四月三日 新嘗祭 舊十一月三日
特殊神饌 舊一月元旦には鏡餅四斗一重を(舊時は四斗六升一重)神前に供へて全戸参拜して後これを切りて全戸に分與する。
舊三月三日 菱餅長一尺五寸位のものを神前に供へ、全戸參拜し、後これを全戸に分與する。
舊五月五日 粽五十本(一本一合位)を神前に供へ、全戸参拜し、後これを全戸に分與する。
舊八月十五日 放生會と稱して神前に獻燈をなし、境内で區民は老若男女が四輪を作りて、『そろたそろた踊り子はそろた』と云ふ調子に唄ひ始めて、手拍子足どり揃へて、情調豊かに踊るので、老人も子供や孫の踊を讃美しながら、己を忘れて参加するとのことであつて、この踊を豊年踊と稱へてゐる。
舊十一月三日には揚豆腐二個と、白蒸を角盛になして、神前に供へる等の行事がある。
本殿 内殿 …


曹洞宗福田寺

天正11年(1583)創建の曹洞宗福田寺は、日吉神社の隣だが、今はないそうで、跡地には集会所が建てられている。
『敦賀郡誌』
奥麻生 麻生口の東南に在り。氏神、日吉神社、村社。福田寺、曹洞宗、松島永建寺末、本尊観世音、天正十一年創立。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


奥麻生の主な歴史記録



奥麻生の伝説

『敦賀郡神社誌』
長者屋敷の傳説(金鷄傳説) 奥麻生區から一里半ばかり山路を奥へ進むと、頂上に長者屋敷と云ふ廣い臺地がある。此處は江越二州の國境であつて、群峰四周を圍む、而かも遠くは伊吹の秀峰を望み、近くは志賀の風光を誂めうべき絶勝の地である。この附近には、今尚幾圍の大杉が直立してあるが、その森林中に岩石で作られた一の祠がある、傳説によれば、この所に昔時長者が住んで居たが、その長者に一人の娘がありて、年頃になるにつれ、容姿秀麗気品高く、世にも稀なる美人であつたが、日頃木本の地蔵尊へ、參詣するを樂とする信者であった。或日のこと、例のに如く娘が地蔵尊に參詣すると、かねて狙ひ居たものと見え、木蔭より荒くれた多数の山賊共がをどり出でゝ、纎弱い娘を引捕へ、有無を言はさず拉致し去り、之を人質としで長考の家へと襲撃した。長者はかゝる兇賊に敵することもかなはねば、其の蹂躪に委せたので、家財全部を掠奪されて了った。此の時長者は祖先傳來の重寳である黄金
造の鶏を巧みに隱蔽して、背戸なる磐石の下へと深く埋め込み、素知らぬ體をなして賊を欺いたので、この寳物だけは掠奪を免れた、後其の磐の上に石の祠を建てゝ長者を祀りてゐる。長者は當區の祖先であると言ひ傳へて、春秋二回、代表者が神饌を供へて參拜する。今もこの磐石の下で時々鶏鳴を聞くと傳へている。

『越前若狭の伝説』
ぎおん長者    (奧麻生)
奧麻生から六キロばかり山道を奧へ進むと、頂上に長者屋敷という広い台地がある。ここは江越二州の国境で、絶勝の地である。付近には今なお大きな杉が立ちならんでいる。その森の中に岩石で作られたほこら(祠)がある。
 むかしここに長者が住んでいた。長者にひとりの娘があり、容姿麗わしく、世にもまれな美人であった。日ごろ木本の地蔵尊に参拝していた。ある日いつものように地蔵尊に参けいすると、木かげから多数の山賊がおどり出て、娘を捕え、これを人質にして、長者の屋敷を襲った。
長者は、賊に敵対することができず、彼らの略奪にまかせた。しかし祖父伝来の宝物である黄金の鶏だけは、たくみに隠して、せどの岩の下へ深く埋めた。後にその岩の上にほこらを建て、長者を祭った。長者は当区の祖先であるといって、春秋二回代表者がお供えをもって参拝する。今も時々岩の下で鶏が鳴くのを聞くという。  (敦賀郡神社誌)

奥麻生から約二里(八キロ)南西の谷にはいると、祇園(ぎおん)谷と葦(あし)谷との両谷合にやや広い地がある。今は丈余のすすきが茂っているが、昔ここには長者が住んでいた。この長者はどこから来たものか不明であるが、土地の人がこの長者を祇園長者、または葦谷長者と呼んだことや、同地に清水谷、祇園谷など京都にちなんだ地名が多いことから、京都より落ちのびた者であろう。
この長者には、ふたりの美しい娘があった。たまたま近江の木の本の地蔵祭に参けいしたが、服装容姿など一きわ目立って麗しいので、本の本付近の青年の心を刺激した。青年たちはどこの娘であろうと、ふたりの帰途を尾行して、長者の屋敷に入るのをつきとめることができた。このうわさか近辺に伝わると、近江柳が瀬付近の山賊が、一夜長者宅を襲うて、家族を惨殺して、衣類家財宝物等を奪い去った。しかし土中に埋めてあった七個の黄金のつぼは知らなかった。後に近江集福寺の某か、夢の告げによって、このつぼの所在を知り、一個のみ掘り出したが、残る六個はなお不明である。 (福井県の伝説)

宮の森     (奥麻生)
長者屋敷よりさらに一里奥にはいったところに、宮の森がある。ここに周囲六メートルに余る五六百年も経たと思われる杉の木かある。むかし奥麻生には山獣が多く出て、農作物を全滅させたことがある。村人は相談の上、山獣の王としておおかみを選び、これを祭ることにし、その神体をこの杉とした。それ以後村人は春秋の二季に、部落から約十二キロのここに行って、供え物をして拝礼すること、昔も今も変ることがない。春は三月十六日、秋は九月二十八日である。     (福井県の伝説)


おとめの滝  (奧麻生)
おとめの滝は、奧麻生の入口にある。むかし某家にひとり娘があった。この滝の近所に住む一匹の大蛇(じゃ)が、娘の美ぼうにけそうして、ぜひとも嫁にくれるようにと談じこんだ。おとめの父は、ひとり娘ではあり、ことに相手が蛇であるために強く断ったが、その後もしつこく迫られたので、苦慮したすえ、明朝一番鶏がなくまでに百本の三徳を打ち込めば、娘を与えると答えた。大蛇は大いに喜んで、つぎつぎと九十九本まで打ち込み、残り一木というところで、一番鶏の声が聞えた。娘の父は約束通りしかと断わり、娘の手を取り立ち去ろうとすると、大蛇はなおもあきらめきれず、ついに娘をさらって、滝の中へ没してしまった。その後は、滝の音の物すごさかはなはだしくなった。村人はこれは娘の怒り声であるとし、いつとはなく、この滝をおとめの滝と呼ぶようになった。 (福井県の伝説)

おとめの滝のふちに蛇が住んでいた。あるとき若者に化身して、村のかじ屋に娘を妻にほしいと申しこんだ。鍛治屋の主人は、「おれの娘はかじの腕ききでないとやらない。むこになりたいならば、一夜に百本の五徳を打て。」といった。
 若者は仕事場におりて五徳を打った。九十九本打って、百本目のとき鶏が鳴いた。若者はそのまま姿を消して、二度と来なかった。      (伝説の敦賀)




奥麻生の小字一覧

奥麻生  坂田谷 坂田谷口 水滴 槻橋 薬師 滝砂羅 滝ナ下 山鼻 芹川 深田 広畑 谷屋 大畑 向川 向谷 宮ノ越 富谷口 富谷 石洞 一本木 池ノ尻 床洞 上砂羅 主谷口 主谷 小橋ノ詰 高平 輪光口 居付星 大平 土地洞口 塩汲口 塩汲 平鍋 川向 鷹巣口 漆原 碗谷口 熊洞口 大寺 栗田 肥洞 肥洞口 小持洞口 小河畑 葦谷口 葦谷 平野 祇園 西祇園 柳原 宮ノ下 伊屋谷口 伊屋谷 宮ノ森 清水 坂ノ尻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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