大比田(おおひだ)
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福井県敦賀市大比田 福井県敦賀郡東浦村大比田 |
大比田の概要《大比田の概要》 「嶺」が海に迫って、集落はほとんどその山腹斜面にある。山寄りを国道8号が走る。 比田は間(あいだ)の意味で、土地では山深い谷の険しい大小の山並みが重畳した高台の場所をヒグということから、それに大の字を冠して地名になったという(敦賀旧町村地名考)。地名では飛騨国とか豊後国 「気比宮社記」は、天正以前気比宮の社家は多く私領地に居住し、その一人西河端氏は大比田浦に住したと伝える。 天正14年(1586)8月の西光寺本尊裏書に「大比田浦西光寺本尊」と見える。中世には比田浦が見え、同浦は江戸初期に本比田と大比田に分かれた。慶長3年の大比田村検地帳写に田17町3反余・畠7町9反余・屋敷4反余・塩浜1町6反余、村高372石余(塩浜年貢など小物成を除く)とある、横浜浦からの入作は31石余にも及ぶ。同年の大比田浦出作帳などによると当浦からの出作分は横浜浦に89石余、杉津浦に19石余もあった。慶長国絵図には比田浦(元比田浦・大比田浦)と記され,高457石余。 近世の大比田浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。当浦は山中峠越の鹿蒜山路の通る交通の要衝で、敦賀郡の高札場13か所の1つが当浦にも置かれた。小浜藩京極氏時代には当浦を含め都合4か所に女留番所が設置された。番所は本藩の小浜藩敦賀町奉行の管轄で、配下の足軽組頭の杖突が支配し、女子の通行手形は町奉行が発行した。享保12年(1727)の家数119 (高持93・無高23 ・ 寺3)・人数638、塩かま屋8・塩高271俵余、牛30、舟3。庄屋治郎左衛門家は郷代官を勤める家柄で領内で訴訟のある時は本藩の役人とともに処理にあたった。塩浜は文化6年(1809)の荒波で流失し製塩を廃するに至った。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数124 (うち農108 ・ 工16)・人口582、産物は桐実430俵・繭120貫・桑300貫・葛粉70貫など。同22年東浦村の大字となる。 近代の大比田は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北7町余、戸数123、人口は男322 ・女344、学校1、小船5。 《大比田の人口・世帯数》 265・87 《大比田の主な社寺など》 古墳 東浦では唯一の横穴式古墳が字ミゾ谷にある。 八幡神社 ナビには、国道8号の山手に「鳥居」が出てきて、八幡神社と表記されるが、山の方へ入る山路や参道がどこにあるのかサッパリわからず、参拝できなかった。 八幡神社は、高森山に鎮座。祭神は応神天皇。旧村社。敦賀郷方覚書は「弓矢正八幡宮 八月十五日餅飯御供ヲ備へ鮪魚一ツヲ添」、「敦賀志」は「氏神高森八幡社」と載せる。 仁平2年(1152)に当地の刀禰(江戸時代には中山家を名乗る)七郎左衛門直忠が勧請し、子孫が神主を勤めた。享禄5年(1532)6月の朝倉景紀所領安堵状に「一高森八幡 九月九日之御神事之口明畠、私神主ニて河端飛騨守殿へ酒五升・いも五升・枝大豆・しゐの折枝等参候、此外御神事等勤申候、霜月籠二七日之間灯明参候」とみえる。慶長検地以前は30石の神領があり、元和元年(1615)に本多伊豆守が敦賀代官高田六太夫に社殿を再興させ、領主結城秀康は高森山の租税を免除したという。 曹洞宗休岩寺も中山家の開基にかかる。創建は寛永末年(1644)で、大野郡宝慶寺末であった。 八幡神社と休岩寺を創建した中山家は、中世は大比田浦の刀禰、近世は大庄屋・郷代官を勤めた。中世文書を含む寛永以前の古文書類約70点ほど、さらに明治初年までの文書1.500点ほどを有する。「敦賀志」に「中山某、昔ハ今井氏ニて、(中略)慶長年間嗣子なきに依て、佐々成政家中の浪人中山治左衛門直治と云者を養子とせり、それより姓を中山と改めたり、其以前朝倉家の時も郷士ニて、教景・景紀等の判物書翰数多蔵せり」とある。 『敦賀郡神社誌』 村社 八幡神社 敦賀郡東浦村大比田字宮ノ本
八幡神社の末社小森神社のツバキ、ヤブニッケイ、ケヤキは市天然記念物に指定されている。位置と概況 本區の東方は山嶺にて、西方は渺茫たる北海に臨み、遙に封岸立石燈臺を望んでゐる。南方は五町にて横濱區に、北方は九町にて元比田區に隣接し、敦賀町までは陸路三里十數町で、自動車の便がある。西南は十四町にて杉津區に到り、こゝより杉津驛に出づれば鐡道の便もある、本村立尋常高等小學校は、區の南端に國道に沿ひ設立されてゐる。人家は百二十戸ありて、本村第一の大區であるが、その多くは北陸道に沿ひ、市街地の如く軒を並べ、區民の多くは農業に従事してゐる。氏神八幡神社は、區の東北端に位して、人家とは約八町餘を隔つて、國道より入る、賽路は緩阪となり、一ノ鳥居を經て、二ノ島居より直に二百六十級の高き石階を攀ぢ上ると、床割式の拝殿がある。又この外に山麓東北端に、右門社と稱する小祠がある、こゝより山路を登り、愛宕社、の小祠に詣でて、拜殿前に出る賽路もある。拝殿より更に約二十階の石段を級した、高燥で而も幽邃なる地に、本殿は南面して鎮座し給ふ。其の左右には末社が鎭り座して、社域及び附近山林には、椎・松・檜・栂等の老樹古木、蓊蔚として深紅の森林をなし、樹々の梢を渡る鳥禽の聲と、峰に通へる潮風の音の外、闃として人聲なく、閑静幽趣轉々寥々たるものがあれども、南方の連峰を除き、他の三面は開濶にて、遠く水天髣髴の日本海を展望すべく、加ふるに清楚なる本殿の建築と、小石を敷き詰めて淨化した齋庭とは、一段と敬虔の念を起さしめる。 祭神 應神天皇 由緒 按ずるに、當社は近衛天皇仁平二年に、刀禰七郎左衛門忠直の勧請にて、その子孫代々當社に奉仕せしと傳へてゐる。郷民は矢矢八幡宮、又は高森八幡宮と尊称し奉つて、神領三十石を有してゐたが、優長の検地に際し遂に没収された。元和元年本多伊豆守、鹽湯治に本區に来りて、當社に参詣し、その社殿の荒廃せるを見て、大に鑑みる所あり、直に領地外なるに拘はらず、敦賀代官高田六太夫に之が再建を厳命し、用材を粟野山に採りて、立所に竣功せしめられた。又結城秀康公も、社地であつた高森山の税を免除された。かく國主武家の尊崇厚かりし社である。享保二十年七月本殿を改築し、降って文化年間にも改築したと云ふ。明治十一年頃村社に列せられ、同四十四年五月五日神饌幣帛料供進の神社に指定された。 祭日 例祭 九月十五日(元舊八月十五日) 祈年祭 三月二十一日 新嘗祭 十一月二十三日 祭禮行事 山車 嶺祭の九月十五日には、山車と稱へて、屋臺車の上に毎年異つた作り物の人形類を飾る。例へば甲胄武者とか、二十四孝とか云ふ、祝賀武勇孝子節婦の類を載せて、伊勢音頭を謡ひながら區内を曳き廻るのである。同日又青年会員は神楽獅子の舞をなし悪魔祓と稱して各戸を巡るのである。 特殊神饌 九月十五日の例祭には、今も尚一夜酒(一夜造りの廿酒)と、白蒸を供へて居る、舊時には必ず鮪を供へたが今は中絶されてゐる。 神饌調逹の美風 野菜及び果實は、區民の各戸が區長宅へ初穂として持參する、それを區長は適宜に神饌品として供へるのである。 古風俗と月参り 正月元日には、早朝より區民は朝疾(アサトク)詣と稱へて、老若男女が総べて當社に参拝するのであるが、先づ神前に新年の賀詞を奏づるまでは、途中で誰人に行き会ふとも、一切言葉を交はさない風が、今も厳格に守られてゐる。 毎月十五日には區民は多く當社に崇拝するが、婦人は不淨あるときは遠慮すると。 曹洞宗休岩寺 休岩寺は寛永末年(1644)当浦中山家の開基。 境内山門の脇にに蘇鉄が植えられている。ソテツは県内では北限にあるもので、昭和29年県天然記念物に指定された。 案内板に 福井県指定文化財
天然記念物 休岩寺のソテツ 指定年月日 昭和二十九年十二月三日 管理者 休岩寺 根回り三・九八メートル、樹高約五・〇メートル、根元から四幹に分岐し、さらに七本に分かれる、特徴的な樹形をなす老齢巨木である 本樹は雄株で、隔年ごとに開花する傾向を持ち、きわめて旺盛な樹勢を示す。 ソテツは元来九州南部が自生北限域であり、温暖な気候を好む。東浦海岸地帯は、対馬暖流の影響で降雪が少なく、年間平均気温も摂氏十五度を下らないことから、ソテツの生育条件に恵まれている。 休岩寺のソテツは、西南日本や太平洋沿岸域に比べ寒冷で、老齢巨木が少ない日本海沿岸域において、生態地理学的にきわめて貴重な記念物である。 平成二十五年三月三十一日 敦賀市教育委員会 真宗大谷派十方山蓮教寺 蓮教寺は真宗大谷派、もと敦賀真願寺末。山号は十方山、本尊は阿弥陀如来。観応2年(1352)創立、はじめ真言宗であったが、蓮教の時、本願寺善如に帰依し改宗と伝える。 浄土宗遍照山西光寺 西光寺は、もと原の西福寺末。山号は遍照山、本尊は阿弥陀如来。応永3年(1396)創立、天正(1573~92)の頃安蓮社信誉の代に真言宗より改宗と伝える。 観音堂とタブの木 観音堂のタブの木は市天然記念物。 《交通》 当浦は山中峠越の帰山路が通る交通の要衝で、郡内4ヵ所にある女留番所の1つが、京極氏時代に村の北はずれ、村中への通道と村下道および立道の三道の出会う地点に設置された。番所は本藩の小浜藩敦賀町奉行の支配を受け、番役には8石(京桝)の扶持米が支給された。高札場も設けられ、その普請・修繕は鞠山浦同様に藩が当たった。小浜藩は寛永14年(1637)に各駅に駄賃・宿賃を定め、寛文7年(1667)には各街道筋増銭があり、賃銭を改定した。その頃まで当浦は宿駅であった。 糀屋は室屋と称し、延宝(1673~81)頃には町在とも51人あり、文政11年(1828)には敦賀町18座(本座)、在方3座半(脇座)のうち、当浦の喜八も1座を所持していた。すでに当浦では、先引の讃岐守様御入国之時指出に「室役銀二〇匁の小成物」を納め、室屋の存在したことが知られる。 《産業》 《姓氏・人物》 大比田の主な歴史記録『敦賀志』大比田浦 氏神八幡社、万年山休岩寺〔禅宗永賞寺末〕・西光寺〔浄土宗西福寺末〕・福寿院・金養寺〔共ニ西光寺末〕・蓮教寺〔東本願寺派真願寺末〕 中山某昔ハ今井氏ニて、氏神高森八幡社の神主成しが、慶長年間嗣子なきに依て、佐々成政家中の浪人中山治左衛門直治と云者を養子とせり、それより姓を巾山と改めたり、其以前朝倉家の時も郷土ニて、教景景紀等の判物書翰数多蔵せり、元和二年府中の本多氏〔福井の太夫〕塩湯治の為此家ニ数日被逗留、乗馬時服等を被賜且高森山を被免除、明暦四年 空印君御巡国の時、被為人御時服ノ御羽織等を被下賜、其後御分領以来代官役を勤む、後故有て大庄屋となれり、いと古き家から也、女番所有、此浦天正迄ハ氣比宮司西河端氏の堡地也、よて寛永頃迄も此家比田飛弾守と称せり、元亀元年金ケ崎後詰ノ時ハ、朝倉掃部助景氏大比田城を守ると有、 大比田の伝説『敦賀郡神社誌』神社附近の傳説地 右門社 當社の山林中に若宮と稱する地籍があって、元比田區方面より、又は愛宕社等に参詣して當八幡神社に至る、山路の入口に當る所に、俗に右門社と稱する小祠がある。社名旗などには小森神社と書かれてゐる。この右門社は、往昔當區に右門三郎と云ふ長者が住んでゐたが、その人の庭内鎮守であったと云はれてゐる。此の右門三郎は地方民に對する執政甚だ残忍で、苛斂誅求を事とし非常に嫌忌され、何時如何なる椿事が勃發して、其の身は血祭に上げられるゝやも保し難い情勢に立至りた。右門之を察し、數日を要して家財全部を大船三艘に積み込み、機を見で夜中越後國へ逃亡したとのことである。其の時置き去りにしたる庭内社を、區民が右門社と名づけて、今も往昔のまゝ三月六日に饌を献じて祭典を行ふのであると。この祠の附近には幹圍三丈に及ぶ欅二株、その他椎・藤等の大なるものがありて、蒼然天を葢ひ、晝尚暗き密林を爲し、又そここゝに巨岩點々露出して、其間を 混々として谿水が流れてゐるが、一種異様の物凄き感がある。 願ひ休み 區民にして伊勢神宮に参拝したるもの歸村すると、區長まで願ひ休みを申し出る。區長は其の願ひ出があると、區民に其の旨を通知して、一日又は半日は家事を休ませて、神符の配付を拝受させるのである。 舊社家 當社創立と同時に、刀禰直忠の子孫が代々奉仕して来たが、寛文の頃より辭したと云ふも、其の年代は詳でない。刀禰は中山氏にて、享祿五年六月の同所領安堵状にも、「高森八幡九月九日之御神事之□明畠、私神主にて河端飛彈守殿へ酒五升、いも五升、枝大豆、しゐの折枝等、參候、此外御神事等勤申候、霜月籠に七日之間、燈明参候」とあるを以て知らるゝのである。 大比田の小字一覧大比田 アガ谷 下曲谷 上堂瀬 森ノ窪 下堂瀬 中堂瀬 曲谷口 上狐塚 森添 宮ノ本 中狐塚 若宮 北森ケ下 森ケ下 浜ノ上 北畑ケ 南北畑ケ 下町 中条 下狐塚 下流シ 川流シ 村ノ上 下善慶ノ上 上善慶ノ上 蓑輪 南村ノ上 上尼ケ谷 尼ケ谷 村内 村ノ腰 浜田 深町 千田 横枕 立ノ下 丸山ノ腰 北ノ入道 入道ケ谷 上頭牧 頭牧 椎ノ木谷 口山田 河原田 北堂ノ森 下堂ノ森 御仙事 芹原 丹谷 坪ノ内 椿原 堂ノ森 別当林 観音寺 南観音寺 別当 林ケ谷 平岩 大上 高見 下横道 横道 下清水 東平岩 忍ケ下 蕪尾 岩井谷 清水 上野 上清水 下平野 南釜ケ谷口 下釜ケ谷 中釜ケ谷 上釜ケ谷 二度尾 上横谷 大田 五百殿 上岩井谷 保登路平 上平野 南岩坂 北播磨窪 中播磨窪 南播磨窪 小坂 阪ノ上 阪ノ本 北保田谷 寺尾口 長畑ケ 下保田谷 大山田 上平 中猪ノ口 南平野 北猪ノ口 南猪ノ口 田代 南上野 中河原 焼屋口 南焼屋 下河原 焼屋 南大木ノ上 大木ノ上 北平林 滝谷 道サギ 東前田 東堀切 西堀切 村ノ内 南縄手 北日ノ詰 河ノ上 堂田 上条 南日ノ詰 下条 知足院 縄手ノ下 西ノ脇 南向山 北向山 上向山 岡崎 崩谷 小岳 岩坂山 二度尾山 北谷 忍ケ下山 林ケ谷山 観音寺 入道ケ谷山 尼ケ谷山 蓑輪山 曲谷蔭 曲谷日向 足谷 引抜 高森 赤松山北 赤松山南 杓子屋尾蔭関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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