丹後の地名 越前版

越前

栄新町(さかえしんまち)
福井県敦賀市栄新町


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福井県敦賀市栄新町

福井県敦賀郡敦賀町

栄新町の概要




《栄新町の概要》
元町東側の児屋川をこえた一帯。もとは敦賀町南方にある津内(つない)村の枝村で川向村と称したが、商船より問屋蔵へ荷物を運搬する丁持(ちょうもち)・平持の居住地となり、丁持町となった。天和2年(1682)の「遠目鏡」では「町(丁)持頭川向 久右衛門」とあり、元禄9年(1696)4月8日付の小谷寺由緒書に「敦賀町(丁)持町」と出る。敦賀36町のうちであるが、津内分で郷方米立のため地子銀は納めず、また町方夫役もない。明治7年境(さかい)町と改称した。児屋川には河口側から蛭子橋・児屋橋・永賞寺橋と架かる。
『敦賀志』
丁持町〔此町ハ津内支村の川向村也、同支村三ッ屋村の百姓も、百五十年前より此処へ来り、跡ハ遊里となれり、此町名ハ商船より問屋の蔵へ荷物をはこぶ者を丁持平持と云、其丁特等爰に住より町名となれり、多くハ農民也〕


《栄新町の主な社寺など》

児屋(こや)

川というかミゾというか、昔はよく氾濫したという。これだけしか(1メートルほどか)標高がないから、氾濫してもおかしくはない。

天満神社

敦賀空襲の中心地とか言われる、B29は当社の鳥居を目標に焼夷弾を投下したとか、爆心地のようなことであり、周辺ともどもすっかり焼失した。
今は場末の感があるが(失礼)、天満神社付近は港とともに栄華を誇った広大な花街で占めていたという。仲哀天皇の行宮の跡とかいう。
案内板がある。
天満神社
郷社 天満神社の祭神は.菅原道真公を祀る。例祭 7月25日
 天満神社の多くは菅原道真公の人徳と学徳を景仰して、創建されている。天満宮が、九州の太宰府の天満宮または、ほかから勧請して、創建されている。
 しかし、敦賀の郷社天満神社の場合は、菅公が敦賀の気比宮に再度参拝している因縁によって祭られた社である.清和天皇は貞観15年(839)に勅を奉じて、外文上の警戒を必要とし、気比宮に平安を祈られた。時に道真は29歳であった。49歳の時には、宇多天皇の勅使として、気比宮への礼物を奉納するなど、再三この敦賀に足跡を留め、菅公と敦賀は深いい因縁で結ばれていたのである。
 気比宮の社記によれば「天満神社は、天元3年(980)仲哀天皇の行宮の旧跡である川向御所辻子(現・元町)正面の南森に座す。」と記ある。創立してから今年で千年目に当たり、現在地に奉遷されてから約450年を経過している。その間の歴史を知ることは困難だが、慶長8年(1603)結城秀康(敦賀城主)が泉村の田地5石寄進したともいう。若狭領主の京極若狭守源忠高・酒井忠勝から厚い崇敬を受け、江戸前期建築の本殿は内外に彩色をした三間社流造の豪壮な社殿であったといいます。文政3年(1820)8月石鳥居を建立し、社格は明治8年12月10日「郷社」に列せられた。その後何回か改築を重ねたが、昭和20年7月12日の敦賀空襲ですっかり焼失しました。
現在の社殿は、佐和山神社(文化8年、1811、築、彦根市)を井伊家より譲り受けた護国殿です。
 昭和35年4月10日(1960)に、当時の世話方の努力と氏子のご浄財で、本殿、拝殿、見事に復興完成されました。本殿は、日光東照宮をモデルにした権現造りの様式です。その美術的に価値の高い建築物と不思議な縁で敦賀に嫁入りした神社。工事には棟梁に白銀町の門下嘉助氏、天井絵画に相生町の大和田保太郎氏が携わっています。工事(銅葺屋根)に元町の冨田猪太郎氏。
 それから20周年(昭和55年7月25日)を記念して、世話方を始め有志一同らが、青銅製の牛像を寄進。「天満神社」には欠かす事のできない「神牛」。昭和18年5月に軍需資材として供出されてから、石で造られた台座だけが、本殿の片すみにひっそり残されていたが、37年ぶりに牛像が復活。
 1,敦賀市指定有形文化財 第90号 昭和61年2月26日(1967)
 2.福井県指定有形文化財 第418号平成28年3月25日 (2016)
平成30年2月吉日
   菅原道真公を祀る郷社天満神社社務所


曹洞宗圓通山永賞寺

境内に笏谷石の九重塔がある。
案内板に
敦賀市指定文化財
建造物 永賞寺九重塔  一基
石造九重塔
所 有 者 永賞寺
指定年月日 平成一三年一〇月一〇日
所 在 地 敦賀市栄新町一一-二○
時   代 江戸時代初期
高   さ 三・一メートル
 敦賀市内には層塔の遺存例が少なく、なかでもほぼ原形を保つ層塔は、本例が唯一といってよい。緑色凝灰岩(笏谷石)製で、相輪を欠いているものの、台座からの現存高は三・一メートルを測る。塔身は全体に損耗しているが、初重軸部の四面には立像を中肉彫成し、反花を配した台座に越前地方のものに見られない独特の形状をもつなどの特徴がある。
 『敦賀郡誌』(一九一五年)によれば、「口長十四年三月」、「預修源朝臣」の刻銘があるとされ、慶長十四年(一六〇九)の造立であることが窺われるが、現状ではその痕跡を確認することはできない。/ 本塔は天正一七年(一五八九)から慶長五年(一六〇〇)まで敦賀
城主であった大谷刑部吉継の慰霊のために建てられたと伝えられる。
 総体として、本例は近世初期の笏谷石製石造遺物の顕著な例で、とりわけ九重塔の稀少な遺存例であるといえる。
反対側に宝篋印塔もある。

『敦賀郡誌』
永賞寺  敦賀町境に在り。曹洞宗、丹波圓通寺末なり。圓通山と號す。開山武山榮文は越前の人にて、圓通寺第十四世の住持たり。天正二年、中村に在りし天台宗の廃寺最田山永昌寺を移して、新に再興したるなりとぞ。當時の堂宇は道川三郎左衛門の建立なり、寺地は氣比宮蔵代官和田正原が尾敷なり。天正十九年六月、大谷吉継、寺内の諸役を免除し、以後代々の領主も亦之を免除す。〔酒井氏の免除状は明治四年に還納す〕元和九年、松平忠直の豊後に謫せられし時、少時、敦賀陣屋に滯留せり。是より先き、父秀康の像を京の佛工に命ず、像は成れと雖も未だ到らず、因て此に待たれしなり。既にして福井孝顕寺三陽、像を奉じて敦賀に下りしかば、即之を本寺に安して、一七日の法會を營み、終て忠直は豊後に赴き、像は福井に入れり。元祿七年三月の川東の大火に類燒す。今の堂宇は其後の再建なり。塔頭四院〔傳昌庵・慶幸庵・松月庵・大昌庵〕ありしが、今皆廢す。末寺三ヶ寺あり。境内に大谷吉継・前田淡路守の墓あり。淡路守は、初、長兵衛と稱す、柴田伊賀守の臣なり。賤岳の戰に、前田利家の臣片山内膳と鑓を合せ、丹羽長秀より感を給はる。慶長に堀尾吉晴に仕へ、出雲にて千三百石を知行す。後ち敦賀に住めり。

『敦賀志』
圓通山永賞寺〔禅宗丹波国圓通寺末〕 塔頭傅昌菴・慶幸菴・松月菴・大昌院有、開基ハ武山栄文和尚、天正二年当郡中村ニ在し天台宗の廃寺最田山永昌寺を引て新に建たりとそ〔財主ハ道川氏〕此地ハ氣比宮蔵代官和田正原が屋敷也〔正原か墓ハ門内の北手に在、大谷吉継朝臣の墓とし並へり〕、裏の墓地ニ前田淡路守の墓有〔寛永十一年四月三日没と有〕判物左にしるす、…

天台真盛宗寶威山真禅寺


『敦賀志』
寶威山真禅寺〔天台宗西教寺末〕開基ハ恵心僧都、始祖ハ寛印僧都、旧地ハ寺尾敷町北側也〔今猶真禅寺町と云、今ノ寺地ハ丁持町の三ツ尾百姓小五郎といふ者の持地り〕、


栄新町の主な歴史記録



栄新町の伝説

『越前若狭の伝説』
真禅寺 (栄新町)
 真禅寺山門の竜は、木彫りの竜で、左甚五郎の作である。むかし児屋川の流れが美しかったころ、夜の十二時を告げると、山門の竜が抜け出して、児屋川の水を飲みに降りた。それで竜に網をかぶせて、外へ出られないようにした。  (福井県の伝説)
 註
 この伝説は近年の創作である。金網は明治三十七年十一月に張った。大風で地上に吹き落されたので、もとの場所に納め、金網をかぶせた。(伝説の敦賀)



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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