新保(しんぼ)
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福井県敦賀市新保 福井県敦賀郡東郷村新保 |
新保の概要《新保の概要》 木ノ芽川の最上流で、周囲は山の頂上付近になる。葉原から通じる国道476号が通り、木ノ芽トンネルで、南条郡今庄側に通じる。木ノ芽道(旧北陸道)を挟んで両側に集落が立地する。今庄に通ずる宿駅として発展してきた。地名は本保にあたる葉原保から新たに分かれて保を形成し新保と命名したという。 中世の新保は、鎌倉期から見える地名。葉原荘のうち。建保6年(1218)と推定される左大臣家遺領目録に、藤原良輔の遺領として「葉原庄 年貢〈本保、新保〉」とある(門葉記雑決。文亀3(1503)年9月10日の西福寺寺領目録に、同寺常住分として「新保道林弐段」と見え、永正4年(1507)10月27日の朝倉貞景安堵状写に、文明4年(1472)12月25日に葉原村の土豪と思われる川勢氏が「新保・葉原・田尻等」を朝倉氏から安堵されている。大永8年(1528)に若狭国三方郡気山の気山長永が当地に所領を持っていた。慶長国絵図には新保村と見え高1,162石5斗6合。 近世の新保村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。享保12年(1727)の家数49(高持23・無高25・寺1)・人数322、牛5・馬17。小浜藩京極氏時代から木ノ芽峠で福井藩領と境を接することとなり、当村に女留番所が置かれた。享保12年頃は草野忠右衛門が番所役人で蔵米13俵が給されている。新保宿駅は葉原宿駅より少し遅れ戦国末期に設置された(東郷村誌)。宿駅は敦賀から2里半、疋田から4里、葉原からは半里に過ぎなかったが、当宿の設置は次の二ツ屋宿へ1里半の途中、新保から22町の地点に木ノ芽峠の難所を控えていたことによる。葉原・新保では古法によると上り荷は葉原宿継ぎ、下り荷物は新保宿継ぎであったが、これをめぐって承応元年(1652)・文化10年(1813)・文政5年(1822)に両宿の間で争論となっている。これらは寛文12年(1672)河村瑞賢の西廻り航路の開発などで物資の減少したことが起因している。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数56(全戸農)・人数220、牛12(物資運送用)、産物は炭2,000俵・桑750貫。農業の「傍ラ炭ヲ焼キ或ハ牛ヲ用イテ物品運送」に従事したとある。戸数の7割位は旅籠業を営み、木ノ芽峠の急坂を控えていたので比較的繁盛した。冬季になると峠には雪が降っているといって、客を引き留めるものもあったという。同22年東郷村の大字となる。 近代の新保は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北1町余、戸数57、人口は男146 ・ 女144。明治20年頃までは宿場という土地がらに依存して生活していたが、同21年海岸沿いに敦賀道が開通してからは旅客は激減した。農家は米作・養蚕・製炭で生活を支え、牛をつれて他集落へ出稼ぎに行く風習は明治期以来長く続いた。昭和36年北陸隧道が完成し、旧北陸線は廃止となり同37年からは敦賀~新保間を国鉄バスが走りこのバスを利用して町に働きに出た。 《新保の人口・世帯数》 79・28 《新保の主な社寺など》 日吉神社 陣屋跡の後の山裾に鎮座の氏神・日吉神社、祭神は大山咋命、旧称山王権現。 『敦賀郡神社誌』 村社 日吉神社 敦賀郡東郷村新保字堂ノ上
位置と概況 本區は當村の最北方に位し、山脈重疊四境を囲繞して、北陸の関門木ノ芽峠までは二十餘町である。こゝより南条郡今庄を経て武生町に至る。この嶺を堺として、俗に嶺南・嶺北と称し、人情風俗自ら異つてゐる。藩政時代には女留所を設け、又宿驛であった、元治元年十二月、水戸藩士武田耕雲斎以下同志八百十餘名は、此の地に於て、雪に扼せられ、進退谷まりて、遂に加賀藩に降り、其約半数は斷罪に處せられ、敦賀松原の露と消えたが、維新後松原神社として奉祀された。明治十一年九日八日、明治天皇北陸御巡幸の御時は、御鳳輦に召させ給ひて、畏くも此の難嶮なる峠を御通過あらせられた。交通機關不備の時代とはいへ、甚だ畏き極みである。當區には往昔より湯の谷と稱する地籍があり、明治二十四年四月試掘せしに、冷泉混々として湧出せるを發見した。分析の結果、カルシウム・マグネシュウム・ナトリウム・硫黄・炭酸格魯兒等を含有し、皮膚病・創傷・貧血症等に卓效を奏するので名がある。大正五年、北陸鐡道獺河内信号所を新保驛と稱して、設備せられてより、陸路約一里にて此の地に至る。敦賀町よりは、自動車の便もある。木ノ芽川の流域に沿ひ、山水の美を賞しつゝ、當區に至れば、氏神鎮守は、區の中央より稍々北方の東側に當る、堂の上山の麓より、最近設けらわたコンクリート造の階段十八級を上り、鳥居を入り、更に七級の石階を進めば拜毀に至る。こゝより本殿までは五十一級の急勾配なる石階があり、其の上地に本殿は西北に面して鎭座し給ふ。社背及び北方の山地には杉の植林繁り、境域と連接の地帯にも杉等の樹本多けれども、特記すべき樹はない、唯幹圍一丈の七葉樹一株を、大なるものとして數ふるに禍ぎないのは、山間の神社としで聊か物足らぬ感がする。社域よりは山又川の山色を展望するのみにて、民家に低く視野の外にありて、幽玄の気に満ち、社域の人家に近きに似ず、俗塵を絶ち深閑として神々しき神社である。 祭神 大山咋命 由緒 按ずるに、當社は往古より山王権現社、又は山神社と稱して尊崇厚く、慶長年間観音一佛を同殿に安置し、更に寛永元年、同郡東浦行五幡區洞泉寺より、藥師如来を移して安置し、鳥居を建立したとのことである。當社には往昔より神田がありて、三月田六十束苅・鐘撞田(鐘月田)二十束苅・神樂田六十束苅・神明田三十束苅を有したが、慶長三年の所謂太閤検地に悉く沒收され、又明治維新神仏分離の際の調査に、佛形像は他に遷された。同十一年八月二日村社に列せられ、明治四十二年四月二十一日本殿は御炎上となり、同四十二年九月御造営竣成したのである。 祭日 例祭 五月三日(元舊四月三日) 祈年祭 三月十四日 新嘗祭 十一月十四日 放生曾 九月十五日(元舊八月十五日) 神前に献供をなし百燈と稱して、多数の燈明を點じ、境内で區民の老若男女が盆踊をなす、中には變裝などをなすものもある。 本殿 … 真宗大谷派意力寺 真宗大谷派意力寺は慶長12年の創建と伝える。 『敦賀志』 新保村〔葉原の東十余丁ニ在〕
氏神山王権現社、意力寺〔東本願寺派願教寺末〕 村中より東の山根へ五六丁許入て少し温泉の出る所有、引で是をあたゝめ浴す、爰より木芽峠迄廿余丁也、敦賀と南條との郡堺ハ峠の少し此方也、峠にハ福井侯の界守二軒有て、且山番を勤む、此家の前より細路西へ入事五六丁にして、此山の頂鉢伏セと云、是より望むに、東南ハ伊吹より膳所に至り、西ハ丹後経ケ崎、北ハ白山の雪を掬し、太刀山を見下ハ、滄海の漫々たるに臨む、是も亦一勝景也、 信長記曰、木芽峠ニて返し合セ戦ふ勇士、朝倉三郎・同彦四郎・河合安芸守・詫美越後守を始として、四十余人悉討死す、又一揆退治の条曰、木芽ニハ石田西光寺、鉢伏の城ニハ大町の専修寺・阿波賀ノ三郎等籠城す、此山の薯蕷最よし、又常に炭薪を出す、女留番所有、 『敦賀郡誌』 新保 葉原の東に在り。明治の初に至るまで宿驛たり。酒井氏領主時代には女留番所あり。 氏神、日古神社、村社、往古の神田〔六十束苅三月田、六十束苅神楽田、二十束苅堂撞田、三十束苅神明田〕は慶量二年の検地に沒收せらる。 意力寺、眞室大谷派、東本願寺来、舊は海津願教寺末たりき。おもや彦太郎隠居宗安草創、慶長十二年、教如通行の時、弟子となる。其後寺號許可。塚谷彦太夫、元治元年、水戸浪士新保に屯したる時、武田伊賀守の本陣なり。例年舊三月廿八日、東本願寺より吉崎へ蓮如の晝豫下向の時、此家に宿泊する例なり。歸洛の時は中河内路に出る。 新保温泉あり、鑛泉は冷質にて、カルチウム、マグネシウム、ナトリウム、硫黄、炭酸格魯児等を含有し、皮膚病創傷貧血症等に效あり。明治三十五年四月の發見なり。 木芽峠は邑より二十餘町。明治天皇御巡幸際、峠に御休憩所を新設す。同二十年、東浦新道開鑿以来、往来絶えたり。
… 永正の頃、新保・葉原・田尻は川勢九郎の所領なりしと見ゆ。川瀨九郎は何人なるか詳ならず。塚谷記録所収、葉原武内喜兵衛所持文書、 武田耕雲斎本陣跡 問屋兼本陣であった塚谷家は、元治元年(1864)水戸浪士が新保村に立籠った時、武田伊賀守耕雲斎も同家を本陣とした。本陣は瓦葺で平入切妻の正門と本屋が残っている。 敦賀市指定文化財
史跡 武田耕雲斎本陣跡 指定年月日 昭和三四年一〇月五日 所在及び管理者 敦賀市新保 敦賀市 時 代 江戸時代 この建物は、当時、問屋を経営していた塚谷家の屋敷の一部である。規模は小さいが書院造で、門・式台・下段の間・上段の間を備え、指揮台の柱上の三ツ斗の組物などによって格式の高さをうかがわせている。 元治元年(一八六四)一二月一一日、水戸の武田耕雲斎らの一党八〇〇余名が新保に宿営した際に、耕雲斎が陣を取ったのがこの本陣で、耕雲斎らの降伏に際し、幕府軍の先陣を務めた加賀藩の使者と数度にわたる会談を行ったのもこの書院である。それ以来、新保陣屋とも呼ばれている。 《交通》 木ノ芽峠 国道476号の木ノ芽トンネル入口の少し手前に、木ノ芽古道の入口がある。車が入れるほどの路巾はない、コンクリート鋪装された急坂道である。頂上まで1.6キロ。 案内板がある。 歴史の道 木ノ芽古道
木ノ芽越えは、平安時代初めの天長九年(八三〇)に開かれ、その後、明治初期まで千年以上にわたり、敦賀と福井方面とを結ぶ幹線として使われた歴史的古道です。標高六三〇メートルの木ノ芽峠は、地勢的に福井県を南北(嶺北・嶺南)分ける境となっています。 平安時代、紫式部が、父・藤原為時の国司下向に随って越えたのはこの道と考えられます。鎌倉時代以降、永平寺開山の道元禅師や、親鸞、蓮如などの僧侶が往来しました。南北朝時代には新田義貞率いる将兵が雪中の木ノ芽越えで凍死したと伝え、戦国時代には朝倉氏や一向一揆勢と織田・豊臣との戦いの舞台となりました。 江戸時代には「おくのほそ道」の旅で芭蕉がここを通って敦賀に入り、幕末には水戸浪士一行が雪の木ノ芽峠を越え新保に着陣しました。 明治二〇年(一八八七)、敦賀・武生間の車道開通、同二九年、敦賀・福井間の鉄道開通により、木ノ芽越えはその役割を終えました。 現在では、ここから峠まで一・六キロ、また新保の集落まで〇・八キロの間を、歴史の道として保存しています。 敦賀市 《産業》 明治36年地区東部湯の谷で桑野由次郎が鉱泉脈を発見し、、泉営業を行っていたが,北陸隧道工事で水脈を切断され、昭和35年湧出は途絶した。 《姓氏・人物》 新保の主な歴史記録新保の伝説新保の小字一覧新保 八丁水 向杤木 尼ケ谷 辻堂 駒ノ木谷 真ノ谷口 稲ノ上 姥ケ谷 真ノ谷 高平 真又 真ノ谷奥 野間 キャウデン ヤナギ平 成岩 桑原 雁道落 平岩 広畑 関道 小串ナシロ 桐ノ木畑 小串ナシ クミ木谷 ウワ城 堂ノ上 竹腰 番上ケ手 神田 神田フケ 下朽木谷 中太平 朽木谷 奥布来 小河谷 猿橋 布来 奥太平 中島 早上り 水掛 滝橋 二反田 室ノ谷 被岸田 向山 岡ノ城 村中 宮下 アンノ腰 瀬戸ノ谷 滝ノ宮 湯向 油木ノ上 中ノ谷 板小屋 マロムケ 尼ヤケ 口ナシ口 口ナシ 口ナシラモ落 木平 小屋場 上南 南久保 中南 下南 布黒 尼江 橋詰 西街道 山ノ脇 送り道 立岩口 新保谷口 山ノ脇 南 湯向 口無 木戸ケ平 絵皮谷 野間ナダレ 口無滝上 滝ノ下 萱ノ間 池ノ谷 井落 エボシ岩 トチキ谷 カクレ洞 アマヤケ ヌケト 中ノ谷奥 滝ノ宮 セドノ谷 トチガ谷 ヲハシラ ダケ グミヌキ谷 葉原 成岩 柳平 シヤシ谷 ウバ谷 高平 ヌスト岩 野間谷 ヒトヲ コブ谷 シンヌ谷 河 内畑 北谷 二又 アミダカ洞 城ノ尾 尼ケ谷 仏谷 割石 首切谷 木ノ目下 蛇谷 ヲマ抜谷 黒滝 向杤木 向鉄砲 駒ノ木谷奧 奥ガンド落 広畑谷 神田谷 北杤本谷 奥大平 野々末 小川谷奥 猿場谷奥 滝橋谷 室谷奥 向山関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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