白木(しらき)
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福井県敦賀市白木 福井県敦賀郡松原村白木 |
白木の概要《白木の概要》 敦賀半島(立石半島)北西部の先端に位置して、北は日本海に面する。集落の西方には奇勝門ヶ崎がある。西浦10ヵ浦の1。北東はサビ峠で立石浦に、西南は山を隔てて若狭国三方郡丹生浦に接する。敦賀津まで海路7里。『敦賀郡神社誌』には「本郡中第一の交通不便の地云々」とあるが、今は道路がよくなってスイスイ、予定よりはだいぶに早く到着することができる。 村名の初見は寛永10年(1633)の新役免除ニ付西浦八力浦願書写(明光寺文書)であるが、集落の歴史は古く、単節斜縄文の縄文土器や浜禰ⅡB式(7世紀)・船岡式(8世紀)の製塩土器が出土しており、あいの神の森には室町時代より江戸初期にかけての五輪塔・板碑・宝篋印塔などが数百基ある。 室町期と推定される年未詳5月9日の西福寺侍者中宛泰尭書状(西福寺文書)に「白木浜郷」が見える、当地のことかという。 近世の白木浦は、江戸期~明治22年の浦。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。江戸期を通じて無高の純漁村であった。 享保12年の家数19(無高18 ・ 寺1)・人数81、舟6、新島手銀150匁・新山手銀108匁余。西浦10か浦の1つ。塩竈屋・塩浜がないのは冬季の季節風が製塩を不可能にしたためと思われる。漁法は日本海での釣漁を主とし、立石浦と同様に、敦賀地域における諸浦とはその形態を異にしていた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の戸数17。「滋賀県物産誌」に、数16(すべて雑業)・人口100。生業としては古くから漁業を主とし、採薪・農耕を従としていた。同14年の戸数16(ほか寺1)・人口96、舟は日本形漁船16、産物は薪1,500束・蚫700貝。同22年松原村の大字となる。 近代の白木は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北1町余、戸数17、人口は男59・女50、小舟25。一部が同57年白本1~2丁目となる。 《白木の人口・世帯数》 58・18 《白木の主な社寺など》 奇勝・門ヶ崎 白木集落の北にある岬。白木浦地誌取調帳に「巉巌ニシテ本浦ヨリ北ノ方へ斗出スルコト六町余、其斗出スル処巉岩重畳高サ六丈余ニシテ、天然ニ門ノ形ヲ為スアリ、土人之ヲ称シテ門ケ崎ト云、風光甚タ愛スベシ、此門ケ崎タル春和ノ候遊客群集ス」 集落の南東にあいの神の森があり、室町期から江戸初期にかけての五輪塔・板碑・宝篋印塔など数百基、縄文土器や製塩土器が出土しているというが、「もんじゅ」のセキュリティーのためか、どこもかしこもフェンスだらけの立入禁止、近づけそうにもない。地元の村人までもが、それを当然として真似るのか、具合の悪いことだが、車を留める所も見つからない。 集落の西方、山麓に鎮座の白城神社(旧村社)は、江戸時代は 『敦賀郡誌』は、 白城神社 同村白本に鎭座す。村社。もと鵜羽大明神と稱す、祭神不詳、今は鸕鶿草葺不合尊とす。気比宮社記・敦賀志稿、式内白城神社とす。〔神祇志曰、白城神社、蓋祀新良貴氏祖稻飯命、〕境内神社、石清水神社・春日神社・稲荷神社・夷神社・龍神社・伏水神社〔祭神宇賀魂命〕の七社あり。
敦賀郡式内社・白城神社の比定社は当社のほかにもあって、 『南条郡誌』は、 ●白城神社 〔古名考〕或云白木浦の社乎、案南條郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。今庄も古く今城と書けり。此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云此即ち古の叔羅河なり。叔羅は即ちしらきなるべし。
『敦賀郡神社誌』 祭神 彦波瀲武、鵜草葺不合尊
由緒 按ずるに、當社は俗に白木明神、又は鵜羽大明神と尊稱し奉つて延喜の制の式社である。城木神社は新羅城の新良貴氏祖、稻飯命を祀ると傳へ、或は城城宿禰を祀るとも云へど、こは恐らく附會の説であらう。白城は新羅の神なるべしと言はれてゐるが、新選姓氏録に、新良貴彦は瀲武鸕鶿草葺不合尊男稻飯命之後也、是於新良貴國即爲國主稻飯命者新羅國王之祖也とある。惟ふに天日矛命の後裔此國に留り、共の遠祖葺不合尊、又は稻飯命を祀りしによれるものにて、地名シラキは、日槍族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの立説があれば、今は明細帳並にこの説に從ふ。明治四十四年二月改築し、大正四年十一月六日神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。 祭日 例祭 七月十五(元舊六月二十日) 所年祭 三月下旬 新嘗祭 陰脣十一月上ノ卯日 特殊神事の風習 陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、これを薄き楕円形の小判形になし(古代神饌牛舌餅か)祭の當日暁方に神社へ參拜しで撒くのである。この祭を霜月祭と稱して、現今の新嘗祭に相當する。この餅を花瓣(ハナビラ)と稱してゐる。此の外に正月日待祭も舊習により行はれてゐるが、これは郡内各所で行はれるものと、大同小異であるから省略する。 參籠と水迎ひ 十二月三十一日の夜、各戸主は神社に參詣し、斎庭で篝火を焚き、風雪の時は拝殿に參籠して夜を明し決して家に歸らない。寺の百八の鐘聲を聞くと、水迎ひと稱へて、社域の麓を流れる溪水を汲んで歸るので、其の若水は神佛に供へ、三日間は何れの水をも汲まない風習である。 百拜神事 拜殿の東方に圓き二個の石が据ゑである。これは百度石で、區民は毎年春秋二囘、百拜と稱へて恒例に行ふので、基點として此の石が標石とされてゐる。臨時に祈願すべき時にも百拜神事を行ふ。数取りには薄き竹片を用ひるので、戸毎に所持してゐる。こは個人的に行ふ場合に使用する。 祭例風習 七月十五日の例祭には、早朝より各戸赤飯を重箱に入れて神社に參拝し、箸にて少づつ本殿及び末社に供へ、尚區内にある薬師社、伊勢神宮遥拝所を巡拝して供へ、寺院及び墓所にも詣でて供へるのである。尚珍らしき物や初穂の類は、必ず先づ氏神に供へに行く美風が、今も昔と變りなく固く行はれてゐる。 祭禮と能樂及神輿渡御 白木祭の御能と将して有名である。毎年七月十五日の例祭に拝殿で奉納するので能師は小濱方面より来る。能樂を奉納せざる時は不漁なりと信じ、恒例としで毎年必ず奉納する。先年一度奉納せざりしが、果して不漁續きとなりたれば、其の翌年より更に盛大に奉納する事にして、今日に及んでゐる。この有名な能樂には、區内でも相當の費用を要するが、近い浦々や敦賀町等に居住する親族知己等が、遠路不便なるにも拘はらず、相集ふのは、此の能樂拝観の樂みもあるが爲めであり、又神輿渡御にも参加する。元来區内の青年のみでは少数につき、この人等の參加を要するが、生れ故郷の氏神様の神輿、我等郷土の神輿を壮健で舁がれるのは、此の上もなき幸福で復幸福が得られ身も壮健になるとして、喜んでこの神事に参加するのである。是が一面には敬神崇祖の念を高め、他面懷舊愛郷の念を熾烈し誘導するのである。當區に於て祭禮情景を観る時、往昔の自己の氏神祭禮に官人・傭人等が賜暇を得て郷土に歸休する時の事を想像される。 『大日本地名辞書』 白木浦。今松原村に属す、立石岬の西南一里、三方郡丹生浦と相隣る。○神祇志料云、式内白城神社は白木浦に在り、白木神又鵜羽明神といふ。〔越藩拾遺、神名帳考、神名帳打聞、神社明覈録〕蓋新羅人此地に住者、其国主の祖彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の男稲飯命を祀る、稲飯命は新良貴氏の祖也、〔参酌日本書紀、新撰姓氏録、延喜式、〕今按、近江伊香郡鉛練日古神社之を白木明神と云、又新羅の神なり、日本書紀、天日槍近江
丹後の溝谷神社も新羅大明神というし、羽衣伝説の奈具神社にも祀られている。新羅だろうという地名も多い。若狭湾一帯は古くから新羅・加耶系の渡来人たちによって開かれた地であろうか。 曹洞宗華巌山海蔵寺 集落南東の集落入口の海蔵寺は、白木浦取調帳に「曹洞宗、華厳山卜号ス、…本郡敦賀境町永賞寺ノ末派ナリ、寛文甲辰(四年)年間中僧白外玄甫之ヲ中興ス」と記されるそう。 『敦賀郡誌』 海藏寺、曹洞宗、敦賀永賞寺末、永賞寺四世白外草創、當時一草庵なりしを、文化年間平僧地となり、明治三十三年、法地格に昇等す。
《交通》 《産業》 白木漁港 白砂の白木海水浴場の北西隅にある第1種漁港。冷蔵施設などがないようで、漁獲物のほとんどは敦賀港に水揚げされるよう。 高速増殖炉「もんじゅ」 バカどもがバチ当たりな名を付けたものだが、使った分以上に核燃料が増殖して、これが成功すれば日本は永遠にエネルギーを心配することはなくなる。まあアホなことを考えたものだが、結局は廃炉で目下解体中である。2047年には解体完了の計画という、まだ25年もかかる。1兆円ほどかけてつくり、発電した電気は20億円分ほど、みんなワレラが働いたカネである、その膨大な税金のアホ使いを高速増殖したことになる。とんでもない事故を起こす前であったのでそれがせめてもの救い… 《姓氏・人物》 白木の主な歴史記録白木の民俗・伝説産小屋があったというが、今はまったく姿を消したよう。『西丹波秘境の旅』(澤潔) 立石半島の西浦七郷とよばれる縄間・常宮・沓・手浦・色ケ浜・浦底・立石の七郷と、それに隣接する白木・また常神半島の常神・神子・小川の三村落や内外海半島の外浦の犬熊にも、産屋があった。
『敦賀郡神社誌』産屋と不浄屋 産屋は一箇所、不浄小屋は區の東西両端に各一箇所ある。近年まで屋根は萱葺であつたが、これが修覆の煩を省く爲め瓦葺とした。不浄小屋の使用は他所と別に變りがないが、當區では産屋に居る間は、食事は自家から運んでゐる。立石區其の他の如く産婦自から或は附添人が、其處で炊事をするが如き亊はせない。而して産屋に居る中は決して小屋より外出せぬ。こは汚れの身で日光に触れる事を勿體なしとして恐れてゐるのである。期間満了の前日には衣服類一切を洗濯し、母子共に沐浴して全身を清め初めて歸宅するのである。産尾は間口二間三尺、奥行九尺で、土間に莚を敷き、便所も屋内に設けられてある。
『越前若狭の伝説』 門が崎と立石 (白木・立石)
蒙古軍が気比の海の近くへ来た時、突然前面に大盤石の門の形をしたものが出現した。蒙古軍の目にはこの門をくぐって攻め入らなければならぬように見えて、前進するのをためらった。その門は今も残っている。自木浦の門が崎である。 またしばらくたって、海中に大盤石が現われて、石のたてとなった。蒙古軍の射る矢はことごとくこのたてで止まった。今この石のたてが現われた所を楯(たて)石の浦という。 (山本計一) 参照 蒙古来攻(三)(敦賀市曙町) てんぐの松 (白木) 白木のおんかという山に、しゃく谷という谷がある。そこにてんぐの松という大きな松がある。そこへ昔、あたらしやという家のぬけというものが、割木を切りに行った。見ると真鍮(しんちゅう)眼の化物が、てんぐの松の一の枝に手をかけてぶらんと下っている。そしてぬけを見ると、じろりとにらんだ。ぬけはびっくりして倒れ、「どうぞ命だけはお助け下さい。」とたのんだ。化物は「おれはここに住む化物である。今ここで命は助けてやるが、帰ってから、あそこにはこういう化物がいると告げると、すぐにお前の命はなくなるぞ。」といった。ぬけは大急ぎで帰った。そしてそのことについては、一生いわなかった。しかし今息が切れるというときに、「しゃく谷には真鍮眼の化物がいるから、あそこへはひとりでは行くな。」といって死んだ。葬式がすんでぬけをやいた。あくる日、火葬場に行ってみると、灰は少しもなかったという。 (福井県の伝説) 白木の小字一覧白木 一本松 草刈山 二牧田 獅子ケ谷 石船 鳥羽根 山田 裏道 葦原 土取 西畑 寺ケ谷 寺ノ上 兵助田 焼山 松ケ崎 小糖 赤土田 坂ノ田 杉ケ谷 長谷 丸山 大舟船 池ノ平 中ノ道 鳥越 中ノ島 下中道 川原 立石道 サビガハナ ヲイコゼ クマダニ クダシバ タルミ関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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