丹後の地名 越前版

越前

曽々木(そそぎ)
福井県敦賀市曽々木


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福井県敦賀市曽々木

福井県敦賀郡愛発村曽々木

曽々木の概要




《曽々木の概要》
市街地の南東部の山地のなかの集落。東を北陸自動車道が、国道8号と笙ノ川が集落南を南を通る。新道野越の塩津道が通る。地名は清流で身の「そそぎ」をするミソギ神事から生まれたといわれる。康安元年(1361)7月28日の崇光上皇院宣に「越前国曽々木村事」と見えて、当村が占返され、油小路隆家領となったという(三時知恩寺文書)。当地のことか。天正18年(1590)8月18日の日吉神社鳥居棟札によると奥麻生の同社鳥居建立に際して曽々木惣中が米2斗を寄進している(奥麻生区有文書)。慶長国絵図では奥野村227石余に含まれた。
近世の曽々木村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数44(高持25・無高18 ・ 寺1)・人数240、馬23。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数28(全戸農)・人口147、荷車13、産物は生葉7,000貫(うち4,000貫は塩津へ売却)・繭100貫・桑7,000貫・炭3,060貫。村内の太平山では文化12年(1815)から石灰焼が開始され明治7年には750貫を生産し11人が従事していた。同22年愛発村の大字となった。
近代の曽々木は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北1町余、戸数31、人口は男93・女81。


《曽々木の人口・世帯数》 59・24


《曽々木の主な社寺など》

八幡神社

当社の大杉・アカガシは市天然記念物。同社は疋田村字桜馬場から移し祀ったと伝え、霜月祭(12月)と春祭(4月)には、頭屋(当番)の未婚の女性が谷川の清流で「みそぎ」をする神事があり、古い祭礼の形態を残していい、「若宮鰐口、康正二年八月吉」の銘を有する鰐口があった。
『敦賀郡神社誌』
村社 八幡神社  敦賀郡愛發村曽々木字宮ノ後
位置と概況 本區は南四町餘にて麻生區に、西十数町にて奥野區に到る。東北は山嶽重疊し、柳ヶ瀨は區の西南に通じ、北陸鐡道及び笙ノ川上流なる疋田川これに沿ひ、之を挟んで其の兩側の山麓に、人家が散在してゐる。南西部は僅かに數戸あるのみ、疋田川は大ならざるも、急流にて奔湍岩に激し、之に投げ架けた危げな丸木橋などありて、両岸の區民相往来する山村自然の光景、亦掬すべきものがある。氏神八幡神社は、柳ヶ瀬街道より約四・五町を入りたる山麓に鎮座し、人家より稍々北方に寄りたる東端である。境内地は二間餘の高き石垣を以て、三區に分かれてある。即も鳥居を入れば平坦地があり、その側より更に亦二十餘級の石階を登りつめたる高所に、本殿は西南面して鎭座し給ふ。境内地続きの左右兩側は竹林にて、其中にも相當年代を經力る樹木がある。社殿背後は僅かの耕地を隔てゝ山林となつてゐる。社域には周圍一丈五尺餘の杉の直幹、蓊蔚として蒼天を凌いで、古社の面影が充分である。
祭神 應神大天、合祀迦具土大神
由緒 按ずるに、當社は往古より諏訪八幡社と尊称した。古老の口碑によれば、疋田區字桜の馬場より勧請したと傳へてゐる。明治十一年三月村社に列せられた。又明治四十三年八月八日、同區上ノ山地籍に鎭座し給へる、無格社秋葉神社、祭神迦具土大神を合祀した。
『附記』 今回本誌編纂のため實地調査に當り、當社の什寶鰐口一覧した、此の鰐口に今を去る四百七十餘年前の作で、康正二年八月吉日並に若宮の刻銘がある。然し疋田の北端桜の馬場にありし八幡宮は、今を去る三百六十餘年前、即ち永禄八年十一月吉日、河瀨左近将監が社殿を建造したとあるから、八幡宮を勸請したのも其時と見ねばならぬが、さすれば鰐口の銘と年代に相違があるのみならず、當社の概観を見ても遠く永禄以前の古社なりと信ぜらる。特に況んや、桜の馬場の八幡宮は、現に疋田區が近年氏神日古神社境内に移転して、境内末社とし若宮社と舊社名を呼んで居る、事實あるに於ては、愈々以て、曾々木の八幡宮に、桜の馬場にありし八幡宮と没交渉であって、古老の言に誤傳であると思うのである。尚昔時の信仰思想其の他各方面よりも考察すべきで、後考に俟つことゝする。気比宮社記には、當社諏訪明神建御名方命也とある。
祭日 例祭 九月十五日 祈年祭 四月一日 新嘗祭 十二月三日
放生曾祭 九月十五日放生會として恒例の祭典を行ふ。其の前後三日間、即ち十四・十五・十六日は、神燈を點じ、太鼓を敲き、お祭気分を高めて、子供や青年は勿論、老若男女氏神境内に群集し、心から浮かれて盆踊をするのである。踊り振に別段特色はないけれども、其の素朴な踊り、その純情な踊歌、親も子も共に手拍子足取揃へて、踊り廻る状は、昔ながらにて神の御心にも通ふであらう。
   四五人に月落ちかゝる踊かな     蕪村
特殊神餅 十二月三日新嘗祭奉行の神饌中に、白蒸を三寳二臺に盛り、又小豆を者て丸き手鞠の様に固めたるもの、各二個宛を之に添へて供へるのである。
本殿 …
境内神社
 神明社 祭神 天照皇大神 豊受大神 社殿方二尺
ウバ樣石 本殿入口の床下に安置され、氏人之をウバ様としてゐる。陽刻の甚だ粗雑な座像であるが、純神像とも又佛像形の佛形神像とも、僧形神像とも判断し難い、その材料は疋田石にて、高さ一尺二寸幅一尺程のものに二躯を刻んである、多分供養に用ひられた板碑の類であらう。


曹洞宗正眼寺

本尊観世音、明暦元年(1655)本山7世機山の創建という(敦賀郡誌)。
『敦賀郡誌』
曾々木 奥野の東に在り。氏神、八幡神社、村社。往昔、疋田村字櫻馬場より移し祀ると云傳ふ。明治四十三年八月八日、同區無格社秋葉神社を合祀す。正眼寺、曹洞宗、奥野宗昌寺末、本尊観世音、明暦元年本山七世機山創立。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


曽々木の主な歴史記録



曽々木の伝説





曽々木の小字一覧

曽々木  真岡 真洞内 鳥毛 広畑 谷 重兵衛大平 向野 深田 谷平 ドコボ 左近谷 大手口 大平 総林 稲葉 谷口 村中 上ノ山 笹原 杤原 刀奈谷 刀奈谷奥 狐谷 丸山 丸山内 宮ノ後 塩津棒 向イ 五人林 六人林 下向 西ノ深田 林 糸巻口 雨井谷口 雨井谷 糸巻 糸巻内 西ノ谷 西ノ谷奥 邪广目奥 邪广目内 邪广目 小谷 高畔 形部ケ谷 岩原 広道 トウガ寄 割谷 道上 大広道 長渕 大割谷 六人林洞 五人林洞 広畑谷 鳥毛洞 真洞谷 ドコボケ洞 大平谷 左近谷奥 稲葉谷奥 トチ原山 刀奈谷山 狐谷俣 雨井坂 糸巻谷 西ノ谷山 林下 邪磨目洞  小谷奥 滝ケ谷 形部ケ谷奥 道上洞

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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