丹後の地名 越前版

越前

杉箸(すぎはし)
福井県敦賀市杉箸


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福井県敦賀市杉箸

福井県敦賀郡愛発村杉箸

杉箸の概要




《杉箸の概要》
刀根の気比神社の脇から北ヘ1㎞ほど入ったところにある。さらに北ヘ行けば池河内に至るそうである。刀根盆地というのか、山間の小盆地り北に位置し、地内東方を笙ノ川が南流する。地名の由来は、仲哀天皇が当地通行の際随従の者がこの地に宿泊、杉の箸をたくさん作り外敵の攻略を考案し効を奏した。この考案者がこの地に居を定めたことによるという(地名考)。また,「敦賀志」は気比神社の新嘗祭に御饌の箸をこの地の杉材で謹製して奉り、その箸を拵える者が住居したことに由来すると伝える。(スキ)の端だから杉箸かも…
近代の杉箸村は、明治13~22年の村。江戸期は刀根村の枝郷として刀根村の一部であった。明治9年頃の地租改正の時は刀根村・杉箸村両村の談合で土地測量などが行われ、同13年正式に刀根村から分村。なお江戸期にも刀根村とは別に庄屋が置かれるなど一村として扱われることもあった。享保12年の「敦賀郷方覚書」では刀根村と杉箸村が一村として扱われているが、庄屋や小物成などは別立てになっている。杉箸分の高50石余、人数507。「滋賀県物産誌」では一村として見え、戸数82(全戸農)・人口369、産物は石灰2万俵・麻75貫・繭230貫・炭1万2,000俵。農業の「傍ラ石灰或ハ炭ヲ焼キ、又運送ヲ事」としたとある。はじめ滋賀県、明治14年からは福井県に所属。同22年愛発村の大字となる。
近代の杉箸は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西20間・南北5町、戸数81、人口は男226 ・ 女208。


《杉箸の人口・世帯数》 79・37


《杉箸の主な社寺など》

山神社

養福寺の隣りに鎮座。逆光になってうまく写せなかった。
『敦賀郡神社誌』
村社 山神神社  敦賀郡愛發村杉箸字村西
位置と概況 本區は笙ノ川上流の(疋田川)山懷に偏在し、南八町の里道にて刀根區に到り、北は車馬の往来する坂路一里にて、東郷村池ノ河内區に隣してゐる。東西は山嶽起伏し、人家は道路と川を挟んで散在し、相當多額の石灰を産してゐる。杉箸の名稱は、そのかみ仲哀天皇の角鹿(敦賀)に幸し給ひし時、近臣此の村に宿泊し、杉箸を以て、試みに攻撃の奇計を考へ效を奏したが、其の人遂に此の地に居を定め、山野を開墾してより一部落をなしたとの故事により、附した名であると云ひ。又一説には、この郷より往時は、九月九日重陽の節句の夕刻、即ち氣比神宮の新嘗祭奉行の節に、御饌の御箸を此の地の杉材にて製して、奉るを恒例としたので、かく名付けたとも云ふのである。當區は古より刀根區氣比神社の氏子で、刀根區に相對してゐたが、明治維新後分離して、一區をなしたのであるが、其節往時より山神としで奉崇せる神祠を、氏神と定めたのである。當社境内入口より約三十徐級の石階を上りて拝殿がある。その側より進めば、更に高さ二尺餘の石垣を築き、その上に石玉垣を繞らし、石垣の中央に三段の石階を設け、其の上の神域には拝所兼の渡廊あり、これに連接して本殿が鎭座し給ふ。鎭守は區の中央の西部に當り、本殿・渡廊・拝殿共に東南面である。社域は茶臼山脈の麓の高所にあり、本殿以下諸建造物の大なのに比して甚だ陝隘である。之に反し、域内地続きの北東の低地には、淨土宗養福寺がありて、其の境域廣く當壮祭禮等には此の境内が利用されてゐる。社殿背後の山林には栃・欅・杉・?の大樹蒼々と茂り、加ふるに神明造の檜の神殿が清々しく、千木勝男木が檜皮葺御屋根の一部と其に樹間に隠見して神々しくある。
祭神 大山祗命 合祀高良大神
由緒 按ずるに、當區は舊時刀根區に座す、氣比神社を氏神となせしも、明治維新の際介離して、往古より此の字に鎮り祀る神祠・山神を鎮守としで尊崇するに至り、山神神社と稱したのである。明治四年舊小濱藩より村社に列せられ、廃藩置県に及び、明治十ー年三月改めて又村社に列せられた。明治四十二年十二月十四日、當區内に鎭座し給ひし、高良大明神と尊稱し来たれる無格社高良神社の祭神も合祀した。此の高良神社は、桓武天皇の御宇に故ありて奉祀したので、祭神は高良玉垂命にて、武内宿禰なりとも傳へてゐるが、單に高良大神としで祀りてゐる。氣比宮社記に、杉箸區の氏神は「祇園牛頭天皇、武素鳴諒」とある。大正四年一月十六日、神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭 九月四日 祈年祭 三月九日 新嘗祭 十二月九日
附近の傳證口碑地 茶臼山 武内宿禰の本陣のありし所と傳へて、其の附近には馬場谷・弓ヶ谷・鍛冶山等の地名がある。何れかの時代の武人の遺趾であらうが史實に徴し難い。當區某にはそれ等に関する江戸時代に記された古記録があると。
區名起り参考 刀根の気比神社の新嘗祭特殊神事には、古来数十本の箸を使用するので、之を杉箸から献ったので、此の部落を杉箸と稱するに至ったかとも想像される。杉箸は明治初年まで、刀根気比神社の氏子であった。杉箸の起原に就いては既に述べたるも尚參考として補記する。


浄土宗神頂山養福寺

浄土宗鎮西派(もと天台宗、寛文年間に改宗)養福寺。
『敦賀郡誌』
杉箸  刀根の北に在り。舊刀根の朶村なり、維新の後一村とす。 氏神。山神神社、村社、明治四十二年十二月十四日、同區高良神社を合紀す。養福寺〔神長奥〕、淨土宗鎭西派、原西福寺末、初天台宗、寛文年中改宗す。 此村は昔氣比大神宮九月九日の夕新嘗祭の節、御膳の杉箸を刀根村より奉れり。其箸を拵ふる者の住居せしより村名となれりとぞ。新嘗祭の夜の篝のたいまつは、昔のかた今に遺りて、池河内・刀根・杉箸・麻生口・曽々木・駄口・追分・疋田・小河口・市橋十ヶ村より、九月八日に御供所の前迄、村々より持參す。炊殿の神人、是を請取、翌日九日の夜、三ヶ所の篝に用ゆ〔敦賀志稿と。今は此事諂えたり。 昔は刀根・杉箸の氏神は、刀根の氣比大神宮なり。往古仲哀天皇行幸ありし時、此に駐まり給ひし故事にて後世奉祀したる由、口碑に傳ふれども、恐くは非なり。此あたりは神戸等にて、其関係より奉祀したる者なるべし。


《交通》


《産業》
石灰
当村と刀根村では石灰の生産が行われ毎年石灰20俵を運上として上納していた。元禄14年に一旦廃業,杉箸分は同15年に佐次右衛門が小浜藩の許可を得て再開しており、以降石灰運上は石灰10俵であった。石灰は地内温谷から産出した。
江戸期から刀根・泉・赤崎とともに石灰の主産地であったが、販売先の滋賀県湖北地方における石灰の増産や明治17年の鉄道延長などにより滋賀県坂田郡や岐阜県の石灰と競合し、明治5年5釜あったものが、大正2年には刀根と当地で1釜となり衰微した。

《姓氏・人物》


杉箸の主な歴史記録



杉箸の伝説





杉箸の小字一覧

杉箸  大鹿 三反田平 三反田 七畝谷 漬谷 品洞 小鹿 小鹿口 奥呑谷 呑谷 高洞 新高洞 呑谷口 北酸漿洞 酸漿洞 四櫃 小四櫃 鳥頭谷口 鳥頭谷 烏帽子岩  上度々古 北飛兀 飛兀 度々古 田平 焼河原 下田ノ平 杉谷洞 小谷 杉谷洞尻 頃谷口 頭々離洞 コロ谷 売城 口焼小屋 焼小屋 金洞 割谷口 今山口 今山 栩原 海老谷洞 一ノ谷 馬登口 馬登 赤谷 細洞 巣ノ子谷 二ノ谷 三ノ谷 四五ノ谷 角称宜洞 徳兵衛洞 長ケ谷 南長ケ谷 口長ケ谷 廻り角 大平 土桑洞 下桑洞 口ノ権現 中権現 奥権現 曲り洞 長洞 彦兵衛岩 中瀬 白馬 涼水 口中瀬 中瀬橋 小池ノ口 小池 小池谷 蛇谷 蛇谷口 桃ノ木 中長 笹尾 下笹尾 村北 中障子 村中 村下 村西 土ノ山 水無 鍜治山 白拍子 牛房洞 銚子洞 牛道 牛道洞 破風谷口 荒谷 破風岩 赤苅 真谷 婆ケ谷 川東 柳洞 上向山 下向山 万ノ下 弓ケ谷口 関ケ平 弓ケ谷 鮓桶 鮓桶口 高平 仏師ケ谷口 井ノ本 上田古 中田古 下田古 櫛林  助高 川端 神主前 新与田 下崩レ 東六本松三反田 堂ノ上 久保 中射 畦高 畦高ノ上 中筋 寄合田 焼ノ下 十郎丸 中通り 西所 中野 耳安田 右近橋,西久保 上江町 江町 下江町 竹ノ下 霾首 海道 東三反田 時繁 下ケ谷 馬場

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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