丹後の地名 越前版

越前

砂流(すながれ)
福井県敦賀市砂流


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県敦賀市砂流

福井県敦賀郡粟野村砂流

砂流の概要




《砂流の概要》
市街地南方の田園で、この地帯一帯は「今昔物語」「宇治拾遺物語」の芋がゆで有名な藤原利仁の支配地であったといわる。東寄りを県道211号(山櫛林線)が南北に走り、黒河川の形成する扇状地の扇央部に位置する。江戸期に、敦賀津法泉寺町(津内町1丁目)にある御館山法泉寺は、もとは当地にあった医王山地福寺を継承したものと伝えられる。『敦賀志』に、
砂流村 氏神天神社山王社、宮守圓乗院(浄土宗西福寺末)寺内制禁条々、朝倉義景の判物有、此村の南に堂山と称して、昔ハ七堂伽藍の有し所と云ハ法泉寺の旧地にして、恵心僧都開基せる地福院の跡なり、地蔵尊を御名、毘沙門天を公文名、阿弥陀如来を山村、薬師如来を砂流四ケ村へ配分せしと云ハ、かの地福院敦賀町へ移りし時の遺物成へし、また此村の大道の左右に、槻の大木門柱の如く左右にたてるに、太き注連をひき、薬師十二神の号を書、幣帛を切かけ、木札に右四筒村に居利仁将軍の家人藤原氏と自称する者卅人各姓名を書付、下ニ福地寺と云寺号を書付、毎年正月八日古例として祭式を行ふを、当むらの神事始といふ、

中世の砂流郷は、室町期~戦国期に見える郷。敦賀郡野坂荘のうち。応永18年(1411)2月28日の津保守心田地寄進状(西福寺文書)に「野坂庄砂流郷」と見え、当郷の田地3反が宝国寺に寄進されている。郷内の字として当根屋下・石熊新田・道場屋敷・助高の下などがあるが、文安3年(1446)11月日の郷通田地寄進状(同前)に砂流郷内の田地に「在所粟生野村□□□衛門五郎大夫居屋敷上」との注記がありこの地が宝国寺に寄進されている、享禄3年(1530)7月24日の某軒一紙目録(永厳寺文書)に「あわうのすなかれ」、元亀4年(1573)3月23日の西福寺寺領目録(西福寺文書)には「粟生野郷之内砂流」とあり、室町期から戦国期にかけて粟生野との関係が逆転した。慶長国絵図では粟生野郷1,911石余の一部。
近世の砂流村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数27 ・ 人口132、物産は莚1,000束・菜種6石・縄150束。同22年粟野村の大字となる。
近代の砂流は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北2町余、戸数25、人口は男68・女69。


《砂流の人口・世帯数》 423・154


《砂流の主な社寺など》

高岡神社(式内社)

高岡神社は、もと薬師天神と称していて、祭神は菅原道真。相殿に市杵島姫命・天児屋根命・住吉大明神・熱田大明神・素盞鳴命を祀る。例年の行事として勧請吊という祭式が行われたというが、昭和60年から中断中だそう。これは「敦賀志」に、「此村の大道の左右に、槻の大本門柱の如く左右にたてるに、太き注連をひき、薬師十二神の号を書、幣帛を切かけ、木札に右四箇村に居利仁将軍の家人藤原氏を自称する者卅人各姓を書付、下ニ福地寺と云寺号を書付、毎年正月八日古例として祭式を行ふを、当むらの神事始といふ」と記されている。
『敦賀郡神社誌』
村社  高岡神社  敦賀郡粟野村砂流字堂ノ下
位置と概況 本區は田野開けて、助高川は區の東側を貫通し、北方十二町にて若狹街道(丹後街道)に沿へる櫛林區に隣し、南方七町にて御名區に、東方は十町餘にて公文名區に、西方は田野を隔てゝ第十九聯隊の練兵場に隣してゐる。氏神高岡神社は、區の東方北端に當り、南方は雜林を隔てゝ人家に接してゐる。境内には大樹として舉ぐべきものはないが、幹圍一丈三尺位の松と杉とが各一本ある。椎・タモ各一丈のもの等が繁って一團の神奈備となり、崇高清雅の心を深からしめてゐる。社域は舊時小き丘陵を平坦ならしめたものゝ如き感があり、三百四十餘坪の境内周圍を三尺位の高さに石垣を圍み、入口の石鳥居を潛り進むと、高さ四尺の石垣を築き、中央に五級の石階を設け、その兩側及び北側に石玉垣を繞らして一境をなし、此裡に本殿は東面して鎭座し給ふ。社殿背後は僅かの空地を隔てゝ雑林の青垣をなし、その外方は直に小川が流れてゐる。社域の入口の北側には薬師堂があって十二天神の木像十二體及び他の木像数體が安置されてある。按ずるに、明治以前には神社のものと混淆されてゐたのが、維新の當初、神社調査の際に神像に至るまで苟も佛教味あるものは、寺院のものとしで薬師堂へ保管されたものと察せられる。
祭神 菅原道真公 相殿 市杵島姫命、天兒屋根命。
   住吉大明神、熱田大明神、素盞嗚命
由緒 當社の由来を按ずるに、往時より薬師天神と尊稱し奉り江戸中期神祗管領吉田家より敦賀郡式内高岡神社は、其社なればよろしく崇拜すべしとの旨を傳へられたので、爾来高岡天神とも稱して崇敬し今日に至りてゐる。氣比宮社記には、少彦名命を祀り薬師天神と稱ふとある。天明二年八月本殿を改築した。明治二年八月神社改帳によると、相殿の祭神五種を奉祀されてゐることが見える。然るに御祭神が菅原道真公なるは、藤原利仁公の居住と、其の家臣等に深き關係を有してゐるからであり、又當社が式内社なるは、菅公以前の御祭神を奉祀されたる故で、或は素盞鳴命か少彦名命に由来するものにあらざるか、明治九年七月十七日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月四月(舊四月四日)
特殊神事 「勘請吊」毎年一月八日神社で行ふ祭典である。其の前夜(七日)太き藁繩の注連を區内の大道にある左右の槻に引き延べ置き、當日早旦、大三本・小十二木の幣束を神前に供へて祭典を行ひ、之を撤して彼の注連の所に之を建て、又御名・公文名・山・砂流の四區に居住するものゝ中、藤原姓で、利仁將軍家臣の末裔と傳へらるゝ二十人の姓名を木札に書き、其裏面に「蘇民將来の子孫也」と記して、吊り下げる式がある。これが當區の神事始めと稱せられ、之が爲め古来此區には、悪疫の侵入を見たことなしと信ぜられて居る。幣束の大三本は、今日勘請した神、即ち佛教で云ふ人間天上有漏(凡夫)の苦を醫する、法薬を與ふるといふ本地薬師如来(少彦名神)及び素盞鳴命、蘇民將来の三神に供へるのであらう。蘇民将来云々の木札は、素盞鳴命が南海に赴き、蘇民将来の家に宿り給へる時、悪疫行はれしかば、茅の輪を作り、懸けて疫を兔れしめ給ふたとの古事に依り、後世疫あれば門戸にかけて、「蘇民の子孫なり」との意を示すもので蘇民祭と稱する祭典は、今も各所に往々行はれてゐる。而して幣束の小十二本は、十二月分を意味するか、或は十二天神に供へるのであらう。晢時は公文名區にて行ひし神事であったが何時の頃よりか故あわて此の區に移ったとも傳へらる。
神社附近の遺趾 「一石經塚」當社より一町餘にて、高見萬藏氏所有の畑より、一字一石の經塚を發見したが、伴出物の有無不明である。經石は黒色を呈し、圓味を帶びた、扁平體のものであるが、伴出物が判然しないので、確たる年代の考察は難い、蓋し室町から江戸初期時代のものであらう。
当社境内に経塚があり、銅経筒蓋とともに磯石経が出土している。
式内社だが、式内社としての由緒は不明である。


浄土宗円乗院

浄土宗鎮西派円乗院は、原西福寺末。応永10年良如により創立、元亀3年朝倉義景から禁制が出されている。

医王山地福院廃寺
『敦賀郡誌』
圓乗院、淨土宗鎭西派、原西福寺末、應永十年八月六日、良如創立、元龜三年九月、朝倉義景、寺内制禁の判物を給す。 廃寺、地福院、村の南に堂山と稱して、昔は七堂伽藍の有し所と云は、法泉寺の舊地にして、恵心僧都開基の地福院の址なり、地藏尊を御、(弘福寺)毘沙門天を公文名、(福智院)阿彌陀如来を山村、(稻前神社にありしを今は長仙庵)藥師如来を長砂(天神社)四ヶ村へ配分せしと云は、かの地福院、敦賀町へ移しし時の遺物なるべし。(敦賀志稿)今、地福院の事、文献の徴すべき者なし。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


砂流の主な歴史記録




砂流の伝説




砂流の小字一覧

砂流  外井口 野添界外 西井口 岡村 水苗 西合町 九藏田 東山カハナ 六反田 下合町 為長 上戸尻 下戸尻 上江町 四反田 重郎丸 長通 西之久保 油石 下中田 三田 上中田 長畑 宮ノ後 前之久保 堂ノ下 焼ノ 東久保 西六本松 下焼ノ 畦高上 寄会田 三反田 堂ノ上 神主前 助高 下崩レ 中崩レ 上崩レ 東六本松 向長シサ 向田 三牧久保 東井口 拾牧田 狐塚 外山 高岡 下ケ谷 旧練

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市

丹後・丹波
 市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2022 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved