高野(たかの)
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福井県敦賀市高野 福井県敦賀郡東郷村高野 |
高野の概要《高野の概要》 北陸自動車道の敦賀インターのある少し南側の集落。西の中村山、東の井川山連山に挟まれた低位段丘上に立地する。地名の由来は、白山神社の南方にある薬師堂縁起によると、弘仁年間(810~24)に、空海が神社境内の鏡池の水で加持祈祷をなし、高野山金光寺を創建した、薬師堂はその跡で、この因縁で「高野」集落が成立したと伝える。 『敦賀志』 高野村 谷村の北に在
中世の高野村は、戦国期に見える村で、永正4年(1507)2月16日の金前寺寺領目録(金前寺文書)に灯明田として「壱段 在所 高野」とある。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録(善妙寺文書)に「高野」「高野村」と見える。慶長国絵図では谷村か井川村の一部であったと思われるが不詳。氏神白山大明神〔式ニ高岡神社と有ハ此社ならんか、此村小高き所にて岡共云へき地形なれバ、昔ハ高岡村と云けんもはかりかたし〕、皆圓寺〔東本願寺末〕 此村天正以前ハ氣比宮司平松美作守か保土地也、美作守景吉か妻女ハ朝倉義景の妹也、故ニ此平松氏及東河端氏ニハ朝倉家贈答の書翰各数通を蔵せり、又此の長たる者を平松某と云ハ、幼子などの潜り遺りたる歟、乱後詳成事を得ず、 近世の高野村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数27(高持18 ・ 無高8・寺1)・人数142、馬10。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数24(全戸農)・人数125、産物は莚1,200束・椡実40石・薪7,200束・割木1,300貫・茶葉150貫・生柿6,000顆。同22年東郷村の大字となる。 近代の高野は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北50間余、戸数19、人口は男64・女82。一部が、同31年舞崎町、同44年舞崎町2丁目、同49年羽織町・樋ノ水町・深川町,同55年泉ヶ丘町・若泉町となった。 《高野の人口・世帯数》 131・40 《高野の主な社寺など》 白山神社 『敦賀郡神社誌』 村社 白山神社 敦賀郡東郷村高野字深田
位置と概況 本區は東方山嶽起伏し、西南は六町にて中郷村吉河區に接してゐる。氏神鎮守は、區の中央西端にて、人家を隔つた向山と呼ぶ、孤立せる丘陵の東麓に座し、社域の西方に隣して薬師堂がある。昔時は高野山金光寺と號した。この堂後に鏡ヶ池がある。これ空海が嵯峨天皇弘仁年中、加持祈祷に用ひた淨水なりと傳へ、今に至るも乳不足の婦人がこの水を飮めば乳出づるとて、遠近より参詣するものが多い。當社祭禮等には、氏子はこの薬師堂を社務所となしてゐる。社號標石の傍より鳥居を潛り、平坦地を進みて十級の石階を上り、床割式の拝殿を過ぎ、更に石階十級を上れば、本殿は東面して鎮座し給ふ。明治二十年社殿を山麓に移轉して、前庭を稍々廣く取拡げた。全山椎多く、社域には老椎數株あり、又大なる藤茎多く、縱横無盡に老枝古幹に纏絡して、社景千歳の古社たるを偲ばしめ、四境靜閑神気に充ち、賽客をして自から襟を正さしめる。 祭神 伊弉諾尊、伊装冊尊 由緒 按ずるに、當社は往昔より白山大明神、又は白山大権現と尊称し奉つた。気比宮社記によれば祭神菊理姫大神とあり、又當社守護木札の寛文三年二月のものには、白山大権現と記してある。白山神社の御祭神に菊理媛大神を配して奉祀せる大社多ければ、當社に於ても菊理媛大神と共に諾冊二柱を配祀したものなるべけれど、明細帳所載の當時に諾冊二柱のみを記して、菊理媛大神脱漏せしものであらう。往昔より薬師堂と相俟て寳物・古記録等多數あったが何れの時代にか遂に散逸したとのことである。明治十一年八月二日村社に列せられた。 祭日 例祭 五月七日(元舊九月七日) 祈年祭 三月十七日 新嘗祭 十二月二日 特殊神事 毘沙講 陰暦正月十八日、早朝より區内講員が薬師堂に參集する。講員を三座に分ちて、下座四人中座四人とし、下中兩座の殘員全部を上座員とする。又下中兩座員は各二名宛に分れて左右に座す、これを左座右座と云ふ。講員の資格は十五歳以上の男子であるが、行事が出来ないものは二十歳位で入講する。下座四人と當番とは抽籤で定めるので、この五人は他の講員に挨拶をなした後、直に鏡ヶ池にて水垢離をなして、裃を着し、先導となり、羽織袴の講員全部が其後方に随ひ、白山神社に参拝し神饌を供し、本殿右側の神庭に、臨時設けられた射場で矢を射る矢数は一人二本宛て、講員全部が射的を行ふのである。行事終了すると拜殿で御酒と鯣の直會があり、終つて薬師堂で舊慣の直會が行けれる。舊時は必ず鯨汁を用ひたが、今は葱と豆腐の汁である。尚講員として出席すれば、飯は三椀汁は九椀、即ち三飯九汁の慣はしであるが、若し此數を摂れない者は、其形だけすることになつてゐる。 八朔 舊八月一日に八朔と稱して、稻穂を奉り神饌を供へて祭典を奉祀する。抑々八朔を田實節(タノミノセチ)と云ふ處から、豊年を祝して稻穂を奉るのであるが、古より諸地方にも行はれてゐる民間行事の一で、公儀よりも寧ろ農庶民の間に盛であつた。(附録年中行事参照) 元祭 舊九月七日元祭又は秋祭と稱して祭典を行ひ、親類知己を招き饗應する。元祭とは舊例祭日、新祭とは統一した一村の祭祀五月七日を云ふのであるが、新祭は神社限りの祭典となりて、眞に村祭の気分がしないとて、元祭が反りて盛に行はれて、二重祭典となつてゐる。(大椋神社参照) 本殿 … 境外神社 神明社 祭神 天照皇大神、同區大神宮地籍 これが薬師堂なのか↑。覗いてみたが、何も見えなかった。 尚、当社を敦賀郡式内社・丹生神社に比定する説がある。 吉河古墳群(向出山古墳群のことであろう)は、当社背後の山の向こう側斜面にあって、写真で言えば、左奥側へ1㎞とは離れていない。 真宗大谷派皆円寺 真宗大谷派。寛永元年(1624)玄誓が開山という。 『敦賀郡誌』 高野 中の南に在り。永正四年二月金前寺々領目録、永祿元年六月善妙寺々領目録に並に高野村とあり。 氏神、白山神社、村社。 皆圓寺、眞宗大谷派、東本願寺末、寛永元年、玄誓、准如の弟子となりて開く。同七年三月寺號許可。 薬師堂、往古は高野山金光寺と號したりとぞ。
《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 高野の主な歴史記録『古事記』(息長帯日売命条)に、敦賀湾を血浦といったとある、赤かったのだろう、敦賀にも朱の産地があったとみて、 『丹生の研究』は、 敦賀の丹生神社
私は昭和40年7月20日に敦賀市在住の考古学者石井左近氏を訪れ,氏の好意によって敦賀市内の古墳から採取された朱を3点分与され,これらを矢嶋教授に依頼して微量分析にかけてみた。その結果,①敦賀市金ケ崎所在金ヶ崎古墳の石室底部の敷石に残存していた古墳朱は水銀含有0.01%,②敦賀市古河町の向出山古墳第3号墳から出土した古墳朱もまた水銀含有0.01%.そして③同じく敦賀市吉河町所在の吉河(よしこ)古墳内に仿製鏡や金銅の器具と共存していた古墳朱に至っては,実に水銀含有51.5%という高品位を示した。吉河古墳の朱が現地産のものと見ることには,まだ躊躇されるにしても,敦賀市域内に往古かなりの朱産があったことは,想定して誤らないであろう。事実,昭和37年11月7日に行った私の調査によれば,敦賀市高野は水銀含有0.0004%,同じく舞崎は0.0005%,同じく金山は0.0002%であった。その後永江秀雄氏に依頼して試料を採取した結果は,上記の舞崎のものから水銀0.004%,またその附近の大蔵のものからは0.0055%が検出された。 往古の敦賀市域が朱産地として適格であることは以上の如くである。それならば『延喜式』に見える敦賀郡の丹生神社は,あくまでもこの地区内に求めるべきである。しかもこの神社が後代に何の形跡も伝えなかったほど早く亡失したのは,おそらくこの地区での朱産が衰えたか,あるいは他に有力な鉱床が開発されたために,いままで朱砂によって生活していたこの地区の丹生氏が,ニウヅヒメを奉じて新しい天地に移住したと認めてよいであろう。 このように考えて,私が式内丹生神社の候補地として注目したのは,前記の高野(たかの)である。この部落は国鉄敦賀駅の東南東わずかに1.5kmを去った丘陵中にある。おそらく敦賀湾の湾入が現在よりもっと深かったころ,近江から敦賀を通過して木の芽みちや敦賀街道に連結した道は,山寄りを進んでいたにちがいない。そのいわば越(こし)の道が,この道の出発点を今に伝えている道の口という部落から山ぞいに坂ノ下,吉河を経,高野を通って谷口や大蔵に向ったとすれば,高野はまさしく街道すじの要地であったとしなければならない。その高野部落に鎮まる白山神社をもって私は式内丹生神社の後身と判定するのである。 「敦賀郡誌」(大正4年・同郡役所刊)によれば,永正4年2月の金前寺寺領目録や永禄元年6月の善妙寺寺領目録に「並に高野村とあり,氏神の白山神社は薬師堂を主とし,往古は高野山金光寺と号した」(p.84)。また「若狭管内社寺由緒記」(昭和33年刊,活字本. P. 248)にも「高野山金光寺は真言宗で,弘法大師の建立,本尊は薬師十二神だが,永享六年に寺は炎焼した」とある。この薬師を保存する薬師堂だけは,現在も白山神社の傍らに残っている。徳川家斉将軍のころ気比神宮の社家の石塚資元が撰した「敦賀志」にも,白山大明神を紹介し,社地を高野としている。しかしこの著者は白山神社を式内の高岡神社に比定したが,これは高野という村名が弘法大師の建立と伝える高野山金光寺と縁故があるのを無視して,高野・高岡の名称の類似に拘泥した誤りと断定すべきである。おそらく高野は“こうや”と訓まれたのであろう。この金光寺は,高野山系真言宗の常套として丹生神社(丹生高野明神)を護持していたが,のちに当地方に特有な白山姫信仰に作用されて祭神を変更し,その社を残して寺が炎焼してしまったのであろう。 高野の伝説高野の小字一覧高野 角神 谷ノ口 西山 杉森 海道端 南谷口 南谷 的場 石橋 道の下 大神宮 バガ谷 河原畑 相当前 深田 元宮ノ下 北畑 谷田南 谷田 生水窪 草原 大生水 笹尾 マムシカイド 高野 尻野 茶屋ノ下 長畑 若山 広田 西厂田 北野本 西山花 東山花 下石名田 エゴダ 外前 東厂田 丁田 村下 絞り田 下畑田 六反田 北中 犬田 上犬田 尻前田 川尻 生水尻 東吉河沢 粟田 下前田 縄平狼谷 狼谷西 小林 上出 宮ノ下 上行司 西吉河沢 下行司 新御所 西深郷 東馬正面 西馬正面 北深川 西深川 深川 モロケ 上モロケ 亀田 吹寄 上ノ関前 関前 四町田東 五町田西 六町田西 五町田東 小泉 田鍬 樋ノ水 折立 藪ノ下 壱町田 葉折 向山 西岡見谷 岡見谷 南姥ケ谷 寒谷 北ノ谷関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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