丹後の地名 越前版

越前

谷(たに)
福井県敦賀市谷


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福井県敦賀市谷

福井県敦賀郡東郷村谷

谷の概要




《谷の概要》
北陸自動車道と舞鶴若桜自動車道が交わるあたりの山裾になる。東西および南が山地で、北西がやや開けて、高野と接する。地名は地形にちなむと思われる。慶長国絵図には谷村と見えて、高690石6斗6升。
近世の谷村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山月藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数19(高持10 ・ 無高8・寺1)・人数103、馬1。村高196石余は東郷地区では葉原・中・樫曲・新保の各村に次ぐが、戸数の比率からみると、地区中最高の高持である。明治4年、小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数12(全戸農)・人口55、産物は莚450束・桐実27石・桑200貫・生柿1万5,000顆。同22年東郷村の大字となる。
近代の谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北40間、戸数11、人口は男29 ・ 女32。小さな谷底盆地であるが、第2次大戦前は5ha規模の地主も多く、隣接の吉河・坂ノ下周辺にも水田を持ち小作をさせていた。一部が昭和49年羽織町・樋ノ水町・深川町・観音町、同55年若泉町となった。


《谷の人口・世帯数》 12・5


《谷の主な社寺など》

八幡神社

氏神八幡社が字屋敷に鎮座、祭神は応神天皇、旧村社。
『敦賀郡神社誌』
村社 八幡神社 敦賀郡東郷村谷字屋敷
位置と概況 本區は東西南の三面は山脈圍繞し、北方は較々開けて、九町にて高野區に接し、又西方は六町の山道を經て、中郷村古河區に接してゐる。氏神八幡神社は、人家稍々隔でたる、區の南方東端の山麓にありて、社域に入り、鳥居を濳りて進めば、高さ三尺の石垣を築きあり、その正面中央に設けた、数級の石段を上れば、床割式の拜殿がある。之れを過ぐれば下層は高さ六尺の石垣を築き上層はなだらかな崖をなし、これに石階二十級を設けて、其上段に本殿は西南面して鎮座し給ふ。社域には竹林多く、山景又一段と往昔を語る古椎の大木多く、幹圍一丈七八尺より一丈四五尺に及ぶもの数本が、境域の内外に蓊鬱として天窓を蓋ひ、森閑静寂の境地を爲して、自から清明の神気を誘發せしめてゐる。
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は創立由來等不詳にて、往昔より八幡社と稱し、明治十一年八月二日村社に列せられた。御大典記念事業として、昭和五年三月外殿拜所を改築し、竣功奉告祭を賑々しく執行した。
祭日 例祭 五月三日(元舊四月三日) 祈年祭‘三月十九日
   新嘗祭 十二月二日
本殿 …


浄土真宗本願寺派井谷山福応寺

蓮如の弟子浄祐の開基、文明9年(1477)5月寺号許可と伝える。
『敦賀郡誌』
谷 高野の南に在り。氏神、八幡神社、村社。福應寺、眞宗本願寺派、西本願寺末、蓮如弟子浄祐開基、文明九年五月寺號許可。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


谷の主な歴史記録



谷の伝説





谷の小字一覧

谷  小河越 小河越西 崩し 小河越口 仙山谷 舟ノ尾落シ 落シ谷 北谷口 北谷 鳥越 屋敷 西ノ谷 西ノ谷奥 寺下 角神 シモク谷 海道端 的場 大神宮 石橋 杉森 谷ノ口 西山 小林 五反田 東吉河沢 生水尻 深郷 モロケ 上モロケ 上八反田 下行司 西吉河沢 上行司 宮ノ下 田鍬 高畔 五町田東 小泉 樋ノ口 折立 溝先 南石ケ町 己ノ渕 一町田 藪下 丑寅 下出 葉折 明道田 横田 夕モノ木 宮ノ前 宮ノ上 東山 北谷上 東落シ谷 小河越谷 西ノ谷 西シモク谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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