立石(たていし)
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福井県敦賀市立石 福井県敦賀郡松原村立石 |
立石の概要《立石の概要》 敦賀(立石)半島東部の最先端。東は敦賀湾口、北は日本海に面し、西は岬の山嶺を経て白木に接する。立石へは県道141(竹波立石縄間線)が通じているが、この県道は敦賀原発の玄関先を通るので、同原発で事故が発生した時は避難路がない。船で逃げるより手がないが、シケていればそれもムリ、ヘリが降りられるスペースの整備が必要か…、舞鶴あたりでもこうした所があるが、人命無視で原発建設をしたものか、それともよほどに楽天的に考えていたものであろうか。 古くは楯石とも書いた。地名の由来は、蒙古襲来の時、この地の海中にある巨岩が楯となって敵舟の襲撃を防いだという故事にちなんでいると伝えられる。巨岩の立っている所の意であろうが、あちらこちらにあって、どれがその岩なのかはよくわからない。 中世の立石浦は、戦国期に見える浦名で、天正2年(1574)と推定される5月20日の羽柴秀吉書状に「立石之浦篠河兵庫かたへ通路之舟申付候間、彼浦ニ自然舟なと御付候事御用捨尤候」と見えて、織田方は当浦の篠河兵庫に通舟を命じたため、秀吉は若狭・丹後の舟手に対し、当浦への着船を控えるよう命じている(立石区有文書)。翌天正3年8月に当浦に織田信長の陣所を置くため立石惣中に小屋以下の掃除が命じられている(同前)。慶長国絵図には見えるが、高の記載はない。 近世の立石浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。江戸期を通じて無高の純漁村であった。享保12年の家数27(無高26・寺1)・人数133、本島手銀40匁余・新島手銀53匁余・新山手銀54匁余・地子米9斗余を負担している。西浦10ヶ浦の1つ。白木同様に塩高が皆無だが、これは塩田を行う砂浜がないことによる。「雲浜鑑」によれば、家数32(ほか寺1)・人数200。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の戸数30。「滋賀県物産誌」によれば、家数29(すべて雑業)・人数213、また生業は漁業を専らとし、農耕・炭焼きを従としているが、江戸初期の家数と比較して40余戸減少しているという。当浦の漁域は古く白木浦とともに敦賀湾外に出漁する釣浦であり、湾内の他浦とは性格を異にしていた。 慶長7年丹生郡米浦(越前町)の漁場で網を張り、寛文5年(1665)以前にも同郡新保浦(越前町)沖に進出して、出入となっている。元禄12年5月の川向両浜・立石浦手繰網差止出入ニ付立石浦百姓等返答書等控(立石刀根家文書)に「立石浦と申ハ元来外海ニ而領内之外ハ則渡海越前若狭之浦々蝶諸魚之諸猟入込ニ仕来リ申候」とみえて、その漁場として丹生郡の北端蒲生・居倉両浦(越廼村)から若狭国遠敷郡田烏浦(小浜市)まで、敦賀郡を含め2国5郡にまたがる若狭湾の東半分の海域を掲げている。手繰網による王余魚(かれい)漁のほか、「寛文雑記」に「当地(敦賀)より十五、六里沖ニ而小鯛并赤物釣申候」、「敦賀志」に「此浦(立石浦)ハ漁猟を業とす、鯛甚多し」とあり、中世末から近世初頭に西国から移住したとの伝承をもつ丹生郡白浜(福井市)・同城ヶ谷(越前町)の両浦同様「鯛釣」を得意とした。「稚狭考」に「鯛は鳥賊、小鯛は海老の類を餌とす。…越前国の漁人、昔より常神・田からす・宇久・西小河の海湾に入て鯛を釣来る、餌には舟虫を用ゆ、此事本国(若狭)にはなし、巌上に篝をたき、火元に付て舟虫いはほに上るをとらへて水に貯へ、生ながら針に貫き餌に用る事、越前の漁夫に限れり」とあるのは、立石・白木の猟師をさすという。 明治14年の主な物産は蚫1,000貝・鯛1,500枚で、これらを敦賀港で販売していたという。同22年松原村の大字となる。 近代の立石は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西19間・南北4町余、戸数30、人口は男99・女103、学校1、小舟38。.同42年一部が明神町となった。 《立石の人口・世帯数》 52・19 《立石の主な社寺など》 立石岬と灯台 敦賀半島の北端にあり、明治14年日本人が設計・建造した最初の石造りの洋式灯台が120メートルの山頂に設けられた。昭和35年には自動化され光度35万カンデラ、光達距離は27.5海里。ここから東には敦賀湾から越前海岸、西には若狭湾一帯が一望できるそうで、立石から道がある。この岬の近辺の海上は波が荒く、古くは難船の名所となっていた。 寛文7年(1667)に幕府が船道式を制定し、敦賀郡内の5ヵ所に高札が掲げられた。浦方は難船救助の義務を負い、その反対給付として取揚荷物のうち、浮荷物の20分の1、沈荷物の10分の1が浦方の取分とされた。一方、上乗船頭と浦方が申合せて、難船にみせかけて荷物の不正処分が度々なされ、正徳2年(1712)にはその取締の高札が立てられた。 古墳と古代製塩跡 八坂神社 『敦賀郡神社誌』 祭神 神速素盞鳴尊
由緒 按ずるに、當社は往昔より俗に祇圃社、又は祇園牛頭天王社と尊崇し奉る。往古は楯石神社とも云ひしが、明治維新當初、八坂神社と改稱するに至った。寛永十六年本殿の改築をなし、更に天保三年六月改築し、明治九年七月無格社に列せられた。 祭日 例祭 七月十四日(元舊六月十四日) 千度詣と百度詣 千度詣は區民の協議で定めるので、打績く不漁とか、疫病の流行とか云ふ時に、區民総中が當社に祈願することがある。恒例でないから従で月日は一定してゐない。この千度詣と稱へるのは人數に度負数を乗じで千度になる樣詣るので此の名がある。詣づる時は裸であって一度々々海水で禊する。數取りには濱の小石を用ひてゐると云ふ。個人的に行ふのは他の如く百度詣と呼んでゐて、數取には小石又は木片或は豆を用以てゐる。 小浜藩主酒井忠勝を祀る 「延喜式」神名帳に載せる敦賀郡「 浄土宗海安寺 『敦賀郡誌』 海安寺、淨土宗鎮西派、原西福寺末、舊、眞言宗、正平十八年八月、良光、良如の教化を受けて淨土宗に改宗し、舊稱地藏院を海安寺と改稱す。寶暦十年、漂着したる唐木を以て本堂を再建す。明治二十八年七月、寺後の山腹崩壊して堂宇倒れ、三十二年亦再建す。
《交通》 《産業》 立石漁港 《姓氏・人物》 立石の主な歴史記録立石の民俗・伝説産小屋 大変にめずらしい建物が残されている。めずらしい、というか、かつては特にめずらしくもなかったものであろうが、今も残っている所は多くはない。 記紀にも記録されている産屋である。 立石の産小屋
この建物は、立石区有の出産共同施設で、平成十八年に新たに建て替えられたものです。もとの建物もこの場所で、昭和三十二年に建て替えられ、分娩や就寝する主室の六畳と坎事場兼出入り口の二畳の二室がありました。 小屋内での出産は昭和三十九年以後行われていませんが、それまでは妊婦の出産が近づくと「コヤイリ」し、力綱を握り座産分娩を行ないました。その間家族とは食器も食事も別にし、産後もしばらくはそこでの生活を続けたのです。 産屋と別火生活の習俗は、お産を赤不浄として、忌を守るということは、他の人々と別れて生活することであり、忙しい農漁村産婦に十分な休養をとらせる一方策でもあったのです。産婦達は小屋入りを喜び「コヤミマイ」に訪れる親戚、友人、近所の婦人達との憩いの場としたのです。その期間はあらゆる労働から解放され、封建的な社会の人間関係に、神経をすりへらさなくてもよいからだといわれています。前近代的な遺習と思われがちであるが、存外の合理性を秘めた過去の出産習俗である。 現代の生活はますます都市化し、密接な共伺生活が失われ、代々受け継がれた慣習には、それを生み出じだ社会の年輪がある。そういう民俗の真相と沿革を探り、新しいものへの成長の糧としてほしいものである。 所在地 敦賀市立石五十一号北篠二十一番地 管理者 立石区長 『敦賀郡神社誌』 産屋と不淨屋 區民は産屋を小屋又は奥小屋と稱へてゐる。奥小屋と呼ぶは不淨屋を口小屋と呼ぶに對する稱である。當區の産屋は間口二間奥行九尺の本屋で、それに問口二間に奧行三尺り庇があるから方二間の建物である。出入口は南面し向つて左方三尺である。此の出入口には戸の代に藁莚を垂れて、他に何の設備も装飾もない。壁は薄く粗末で、全く申譯的に塗ったと云ふべき程度である。そして壁の外側へは皆莚を垂れ、或は藁の束を列べて、押木で抑へ付けてあるから、外部からは壁のぬられてあることは見えない。屋根は竹と丸木を用ひ、藁縄で結び釘は何れへも用ひてゐない。葺材は茅と藁とを交ぜて葺かれて、柱は外皮を剥いたばかりの丸木の堀立て、勿論天井などなく、周圍の壁と地に接する所は、高さ一尺位に石を並べて土臺としてゐる。家内は土間で白晝でも薄暗い、唯東方に一つ小さい窓が切り拔かれてある。それに竹簾が垂れてあり、屋内中央の邊に圍爐裹が切られ、それに屋根裏の丸木の垂木から綱を吊して、木の殳の鉤を結んで、これに煮炊の器具を吊るので、全く原始時代の太古の民の家屋と炊事の状態を思へば、其の素朴な風俗は、何事も新しがる現世では、反りて之が貴く感ぜられる。妊婦が愈ゝ産氣づくと、この小屋へ別居するので、普通其の當日又は翌日位に出産すると言はれてゐる。出産してから初産は二十一日間、次からは二十日間この小屋に寢食し家族とは別居してゐるのである。近年までは初度は四十二日間。次からは三十六日間であつたのを或る有識の某が短縮したのが動機となつて、現在の如くにしたのであると。この小屋の入口近くに、大きな岩の透間から、湧く如く流れ出る清水が、飲用水にも産湯にも、行水にも使はれてゐる。この清水の靈泉を大師の賜と信じ、弘法大師の石像が小さな祠り中に安置され、それには香花が供へられ、幔幕まで掛け張られてある。この水は安産に靈驗があると信ぜられてゐる。
不浄屋 この不淨屋を口小屋、又は小屋、或は上小屋・下小屋と呼んでゐる。區の南北両端にある。建物は産屋と大同小異である。此の小屋は當區の婦人が月経期間中、こゝで別火で自炊するが、産屋の様にこゝで宿泊することはしない。産屋も不淨屋も大部分は、出入には戸の代用に莚を垂らしてあり、屋内は土間で、入口が一方に寄り三尺計であるのが普通である。又産屋は一箇所であるが、不淨屋は多く區の両端に設けられてあるのは、利用上の便を圖つたのみで他に理由はない。 立石の小字一覧立石 竜元谷 上岡野谷 下岡野谷 佐根坂 西引尾井 引尾井 滝西 三郎岳 東三郎 東滝ケ谷 中平岩 上平岩 平岩 海道ケ谷 海道簡谷 平床谷 中猪ケ谷 下猪ケ谷 海道谷中下里 平岩中尾 東赤石 西赤石 下三郎岳 中野下里二階花 東猪ケ谷 猪ケ谷 亜浜 清浜 西浜 清浜谷 鹿間谷 鹿野谷 尻谷 喜郎谷 坂尻 坂尻下里 喜次郎下り 共子次 石借 中野下里 上野下里 磨鍬尾 下野下里 磨鍬尾下里 堂ノ尾 戸鍬尾 坂ノ腰 南条 中条 北条 北ハセ 上伊元畑 中伊元畑 下伊元畑 長谷田 峠下 蛭子坂 赤元流尾 地蔵坂 中ノ谷 楯輪谷 名操谷 魞ケ崎 脇ノ坂 ?ケ壌 東鹿馬谷 亜浜ケ洞 大獅子ケ谷 南平島籠谷 西海道ケ谷 鳶ケ谷 免見山 比良岩谷 北滝谷 拝見谷 拘老坂関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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