丹後の地名 越前版

越前

刀根(とね)
福井県敦賀市刀根


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福井県敦賀市刀根

福井県敦賀郡愛発村刀根

刀根の概要




《刀根の概要》
市街地の南東郊外の山峡、疋田から東ヘ国道8号を行き、麻生口の手前で敦賀柳ヶ瀬線(県道140)へ、2~3㎞の小盆地にある集落。近江国との国境である。かつての刀根越(柳ヶ瀬街道)筋の要衝で、鉄道も通った、今は北陸自動車道が通る。静かな所だが、車の騒音は絶えない。地名は、平安期の官職刀禰が居住していたことに由来するという。口碑では仲哀天皇が三韓遠征の際敦賀に行幸、その時豪族「庄内刀根」が坂道を修復した。この「庄内刀根」に由来するという。
また当地からは北方に位置する枝村杉箸、池河内村を経て谷口村(木ノ芽道が通る)に至る道もあり、交通の要衝である。「今昔物語集」の「越前国敦賀女、蒙観音利益語」にみえる美濃より敦賀に出て若狭に赴く話も、また「太平記」巻一七(金崎城攻事付野中八郎事)にみえる「細川源蔵人ハ四国ノ勢二万余騎ヲ率シテ、東近江ヨリ向ハル」も、この刀根越を通ったものと思われる。天正元年(1573)8月13日、柳ケ瀬(滋賀県伊香郡余呉町)に布陣した越前朝倉勢が疋田(ひきた)に敗走の途中この坂で織田信長勢の追撃をうけている。
天正8年(1580)敦賀代官武藤助十郎は、郡内の各街道の5ヵ所に上り荷物の継場を定めたが、刀根越には当村に置かれた。慶長7年(1602)3月5日福井藩主結城秀康は伝馬の黒印状を下し、宿駅は刀根など7宿となった。刀根越の上り荷は敦賀馬借が、下り荷は疋田馬借が各々取扱う掟となっていた。小浜藩京極氏時代に敦賀町奉行支配の女留番所が郡内に5ヵ所置かれたが、当村の番所は切米支給であった。また小浜藩は敦賀郡内に10ヵ所の札場を設け、当村にもその一つが建てられた。天正18年(天正1590)8月18日の日吉神社鳥居棟札によれば、奥麻生の同社鳥居を建立する際に「刀禰惣中」が米3斗を寄進している(奧麻生区有文書)。慶長国絵図には当根村と見え、高201石9斗2升1合。
近世の刀根村は、江戸期~明治22年の村。刀禰村とも書いた。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。地内は本村である刀根と枝郷の杉箸に分かれている。郷帳類では一村として扱われたが庄屋などは別々に置かれ実質は分村していた。近江国境の刀根越(久々坂とも)は北国路と西近江路を結ぶ間道で当地は交通の要衝であった。慶長年間すでに当地に「女留ノ口番所」が置かれ、こののちも女留番所が設置された。山間の宿駅で高札場もあった。享保12年の「敦賀郷方覚書」には刀根村一村として見えるが内訳がされており、刀根分の高151石余(杉箸分50石余)、人数466、刀根・杉箸分を合わせて家数92(高持48・無高38・寺6)、馬43。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、刀根村と杉箸村が別に書上げられて、刀根村の戸数64(農62 ・ 石灰焼2)・人口315、荷車9、産物は麻25貫・繭70貫・生糸15貫・楮皮200貫。繭の一部は当村で生糸に加工されていた。明治13年正式に杉箸村を分村。同22年愛発村の大字となる。
近代の刀根は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北1町余、戸数68、人口は男164 ・ 女169、学校1。同55年北陸自動車道敦賀~米原間が開通。


《刀根の人口・世帯数》 69・33


《刀根の主な社寺など》

気比神社

敦賀柳ヶ瀬線沿いに鎮座の気比神社、祭神は仲哀天皇・神功皇后・日本武尊。
『敦賀郡神社誌』
村社 気比神社  敦賀郡愛發村刀根字宮下
位置と概況 本區は山獄起伏して、東西南の三方を圍繞し、北方僅に開けて、八町餘にて杉箸區に隣してゐる。柳ヶ瀨街道の本縣の終黠に當り、海拔高く今季積雪量が多いので、往々旅客が雪止に逢ひ困難することがある。鐡道は柳ヶ瀨隧道の北方の出口に當り、之れより急勾配にて北下するので、先年速力緩和危険防止のため信號所も此地に設けられしが、大正五年更に設備を完成して、之れを刀根驛と改稱し、地方の交通物資の集散に便せられた。當區は藩政時代にも要害の地として、女留番所もありし宿驛であつた。刀根越、即ち久々坂峠を經て滋賀縣と境してゐる『久々坂峠は天正元年八月十三日、朝倉義景織田信長の二萬餘と戦ひ、山崎吉家父子等戦死せると云ふ古戦場』刀根の名稱は、往昔仲哀天皇の角鹿に幸せらるゝに當り、庄内刀根なるもの阪路開鑿の大命を奉じ、日ならずして其の功を竣へた功勞を永久に旌表せらるゝ聖慮にて、勞役に服した六部落を、刀根郷と稱し、庄内居所の邑を、刀根と稱せしめられたとのことである。其子孫数十世を經たる後、賎ヶ獄の戦役の爲め居を他に移したので、現今の戸数減ぜしものと云はれてゐる。明治十一年明治天皇北陸行幸の際は、九月十日畏くも雨中敦賀町を御發輦あらせられ疋田にて御小憩、又刀根にて御小憩あらせられて、刀根越を經て、江州木ノ本に向はせ給ふたのである。
明治天皇御製
 夏さむき越の山路をさみたれにぬれて越えしも昔なりけり
昭憲皇太后御製
 はつかりをまつともなしにこの秋は越路の空のなかめられつゝ
當區氏神鎮守は、區の西北端に當り、人家を去る約二町の緑山と稱する山麓の宮下と云ふ地籍にありて、域内入口の木造朱塗の大鳥居を入れば、社務所・手水舎・鐘楼・拝殿等の建造物があり、次に高さ八尺位の石垣を二段に築き、二十級の石階を設けて、其上段の廣場に、本殿は南面して鎮り給ふ。樹木多からざれども、明治年中伐採せる二・三本の欅の如きは、實に幹圍三丈にも及ぶものありて、鐡道運搬にも困難したとのことである。現在社地の大樹としては幹圍一丈五尺の桂、一丈餘のタモで、境外地たる背後の山林には鬱蒼として碧空を凌ぐ老樹古木多く、參差技を交へ幹を組み、一見神林なることが肯かれ神威の赫々たるが仰がるる。此の社は當村第一の完備せる神社でありて、北陸鐡道本線刀根驛附近の車窓より、遙に北方朱塗の鳥居を拜するのがそれである。
祭紳 仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、合祀 素佐之男尊、大山祗命
由緒 按ずるに、當社は仲哀天皇、嘗で三韓を親征し給はんとて、敦賀に行幸あらせられしとき、此の久々坂峠を登臨し給はん爲めに山路を開かせられ、此の地に行在所を建て給ふたので、今に至るも元ノ宮と稱する地籍ある所以であると傳へてゐる。當社も元はその地に鎮りしを、何時の頃にか現地を撰み奉遷したのである。後に本宮の東方一町餘の地黠に、七堂伽藍を建立せしも、天正十一年賤ヶ嶽の合戦の時、勝家の將佐久間玄蕃盛政が、當地に城砦を築かんとして、本社殿一宇を残し、他は全部貸與すべく強要し、之を運搬したれども、敗戦に及び、邃に其企は中止となった。當區に玄蕃ヶ尾と稱する地籍あるは、其陣趾なりと傳へてゐる。元禄元年大火の際に、時の神主の住宅も燒失せしため、帥神古記録等、悉く烏有に歸したれども、現に慶長年間の社殿修造に関する木札、其他享和辛酉元年八月三日、千百年祭を執行した時の古記録等の一部分を保存してゐるが、これ等物的遺物に就て見ても、如何に古き地方の名社であつてかゞ窺はれる。明治十一年三月村社に列せられた。明治四十二年十月二十六日、同區東南方の上ノ山地籍に鎮座し給ひし、無格社八坂神社祭神素佐之男命、並に同區東方字若足谷地籍に鎮座し給ひし、無格社山神社祭神大山祗命の兩社は、共に明治十三年鐡道敷設の爲め同年七月三日一旦同地縉に移転せしが、後更に気比神社へ合祀した。大正三年一月十一日、神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
祭日 例祭 四月三日(元舊四月三日)所年祭 三月十八日 新嘗祭 十二月三日(元旧十一月三日)
〔特殊神事及行事〕…
境内神社
 神明宮 祭神 天照皇大神 豊受大神
 常宮社 祭神 天八百萬神
 稲荷神 祭祁 宇賀魂命
 金比羅社 祭神 大物主命
神社附近の舊蹟地口碑 延喜式神名帳に、越前國敦賀郡、伊多伎夜神社あるは、刀根區に坐せしなるべしと、敦賀志稿に「刀根村の山に伊多伎夜谷あり社なし」とある。按ずるに、當區東南の山上に小高き所があつて、郡中第一と稱せらるゞ欅の老樹もあった。こゝに八坂神社の鎮座し給ひしが、明治十七年鐡道敷設の爲め附近に移轉し、更に明治四十二年十月二十六日気比神社へ合祀した。當區民の口碑によれば、此の社は當區最古の氏神で、太古よりの社なりと傳へられてゐる。伊多伎神社の當區坐せしとせば、此の社なるべきか尚考ふべき事である。
 敦賀志稿に牛頭天皇社とあるは、此の八坂神社の事であらう。
元宮舊蹟地 當區氣比神社より西南約二十數町の地に、元宮地なりと稱すろ所がある。今は草樹徒に茂生して、往古を語るものがない。多少土器や石灯籠の破片を発見したことがあつたと傳ふるも、山谷崩壌して舊態を存せず、何等確たる徴證の資なきにつき斷定はできぬ。


曹洞宗宝積寺

寺院は元禄8年(1695)開基の曹洞宗宝積院。

浄土宗福昌寺

浄土宗鎮西派、もと天台宗、弘治年間(1555~58)に改宗したという福昌寺。
『敦賀郡誌』
刀根 麻生口の東に在り。藩政時代の宿驛にして、又女留番所ありき。刀根信號所あり。 氏神、氣比神社、村社、明治四十二年十月十六日、同區無格社八坂神社、及其境内社とも合祀す。境内神社、神明社、常宮神社。 寶積院、曹洞宗。赤崎玉祥寺末。本尊觀世音、元禄八年七月、龍峰開山。 福昌寺、淨土宗鎮西派、原西福寺末。初天台宗、弘治年中天界宗室の時改宗。 観音堂。廃寺、高徳院、曹洞宗、赤崎玉祥寺末。本覚院、龍勝院、共に浄土宗、福昌寺末。 刀根越、久々坂とも云ふ。柳瀨に出づ、古戦場なり。
両寺は隣同士のような位置にある、この山手に国鉄の「刀根駅」があったが、道が今もあるのか、今は高速が通る下あたりにあるのだが、よくわからなかった。

刀根信号所は大正5年停車場と改称。↑この奥あたりであろうか。
昭和32年田村~敦賀間の交流電化が完成、木ノ本~敦賀間は新線使用で、旧線は柳ケ瀬線となり、同39年廃止。線路跡はバス専用道路となり代行バスが運行した、という。


玄蕃尾城跡(内中尾山城)(国史跡)
東の滋賀県境には戦国期柴田勝家が築いた玄蕃尾城跡がある。
玄蕃尾城


《交通》
刀根越(柳ヶ瀬峠・久々坂)
刀禰坂、久々坂(くくざか)、また柳ケ瀬(やながせ)峠ともいう。敦賀市南東部の滋賀県境、敦賀市刀根から滋賀県余吾町の柳ケ瀬へ越える峠道。最高点の標高約400m。刀根越、柳ケ瀬峠はともに峠下の集落名によるもの。久々坂の由来は不明。
柳ケ瀬は東近江路(北国街道)に臨み、刀根から笙ノ川沿いに下れば疋田で西近江路に合する。古くから東・西近江路を結ぶ間道として利用された。「今昔物語集」の「越前国敦賀女、蒙観音利益語」に美濃より敦賀に至る道、「太平記」巻17金崎城攻事に見える細川源蔵人が四国勢2万余騎を率いて東近江から金崎へ向かった道も刀根越であったと思われる。天正元年8月、小谷籠城の浅井氏の援軍として柳ケ瀬に布陣した朝倉義景軍は疋田へ敗走の途中、急追する織田軍によって刀根越で壊滅的な打撃を受けた。「朝倉始末記」は信長自身先頭に立って追撃戦を指揮し、折からの雨中の谷道に朝倉軍が四分五裂となった情景を伝える。峠道は柳ケ瀬から尾根筋を登っているから、この惨劇の舞台は刀根への下りであったろうという。また天正11年4月、賤ケ岳合戦に柴田勝家が近江へ出撃し壊走したのも刀根越である。慶長7年結城秀康は刀根を宿駅とし、小浜藩も刀根に女留番所を置くなど、近世初めにも近江へ通じる要道であったが、のちに新道野越が開かれてさびれた。明治17年に開通した鉄道柳ケ瀬トンネルは峠の北約1.3kmの県境尾根に長さ1,825mを貫き、旧峠道は次第に廃道となった。しかし敦賀~柳ケ瀬間は深雪と1,000分の25の急勾配で上り続ける難所で昭和32年に深坂トンネル経由木ノ本へ至る新線が北陸本線となり柳ケ瀬線となった旧線は同39年に廃止された。その後一時国鉄バス専用道路として利用された。今は北陸自動車道がこのルートを利用している。

日本最古のトンネル、小刀根トンネル


「明治十四年」(1881)の銘がある。当時の国鉄北陸本線のトンネルである。今はもう線路はない。振り返ってみれば、今通ってきた県道140号のトンネルもそうであろう。

案内板がある。
敦賀市指定文化財
建造物 小刀根トンネル ー基
指定年月日 平成八年六月一一日
所在地 敦賀市刀根
管理者 敦賀市
時代  明治時代
   [銘板]明治一四年(一八八一)
総高 六・二m 全幅 一六・七m 総延長 五六m
 小刀根トンネルは、敦賀~長浜間を結ぶ鉄道敷設のため、明治十三年四月に着工、明治十四年に完成し、明治十五年の鉄道開業以後、昭和三十九年の柳ヶ瀬線廃線まで利用された。
 日本人技術者によるものとしては、明治十三年完成の逢坂山トンネル(京都~大津間)に次いで二番目に古く、建設当時の姿を残すものとしては、日本最古の鉄道トンネルである。
 敦賀~長浜間には、明治十四年完成の曽々木・刀根・小刀根トンネル、明治十六年完成の柳ケ瀬トンネルがあったが、現在、曽々木・刀根トンネルは車道に利用するために拡幅工事が行われ消滅している。
 トンネル入口はレンガ造・馬蹄型の構造で、要石には「明治十四年」の文字が刻まれている。また、内部は岩盤の露出部分とレンガ槓みの二段構造になっており、当時の建設技術をよく伝えている。  敦賀市教育委員会

日本遺産  海を越えた鉄道 ~世界へつながる鉄路のキセキ~
滋賀県長浜市・福井県敦賀市、南越前町にわたり明治時代に敷設された鉄道、旧北陸線。
当時の鉄道設計の限界と言われた急勾配が続く柳ヶ瀬越え(長浜-敦賀間)・山中越ふ(敦賀-今庄間)。その鉄道敷設は海外航路とのつながりを促し、1枚の切符で東京・ヨーロッパ間を渡航できる新たな時代を築いた。そのストーリーは日本遺産に認定されており、3市町には今も多くの文化財が残っている。
小刀根トンネル
小刀根トンネル(長さ56m)は、明治14年(1881)竣工の建設当時の姿がそのまま残る日本最古の鉄道トンネルである。明治初期の規格で作られたため、レンガ積みを含めた大きさは総高6.2m、全幅16.7m、アーチ部分は高さ4.72m、幅4.27mと小さいことが特徴。昭和11年(1936)に量産がはじまったD51形蒸気機関車(通称デゴイチ)は小刀根トンネルのサイズに合わせて作られたと言われている。
今も残る当時の面影
トンネル内部には蒸気機関車が排出した黒煙による煤が残っており、当時の情景を思い描かせる。また、内部には人が入れる程度のくぼみが見られるが、これはトンネル内で作業を行う保線員の退避抗であった。更に、小刀根トンネルポータル上部を見ると、崖崩れ防止の柵が設置されている。これは、当時使用されていた線路のレールを再利用したものである。また、小刀根トンネル内から敦賀側を見ると、現在の刀根トンネルにまっすぐ道が延びているのが分かる。現在は改修されているが、当時は旧北陸線トンネル群のひとつであり、狂いなく一直線の道は当時の技術の高さを伺わせる。
住民によって守り継がれる文化財
小刀根トンネルは平成8年(1996)に敦賀市指定文化財に、平成22年(2010)にはJR西日本登録鉄適文化財、平成26年(2014)には土木学会の選奨土木遺産に選定されている。山間部の雑木等が生い茂る場所であるが、トンネルの周辺環境は地元住民の手によって保たれている。市内外から写真撮影に訪れる方も多く、条件が整った場合は、このような写真を撮形することができる。
長浜市・敦賀市・南越前町観光連携協議会  令和3年度文化庁文化資源活用事業費補助金(観光拠点整備事業)
このトンネルではないが、県堺の嶺を通る柳ケ瀬トンネル(1,000分の25勾配)(今は140号線になっている)で、昭和3年、上り貨物列車の蒸気機関車の車輪が空転し、乗務員全員が窒息死する事故があった。


北陸自動車道の刀根パーキングエリアがある。

昭和21年集落が大火で焼失した時の記念碑がある。



《産業》
石灰
刀根・杉箸では石灰を産出し毎年運上として石灰20俵を上納していた。元禄14年石灰生産は中止となったが、のち再開され(杉箸では元禄15年に再開されているが刀根の再開年は不明)、明和3年には泉・刀根・杉箸3か村の運上石灰15俵、天明2年には運上5俵とある。第2次大戦中も工場が設立され続けられた。昭和21年日本カーバイド刀根石灰工業所社宅付近から出火し、60戸のうち57戸と寺院が焼失した。


《姓氏・人物》


刀根の主な歴史記録



刀根の伝説

『越前若狭の伝説』
刀根   (刀根)
むかし仲哀天皇が角鹿に行幸せられたとき、武内刀袮という者が、命を受けて坂道を開いた。その功労を表彰するため、労役に服した六部落を刀根郷と袮し、武内の居所の村を、刀根と称せしめた。    (福井県の伝説)



刀根の小字一覧

刀根  本宮 十目 今子 功坂 正越谷 柳洞 沢洞 不荒倉 荒倉 寛気岩 亀 薬師堂 越谷 桂木 麻生越 麻生 越西 池谷口 池ノ谷 出合川 早稲田 宮ノ下 仏師ケ谷 北仏師ケ谷 緑山 井ノ下 村下 村中 栗林 高瀬 若子口 大谷 土ノ山 泥子 小谷 川向 板木谷 村上 若師谷 附毛 足谷 弓ケ谷 岩ケ谷 吉ケ谷 小河谷 端子谷 鳴シ谷 鳴シ谷口 朝影口 阿真谷 倉ノ谷 剣谷 剣谷奥 朝影 越洞 坊作り 黒崩 阿弥陀 雑木落 後世谷 外ケ谷 桂谷 茶木洞 唐子 滝ケ谷 矢ケ谷 南滝ケ谷 北滝ケ谷 冥加谷 小唐子 矢六 谷田古


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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