丹後の地名 越前版

越前

津内町(つないまち)
福井県敦賀市津内町


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福井県敦賀市津内町

福井県敦賀郡敦賀町津内

津内町の概要




《津内町の概要》
今は1~3丁目を言う、それでも広いが、元々の津内はさらに広い範囲であった。
だいたいは国道27号パイパスから北側の海まで、西は笙の川、東は天筒山までくらいの範囲で、敦賀津を中心に、それをグルっと取り囲む、広い範囲を言った。
津を中心に中世以降形成された港町で、現敦賀市域の中核部をなしている。
古くは気比神宮のお膝元の神領であったと言い、古代の津守郷の郷域になるのかも知れない。津の近くの人口密集の商人の町々が次第に独立していき、最後まで残ったのが、今の津内町になる。
天文3年(1534)2月13日付前波吉長下知状(道川家文書)に「津内」とみえる。天正(1573-92)以前は気比宮の神領で、宮内氏(菅原)の所領であったと伝える。
前波吉長下知状に「彼入買之事他浦并津内之者悉商売之由候」と初めて見える。慶長33年の津内村検地帳写の名請人の肩書きは、津内および枝村の川向・三ツ谷・宮内以外に島寺・御所辻子・中ノ橋・善妙寺前・塔場・御影堂前・裏ノ門・射場・東町・法泉寺前・唐人橋・一向堂などの敦賀町の地名や、新田・泉・谷口・中・舞崎・井川・余座・高野といった周辺の村名があり、「敦賀志」は「定れる村里なし、津の内の農商打交りて支配せり」とする。
慶長3年(1598)の津内村検地帳(田保家文書)によれば高一千四八八石余、田畠合九三町五反余。同11年頃の越前国絵図では「敦賀町」と記され高一千五一二石余、正保郷帳では舞崎村(一一八石余)が独立して高付されたほか、それまで含んでいた気比宮社領(一〇〇石)・天神社領(五石)・諸鶴太夫領(一○○石の一部)などが除かれて高一千一四七石余、元禄郷帳では気比・天神・幸若領を含めて一千三〇〇石となる。
明治14年、弓矢町(73戸)・末吉町(103)を合併。同年頃の戸数163、うち農127・工2・商5・雑業29、荷車106両、産物は菜種45石で売先は敦賀港であった。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同年弓矢町と末吉町を合併。同22年敦賀町の大字となる。
近代の津内は、明治22年~現在の大字名。はじめ敦賀町、昭和12年からは敦賀市の大字。明治37年郡農会農事試験場設置。大正2年郡役所新築。同12年北津内・南津内、昭和3年東津内の新区が設置され、津内区とともに、同18年それぞれ町内会が編成された。昭和20年7月12日の空襲で、法泉寺・大和田貯蓄銀行・大和田銀行南支店・敦賀高等女学校・敦賀駅などが焼失した。一部が同31・32年津内町1~3丁目・白銀町・鉄輪町・東洋町・天筒町・角鹿町・清水町1~3丁目・本町1~2丁目・舞崎町・神楽町1~2丁目・元町・曙町、同38年岡山町、同44年舞崎町2丁目、同45年三島町1~2丁目・津内町1~3丁目、同49年樋ノ水町・深川町、同55・56年若水町となった。
近代の津内町は、昭和31年~現在の敦賀市の町名。1~3丁目がある。もとは津内・泉・舞崎の各一部。昭和32年津内・大黒・神楽・泉の各一部、同45年津内の一部を編入した。

《津内町の人口・世帯数》 (1~3丁目合計) 1422・642

《津内町の主な社寺など》
神明神社
神明神社(津内2)
案内板がある。
津内 神明神社
由緒沿革 創立年代は不詳なれど、口碑や文献などに文明年間(一四六九~八七)以来越前の領主朝倉敏景公が当社附近に射場を設けて弓術を練ったことから今も射場町或は殿町等の旧称があり、鎮座地を東射場口と称するのも、この故事によるものである。
朝倉氏は代々当社を崇敬すること厚く、長亨二年(一四八八)に当社附近の館跡に地福院を移し法泉寺と改めて、山号に御館の名を冠して、御館山法泉寺と称し、寺僧をして当社の社僧を兼ねさせたが、元亀年間(一五七〇~七三)の兵乱によって焼失破却した。
元禄年間(一六八八~一七〇四)に再建したが、天保二年(一八三一)一二月二○日に法泉寺炎上の事があって、遂に寺記什宝と共に当社に関する記録、寄進状等の古文書すべて焼けてなくなったので明確な證を得ることができない。
天保年間に愛宕社祭神火産霊大神と蛭子社祭神事代主大神を合祀したのは、火難を恐れてのことであろう。郷社八幡社の本殿で、酒井藩が建立し、歴代の藩主が改築や修補をされた極彩色の由緒の深い本殿を明治四○年に譲り受けて遷座した。
昭和初期の境内整備の状況を『敦賀郡神社誌』は次のように書いている。
「当社は神楽区より通ずる中郷村(敦賀駅にも至る幹道)方面に至る柳ヶ瀬街道に沿ひ、本殿は西面して鎮座し給ひ、社域の前庭を南方より流れ来る小川に架けられた石橋を渡り参道を進むと清冽な掘抜く井の清泉滾滾と湧出している。御手洗舎の許より鳥居を潜り右側の社務所を経て中門に入る。左右の廻廊に接続して拝殿がある。
昭和三年に田地を埋めて社域を拡張し、本殿を後方に遷し奉リて四囲に透塀を繞らし、新たに拝殿・渡廊・社務所を建て、また、植樹などをなしたので、大いに尊厳を高め風致を富ましめた』。と、昭和四年三月一一日村社に列し、同四月三日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。
  福井県神社誌(平成六年九月発行)
  福井県神社庁編集より抜粋
所在地 敦賀市津内町二丁目一の一二
祭神 天照皇大神 事代主大神 倉稲魂大神 火産霊大神
祭日 例大祭四月八日 子供御輿渡行
    歳旦祭一月二日 節分祭二月三日 新嘗祭十一月
境内地 一、四一五㎡
旧社格 指定村社
主要建物 本殿 鉄筋コンクリート 銅板葺 神明造
       拝殿 木造 銅板葺 流造

『敦賀郡神社誌』
村社  神明神社   敦賀郡敦賀町津内字東射場口
位置と概況 當區域は敦賀町の中央部の南端に當り、當町に於ける廣大の區にて近年に至り次第に耕田を埋め立て、家屋の建設増加しつゝある。昭和二年頃區を分割して四區とした、即ち敦賀驛附近を南津内とし、當社の東方に當る。元郡役所(今は農会事務所)通りを北津内とし、その東方舞崎附近を東津内とし、當社所在地附近は舊名を襲用したので通稱元津内又は本津内とも呼んでゐる。當區の北方は神楽區西方は大黒區及び通稱舊笙川木ノ芽川を隔てゝ直に三島區に、南方は南津内區及び木ノ芽川の土橋を渡り畷を隔てゝ中郷村長澤區に隣接してゐる。蓋舊時の津内村は枝村等多くありて、其區域廣大なりしが如く、故に今猶大區である。當區名は慶長三年豊臣秀吉の検地帳には、津内・みつや・等の名が見へてゐる。又氣比宮社記に津内村は気比社の左古津町の内に有ると見へてゐる。明治七年春射場を弓矢町と稱し、法泉寺を末吉町と改めたが、明治十四年三月弓矢町・末吉町を合併して津内村と改稱し、更に同二十四年四月町村制實施に當り敦賀町に編入したので、商・農業相半してゐる。當社は本區中央の南端に富りてあったが、明治の始め頃から其西南方へ人家益々増加し、今は寧ろ北方に偏するに至った。昭和五年その北方小川を隔てゝ、北津内區に通ずる新道路を開設した、この沿道は敦賀の繁栄に伴ひ、益々人家稠密の衢と化し、従って神社の繁榮も刮目して待つべきものがある。扨て當社は神楽區より通ずる中郷村(敦賀驛にも至る幹道)方面に至る柳ヶ瀬街道に沿ひ、本殿は西面して鎭座し給ひ、社域の前庭を南方より流れ来る小川に架せられた、石橋を渡り、直にコンクーリートの參道を進むと、清冽な掘抜井の清泉混々として湧出してゐる。御手洗舎の許より鳥居を潛つて進み、右側の社務所を経て中門に入る。其の左右の廻廊に接續して拝殿がある。昭和三年田地を埋めて社域七拡張し、本殿を後方に遷し奉りて、四圍に透塀を繞らし、新に拝殿・渡廊・社務所を建て、又植樹其他諸般の整備をなしたので、大に尊厳を高め、風致を富ましめた。殿後は皆耕田にて、南方透塀外には新たに設けた神庭がある。社域には松樹最も多く、又間々椎樹も混植されて幹圍三四尺より五六尺に達するものもある。
祭神 天照皇大神、倉稻魂大神、合祀火産霊大神、亊代主大神
由緒 按ずるに、當社は往古の由緒詳かでないが、口碑及び文献に徴すると、文明年間以來當國領主朝倉敏景等、當社附近に射場を設けて弓術を練つた。故に今も射場町或は殿町等の舊稱がある。當社鎮座地名を東射場口と稱するもこの所以である。然れば其頃より朝倉氏は代々當社を崇敬すること厚く、長享二年當社附近の館趾を與へて、他より地福院を移し改稱して法泉寺と號し、御館の山號を以つてしたので、御館山法泉寺とも稱し、この寺僧をして當社の社僧を兼ねしめた。然るに元龜年間の兵亂に社僧は信長の爲めに破却せられ、元禄年間今の地に再建したが、天保二年十二月二十日法泉寺炎上の事ありて、遂に寺記什寳と共に當社に関する記録、寄進状等の古文書総て灰燼に歸し、今は明確なる徴證に乏しいのである。天保年間愛宕社祭神火産霊大神と蛭子社祭神事代主大神を合祀したのは、蓋し法泉寺の火難に脅へたからであらう。明治八年十二月十日無格社に列せられた。本殿は同四十年當町郷社八幡神社の本殿であった、舊領主酒井藩の建立で、歴代の藩主が改築又は修補せられた、極彩色の由緒深き社殿を譲り受けて遷座し奉りたものである。昭和三年域内の拡張、基金の造成を爲し、又拜殿・渡廊・社務所等を新築し、社域の整備を爲した。
同四年三月十一日村社に昇格し、同年四月三日神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭 四月八日 祈年祭 三月二十一日 新嘗祭 十一月二十三日
本殿  〔〕
渡廊  〔〕
拜殿  〔〕

天台真盛宗御館山法泉寺

天台真盛宗御館山法泉寺は法泉寺町より移転したもので、俗に館之寺と称され、永禄元年(1558)6月5日付善妙寺領目録に「館之寺」とみえる。開基は恵心僧都源信と伝え、長徳2年996)の創立。初め砂流村にあって地福院と称したが文安(1444-49)頃より衰退し、長享2年(1488)朝倉氏が、帰依した真盛をとどめて堂舎を再建、寺領70石を寄せ、法泉寺と改号したと伝える。
『敦賀志』
法泉寺町〔二百五六十年前此処に今の法泉寺有し故の名也、一名今中ノ橋と云ハ、中ノ橋の南の末に出来し町故しか云ひしなるへし〕
御館山法泉寺ハ〔天台宗西教寺末〕恵心僧都の開基にして、寛印僧都住主たり、恵心僧都心願有て、氣比大神宮へ参籠の時、砂流村〔其比ハ此辺松原駅敦賀駅への街道なりけらし〕藤原定斉と云し者の家に掛錫せらる、定斉為に一宇を建立す、僧都手つから薬師如来の像を彫刻し、是を安置し、醫王山地福寺と号し、延暦寺三千坊の一院に加へ、寛印留て住主とし、帰洛せらると云、其折から宋人朱仁聡来りて松原の客館に在、僧都行で見えたる、
元亨釈書曰、
…、此守夜神の画幅法泉真禅両寺の間に存すと延暦寺の記録ニ在と云、焼失せしにや今ハなし、今西福寺に此画幅を蔵すと伝ふれとも、其実ハ明画にして宋画にあらず、当寺第一の宝物慈恵僧正の像ハ、寛印、恵心僧都より授けられし物と云、其後廿一世を過、久安の比より次第に廃頽せしを、長亨二年朝倉敏景、帰依僧真盛上人を留て堂舎を再建し、寺領七拾石をよせらると云、寺号を法泉寺と改め、且砂流より今中橋に移れる等の事ハいつの頃にや、元亀の兵火に記録焼失して知かたし、今の寺地ハ天筒城将朝倉太郎左衛門教景入道宗滴の館舎の跡を賜りて再建せしより、山号を御館山と改めたりとそ、此寺の四北殿町並御影堂前南側〔長賢寺より四五六家〕をかけて法泉寺町に属せるハ、一円宗滴入道の館の跡ならし、殿町の名も宗滴によれる名なるへし、
長賢寺〔東本願寺末〕・妙因寺〔経宗嶋寺町本勝寺末〕

天台真盛宗法石寺


真宗大谷派唯願寺


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


津内町の主な歴史記録

『敦賀志』
津内村〔小村・宮内村・川向村・三ツ屋村〕
津内高千百四十七石二斗七升の田地有て、定れる村里なし、津の内の農商打交りて支配せり、もと津内の名目ハ、津の内一円を云る也、太平記ニ、義貞朝臣敦賀津に着賜ヘハ、氣比の弥三郎太夫三百余騎にて御迎に参し、 東宮・ 一宮・惣大将父子兄弟を、先金ケ崎の城へ入奉り、自余の諸軍を津の在家に宿を点し〔是津内也〕長途の窮屈を相助く云々、翌年三月落城の刻、氣比宮回録の記に、津内触穢云々、其後文明三年、朝倉家の郡司前波七郎右衛門より、川船河野屋両坐への下知書に、他浦并津内の岩云々、天正八年武藤助十郎〔助十郎ハ宗右衛門か子也、信長記ニ、敦賀の武藤弥平兵衛摂州付城に在けるか、七月三日に病死のよし注進有けれハ、信長公殊の外惜ませ給ひ、跡職全不可有相違旨、子息助十郎へ御朱印を被成下云々〕より河野屋坐への下知書にも、彼等并津内之者〔右二通道川所蔵せり〕など有て、今の町を云り、天正以前 氣比宮御神領なりし時ハ、農・商・漁家雑居せり、小村宮内ハ慶長八年より御神領と成、川向・三ッ屋等ハ丁持町と名目かはれり、今ハ津内七組といひて、川向・御所辻子・嶋寺・御影堂前・射場・塔場・今屋敷組の名目有、農民町人打交りて田地を持り、又小津内・新津内の名目あれども津内に関係せず、寛永後開発の故也、

津内町の伝説


『越前若狭の伝説』
二つ墓  (津内町二丁目)
敦賀の土橋(つちはし)のところは、むかしさらし首をしたところであって、ここに墓が二つあり、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経と書いてあった。その字は一字一字が深く刻まれていて、一字の中へ豆が一升以上はいるといわれている。むかしある人が豆や米の商売で非常な金持ちになった。この人は、自分のために働いてくれた馬にもろくに食物を与えなかった。この人が死んだとき、身体に南無阿弥陀仏と名前を書いたところ、その後敦賀のある町に背にその通り書いてある馬が生れた。そこでその家の人は、主人の生れ変りだというので、その馬を引取って養い、この馬が死んでから、墓を土橋のところに二つ建てた。これが前記の墓で、今はこの墓は、湯山火葬場の山に移されてある。  (福井県の伝説)



津内町の小字一覧

津内  塔場口 西射場口 出田 ヒラキ 土橋下 杉ノ森 新田廻り戸 下鰐ケ渕 中鰐ケ渕 北中清水 上鰐ケ渕 小畑 藤右ヱ門 落合 内河原 カゴメ西 カゴメ東 北小畑 南中 清水 東小畑 西小畑 下河原 砂瀬 堅梨 瀬戸川 公文名 南海道 五反田長 高岸 石川 稲葉尻 岸ノ上 吃喰作 迂堂 岡山下 五反田古 岡山前 岡山北 迂堂前 二俣 三反田長 石ケ町 南石ケ町 北石ケ町 西石ケ町 堀田長 前田一丁田 西三反長 東三反長 糠塚上 五反田西 六町田西 六町田東 高畦 上関前 亀田 関前 四町田東 四町田西 糠塚下 三反長 上フケ 六牧田 石橋 フケ森 中フケ 中沖田上 アザエモン 三町田西 三町田東 二町田 西深川 深川 馬正面 院田 南町田 北深川 名一 中島上 深川中 深川上 今若 子ギ田 中沖田下 下フケ 銀田 上五反田 西大田 上三反田 ガラ田 湯口 深川下 中島中 中島下 五反田 下三反田 下五反田 土橋上 深川尾 樋ノ詰 西穴田 東穴田 白銀 北下河原西 中下河原西 中下河原東 南下河原東 南国広 西御本城 東御本城 西草木田 東草木田 東山花 西山花 南墓ノ下 南舞崎 東野本 中野本 北野本 西野本 南野本 北国広 南高田 池ノ端 北下河原東 南長塚 東長塚 北長塚 南七反田 東七反田 西七反田 西長塚 東白米田 西白米田 六ケ渕 東射場口 下欠戸 上欠戸 於玉田 長江縄手 北高田 西高田 東高田 小ノ城 東厂田清水南 西厂田清水南 厂田清水 南横枕 石柳 舘出口 北横枕 古田 堂ノ前 西厂田清水北 東厂田清水北 爪割 舞崎下 舞崎本 端草畑 東杉森 爪割上 爪割下 角神土 西杉森 湯山西 湯山東 寺尾 湯山大谷 湯山北 小谷 北山腰 山腰 宮内 竹ノ花 土手 角神下 爪割大道西 下り松 鳥居前東 鳥居前西 地蔵橋 善妙寺腰 舘ノ腰 三丁町 長尾 池見 平火尾 御山腰 天筒山ノ内

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん

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