敦賀城
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福井県敦賀市結城町 福井県敦賀郡敦賀町結城 |
敦賀城の概要《敦賀城の概要》 敦賀城という場合、金ケ崎城を言うこともあるが、あちらは古い山城。ここで取り上げるのは、大谷吉継の敦賀城のことで、より後期の平城である。 県道33号より、運河(旧笙の川)に架かる、現在の庄橋。↑ 左先に見える建物が敦賀西小学校。その正門脇に案内碑がある。 敦賀城の跡
西小学校敷地を東隅中央とする、三の丸も敷地内と見れば、5、6丁四方くらいの広い区域が城、と言うかヤカタ群があった。現在は城らしき物は何も残ってはいない。敦賀町奉行所・代官所の跡 敦賀県庁の跡 天正十一(一五八三)年 蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり旧笙の川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同十七年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。三層の天守閣をもつこの城は現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものであった。慶長五(一六〇〇)関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は敗れて自刃した。元和元(一六一五)年の一国一城令によって城は破却された。 寛永元(一六二四)年、小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され同十一年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。そのため旧敦賀城の中心部に、藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)、町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付一名、町奉行二名、代官二名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたった。 明治四(一九七一)廃藩置県によって若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域とする敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。同六年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。同九年八月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると敦賀は滋賀県に属した。同十四年に旧敦賀県を管轄地成とする福井県が誕生するが、県庁が敦賀に戻るこどはなかった。その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局、明治四十二年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して、現在の敦賀西小学校に引き継がれ、今に至っている。 このように近世から近代にかけて敦賀の拠点であったこの地について、わたしたちは結成二〇周年を記念してここに顕彰いたします。市民の皆様にあっても歴史を活かしたまちづくりの礎として役立てて頂けますなら、望外の喜びでございます。 平成九年十月十一日 敦賀みなとライオンズクラブ 城の北堀と見られる閼伽川(赤川・長堀川)↓ 眞願寺境内の敦賀城跡の石碑と礎石↓ 西小学校や市立敦賀病院、法務局・裁判所などは、その跡地に建てられた。 笙ノ川(庄の川)は現流路の東方の運河と呼ばれている川であった(昭和3年移動)が、当城は庄橋の西にあった。東流して笙ノ川に流入する赤川を北堀として利用し、このため同川は古くは長堀川と称された。元和元年(1615)の一国一城令で破却された。 築城の時期は不明だが、天正11年(1583)頃蜂屋頼隆が羽柴秀吉より5万石を与えられ居城、同17年には大谷吉継が後を継いだ。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で東軍に属した吉継は戦死し、大谷氏の領地は没収された。同6年結城秀康が越前に入部、家臣清水丹後守を敦賀城代に任じた。慶長11年頃の越前国絵図には、三層の瓦葺の城郭がみえる。「疋田記」は同5年敦賀城の天守が焼失したとする。 元和2年破却されたのち一部は畠地となり地子を課せられたが、すでに慶長6年頃東堀を埋立て築屋敷ができていた。天和3年(1683)11月1日付国印頂戴ニ付永建寺願書写(永建寺文書)には「文禄之時代之御国守者大谷刑部少輔殿与申候、其時之御本丸と申ハ今之茶町之所ニ而御座候、唯今之御茶屋御座候所者二丸与申候、八幡より新田徳市村之堀迄者二之丸ニ而御座候」とあるが、「敦賀郡誌」はこれを誤りとする。跡地には三ノ丸・城屋敷の字名が残り、敦賀城表門は豪商打它家の門に(戦災で焼失)、中門は来迎寺の門に、また来迎寺客殿の障子(市指定文化財)も城の遺物と伝える。 『敦賀市史上』 敦賀城
朝倉氏時代の敦賀における軍事上の拠点は、市街地の北東に位置した金ケ崎城にあった。この城のある尾根に続いて、南方には天筒山城があった。元亀元年(一五七〇)、信長がこの金ヶ崎・天筒山両城を攻めたとき、みずからの陣所としたのが市街地の西にある花城山城であり、その後領主となった武藤氏もこの城を使ったといわれている。 武藤氏のあと敦賀郡を領した蜂屋頼隆は、花城山城を捨て、笙ノ川の西岸に平城を築き始めた。頼隆の敦賀支配は、すでに述べたようにわずか七年で終わり、また相次ぐ参陣のなかでどれほどできあかっていたものかは明らかではないが、つぎの領主大谷吉継のときには三重の天守を持つ城が完成していたものと思われる。慶長十年(一六〇五)ごろに作られた越前一国の絵図(松平文庫)には、三重の天守を持った敦賀城が、敦賀の町と松原とのあいだに描かわている。また、笙ノ川には、城と町とを結ぶ笙ノ橋が描かれている。 大谷吉継の跡越前一国を領した結城秀康は、敦賀城に家老クラスの清水孝正を入れ、慶長十七年の御家騒動のあとは、守衝のために瓦御門番が入った。しかしご元和元年(一六一五)、大坂夏の陣のあと出された一国一城令で、この敦賀城は破却の対象となり、翌二年その姿を消した。 破却後の跡地は、その中心部がのちの領主の御茶屋・町奉行所・代官所・米蔵などの敷地にあてられたが、城郭の大半は破壊され、南部は田地に、海岸とのあいだは、酒井氏のとき、茶町・池子町などが町立てされ町場化していった。 三層の天主は、この図で見る限りは、庄橋よりは北側の海近くにあったように、描かれているが、北掘が描かれていない。庄橋より北の北掘までの川沿いの地であろうか。 『敦賀郡誌』 敦賀城址 養和元年、平通盛が據りし敦賀城址は詳ならず、天正より蜂屋頼隆、壽で大谷吉継の居城たりし敦賀城址は、敦賀町の西部に當り笙川の西なる結城三島の大半を包み、眞願寺は城内の乾の隅に當り、寺の西と北とを流るゝ小川は城隍の遺れるなり。此川、三島の内舊名徳市三ノ丸の間より西へ、又北へ流れ、昔は長堀川と云ひしを、略して長川と云、今赤川と云ふは、その訛なりと云ふ。此川の東三丸より赤川まで、即城址なり。三の丸は城内の三ノ丸なりし處の、其名の遺れるにて、陣屋址の西、川に至る田圃を今に城屋敷と字す。
〔敦賀志稿に、赤川より内の田畠屋敷等、今猶御城屋敷と稱すとあり〕元和二年、松平忠直の時、敦賀城を破却して畠となし、地子を附せらる。三丸も同時の事なり〔其畠地子は小物成なり〕三島の内舊築屋敷と稱するは、慶長六七年頃、東堀を埋めたるなり。天和三年の永建寺書上に、茶町は本丸、御陣屋邊は二丸、八幡より新田徳市の境迄は、三丸なりとあり。茶町を本丸と云は誤ならん。敦賀城の遺物として、表門〔今打它氏の門〕中門〔来迎寺門〕及石の手水鉢〔打它氏蔵〕等を存す。〔来迎寺客殿の障子、眞願寺の礎一個も亦、其遺物と傳ふ〕/〔秀吉事記〕北國御動座之事/ …/〔疋田記〕 … 『敦賀郡誌』 町奉行所代官所陣屋址 敦賀町笙橋の西にありて、結城・三島に跨る。〔敦賀尋常高等小学校・區裁判所・及其南一帯の地〕町奉行代官兩役所は蓋京極氏時代より此に置く、福井領及幕府直轄時代も亦此處に置きしなるべし。明治六年六月、敦賀縣、廳舍新築の爲め此等の建物を収払へり。陣屋は慶長年間、結城秀康の建てし所なり。松平忠直の豊後に謫せられし時、少時此陣屋に滞留せり。陣屋はもと御茶屋と稱す、文化元年十月、御陣屋と稱せしむ。〔廿九日觸る、中川控帳〕 小濱侯、參勤入郎等の時、宿泊休憩所たり。敦賀縣を置かれし時、一時之を以て縣廰に充てたり。
敦賀城の主な歴史記録『敦賀郡誌』蜂屋頼隆 姓は源氏、兵庫頭、又出羽守と稱す、美濃人なり。初土岐氏に隷し、又斎藤氏に屬す。永禄七年、織田信長に降る。十一年秋、信長に近江に從ひ、命を受けて郡邑を撫綏す。又柴田勝家・佐々成政と共に日野城を攻む。姉川の戰に第三隊に列す。天正元年春、柴田勝家等と石山堅田塞を襲ひ、首二百餘級を獲たり。二年、奈良に赴き、黄熟香木を截するを監す。是秋、信長に從ひ、長島賀島口を攻め、七年十一月、命を受けて瀧川一益・丹羽長秀と共に荒木村重を捕ふ。十年六月豊臣秀吉に屬して敦賀五萬石を領す。十二年三月、金森長近と兵三千を率ゐ、内窪山城を守り、十五年夏、羽柴秀勝に從ひて日向の地を徇ふ。その終る所を詳にせず。野史
『敦賀郡誌』 大谷吉隆 本名は吉繼、豊後人、姓は平氏、〔或云高階氏又云源氏〕父を盛治と云ふ、大友宗麟に仕ふ。〔近江温故録には伊香郡片岡村小谷の出生とあり〕國を去て漂流す。時に吉繼。年甫十六、字を平馬と稱す。豊臣秀吉、姫路城に在る時石田三成に依て之に仕ふ。爲人才智聡頴、勤勞惓まず、能く秀吉の心を攪る。初食祿五十石を給はり、吉字を授けられて吉継と稱す。累に登庸せられて敦賀城主となり、五萬石を領す。天正十三年七月從五位下に叙せられ、刑部少輔に任ぜらる。吉繼、汎く衆を愛し、智にして勇なり。世人自ら賢人と稱す。秀吉厚く任用す。日夕座下に候し、能く邪正を辨ず。眼疾を患へ、加療すれども効なし、秀吉之を哀む。吉繼職を辭す。時人之を惜む。秀吉薨じて後、徳川家康と相親しむ。慶長四年正月、諸老奉行等、伊達政宗・福島正則・蜂須賀至鎮の私婚を責む、事家康に係る、引で群侯相黨して軋轢す。吉繼は猶家康と親眤す。宇喜多秀家家中騷亂の事あり。吉繼、家康の臣榊原康政と之が和媾を計る。家康、康政の他國の事に干するは利を貪る者なりと之を叱し國に歸らしむ。康政、事の由を吉繼に告げて関東に下る。吉繼之を聞いて亦耻ぢ、之より家康と稍疎し。尋いで敦賀に歸りて痾を養ふ。五年七月、吉繼、東征に從はんと垂井に次す。石田三成、之を佐和山に迎へて謀を告ぐ。吉繼義を重んじて之に與し、名を吉隆と改め、敦賀に歸りて北國を徇ふ。九月出でゝ関ヶ原に陣す。西軍小早川秀秋、意中詳ならず、松尾山に陣す。吉隆、之に備へて藤川臺に陣す。秀秋、遂に吉隆の陣を突く。吉隆病を以て轎に乗して軍を指揮す。大に怒りて曰く、無道の秀秋を首にせずは我恨散ぜずと、轎を飛ばして兵士を勵し相戦ふ。吉隆の屬平塚爲廣、進んで敵の側面を撃つ。秀秋の兵撃退せらるゝ事再度なリ。脇屋安治・朽木元綱等、亦東軍に應じて吉隆の背後を襲ふ。吉隆の兵多く死し、隊伍亂る。爲廣、吉隆に死期来れるを報じて戰死す。吉隆の臣湯浅五介も亦死期を報ず。吉隆即ち嚢中の金を出して衆に與へて去らしめ、五介を顧みて曰く、敵をして吾首を得せしむる勿れと、轎より半躯を出して首を刎ねしむ。時に年四十二。五介、羽織を以て其首を包み、水田泥中に埋匿し、敵陣を冐して死す。二子あり、吉胤〔或云吉勝〕頼繼、吉胤大學頭と稱す。頼繼木下氏、山城守と稱す。並に関原に従ひ、父と剖れて藤堂京極の兵と戰ふ。父死すと聞き、兄弟馳回のて遺轎を見て慟哭す。時に従者僅に二十餘人、亦成すべからざるを知らり、自殺せんとす。従者強ひて之を止めしを以て、敦賀に歸り、守備を謀る。應ずる者なし。遂に大阪に走り、豊臣秀頼に仕ふ。尋いで頼繼病死し、吉胤は元和元年天王寺に戰死す。野史
『敦賀郡誌』 結城 川崎の南に在り。十間町は萬治年間、始で町屋十軒建ちしより町名となれり。野瀨町は野瀬彦左衛門の借家なり。茶町繁昌の頃は此邊に娼家戯場ありしと云ふ。赤川は舊敦賀城の北堀の遺址なりとぞ。 敦賀區裁判所・敦賀病院・敦賀高等小学校・敦賀女學校あり。 眞願寺、真宗大谷派、東本願寺末、開基祐西は文亀三年、近江淺井郡増田村眞宗寺より分れ来りて、一宇を創立す、故に山號を益田山と號すと。舊地は鳥居辻子法善寺・了福寺の間なり、寛文五六年頃、今の地に移る。本尊阿彌陀如来は佛工春日の作、宗祖及聖徳太子七高僧の晝像は、狩野山樂の筆なりと傳ふ。廃寺、永林院、修験、三寶院下。町奉行所・代官所址は裁判所学校病院の地是なり。足軽長屋ありき。 中村幽甫拝領屋敷、二十四間四面。打它拜領屋敷、東西八間南北二十八間、共に眞願寺の東に在りき。
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『敦賀郡誌』 『敦賀市史』各巻 その他たくさん |
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