丹後の地名 越前版

越前

敦賀空襲
福井県敦賀市


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福井県敦賀市

福井県敦賀郡敦賀町

敦賀空襲の概要

昭和20年7月12日~13日

敦賀は火の海となった


元町の本勝寺境内の戦災慰霊碑。敦賀市長揮毫、裏面に犠牲者の名が刻まれている。
昭和20年(1945)7月12日の敦賀大空襲時の焼夷弾投下による死者109名、負傷し後日に亡くなった15名。7月30日の艦載機攻撃による死者15名。8月8日の模擬原爆による死者33名。投下された機雷爆発による死者14名。敦賀在住で福井空襲などの犠牲者氏名が刻まれている、という。
碑文に、
敦賀市は太平洋戦争末期の昭和二十年に三回にわたって米軍の空襲を受けました。即ち七月十二日午後十一時十二分から翌日午前二時までの約三時間B29爆撃機の焼夷弾によって四一一九戸が焼失、百数十人の犠牲者が出ました。續いて七月三十日午前十時十五分頃艦載機P47六機が来襲、機銃掃射や爆風により二十三人が犠牲となった。三回目は八月八日午前九時頃B29一機が飛来し、東洋紡績敦賀工場に爆弾を投下、動員生徒を含む三十三人の命を奪ったのであります。
この慰霊碑はこれら敦賀空襲を始めとし本市に縁故ある各地での戦災犠牲者の御霊を弔祭し、永遠の平和と郷土発展を祈願して建立したものであります。又この地は被災の中心地域であり、本勝寺の御厚意もあって御霊の安らかな眠りの場に選んだ次第です。尚建立に際し格別の御芳志を賜わった方々に甚深なる敬意と感謝の意を表する次第であります。
  昭和五十六年七月十二日
    敦賀戦災遺族会  会長・副会長・代表理事  ○○

気比神宮の東参道入口の石柱

その裏面に

気比神宮東参道の石柱の裏側に、敦賀空襲戦災者の名前が刻まれている。名前は154名であるといい、敦賀の3回の空襲全体の犠牲者名という。

《敦賀空襲の概要》
一般に、空襲とは、あるいは空爆とは、空中の航空機から目標に対して爆弾投下やミサイル発射、あるいは機銃掃射などを行うことである。現在の戦争には不可欠の攻撃手段となっている。
空襲といっても色々で、機雷の投下、空母艦載機による機銃掃射、戦略爆撃機による焼夷弾投下、原爆模擬弾投下、本物の原爆の投下が日本の都市に対して行われた。
戦争最中の殺し合いだからといって、何をしてもいいわけではなく、それなりのルールはある。軍人は殺人鬼ではなく、民間人を守護する騎士(さむらい)としてふるまわなければならない。武器を持たない民間人・非戦闘員への攻撃、殺傷は禁じられ、使用してはならない武器も決められている。
平和な町に無差別に爆弾など落すなどはしてはならない、もし間違ってそうしたことをすれば戦争犯罪となる…、ハズなのだが、それはあってないようなものとなっていった。国々、人々に法を守る気がなければ無いのと同じで、無法な残酷な人道に反する行為が大規模に行われる。
自分の被害ばかりを言い立てるのも気が引ける、ひとの手の汚れを言う前に、自分の手は汚れていないかを見ておかねばならない。
こちらから仕掛けた空襲を見よう…

上海空襲
1937(昭和12)8月28日上海南市の駅で避難のための列車を待っていた数百人の避難民の列に日本軍機が爆弾を落した。難民の多くが女性、子供であったという。日本側は中国兵がいたためと主張したが、現場に入った外国人ジャーナリストらによって、この主張は完全に否定された。このとき、有名な泣く幼児の写真が撮られ、世界中に流れ、日本軍の戦闘活動に対する国際的な批判を高めた。泣く幼児の写真を撮ったカメラマンの首には日本側から賞金が懸けられ、そのため当人は上海を脱出することになったという。

重慶空襲
1938年2月から1943年8月までの日本軍による空襲の被害は、死者11,889人、負傷者14,100人、焼失・破壊家屋2万余棟に上ったとされる。

真珠湾空襲
1941年(昭和16年)12月8日未明。宣戦布告のないままに攻撃した。

ゲルニカ空襲
お友達もやりました。1937年4月26日、ドイツはバスク国の小都市・ゲルニカを空爆した。町の徹底的な破壊による死傷者は1600人を超え、紛争の残虐で不当な行為をピカソが強く訴えた。
ワレラの行為はみなよく知られた写真や絵画になっている。ワレラの手には血糊がベットリと付いている。

そしてみんなでその両手を上げてバンザイバンザイ。百鬼夜行とはこのこと。凶悪殺人鬼までもワナワナと震え、逃げ出すぞ、「ヤベー、コイツら、狂っとる、コエーコエー」。(どこかの町のハナシである。)

普通の人間なら、痛い! 痛っ。愕然とせざるを得まい。

平和な町であったのか?
『敦賀市史』
空襲前夜の敦賀
アメリカ空軍は、我が国の航空機生産施設の徹底的破壊と首都東京の焦土化を主たる目的として本土空襲を闘始した。空襲は主に都市を対象とし、東京だけでなく地方の諸都市にも及んだ。こうしたアメリカ軍の都市攻撃の目的は、日本国民の戦意喪失と産業破壊とにあった。
 昭和十九年(一九四四)、北九州にB29の巨大な姿が現われるようになったが、同年七月アメリカ軍がサイパンを手中に収めて以降、日本本土がB29の爆撃圏内に入り、二十年になると、太平洋ベルト地帯の諸都市への空襲が始まった。
 そのころ、敦賀には京阪神の主要な都市が爆撃されるに及んで、軍の兵站部の基地が数多く移され、また、敦賀港では対岸の満州より本土攻撃に備えて、関東軍の武器弾薬・戦車・兵員などが大量に逆送され、軍用船が港内に溢れていた。こうした状況に対応して、昭和十九年から二十年にかけて、表137に挙げたごとく大阪陸軍糧支廠敦賀出張所・大阪陸軍被服支廠敦賀駐在所・大阪陸軍衛生材料支廠敦賀派出所・名古屋陸軍兵器補給廠敦賀港常駐班・陸軍燃料廠大阪出張所敦賀駐在所など軍関係の出張所・駐在所が相次いで設けられた。また、暁部隊、海軍港湾警備隊上田隊など陸海軍の二〇に余る部隊が駐屯あるいは派遣され、敦賀は軍事基地さながらの様相を呈していた。
 人びとは、老人・婦女子を問わず、竹やり訓練・防空壙掘り・港湾荷役・松根掘り・松根油作り・ヒマ栽培・慰問袋作り・金属回収などに、勤労奉仕隊として動員された。また、人手不足を補うためにアメリカ人俘虜約四百人が、大阪収容所から送られてきた華工約百人とともに就労していた。
 一方、県は、中小都市に対する度重なる空襲がみられるようになると、県下の主要都市の被害を最少限にとどめるため、福井・敦賀両市において一部家屋の強制疎開を命じた。敦賀では、鉄道と港湾施設周辺の民家と倉庫一四五楝が強制的にとり壊され、疎開させられた。このとき、明治十九年に建築され、長い間市民に親しまれた万象閣もとり壊された。このころから市民も近郊の農家へ荷物の疎開を始めた。
 戦火が激しくなり、多くの鋼鉄船が失われ、その補充と愉送力増強のために各地で大規模な森林伐採が始まるが、敦賀でも国有林であった「気比の松原」がその対象となり、その約半分にあたる三二町歩が木造船建造用として昭和十八年民間に払い下げられ、二〇〇〇本が伐採された。その跡地は、現在松原町・松葉町と松島町・櫛川の一部となっている。また航空機の燃料の不足を補うためにこの伐採された松の根が活用された。ちなみに、福井県は全国一の松根油増産優秀県であった。
 「決戦教育非常措置要項」に基づいて、昭和十九年には学徒を食糧増産・軍需生産業務などに「総動員」することになった。敦賀でも、県立敦賀高等女学校の生徒は国際航空機工場へ、県立敦賀商業学校の生徒は愛知県中島飛行機工場へ、県立敦賀中学校の生徒は愛知航空機工場へ、それぞれ動員された。また、地元近郊農村へは敦賀高女・敦賀中学学徒隊などが農繁援兵として動員された。
 昭和二十年七月始めに、本市上空で敦賀空襲を予告するビラがアメリカ軍機から散布された。しかし市街地ではビラを手にした人はいなかったようである。沓見方面では手にした人もあった。このビラによる空襲の予告のあと巷間には種々のデマが流れ、当局は流言撲滅に必死であった。しかし、空襲の近いことを察してか、当局も手回しよく、兵庫県方面から消防自動車の応接隊がすでに来敦していた『福井新聞』
 昭和二十年の春浅いころから、琵琶湖上空を北進し日本海へ抜けるコースをとるB29が幾機もみられた。敵状視察と戦略物資の海上輸送を阻止するための機雷投下がその目的であった。B29は、昭和二十年五月十九日から八月五日までのあいだに、前後五回にわたり、敦賀湾に機雷を敷設した。アメリカ側の史料によれば、投下された機雷の総数は三二九個で、そのうち磁気機雷二四四個、音響機雷五九個、低周波音響機雷一二個、磁気水圧複合機雷一四個であった。この敷設された機雷によって損傷をうけた船舶は、表138のように一七隻、三万一一三三トンに及んだ。そのうち四隻は沈没、四隻は大破破損で航行不能となり、九隻は小破損であった。なお、機雷による死者も一四名に上った。


市史は、坦々と、「平和な町であったとは言えません」と言っている。いつなんどき、平和な他国へキバを剥くかわからないような町であった。
敦賀市民が望んだことではないが、戦争の歯車が動き始めると、ダレにももうどうにも止められない。坂道を転げ落ちる岩のように、ノリタン、ノリタンである、地獄の釜のフタが開く。こうなってからではもう遅い。ノリタン線を越える前に必死に食い止めるより方法はない。

米軍は、こうした軍事拠点のありかを全部知っていて(上空からの偵察、地元出身の捕虜の尋問など)、それをツブシにやってくる。学校や寺院がネラわれたのは、そこが軍事基地となっていたからで、めくら投下しているわけではないようである。
民家と軍事拠点が入り交じっている、民家を焼くのが目的ではないが、敦賀はせいぜい1.5㎞四方くらいの小さな町だし、爆弾には目も頭もないし、誤爆もあるかも、罪もない市民の犠牲が避けられなくなる、と、米軍は空襲予告のビラをあらかじめ(6月頃という)投下している(全国的にまいたものと同じ物だろう)。
日本軍や政府は、そのようなものは拾うな、万一拾ったら届け出よ、そんな物は信じるな、デマだ、もし無届けで所持するなら懲役だと、市民の口を封じ、目を閉ざし、耳を押さえつけ、逃げるな、消せ、B29などは屁もない、タケヤリで堕とせる、アメリカの戦車も屁でもないものだ、タケヤリで戦車も串刺しにできる、ヤマトダマシイだ、市外へ疎開する者は敵前逃亡だ、と決めつけていた。ただし自らを守る応援の消防車の手配は進めていたのだそう。市民の命の危機が予告されているなかで、さすがにドアホでド恥知らずの軍部と政府らしい、今となれぱ、誤立派すぎて笑えてくる。(今もどこかの国のごとく似ていて、泣けてきそうである)
ビラには,このように書かれていた。
 日本國民に告ぐ
 あなたは自分の親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか。助けたければこのビラをよく讀んでください。数日の内に裏面の都市の内全部若しくは若干の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します。この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる爲に使ふ兵器を米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分りません。御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません。
 ですから裏に書いてある都市から避難して下さい。アメリカの敵はあなた方ではありません。あなたかたを戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵でアメリカの考へてゐる平和といふのはたゞ軍部の壓迫からあなた方を解放する事です。さうすればもっとよい新日本が出来上るんです。戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか、この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが少くともこの裏に書いてある都市の内必ず全部若くは若干は爆撃します。
「戦争を止める様な新指導者を樹てて平和を恢復したらどうですか、」
今もこの忠告は生きていそうに思える。軍拡だけが選択肢ではない。

全市全滅の敦賀大空襲(S20.7.12)

敦賀空襲も何度か行われていて、その様相も異なるが、単に敦賀空襲と言う場合は、特にこの夜の空襲を指していて、敦賀大空襲と、大をつけて呼ばれることが多い。
『敦賀市戦災復興史』
B29の焼夷弾攻撃
 昭和一九年七月、米軍は、サイパソを確保すると共に、マリアナ群島に、B29の基地を礎いて、一一月二四日の東京空襲を始めとして、我が本土に、猛烈な攻撃を開始し、大阪・名古屋・神戸・浜松等の主要都市は、次から次へと爆撃されたのであった。昭和二〇年にはいってからは、爆撃の戦略的効果を大ならしめる為か、主として、焼夷弾が使用されて、その攻撃目標は、大都市より、次第に中小都市に移動し、あたかも焼土戦術を採っているかに見えた。昭和二〇年七月一二日、吾が敦賀市も、遂に焼夷弾攻撃を受けたのであった。裏日本の都市では、最初のものであった。 「こんな小さな港町だから、やられぬだろう。」「やられるにしても、北陸地方には、金沢や高岡や福井がある、その次だろう。」と云うような、安易観が、市民の心の奥底にあっただけに、その衝撃は、意外に大きかったのである。
 当日は、朝から、絹糸のような雨が、絶え間なく、しとしとと降っていた。弱い西北西の風が、時折吹いていた。こんな天候であったから、疎開荷物の、搬出も、見合わせた向も多くあった。午後九時一九分、福井県警戒警報が発令された。これまで、何回となく、警報が発令されたが、何時も、敵機は、若狭湾又は、敦賀湾に機雷を投下して、何れかに脱去するのが常であった。当日も亦、″又来たか″と云った、軽い気持で、市民は警備についていたのであった。
 しかし決して油断はしていなかった。やがて、子供や老人が寝に就いて、間もない一一時一二分頃、東郷村井川方面で、異様な音響が起ると共に、同時にパッと明るくなって、何か燃えあがっだようであった。間もなく、天筒山の上空が明るくなり、次いで、金ケ崎、天筒山の山麓に、パーッ、パーッと火の手があがり、焼夷弾が雨の如くに落されて来た。松原・東洋紡績工場広場にあった高射砲陣地からは、一斉に火蓋が切られた。間もなく敦賀変電所(舞崎地籍)が攻撃されたのか、全市は停電して、暗闇となり、ラジオによる防空情報は聴取不能となった。市民は、日頃の訓練そのままに、防空壕に重要物資を搬入し、老人や子供を避難せしめて、必死になって、炸裂する焼夷弾、燃えあがる劫火と闘った。が然し、雨の如くに、投下される焼夷弾には、施す術も無く、逃避するより外に仕方がなかった。
 市民は、先づ、安全だと思われる、近くの広場や、防空壕に避難したのであったが、攻撃は、川東方面より逐次、市の中央部に及び、次第に拡大してくる火焔に追われて市民は、天筒山隧道や、気比神宮境内、市役所前の広場、笙の川堤防などへ、逃げ延びたのであった。天をも焦がす火の海、″親を呼び″″子を尋ねて"逃げ惑う、叫喚と混乱の怒濤さながら生地獄の如くであった。その時の情況は、到底つたない筆舌には、現わし尽されるものではない。
かくて、空襲は、翌一三日、午前二時頃まで、約三時間に亘って、波状的に、反覆して続けられ、大部分は、灰燼に帰した。
 罹災市民は、夜明けを待って、或いは、近接村の縁故者をたよって、或いは、残存した、学校や寺院、公会堂等に疎開したのであった。
 当日の概要は右のようであったが、今、B29の侵入経路について、「中部軍管区司令部発表」と「防空監視哨記録」「目撃者の談話」等を総合して見ると左のようになる。
 この夜、九時四〇分頃から、熊野灘より侵入したB29約百機は、(東海軍司令部より防空本部へ「紀伊水道方面へ向う敵大型編隊あり、警戒を要す」の情報あり)三波に分れ、その一部は、逐次、奈良・三重県境を北上して、琵琶湖の南側地区を経て、福井県に侵入、主力をもって、若狭湾に機雷を投下し、一部は、敦賀市を攻撃した。そのコースは、駄口上空を通過して、(愛発監視哨より敵機発見の情報あり)、道ノ口より、山麓に沿って、東に転じ、東郷村井川において、第一弾を投下した。(立石・大比田・山東監視哨より、一斉に敵機発見の情報あり)為に、成新小学校、新善光寺、高福寺並に民家七軒が焙焼した。次いで、深山寺(民家四戸全焼)、高野(民家一戸全焼)、田尻(松岸寺全焼)、等一帯に投弾し、東浦村に至り、田結(民家五軒全焼)、赤崎(赤崎小学校全焼、民家二戸全焼、一戸半焼)、 五幡(二戸全焼、一戸半焼)、上空で、西に旋廻して、福浦湾に面する磐城セメント工場に投弾して、天筒山上空より、本市に侵入したのであった。
 本市は、天筒山麓より攻撃を開始され、劫火は、入船・常盤・天満と逐次拡大し、遂に川東地区は、殆んど火の海と化し、更に、川中地区に及び、桜・御手洗・橘・大島・神楽・北津内と延焼し、晴明、三和銀行より、元朝市場を経て、大黒、高徳寺に至る線において、漸く、その暴威を防止することが出来たのであった。その被災面積は、約二一五、〇〇〇坪に亘り、本市街の枢要地域の八割を占め、焼失家屋数は、四、一一九戸(復興事務所調は四二七三戸)、罹災世帯は、五、〇五七世帯(市厚生課調は、四、〇九九世帯)、罹災人員は、一九、三〇〇人(市厚生課調は、一六、一五八人)、の多きに達し、そのうち、負傷者は、二〇一名(敦賀病院扱数)、死者は、一〇九名(罹災直後の調査は、一〇八名)であった。誠に、郷土有史以来、前古未曽有の大きな惨害であった。
 敦賀市が、日本海沿岸都市として、最初の攻撃目標となったのは、陸路、北陸と若狭の咽喉を扼し、海路、大陸への関門として、国防上重要地点にあったが為ではなかろうか。しかし、昭和一九年末より、京阪神の主要都市が爆撃されるに及んで、軍兵站部の基地が、数多く敦賀市に移動(第一表)して居り、又満洲より武器の逆輸送もあり、第一三六部隊や、其の他の部隊も駐留していて、さながら、軍事基地の如き観のあったのも、狙われた一つの原因であろう。猶、米軍の爆撃は、盲爆のように、宜伝されていたが、東郷村咸新国民学校、新善光寺、東浦村赤崎国民学校等、軍出先機関の駐在所が、確実に爆撃されている点等を見ると、あながち盲爆では、無かったようである。


オールシティー、オールファイア
敦賀最悪の日
12日深夜の敦賀大空襲は、日本海側の都市として最初のものであった。当時敦賀署幹部が、空襲下を命からがら避難し、県庁警察部に全市全滅の電話を入れたが、「県庁都市より先にやられただと」と、ネゴトは寝てから言えと冗談としか受け止めてくれなかったとか。
後醍醐さんや信長さんの時代なら全市全滅などはなかったが、アホの国家指導部に、相手がアメリカさんでは「最悪の日はあるもの」になった。町は地獄の戦場最前線となった。
敦賀の次の最悪の日は、地震・津波と原発であろうか。これはアメリカさんよりコワイ、「最悪の日はあるもの」と覚悟して備えるより手はない。
米軍による日本本土空襲は、太平洋側の大都市がほとんど焼野原となった6月中旬以降、地方都市に目標を移して、高射砲や迎撃機による反撃もないようなになっていたことから、4個航空団(B29、400機ほど)を駆使して地方都市を一夜に4つずつ、同時多発的に繰り返し空襲して、全国の市街地を焦土化する中小都市焼夷作戦で、夜間に低高度で進入して、ネライ定めて大量の焼夷弾を投下する戦術がとられるようになる。
敦賀市(当時3万1000人)は、爆撃目標とされた都市のなかで最も小規模市であったが、朝鮮・満州との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって瀬戸内海、太平洋側航路は閉ざされたなかで、日本海航路の重要性が高まっているとして「重要目標」にされていた。
2時間ほどの爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(あるいは4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失った。
かろうじて命拾いした敦賀市民は、こんなバラックを建てて暮らした。


日本海側の都市への焼夷弾空襲

日本空襲へ向かうB29(テニアン・S20)

福井空襲
1週間後の19日深夜の福井空襲は、快晴であったため、さらに壊滅的な被害となった。B-29 127機による81分間の集中的な爆撃で、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、865トンもの焼夷弾が落下された。市街地の損壊率は米軍の評価で84.8%と高く、この時期の地方都市爆撃では富山市、沼津市につぐもの。2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる1500人をこえた。
富山空襲
8月1日の午後10時頃、富山上空に爆撃機の編隊が現れた。空襲警報が発令されたが一発も投弾せずに通り過ぎ、警報も解除された(これは、長岡空襲へ向かう約130機であった)。0時半頃、再びB29の編隊が現れた。サイパン島・イスレー飛行場配備の「第73航空団」所属のB29、173機であった。
富山城址公園東南隅を目標中心点として、4500個余りの集束焼夷弾と7800個余りのナパーム焼夷爆弾、300個の集束ナパーム焼夷弾を投下。重さで、1300トンに及んだ。遺体は神通川原に何百と並べられ、河川敷は約1ヶ月間燃えに燃えたという。2700人以上の尊い命が失われ、約8000人が負傷。当時の富山市街地の99・5%が焼失した。
長岡空襲
8月1日の午後10時30分から翌2日の午前0時10分まで続き、1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の人命が失われた。925トンものE46集束焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払った。
長岡空襲で亡くなられた方々への慰霊と長岡の復興を願って翌年に開催された「長岡復興祭」が“長岡まつりの起源”であり、後に2・3日が「花火大会の日」とされ現在も受け継がれている。
秋田市土崎空襲 …

日本海側の都市へのB29による焼夷弾爆撃も、これらだけではない、降伏の決断が遅れれば、さらに多くの町々が焼き払われ、さらに多くの市民が犠牲となったことであろう。B29が100機以上もの大編隊を組んで、低空で一気に来るので、一夜ですべて正確に焼き払われる。焼夷弾とは火の付いたガソリンを飛行機からドシャ降りの雨のように撒くようなものである。防空ずきんやバケツリレーの消防力では、どうにかなったりするものではない、プロの火消しでも逃げるしかない。焼け跡には焼け残り柱の1本すらも残らない、すべてがきれいに灰になっているという。

7月30日の戦闘爆撃機6機による空襲

『敦賀市戦災復興史』
艦載機空襲
 七月三〇日、未だ燒爆の余燼の燻っている敦賀市に、再び、敵機が襲って来た。此の日も午前一〇時一五分頃、真夏の焼き付けるような炎天下に、何処からともなく、突如として、現われた敵の艦載機P47六機は、極度に、低空飛行して、敦賀駅、及び、東洋紡績工場附近、及び、松原・川崎海岸地帯、碇泊中の船舶等に、機銃掃射を浴せ、小型爆弾を投下して、約三〇分の後、南方に去った。このため、尊い一五名(男一二・女三)の人命を奪われ、港内碇泊中の日照丸や、蓬莱地籍沢崎造船所製材工場、その他三ヵ所に、火災が起った。しかし、これは、市民の奮闘によつて間もなく鎮火したが、このほか、市営上屋や、東洋紡績工場も破壊されたが、大したこともなく、一般民家は、爆風のため、障子やガラス戸が破壊される程度の損害であった。
七月三〇日艦上機空襲犠牲者

P47をみな艦載機と書いているが、P47は陸軍機で、艦載機ではない。陸上の滑走路が必要である。
もし艦載機ならP47(→)ではない。ダレがこの機体を判別したのかはわからないが、大型爆撃機以外の小さな戦闘機等を、市民の間では何でも艦載機と呼んでいたように思われる。
P47ならサイパン・テニアンか、たぶん硫黄島からきたのであろう。(陸上戦闘機の航続距離一杯であり、30分ほどしか攻撃には割けなかったと思われる。もっと長時間攻撃したければ、近海まで近寄れる空母艦上機に頼るほかない)硫黄島を飛び立つP51戦闘機→
この先輩機がP47やP38。
(空母の飛行甲板から飛び立つようなものは、艦上機と呼ぶ。艦載機というのはそうした空母以外の艦船から飛び立つものを呼び、水上機やカタパルトから射出されるような偵察機類を呼ぶ。ここでは厳密な軍事用語の意味で使われた語ではないよう)


8月8日のパンプキン爆弾

『敦賀市戦災復興史』
B29単機空襲
 八月八日
 午前九時頃、空襲警報が、底気味悪く鳴り響いた。市民は、愴惶として、防空壕に待避した。間もなく、B29が単機、我が上空に現われて、一旋回して、稍々低空したと見る間に、東洋紡績工場に爆弾を投下した。地響する大音響と共に、黒煙が蒙々と立ち昇った。B29は、そのまま南方に飛び去った。
 爆弾は、捲糸室に命中したのであった。そのため、同室は倒潰して火災を起し、隣接する紡糸室、及び、事務所の一部が、爆風のために破壊され、猶、屋根瓦が飛び、窓硝子が破損した。同所に、従業中であった工員一五名、及び動員学徒一六名(男五、女一一)引率教員二名が、尊い生命を奪われたことは、誠に痛惜に堪えぬことであった。
 八月八日 空襲における犠牲者

この8日午前9時ごろの爆弾は、3万feet(9100メートル)の高高空から昼間に目視で「化学工場」を標的として投下した原爆(長崎型プルトニューム原爆)の模擬弾(パンプキン爆弾・5トン爆弾)であったことが、のちに明らかとなった。
人類初の原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の爆風や放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として、テニアン島に置かれた米第509混成群団は、その実行部隊で、昭和20年7月20日から8月14日にかけて、44目標に模擬弾49発を投下した。そのうちの1発であった。なお、原爆模擬弾と判明したのは平成3(1991)年という。模擬弾にはTNT火薬が入っていて、実際に爆発するものであった。
本物の長崎原爆の投下は翌9日で、6日の広島原爆投下は2日前であった。原爆投下訓練というが、何かフに落ちない、何発落とす気でいたのであろう、どうも2発だけではなかった気配で、鳥肌が立ちそうそうなハナシになる。
7月26日に無条件降伏を求めたポツダム宣言が発表された。これを直ちに受諾していれば以降の原爆投下などの犠牲は避けられたわけで、長引かせても一方的に殺されるだけのこと何のトクにもならない。敦賀パンプキンの犠牲もなかったのであった。
敦賀パンブキンの死者は33人。学徒動員で働いていた敦賀中学校と敦賀高等女学校(いずれも現・敦賀高校)の生徒や教員も犠牲となった。15、16、17才の生徒、工員も若く、16~23才であった。厳しい報道管制で事実は報道されず、国民には知らされなかった。
舞鶴も投下されていて(7/29)、同じように動員学徒ら98名が亡くなったとされる。トラック一杯に死体の山だったと伝わる。(たわら)のような色と形をした爆弾だった。5トンもある俵型爆弾である。
もし日本政府が直ちに降伏の決断をしてれば、これも避けられた犠牲であった。また8/8以降のソ連の対日戦もなく、シベリア抑留も浮島丸もなかったであろう。

機雷封鎖

『敦賀市戦災復興史』
敦賀湾に機雷敷設
 B29は、昭和二〇年五月一九日から、八月五日までの間に、前後五回に互って、敦賀湾に、機雷を敷設した。このため、敦賀湾において、触雷した船舶は、一七隻、三一、一三三噸に及んだ。そのうち、四隻は沈没し、四隻は大破損で、航行不能となり、九隻は小破損であった。これがため、敦賀湾は、完全に封鎖された状態であった。後に、米軍より提供された資材によると、投下機雷総数は、三二九個で、その種類は、磁気機雷二四四個、音響機雷五九個、低周波音響機雷一二個、磁気水圧複合機雷一四個である。その敷設状況は、海運局の調査によると、第二図のようである。
『敦賀市史』
昭和二十年の春浅いころから、琵琶湖上空を北進し日本海へ抜けるコースをとるB29が幾機もみられた。敵状視察と戦略物資の海上輸送を阻止するための機雷投下がその目的であった。B29は、昭和二十年五月十九日から八月九日までのあいだに、前後五回にわたり、敦賀湾に機雷を敷設した。アメリカ側の史料によれば、投下された機雷の総数は三二九個で、そのうち磁気機雷二四四個、音響機雷五九個、低周波音響機雷一二個、磁気水圧複合機雷一四個であった。この敷設された機雷によって損傷をうけた船舶は、表Ⅲのように一七隻、三万一一三三トンに及んだ。そのうち四隻は沈没、四隻は大破損で航行不能となり、九隻は小破損であった。なお、機宙による死者も一四名に上った。
敦賀には掃海部隊がなかったよう、機雷による海軍関係の犠牲者はなく、陸軍の水上部隊員に死者があった。軍港舞鶴をはるかに上回る被害が出ている。
終戦後の触雷は8/17に900トンの船が1隻沈没している、しかも触雷で浮島丸5000トンクラスの船が沈没したことはない。

手記

『敦賀市戦災復興史』
敦賀の空襲された当時の追憶  藤本 重志
 昭和二十年七月十二日、暁方の敦賀の天候は、どんよりとして、暗雲に閉され、何となく、薄気味の悪い日であった。
 当時、大東亜戦争は、連戦連敗の報道しきりであった。日本内地各都市も、爆撃されて居る有様で、今にも、港湾都市で、軍需物資集散地として知られている、我が敦賀が爆撃されるのではないかと、戦々兢々、寝るときも、防空服装に身を固めてラジオ報道に耳を傾けていたので、其の晩も、幾度となく、敵機襲来の警報を耳にしたのであるが、まさか、其の日に襲撃されるとは、思って居なかったのである。
 午後十一時頃から、稍々雨模様になってきた。折しも、ラジオは、琵琶湖方面から、敦賀北陸方面に向って、敵機編隊来襲の警報を伝えた。それでも、尚、金沢富山方面の大都市爆撃の途次位にしか思っていなかった。又、防空監視所も、それ位にしか、観測していなかった様である。
 程なく、敦賀上空に差しかかった敵機は、天筒方面から、転回したかと思う間もなく、ドカンと、各所に火花が飛び、焼夷弾は、市内に雨霰の如く、投下されたのである。
 雲は、風を呼び、風は雲を伴い、それに焼煙も加わって、四海暗黒の中に、爆撃の閃光は空を覆い、焼夷弾による火焔は、市内各所に蜂起して、剰え、風雨すら加わる中に、敵機は執拗にも、幾度も都上を転回して、爆撃を繰り返した。
 市民は、焼煙弾雨の内に、布団をかむって、右往左往している内に、火災は、市内一面に燃え広がり、折角、持ち出した喞筒も放棄して、命からがら、逃げまどう有様で、敦賀市は、一瞬にして、修羅場と化したのであった。
 これより先、市民の内で、小数のものは、家財道具を、他に疎開したものもあったが、これも卑怯だと云って、頑張っていたものも少なくかった。僕達も、其の一人であった。
 万一に備えて、衣類を包んで置いた風呂敷包みや、行李を、雨にぬれ乍ら、敵機来襲と同時に、小川を隔てた、向うの畠地に運び出し、家族は、貧弱な、俄か作りの防空壕に、避難したのであった。
 防空壕と云っても、土面を二三尺程掘って坂囲いし、其の上に屋根をして、土を二三寸置いただけの貧弱さで、たよりになるものではない。それに、地下水が湧き出て、泥水が溜るので板を敷いて這入る仕末で、避難した家族は、蛭に吸われて困り乍らも、壕からは出ることは出来なかった。
 幸にも劫火は、拙宅の隣りの空地を距てた隣家までで、止まったので、拙宅は、類焼を免れたのであった。しかし、その時水を運ぶやら、延焼物を取除くやらで、敵弾雨飛の中で、必死の努力をしたことは、今、思い出しても、尚、戦慄を覚えるのである。
 後から調べて見ると、我が家の前の畠地に落ちた長さ三尺位の魚雷型の爆弾、及び隣りの警察署長官舎の前庭に投下された同型の爆弾が、地中にめり込んだ丈で、不発に終っているのを発見した。天運なる哉。不発のために、附近に被害もなく、我が家にも、被害を蒙らなかった訳で、今だに、神仏の加護のしからしめる所と、合掌して居る訳である。
 妻は、同日、福井方面に用達に行き、武生駅発午後九時の汽車で、帰途についたのであるが、途中、新保駅で空襲、車内に待避した儘、列車運転中止となり、夜明ともなって、徒歩で敦賀に舞いもどったのであるが、互に、存命を喜びあったのであった。
 敵機退散と同時に、いち早く、市役所に登庁せんものと、出発したが、最早市中は濛々として、猛火に包まれ、通路は、悉く閉塞せられて、行手をさえ切られている始末で、先ず、近傍の田保市長宅を訪れんと、駘けつけたが、家は「伽藍堂」で、猫の子一匹も居らぬ有様であった。止むなく、火焔の少い、笙の川筋の川縁を伝って、海岸に出て、漸く、市役所に辿り着いた。間もなく、市長や市吏員数名の顔が見えたが、何れも暗然として、溜息をつくばかりである。
 時を移さず、呼び出せる丈の、市会議員諸氏の参集を乞い、市長室で、臨時市会を開催したのであるが、其の時の市長は、顔面蒼白、身震いを交え、「あたら人命と、財宝を一瞬にして烏有に帰した事は残念である」と、男泣に、嗚咽する様は、居並ぶ人々を、唯々、暗然たらしめるばかりであった。其の時のシーンは、今も猶、深く胸に焼け付いて残っている。
 それから、非常炊出、罹災者の収容、救護物資の配給、其の他の手筈は、各市吏員に按分せられて、爾来、昼夜を徹して、罹災市民の救護に、全身を打ち込んだ。
 この悲惨なる災害の内にも、不幸中の幸とも云うべきことは
一、市街地の大半が、焼土と化したが、幸にも、笙の川以東の旧敦賀市街地と、既に合併された旧松原村の区域が、其の難をのがれ、同胞として、力強い罹災救助、乃至は復興に、懸命の努力を尽されたこと。
二、而も、我が敦賀市の戦災は、北陸最初の被害であり、各地からの同情は、衾然として集まり、被害当初から、救援物資が陸続として、自動車で搬下され、戦後物資不足の折柄乍ら当座の救護に事欠く様な事はなかったこと。
三、更に、天なる哉、幸なる哉、被害季節は、初夏の候とて、寒からず、暑からず、防寒防暑の非常救護に、手のかかる煩もなく、順調なる救護を、集めることが出来たこと。
四、尚、当日は、敦賀港の碇泊貨物船が、比較的多数であった為、其の船の蒸気炊事の応援を受けて、急速に多量の炊出救援が出来たこと。
などの点で、罹災市民の救護には、誠に好都合であったことは不幸中の幸と、感謝感激に堪えない処である。
 尚、その際、いち早く駈けっけた落合福井市長殿の見舞に、感謝を忘れ得ぬ次第であるが、其の時、私が「福井市も、この一週間が危険です」と御注意申上げた事が、見事的中して、丁度、一週間後の十九日に、福井市が戦災に見舞われたのが、何だか余りにも予感が当ったのが、不思議でならないのである。
 斯くて、罹災救助に、躍起になっていた矢先、同月三十日、白昼に、又々敵機編隊から、機銃掃射を受けて、敦賀市街全体が、猛射をあびせかけられ、港湾岸壁の倉庫の一部分が、小型爆弾の為に破壊された。
 此の時ばかりは、最早や、命がないものと覚悟せねばならぬ程恐怖した。それは、先の空襲で焼け残った市役所が爆撃されるものと思った計りでなく、其の附近の防空壕に避難して見ると、敵弾がブスブスと音を立て、地中に通り抜ける音が引きもきらず、屋根の薄い防空壕は、今にもつき抜けるだろうと思ったからである。
 此の時に際し、松原に駐する高射砲隊は、漸くにして、敵機一機を海上に撃墜したとの報に接したが、其の威力により直ちに、敵を退散せしめる様な力を発揮せしむる事も出来ず、而もかかる際に、我が邦の一機だに見せる訳ではなし、つくづく敗戦の憂目を感じた。民間防空においても、小供だましの様な貧弱さでは、物の用にも立ち得ず、その不甲斐なさに、あきれざるを得なかった。
 越えて、八月八日、更に、敵機二機は、悠々として、敦賀の空に飛来して、東洋紡績敦賀工場に爆弾を投下して、あたら、学生職域奉公者多数の生命を奪ったことは、愈々市民の不安を刈り立て、愁眉を開く暇もなく、遂に、終戦を迎えたのであった。(下略)    (筆者は当時市助役を勤めていた)
P47なら、12.7ミリ銃×4だろうから、これが低空まで降りて来て掃射すれば、血の雨・涙雨では済まない。子供だましのにわか作り壕に薄い土を被せただけの天蓋では、突き抜けるとか言ったものでなく、壕そのものがバラバラになって吹き飛んでしまうであろう。



タケヤリが国民の武器

当時の日本の制式武器
硫黄島戦、内地から送られて来た補給品を見たら雷管(起爆装置)と竹槍だけであった、とか。

兵隊でもロクな武器はなかった、ましてや一般国民にあろうはずもなく、これを持って沖縄民はバンザイ突撃をしたという。敵戦車など串刺しできるワケもなく、アッというまに全滅したという。
これはサイパン→
キャプションに、「地雷を抱いて米戦車に肉弾攻撃を仕掛けた日本兵だったが、目的かなわず撃退された」とある。
M4シャーマン戦車のよう。Mだから中型戦車で、ソ連のT34と似たサイズの戦車である。
左側のキャタピラが切れて、前面下部の装甲もないように見える、それらは吹き飛ばしたのだろう、肉弾攻撃は成功している。地雷では戦車本体を破壊することはムリで、半日の修理でまた前線に復帰することだろう。おかげで6名が折り重なって倒れた。骨はいまだに拾ってもらえない。何千年すれば拾ってもらえるのだろう。この国ではムリと見た方がいいのかも、この国は死んでいる。
隣組の訓練では、竹槍の根元に石や土を詰めると強く突き刺すことができると指導されたという。小学生もタケヤリ訓練だった。みながキチガイだったと当時の人は言う。今はどうなんだろう、チとはリコウな民に成長したのであろうかノ。それともさらにアホになったか、それともたいしてかわりなしか。
エイ、エイ、エイ、エ~~~イ、、エイ、エイ、エイ
これはもうアカンな、と慧眼なご婦人は思ったそう。
貴女たちに参政権はない、そんな国のために兵士まがいの猛訓練、アホくさ。
エイ、エイ、エイ、エ~~~イ、、エイ、エイ、エイ
今も、どこかで、そんな声がする。
人を殺すのではなく、人を救え。そうすれば自らも救われ、国も救われる。
人生の旬をとっくに過ぎた者が
エイ、エイ、エイ、エ~~~イ、、エイ、エイ、エイ
国が亡ぶ声である。
政府や軍の中枢、その宣伝隊は、中学二年生の知恵熱のレベルであった。中二でも、ヒックリカエル、B29はタケヤリで堕とせる、とか。チエある動物の思考とも思えない超超低レベルのハナシがある程度社会で力を持つというのは、今もそう変わらない。それを受け入れてしまう、神話と現実の区別もつかない精神の下地を残している社会であり、これでは、亡ぶより道はない。


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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