丹後の地名 越前版

越前

敦賀津・角鹿津・笥飯浦
福井県敦賀市


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福井県敦賀市

福井県敦賀郡敦賀町

敦賀津の概要




《敦賀津の概要》
現在の敦賀港の前身であるが、大陸と向き合う日本海側のほぼ中央にある天然の良港で、背後が琵琶湖水運で京畿に連絡する交通上の要衝に位置している。
津というから今の敦賀港がある所ではなく、笙の川の河口にあったと思われる。地形は当時とは相当に異なっていようから、ここだ、とは決めにくい。
今の旧笙の川の河口付近(漁港の感じ、小型船用の港)↓


都怒我阿羅斯等

JR敦賀駅を降りると、都怒我阿羅斯等像が迎えてくれる。
「日本書紀」垂仁天皇2年条に、崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)尊)のとき意富加羅(おほから)國の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が来着したとあり、敦賀は古くから大陸世界の門戸であった。
エンジンなどない時代は、海流に乗り、風に乗りして航海する。朝鮮半島東海岸からリマン海流、次いで対馬海流に乗れば、敦賀湾、小浜湾、舞鶴湾、宮津湾、丹後半島などへたどり着いたはず、人がやってくるのには特に加耶や新羅は都合がよい位置にある。誰か試して…

丹後の網野の浜で一日でこれだけも拾ったという。↑

日本海側は別に敦賀に限ることではなく、みなそうした大陸世界の門戸、渡来・移住の過去があってできたマチマチなのだろう。敦賀は特別にそれがよく記録に残されている代表例ということである。
『日本書紀』垂仁天皇(活目入彦五十狭茅尊)条
是歳(2年)、
一に云はく、御間城(みまき)天皇の世に、額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越國の笥飯(けひ)浦に泊れり。故、其處を號けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰はく、「何の國の人ぞ」といふ。對へた曰さく、「意富加羅(おほから)國の王の子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。傳に日本國に聖皇有すと聞りて、歸化(まうおもぶ)く。穴門(あなと)に到る時に、其の國に人有り。名は伊都都比古(いつつひこ)。臣に謂りて曰はく、『吾はの國の王なり。吾を除きて復二の王無。故、他處にな往にそ』といふ。然れども臣、究其の爲入を見るに、必ず王に非じといふことを知りぬ。即ち更還りぬ。道路を知らずして、嶋浦に留連ひつつ、北海より廻りて、出雲國を經て此間に至るれり」とまうす。是の時、天皇の崩りたまうに偶へり。便ち留まりて、活目(いくめ)天皇に仕へて三年に逮りぬ。天皇。都怒我阿羅斯等に問ひて曰はく。「汝の國に歸らむと欲ふや」とのたまふ。對へて諮さく、「甚望し」とまうす。天皇、阿羅斯等に詔せて曰はく、「汝、道に迷はずし必ず速く詣れらましかば、先皇に偶ひて仕へたてまつらまし。是を以て、汝が本國の名を改めて、追ひて御間城天皇の御名を負りて、便ち汝が國の名にせよ」とのたまふ。仍りて赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返しつかはす。故、其の國を號けて彌摩那(みまな)國と謂ふは、其れ是の縁なり。是に、阿羅斯等、給はれふ赤絹を以て、己が國の郡府に藏む。新羅人聞きて、兵を起して至りて、皆其の赤絹を奪ひつ。是二の國の相怨むる始なりといふ。
一に云はく、初め都怒我阿羅斯等、國に有りし時に、黄牛に田器を負せて、田舎に将往く。黄牛忽に失せぬ。則ち迹の壽に覓ぐ。跡、一郡家の中に留れり。時に、一の老夫有りて曰はく、「汝の所求むる牛は、此の郡家の中に入れり。然るに郡公等は曰はく、『牛の所負せたる物に由りて推れば、必ず殺し食はむと設けたるなり。若し其の主覓め至らば、物を以て償はまくのみ』といひて、即ち殺し食みてき。若し『牛の直は何物を得むと欲ふ』と問はば、財物をな望みそ。『便に郡内の祭ひまつる神を得むと欲ふ』と爾云へ」といふ。俄ありて郡公等到りて曰はく。「牛の直は何物を得むと欲ふ」ととふ。對ふること老父の教の如くにす。其の所祭る神は、是白き石ぞ。乃ち白き石を以て、牛の直に授てつ。因りて將て來て寢の中に置く。其の神石、美麗き童女と化りぬ。是に、阿羅斯等、大きに歡びて合せむとす。然るに阿羅斯等、他處に去る間に、童女忽に失せぬ。阿羅斯等、大きに驚きて、己が婦に問ひて曰はく、「童女、何處か去にし」といふ。對へて曰はく、「東の方に()にき」といふ。則と尋めて追ひ求ぐ。遂に遠く海に浮びて、日本國に入りぬ。求ぐ所の童女は、難波に詣りて、比賣語曾(ひめこそ)社の神と爲る。且は豐國の國前郡に至りて、復比賣語曾社の神と爲りぬ。並に二處に祭ひまつられたまふといふ。
記事はこの先に
任那人蘇那曷叱智(そなかしち)請さく、「國に歸りなむ」とまうす。蓋し先皇の世に來朝て未だ還らざるか。故、蘇那曷叱智に敦く賞す。仍りて赤絹一百匹を齎たせて任那の王に賜す。然して新羅人、道に遮へて奪ひつ。其の二の國の怨、始めて是の世に起る。
とあり、このあとに天日槍の話が続く。一人の人が来たといった話ではなく、長い時代の多くの人々の相次ぐ往来と定着の伝承をここにまとめたものと思われる。
都怒我阿羅斯等(于斯岐阿利叱智干岐)と、蘇那曷叱智や天日槍も同一のような扱いになっている。どこまで信用できるハナシかわからないが、一応検討してみよう。
意富加羅というのは、分脈から判断すれば、今の金海(釜山の西隣・洛東江の河口部)(日本では任那)(中国朝鮮文献では金官加羅、大伽耶、狗邪国、狗邪韓国、駕洛国、任那加羅)を言っている。狭く見れば金海、広く見れば加耶や新羅のあたり。
都怒我阿羅斯等は金海から穴門(長門)、出雲を経て敦賀へやってきた、長門や出雲は金海とは縁がないのか素通り。行ったり来たり、両地に足を置いて、敦賀や周辺、畿内もあるいは第二金海か第二加耶か。新羅との不仲はここに原因があるという。金海の王子というからも本当なら首露王の子孫かも。金海金氏の祖かも…
都怒我は角干(新羅の最高官位「舒弗邯(ソブルハン)」の別名に由来する説がある、国王の意味らしい。「あらしと」は、古代朝鮮語の「閼智(アルチ)」で、新羅・加耶における貴人への敬称、輝き光るキミ(日子)の意と見られている。今の地名でいえば、愛発(あらち)とか有道(ありじ)とかはこれでなかろうか。丹後加佐郡有道郷には式内社阿良須(あらす)神社がある、そうすればアラスも阿羅斯等、阿利叱智の転か。
蘇那曷叱知と于斯岐は同意、叱智、叱知と干岐はいずれも君主を示す語。
別に敦賀だけではない、能登羽咋郡の式内「久麻加布都阿羅加志彦神社」、能登郡の式内「加布都彦神社阿羅加志彦神社」、鳳至郡の式内「任那彦任那姫神社」など、いづれも任那加羅新羅の人々が、角額の兜をかぶり、北国に移住したと見られる。気比神社、気多神社(越中一宮)(但馬にもある、丹後にもあった)は彼らの祀った社であろう。
←敦賀市の市章
「周囲の円形は敦賀港を現わして地勢を物語り、中央の角は「都奴賀阿羅斯等」来朝に因んでその沿革を象徴しています」という。都怒我阿羅斯等の角鹿のツノを中心にしている。敦賀は渡来人のマチと正確に歴史認識されている様子である。

津守郷
今も津内町があるが、これは越前国敦賀郡津守郷の遺称と見られ、だいたい今の敦賀の中心市街地と見られる。津守は港湾管理者のことで、その司が津済(わたり)の賦を調したという、税金を取ったらしいが、いつのころに置かれたものかは不詳、もしかすると神功皇后の頃かも知れない。たびたび遣高句麗使とか対外交渉の任に就いている、敦賀の津守かはわからない。また海人部がいて水産海運に従事した、応神天皇の頃に置かれたという。
「古事記」応神天皇の段に「角鹿の蟹」を歌った歌謡がみえ、「日本書紀」武烈天皇即位前紀に角鹿の塩は天皇の食するところとなったとみえる。
「日本霊異記中巻」に聖武天皇の時、奈良の人楢磐島が大安寺の修多羅分銭三〇貫を借りてこの津で商品を購入して帰るとあり、敦賀の商港の名声は中央にも高かったことが知られる。
閻魔王の使の鬼召さるる人の賂を得て免す縁 第二十四
 楢磐嶋は、諾楽(なら)の左京の六条五坊の人なり。大安寺の西里に居住む。聖武天皇の世に、其の大安寺の修多羅分の銭三十貫を借りて、越前の都魯鹿(つるか)津に往きて交易ひ、之れを以ちて運び超えむとして船に載せ、家に来らむとする時に、…
このほか、天平勝宝7年(755)9月の越前国雑物収納帳(正倉院文書)に「敦賀津」、「万葉集」巻三の笠金村の歌の詞書に「角鹿津」と見える。

平安時代、北の玄関口として敦賀津も発展し、北国諸国の官物はここに集中し、塩津(滋賀県長浜市)から京へと輸送された。「延喜式」主税寮にも北陸道の物資が塩津から大津まで運漕されたことが記される。
越前國陸路。…自敦賀津鹽津駄賃。米一斗六廾。自鹽津大津船賃。石別米二升。…
こうした官物とともに荘園の年貢なども入津し、これらの荷物には関税が課せられた。治暦元年(1065)9月越中国の請によって、近江塩津・大津、同木津(滋賀県高島郡新旭町)、若狭気山津(若狭町)とともに敦賀津の津吏の勝載料の徴収を禁止した。近世の北前船の西回り航路ができるまでは、北国諸国の物資はこのルートであった。

鎌倉時代は当津通過の物資への通行税、桝米の徴収がなされた。乾元3年(0303)には気比桝米の名目で気比神宮の所得としている。徳治2年(1307)後宇多上皇は敦賀津桝米5ヵ年分を奈良西大寺四天王院・京都伏見醍醐寺・京都祇園社三方修造料に、延慶2年(1309)伏見上皇は叡山大講堂造営料に寄せているなど、寺社の修造の資に充てられた。敦賀津は気比神宮と関わりが深い。

高句麗使・渤海使と松原客館
6世紀後半から7世紀前半に高句麗使の渡来が、神亀4年(727)から渤海使が、越の国を表玄関として入貢した。
敦賀に松原客館を設け、さらに延暦23年(804)には能登客院を増設し、渤海の客人を迎えた。渤海使は35回の来朝のうち北陸ヘ16回至り、高級毛皮や人参・蜜などをもたらした。客館は松原駅にあり、松原駅館とも称した。松原客館
「延喜式」(雑式)では、この館は気比神宮司の検校するところであった。その後長徳元年(995)9月宋商朱仁聡一行が若狭より敦賀に至り、僧源信が京より下つて彼に会っている(元亨釈書)。康平3年(1060)7月には宋商林表らが敦賀津に参着したという。

櫛川の別宮神社↑。この辺りに客館があったのでは、と言われる

津の遊女
敦賀津も遊女がいて、「藤原隆信集」(平安・鎌倉期の歌人)に「つるかといふところにとまりしに、うかれめともあつまりて町うたひなとせしに」と詞書にみえる。
「太平記」巻一七(金崎船遊事付白魚人船事)は金ヶ崎城の恒良親王や新田義貞らの舟遊を記すが、「春宮御盃を傾させ給ける時、島寺の袖と云ける遊君御酌に立たりけるが、…」とある。
源平の争乱時には北国の備えとして敦賀は軍事上の要地となった。養和元年(1181)9月源義仲軍に敗れた平通盛は敦賀に退き敦賀城を守る(吾妻鏡)。
弘安年間(1278~88)蒙古襲来の時には、北陸・東山両道の兵は、この津を防備したという(太平記)。建武4年(1337)新田義貞は敦賀に落ち金ヶ崎城に拠る。北国の咽喉をおさえて日本海の海路を塞ぎ、足利方の糧道を絶つためであった。建武頃の敦賀津の区域は大辻子・島寺・唐仁橋から金ヶ辻子・庄町辺りであろうか、という。今の元町、相生町、結城町あたりになる。
室町時代には舟座があり、川舟・河野屋の二座に分れ、朝倉氏の保護を受けるとともに、朝倉氏へ公事を納入した。川舟座は若狭・丹後および越前の沿海、また近江に出て塩・四十物などの海産物の売買に、河野屋座は敦賀湾の東岸南条郡河野浦(現河野村)との間に運漕と塩・魚類の買付などに当たる特権が付与されていた。
文亀元年(1501)朝倉景冬は川舟座に対し、塩・四十物の公事銭を規定し、翌年朝倉貞景は川舟座中に江州商人への舟立てを禁じ、他国商人による自国舟座の支配を排除し、領国経済の維持・確立を図った。同3年、二代敦賀郡司朝倉教景は「当郡川舟向買之事、芳永如成敗、他国之者直に商買之事、堅令停止訖」と先代以来の川舟座保護策を踏襲した。天文3年(1534)座法が乱れ、川舟・河野屋両座間の紛争が起こり、朝倉氏の被官前波吉長は、入舟権は両座の特権としてこれを追認し、浮買権は川舟座の進退にゆだねた(同文書)。
天正元年(1573)朝倉氏は織田信長に滅ぼされ、武藤舜秀に敦賀の地が与えられた。同5年舜秀は川舟座に「川船商買之儀、従前々相定候書物披見候、如其筋目可商者也」と、中世以来の権益を追認。翌年丹生郡干飯(かれい)浦(現丹生郡越前町)のおうやが舟荷を積み没収され、同8年にも竹之越二郎左衛門尉が浮買をして同じく舟・生魚を両座に没収された。天正10年、三年前に父舜秀の跡を襲った康秀は、川舟家の一族三日市の越後屋に諸役を免除し、翌年領主となった蜂屋頼隆も越後屋に、同17年高嶋屋伝右衛門に同様の特権を与えた。蜂屋がとった舟座保護策のうち、同13年「従当郡出候条、先当津之舟ニ荷物積、其以後何方之舟ニも積可申候」と当津の舟座への荷物先荷権を付与したことが決定的意味をもち、当地の海運業界が飛躍的に発展する契機となった。遠隔地商業に従事する豪商は他藩の保護も受けており、高嶋屋伝右衛門は、天正19年金沢藩から「能・加・越中より敦賀へ相越米船共、いづれも高嶋屋へ米を上、可令裁許候」と藏宿に任ぜられ、のちには三日市町の金沢藩蔵屋敷の管理をも委任されている。大舟・倉庫・屋敷地・馬借などの運搬・保管の手段を十分に持合せない諸大名は、積極的に豪商を育成し、また彼らに依存せざるをえなかった。豪商には、川舟・越後屋・河野屋など従来の舟座出身者もあるが、高嶋屋・田中・打它の各氏のように他国出身者も多かった。彼らは近世に入って浜側に町立された浜町・船町に進出し、中世的座商人すなわち舟座と異なる「舟道」とよばれる専門の海運業者となり遠距離商業に従事した、という。
敦賀津の殷賑
蜂屋頼隆は花城(はなじり)の山城から出て、笙ノ川の西岸に平城を築くとともに、都市造りに着手した。この事業は天正17年に入部した大谷吉継に継承され、寛文期まで継続する。元和元年(1615)の一国一城令で敦賀城が破却され、従来の気比神宮の門前町、金ヶ崎城や敦賀城の城下町的性格は消えて、湊町一色の町柄となった。
敦賀町は敦賀湾に注ぐ西側の笙ノ川と東側の小屋川(児屋川)の両河川によって川中・川西・川東の三地域に分割される。
二河川に挟まれた川中は町の中心部にあたる。南端に気比神宮が鎮座し、浜側に島寺・唐仁橋・三日市・金ヶ辻子・庄町・西町・東町など中世以来の古い町があり、商店・魚市場・青物市場・日者座・馬借座などによって商業・流通機能をもたせた。この地域のさらに浜側には、天正7年から慶長10年(1605)にかけて西浜町・船町など新たに町立され、初期豪商とよばれた道川・田中・打它など舟頭が大舟と蔵屋敷をもち、日本海海運に活躍した。
小屋川の東を川東または川向と呼んだ。浜側には天正末年に、それまで川中の唐仁橋・御所辻子両町に住み河野屋座に属し、敦賀-河野浦間の荷物の回漕や漁業に従事していた舟人が移転させられ、川向御所辻子・川向唐仁橋の二つの漁師町を形成した。寛文10年(1670)には天満宮の裏側の芦原近くに遊戯町の新町などができ、各地の遊女が集められ芝居小屋も建てられた。また商舟より問屋蔵へ荷物を運搬する平持・丁持が津内村から集まり丁持(ちょもち)町を形成した。漁師・交通労務者・遊女の町として周辺部に位置した。
笙ノ川の西側は川西とよばれる。慶長5年の関ヶ原合戦後まもなく一部城割がなされたらしく、同6年越前に入部した結城秀康は、慶長年間に大名の入部や参勤の際に利用されるお茶屋を城内の南側に建立している。城の破却後に奉行所や代官所が北側に建てられた。寛永元年(1624)敦賀郡は小浜藩領に替わり、同11年京極氏に代わり酒井忠勝が入部するが、翌12年川西の浜側に茶町を立て、敦賀湊最大の移出品だった茶の取引の独占権を与えた。茶町は大繁盛をきたし、その南側の赤川沿いにまもなく飲食街の池子(いけす)町ができ、遊女も多く集まった。
次いで寛文2年には中世以来の重要な移入品である塩魚や干魚を取扱う四十物(あいもの)町が赤川南に立てらけれた。こうして川西は官庁街・商店街・飲食店街となった。
笙の川の両側に沿う町々が敦賀町の中枢的機能をもち、古くからある庄橋と下流に寛永12年に架けられた今橋が川中と川西を結んだ。
さらに都市計画は敦賀一帯の広域に及び、地域分業の形をとった。酒座・室座・鵜匠座は本来町方にしか認めず、江戸中期以降郷方に許可しても脇座とし、町方の本座の支配を受けた。漁業についても同様であった。海岸沿いの磯付の村々でも、西浦は本浦(漁村)とされ、さらに湾内の名子浦から浦底浦までを網浦および塩浦とし、外海に臨む立石・白木の両浦は釣浦とされた。東浦は塩浦のみとし、漁業への進出を許さず、村方的性格をもたされ、漁場は漁師町の利用するところであった。
町の両隣に位置する泉村と今浜村は舟揚げと網漁・魚の行商権を与えられ、町方と村方の中間的性格をもった。漁師町の両浜(猟浜、川向唐仁橋町と川向御所辻子町)は町内での魚の行商権をもった。漁猟座は大座と小座に分れ、大座は大舟を操り、鰈網・鯖釣など網漁・沖漁を行い、小座は小舟で湾内で磯見をしてアワビ・サザエを捕獲したり、スズキの夜突きや海鼠漁をするもので、大座に従属した。
近世初頭にすでに整然とした都市計画や広域行政、地域分業がなされ、町はその後大きく発展するはずであった。しかし寛永頃(1661~73)に開かれ寛文頃に整備された瀬戸内を通って大坂へ直行する西廻航路が定着すると、敦賀港は沈滞する。さらに鉄道輸送になり、いよいよ沈滞する。
寛文期が敦賀町の絶頂期であろうが、貞享-元禄(1684-1704)頃の敦賀港はまだ殷賑を極める状況で、「日本永代蔵」にも、
  越前の国敦賀の港は、毎日の入船判金一枚ならしの上米ありと云へり、淀の川舟の運上にかはらず、万事の問丸繁昌の所なり、殊更秋は立つゞく市の借屋目前の京の町、男まじりの女尋常に其形気北国の都ぞかし、旅芝居も爰に心かけ、巾着切も集れば(下略)
と記され、また「日本新永代蔵」には「敦賀は北国の長崎にて、春は更衣の末、秋は長月の始まで、諸国美産の万人此湊に人来り、銅・鉛・米・紅花・青苧・練子・いりこ・串貝・にしん・其外さまざまの商売問丸軒を並ぶる」とその繁栄を描写する。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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