丹後の地名 越前版

越前

浦底(うらそこ)
福井県敦賀市浦底


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県敦賀市浦底

福井県敦賀郡松原村浦底

浦底の概要




《浦底の概要》
敦賀原発のあるところ。古くは「底の浦」と書いて「そこのうら」ともいわれたらしい。敦賀半島北東部に位置する。東は蠑螺ヶ岳(さざえがたけ)の東北嶺にあたる。西には小湾を隔てて明神崎がある。この明神崎の東に水島がある。明神崎は小半島を形成しており、この半島を明神山ともいい、この呼称は浦底・色浜両地区が祀る鹿島大明神があることによると伝えられる。当地では島山ともいい、両地区の立会山となっている。この明神崎の付け根に猪ヶ池がある。周囲が110mほど、禁猟区で野鳥・水鳥の安息地となっている。
天正18年(1590)2月6日に、色浜・浦底両浦は敦賀湾対岸の赤崎の左衛門二郎に「島山・とちの木ひら弐ケ所」の利用権を毎年米3斗で認めており、両浦入会地の存在が知られる。文禄4年(1595)11月8日には両浦入会地について色浜惣中と浦底惣中との間で「島手両壱本ニ相たて」ること、どのようなことがあっても両浦として対処すること、「そてのあみ」は浦底から立て、もし新たに「島手万之事」を懸けられたら両浦として立てることの3か条を申し合わせている。慶長3年(1598)の浦底浦検地帳写によると、当浦の田屋敷3町5反余、分米51石5斗4升で、うち8反近くを色浜の5人が名請けしている。慶長国絵図では色浜浦の一部となっている。
近世の浦底浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年の家数18(高持9・無高8・寺1)・人数121、塩竈屋3・塩高73俵余、舟9、本島手銀7匁・新島手銀150匁・新山手銀73匁余。「雲浜鑑」に、数17(ほかに寺1)・人数102。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の戸数17。明治22年松原村の大字となる。
近代の浦底は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西55間・南北2町余、戸数17、人口は男73・女72、小船31。昭和42年一部が明神町となる。


《浦底の人口・世帯数》 66・26


《浦底の主な社寺など》
水島

浦底湾の入口の明神崎の南側に花崗岩の砂でできた美しい島がある。島というか砂嘴のように思われる。色浜・浦底両浦入会の二つの少し木が生えているだけ小島。南の島を上水島、北の島を下水島という。ともに周囲約300m。両島は繋がっているように見えるが、標高上水島の6m。島名は水が湧き出たことによるそうで、敦賀・浦底両湾の潮流が出合うところに海底に砂堆が成長し一部が海面に現れたものという。

猪ケ池(いのがいけ)
原子力館があるあたりらしいが、141県道からは見えないよう。東の敦賀湾とは砂州で隔てられていて、もとは潟湖であったかと見られている。周囲1100メートル。「敦賀志」に「此浦の浜を隔てゝいのが池と云いけ有、大蛇住とて村民大ニ恐怖す、近頃或人鉄砲にて鳥を取しか、俄ニ風雨大ニ起りて、殊の外迷惑せしとそ」と載せる。また、禁漁の掟を犯した猪之助は行方不明となり、村人が池の畔に墓を立てて霊を慰めたが、以来猪ヶ池とよぶようになったという伝説が残る。池畔にはモクゲンジが自生し、日本海側分布の南限、市天然記念物。


剣神社。境内に鹿島神社

『敦賀郡神社誌』
祭神 武甕槌命
由緒 按ずるに、當社は往昔より天王社と尊稱し、明治元年三月神社調査の際に、愛宕神社と登載せしも、同十七年十二月十八日劔神社と改稱した。惟ふに昔時は神佛習合の神社多く、殊に當社の如きは其の顕著なものであつて祭神は大梵天王・帝釈天王等の佛教の神名を用ひ、天地の二天王を奉祀したので、天地の鬼魂邪惡を退除さるゝ神であると、信じられてゐるのは、佛教即ち天竺では帝釈天は三十三神の主で大帝と稱せられ、又梵天は萬物造化の主で、圓滿具足大自在神と稱し、修験道では祈禱に用ふる幣束を梵天王(梵天に奏する意)と稱した處より、最初鹿島明神を祀り、幣束を御神體としたのを後世修驗者又は社僧が、其の神體を梵天王と呼び奉り、遂に之が神名になったのであらう。さもなくば神佛混淆時代に、佛教神の説に感化された結果であらうと思ふ。當社境内神社に鹿島神社が鎮座し給ふは、往昔の名残にて、劔神託と改稱さるゝ所以となってゐる。明治九年七月無格社に列せられた。
祭日 舊八月十五日 春祭 舊四月一日
神事及び行事 陰暦二月一日より同八日まで、區民は毎日夕方神社に參拜しで村内安全、家内息災延命の所願をなすのであるに、梵天と稱する所以も首肯される。
陰暦八月十四日の例祭前日には、宮角力を行ふ慣例がある。
參籠及び百度詣 病気其他所願の爲めに日を定めで、一週間又は三週間、家族又は親族の人が、本人に代りて本殿に參籠して祈願をする風習がある。又百度詣をなす者もあって、鳥居から拜殿までの區間で行ひ數取りには薄き木片を用ひるとのことである。
産屋と不淨屋 初産二十日次の産よりは十五日、不淨屋は別に建物がある。
戸数制限 この區も往昔より分家を許さず戸数は十五戸に制限してある。


法華宗本門流清流山妙泉寺

法華宗(本門流)、本尊十界大曼荼羅。明治14年の浦底浦地誌取調帳に「日蓮宗、西京妙蓮寺ノ末派ナリ、浦ノ南方ニアリ、永和元乙卯年、月日不詳、僧日敬之ヲ開基創立ス」と記され、「敦賀志」は「寺内ニ桜の樹有、大ニ囲枝葉繁茂して杜の如し、満花の頃ハ敦賀より船を回らし、空にしられぬ雪を賞歓す」と述べる。
境内には市内最大の笠塔婆群がある(完全なもの10数基)。在銘最古銘は応永8年(1401)で、応永6基、永享7基、嘉吉3基、文安2基、文明4基、明応・永正各1基の計24基、無銘を加えると30基を数える。文明10年(1478)の銘を有する基礎・塔身・笠を完備した石龕式笠塔婆もあるそうだが、本堂の正面側に大きな古そうな花崗岩塔婆がいくつか見えたが、桜に気をとられていて、しっかりとは見落としてしまった。
『敦賀郡誌』
妙泉寺、本門法華宗、京妙蓮寺末。初は禪宗にして善法寺と稱す。天授元年、疫病流行して村民大に苦む。時に日敬、京より下りて敦賀妙顕寺に在り、村民請して之を禱らしむるに驗ありて皆平癒す。因て村民、皆改宗して日敬に歸依す。即善法寺を改めて妙泉寺と稱し、日敬を開基とす。


《交通》


《産業》
原発3基がある。

浦底湾の一番奥に敦賀原発2基(軽水炉)と「ふげん」(転換炉)がある。ドシロートが見ても断層の巣のような所ではないか、向こうの山の手前麓が断層面で、左ズレ、それに引っ張られて敷地の地盤は大きくゆがみ、断層だらけ、破砕帯だらけ、ズタズタのボロボロ状態で、まともな土地は寸地ともない、2号機の炉心はその一つの断層の真上にあるという。本州島はこのあたりでポキッと折れ曲がっている、どんなに巨大な力が地層に蓄積されているか想像するだけでも身の毛もよだつ。

写真は「敦賀市史」より。下(南側)から1号機、2号機、ふげん、こんな近距離で並ぶ。
1号機は県道から100メートルくらいの位置にある、何か重大事故が発生すれば、この道も使えまい。何ともヤバイ話である、超楽天人のアホどもがワザワザ日本で最も危険な地を選んで原発を建てたようなものである。何も当地の原発だけでなく、日本中がそうしたことではあり、その縮図、好見本であろうか…

日本原電の敦賀原発
1号機は、沸騰水型軽水炉で、GE製、35.7万kW。1970年3月14日、大阪万博の開会式の日に営業運転を開始し、万博会場へ初送電したことでも知られ、若狭湾では最も古い炉であるが、2015年4月27日に廃炉が決まっている。
2号機は、加圧水型軽水炉で、三菱重工業製品、116万kW。1987年7月25日に運転開始していて、すでに35年を経ている。炉心直下の断層は活断層と専門家は分析しているが、そうならば廃炉は免れない。何とかそうならないように、原電は地層データー書き替えや「誤記」「記載漏れ」などしているそうで保安院はカンカン、アホな子供のような末期症状的、臨終的ウワゴトレベルの体質の劣悪さでは、3、4号機の建設予定など到底にムリ。今のアホな日本を象徴するような先行き真っ暗なハナシである。

日本原子力研究開発機構の転換炉「ふげん」
原発の奥にある。簡単に言えば、普通の軽水炉から出たプルトニウムを燃やそうという炉である、「もんじゅ」のように増殖は考えていない。プルトニウムという超危険な物質であるうえに、燃やせば、また死の灰が出る、たかが電気くらいのことで、やっかいな死の灰ばかりを作りつづけていいものか。普賢菩薩どころか、どうにも人間の浅い猿知恵では、将来に禍根を残さない方策が立てられない。昭和54年3月20日運転開始、平成15年3月29日に運転を終了し廃炉作業中。


《姓氏・人物》


浦底の主な歴史記録




浦底の伝説

当浦の西奥の明神崎に囲まれた小湾を底浦または浦壺といい、漁場であるが、時化の際は避難港になった。文久元年(1861)10月に大野丸の浮囲をしている。この船は越前大野藩の所有で、安政5年(1858)武蔵国羽田(羽田空港のあるところ)の稲荷新田船場で造船された洋式帆船で、長さ18間・幅4間・深さ3間あり、敦賀-北海道-樺太間を往復して諸物産の輸送にあたり、藩の殖産興業の一翼を担ったが、元治元年(1864)8月に根室沖で坐礁破砕したという。
『越前若狭の伝説』
大野丸   (浦底)
越前国大野藩は、安政五年(一八五八)大野丸と称する西洋船を造り、九月二十四日初めて敦賀に入港した。同船は北海渡航の準備を敦賀でしたので、その冬は敦賀で過し、翌年三月出帆した。冬の間の繋船場はこの浦底であった。
当区では鶏卵・鶏肉を食べることは厳禁であるのに、船員たちはこれを食べた。区民は怒って、神のたたりを説いて制止したが、船員は、船は神領の外であるといって、承知しなかった。すると数日を経ぬうちに、たいして風も吹かないのに、船体が風で動揺し、大綱が切れ、船は浅瀬におし上げられた。
村民はこれを神罰とした。船員も驚き、その大きい舟綢を網にて包み、これを当区の剣神社の鈴のお(緒)とし、なおいかり一個を奉納して、神に謝罪した。鈴のおは今も神前にかけてある。     (敦賀郡神社誌)
船員たちは陸へ上って、鉄砲で鳥や獣をとって食べた。当区では肉食を禁じているので、村人たちは「氏神様は肉食が嫌いですから、どうぞ肉食しないように。」と、再三注意したが、船員たちは、船は神領の外であるといって、聞きいれなかった。   (福井県の伝説)

いのが池    (浦底)
浦底の明神崎のつけ根のところに、周囲二キロにはすこし足りないが、木の葉一枚浮いてない清らかなま水の池がある。この池を浦の人たちは、底なしの池と呼んでいるが、一般にはいのが池の名で知られている。
今からおよそ六百五十年前、浦底の法華宗清流山妙泉寺にひとりの六部姿の男かやってきて、寺男にしてもらった。猪之(いの)助というこの男は、金が崎城の合戦で落武者になったもので、堅気でなかなかの仕事好きであった。猪之助はある日、底なしの池の近くのシイ谷で、赤い美しい魚をみつけた。浦の人はこの池の魚を食わないことになっていたが、猪之助はそれをとって食べてしまった。ところが猪之助は、急に気が変になり、池の水が飲みたくなって、池へ水を飲みにでかけ、そのまま姿を消したのである。浦総出でさがしたか、見つがらないので、池の主(ぬし)に取りつかれて、大蛇(じゃ)に身を変え、池に住むことになったのだと伝え、それから誰ということなく、この池を猪のが池と呼ぶことになった。杉津の岡崎山の西海岳の岩屋にいる大蛇は雌で、この猪のか池に住む雄の大蛇と、夫婦であるという。
昭和八年県水産では、いのが池を開発したらと、網を入れたが、全くの不漁で、そのことをいい出した責任者は、にわかに得体の知れぬ熱病の床につき、大蛇に追われるうわごとをいいつづけ、苦しみもだえて死んだので、部落では池の主のたたりであろうと、池の辺に八大竜王の石碑をたてて、ねんごろに供養した。最近この部落にできた原子力発電所でも、また池辺に立派なお堂を建てた。
なお、いのが池は、浦の雨ごいの池でもある。      (浅井善太郎)
むかしこの池の近くに猪之(いの)助という男が住んでいた。この池の金魚を捕えて食い、まもなくこの池に没して死んだ。村の人は魚のたたりであるとして、それ以来池の名をいのが池という。今池のかたわらにその墓がある。    (敦賀名所記)
いのが池に大じゃが住むといって、村民は大いに恐怖している。近ごろある人が鉄砲で鳥をとったら、にわかに風雨が起り、ことのほか迷惑した。   (敦賀志稿)
  註
「伝説の敦賀」にも浅井善太郎氏のとほぼ同文の記事が出ている。(杉原丈夫)




浦底の小字一覧

浦底  トチカ峰 上座古 中座古 下座古 上し城 浜宅地 藪越 立岩 南幸一谷 奥幸一谷 北幸一谷 山ノ神 横地 下横地 相ノ上 南釜谷元 塩浜 小田 釜谷元 上口ケ花 口ケ花 下口ケ花 長橋 カマサカ 口南谷 中南谷 奧南谷 北谷 上海ケ浦 下海ケ浦 上高牧 下高枚 イカマ 西浜田 西中田 西田 中西田 西奥田 山崎 トカ谷 芳ケ谷 東半田 坂ノ尻 東浜田 北伊元 中伊元 南伊元 明神 伊元地 水島 池元 イカマ山 ヨシケ尾 高牧山 鹿間谷山 下海ノ浦 孫兵衛山 南谷 上海浦山 カマ坂山 下口ケ鼻山 釜谷元山 中南谷山 深山 サゞイガ岳 後山 山神 立岩山 上城山 前山 中切古山 ビンジヨ 朽ケ崎 トチガ峰 南明神 丸山 シル谷


関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市

丹後・丹波
 市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2022 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved