丹後の地名 越前版

越前

獺河内(うそごうち)
福井県敦賀市獺河内


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福井県敦賀市獺河内

福井県敦賀郡東郷村獺河内

獺河内の概要




《獺河内の概要》
木ノ芽川上流域の谷合で東西は山地。集落の南北で複雑に交差する北陸自動車道と国道476号が通る。かつて旧北陸本線の新保駅があった。地名は、天正11年(1583)賤ケ岳の戦の落武者が近江柳ケ瀬を通り杉箸・池河内を経て、獺谷を下り木ノ芽川に着いた時、「獺」に魅せられて川を遡り、平地を求めてこの地に定住するようになったことに由来するという。その落武者の姓を鷹隼(高早)と称し、獺谷山浄光寺の祖先で、もと浅井長政の家臣と伝える(東郷村誌)。
ウソは獺でなく、ヨサなどと同じ意味を持つ地名ではなかろうか。
中世のウソガゝハチは、戦国期に見える地名で、「冷泉為広卿越後下向日記」延徳3年(1491)3月7日条に「ウソガゝハチ〈里〉」と見える。慶長国絵図では樫曲村491石余の一部。
近世の獺河内村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数19(高持17 ・ 無高1・寺1)、人数121、馬6。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数24(全戸農)・人数103、「傍ラ炭ヲ焼」く者もある。産物は桐実48石・柴9,030束・割本1万2,800貫・炭630俵・桑2,000貫・柿310貫。同22年東郷村の大字となる。
近代の獺河内は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北50間、戸数24、人口は男50・女68。明治期以降、米をはじめ薪・炭を町に運搬するのには苦労を要した。特に木ノ芽川流域の山から切り出す割木は、農間期に3尺に割って積んで乾燥させ、秋に収穫が一段落すると川に流し、樫曲大橋で拾い上げ大八車で町へ運搬した。大正6年川沿いの新道開発と同時に、槃木(割木)流しは大八車の運搬に切り替えられた。町に出るには小径を北上し木ノ芽道に至り、越坂の峠を越えて樫曲に出るのが一般的であった。明治26年北陸線が新設され大正5年新保駅設置。町への交通が容易となったのは同6年獺河内~樫曲間の木ノ芽川沿いの新道の開削以降である。このため明治43年には仙人谷の松林を売却し測量費に当てたりした。これによって樫曲以北の各村の大八車数は急増した(東郷村誌)という。


《獺河内の人口・世帯数》 48・20


《獺河内の主な社寺など》

八幡神社

氏神の八幡神社。旧称宇佐八幡社、字檀頭に鎮座、祭神は応神天皇。旧村社。
『敦賀郡神社誌』
村社   八幡神社 敦賀郡東郷村獺河内字檀頭
位置と概況 本區に、四境皆峻嶺にて、遠近数條の渓流相合して木ノ芽川となり、北陸鉄道線路に沿ひて笙ノ川に合流し、海に朝宗する。當區は鉄道開通前は、交通不便の地であつたが、大正五年當區に新保驛を設けられて、今は僅か二三町にて驛に至るを得るので、昔日に反し交通誠に至便となつた。陸路によれば、南西約二十町にて隣區樫曲に出で、深山寺を經て敦賀町に至るのである。往昔高早某なる人、越前地方に至らんとして道に迷ひ本區に入りて日暮れ、再び出づる能はず、遂に意を決して此地に居を占め、山林を開拓して田畑となし、其子孫繁榮して、戸口漸く増加したと云はれ、この高早某が道を失ひ彷徨したのは、獺に魅せられたと云ふので、獺河内と稱するに至つたとの説である。鎭守の八幡神社は、區の中央東端の山麓に座し、社域の入口正面に高さ二尺の石垣を築きこの中央に四級の石階を設けてある。これより平坦なる境内を進み、高さ二間の石垣に設けられたる十五級の石階を上れば、本殿は西面して鎮座し給ふ。背後は直に北陸鉄道にて、開通の際當時境内の樹木を伐採して敷設したので、老授古木の見るべきものがない。数年前更に社殿を前方へ奉遷したので、今は線路より約数間を隔つるに至つた。社域狹く随って樹木も亦多くない。唯七葉樹の幹圍九尺のもの一株が他樹より秀でたるに過ぎぬ。然るに近年敬神の念深く、神社の尊厳を高めんと欲し、新たに社號標・石鳥居・狛犬等を建設して、熱心に境内の整然を期してゐる。
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は往昔高早某が土地を開墾した時、宇佐八幡大神を勧請したので、宇佐八幡社又は宇佐大明神と稱へ来たとのことである。蓋高早某の此地に入りし頃は、斧鉞未だ山林に入らず、所謂魑魅魍魎の氣充ちて、之れに幻惑せしもの啻に高早某一人のみでなかったであらう。よりて義に富める某は、勇を鼓して断然行を止めて永住に決し、一挙に山林を伐採して、耕地を墾き、民を救はんと志し、更に平素尊崇し奉つた、八幡神社を勸請して、守護神と尊び此地の開拓を始めた所、御神徳眩耀し給ひて、スダマ(魑魅)も其影を沒し、人民安堵して業に就きしものと云ふ。高早某の年代閲歴等は更に考證に待つ。明治十一年八月二日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月三日(元舊四月三日) 祈年祭 三月十六日 新嘗祭十一月二十九日
例祭と人身餅 古来人身供犠の人身御供なるものがあった。之れの轉化したものではなく恐らく粂餅(シトギ)の口音より附會した名稱ではあるまいかと思ふ。粢(白淅の略)は白米の粉にて作る長卵形の餅で古來神饌の一種である。五月三日例祭の前日、區内各戸より人身米(粢米か)と稱して、白米二合宛を集め、宮番(一年交替にて順番)と區使丁とによって四個の鏡餅を作り、之を人身餅と呼び、神前に供へた後、一個を七つに切りて、各戸一個宛を分配する、舊来は二十四戸なりしも、驛を設けられてより、官舎増加の爲め今は二十八戸である。
放生曾 舊八月十五日境内に於で盆踊をなす、舊來は老若擧って踊り、又變裝などをなす者もあって、親和に郷土色を表現して踊ったけれども、近時漸く衰微して行き、又何の特色もないとのことである。近頃の踊り歌の一節に
 『踊るもはねるも今晩かぎり明日から田圃の稗とりに』
本殿  …


浄土真宗本願寺派浄光寺

浄光寺は明暦年間に彦右衛門が道場を創建、維新ののちに寺号が許可されたが、明治11年類焼により本堂を焼失。

真宗大谷派了雲寺

了雲寺は明暦2年道可の開基、延宝5年寺号許可。

『敦賀志』
獺河内村〔池河内の北に在〕
氏神宇佐八幡社、了雲寺〔東本願寺末〕・道場彦右衛門〔西本願寺末〕此村も炭薪を市に鬻、
『敦賀郡誌』
獺河内  池河内の北に在り。 東郷信号所あり。 氏神、八幡神社、村社。 了雲寺、眞宗大谷派、東本願寺末、明暦二年道可開基、延賓五年七月十五日寺號許可。 淨光寺、真宗本願寺派、西本願寺末、創立は明暦年中ならんと稱す。維新の後寺號許可。〔初道場彦右衛門〕明治十一年五月六日、火災に罹る。


《交通》
旧新保駅跡地

「記念碑 新保駅跡」と書かれた石碑が、国道沿いにある。背後の高架橋は北陸自動車道。近くには、こんな案内板も

新保駅は当初、信号所として、設けられ、その後、駅として昇格しました。駅名は、3.5キロ奥の幕末の水戸烈士ゆかりの地であり鉱泉の湧く「新保」が駅名として採用されました。
約4キロ離れた敦賀湾の東浦海岸に住む人々もこの駅の利用者でした。駅跡は、北陸自動車道に変わりましたが、かつての駅の壁面が自動車道の一部に残されています。また、駅のあった場所には記念碑も建てられています。
この急峠で、川をまたぐ難路を蒸気機関車で越えた、たいらなところなどない場所である。ここでスイッチバックし、貨物も取り扱ったという。


《産業》


《姓氏・人物》


獺河内の主な歴史記録




獺河内の伝説




獺河内の小字一覧

獺河内  五反田 坂ノ尻 地原 大谷口 河原 堂ノ上 檀頭 留尻 向山 橋向 上シ 窪瀬 滝ケ渕 竈上 古矢 古矢上シ 荒堀 イサラキ 乳母子谷 広田 西ノ谷 棚田 向イサラギ 獺谷口 獺谷 小杉尾 西コ谷口 口ナシ ガケ 寺尾 二度ケ谷道ノ上 二度谷 広畑 ツサ田 若林 兵ケ谷口 〆田向 〆田 〆田川端 ドンド ーノ瀬 一ノ瀬向 ガケ 西小谷山 ウバコ谷山 蛇谷 土谷 安林 向山手 牛落シ ヲジガ谷 シヲリ 一ノ谷 滝ケ谷 ビリ谷 岩ケ洞 高平 茶マ茶 フサガヲ 大サガヲ 松タラ 仙人谷 昇川 細洞 獅々谷 千谷 大田ケ谷 仙上洞 大平 クルビ谷 新又 柳谷 又ケ谷 長洞 小宮谷 ウジロ 滝ケ渕 古屋 野々谷 獺谷山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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