丹後の地名 越前版

越前

山(やま)
福井県敦賀市山


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福井県敦賀市山

福井県敦賀郡粟野村山

山の概要




《山の概要》
市街地の南西部。野坂山塊の北東麓、黒河川の両岸の山懐。黒河(くろこ)川の平野部への出口に位置し、黒河川扇状地の扇頂部をなす。慶長国絵図では粟生野郷1,911石余の一部。
近世の山村。江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。村内の小村におしのへ・雨(尼)谷があった。
黒河山の荒谷という小谷で勝山藩による銀山開発の動きがあり、元治元年(1864)から試掘も行われたが、採鉱までには至らなかった。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数66・人口286、牛10・馬15、産物は莚3,000束・菜種6石。同22年粟野村の大字となった。
近代の山は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西5町・南北12町、戸数66、人口は男183 ・ 女194。


《山の人口・世帯数》 438・125


《山の主な社寺など》

稲荷神社

稲荷神社。境内社に六社神社・神明社がある。古くは社田神供料90歩・修補田300歩・祭祀田520歩があったが慶長の検地で没収された。元禄13年酒井忠純がこれを復旧したという。明治9年村社となる。鎌倉期から700年にわたって伝承されるという人身御供にちなむ初午祭りが行われる。
『敦賀郡神社誌』
村社  稻荷神社  敦賀郡粟野村山區字宮ノ脇
位置と概況 本區は粟野村最南端に位し、おしのべ・雨谷の朶村をも併稱し、東西南の三面は重嶺攅峰相連り、文字通りの山間部で彼の有名な黒河官山の麓に屬し、北は開けて、十七町にて御名區に隣する。土地高所なれば水田・人家等段々になり、遙に敦賀灣を望みて宛がら展望臺の感がある。清冽急湍なる黒河川、區内を貫流し、八十餘戸の人家は、點々各所に散在し、氏神稻荷神社は、本區の中央に鎭り座す。先づ黒河川の橋を渡って進めば、道路に面して高き鳥居が見える。制札の許より鳥居を潜り、廣き参道四十五間を進み、別當の住宅を經て小さき石橋を渡り初めで境内に入る。山麓には樫・椎・欅の老幹大木林立して碧空を蓋ひ、一見千古の古社たるを想はしめ神威顯揚神徳炫燿として仰がれ、全く神代り神秘を包める如き、凄まじい森厳さを感ずる。ここより更に群青の常緑樹間を縫つて畏みつゝ境内を三分界して設けられた、石垣二箇所の石級数階宛を上ると、床をコンクリート造にした新營の拜殿に至る。これを經て僅か進むと、四圍板玉垣を繞らした内裡には、小石を敷き詰めて神域となし、こゝに本殿は拜所と共に西面して鎮座し給ふ。本殿の區域外約二十餘間を隔てた南方に、末社数社がある。此邊に至る参道附近は、一帶に苔莚蒼々として敷かれ、且つ廣き地域に簡古の色を彩る密林中には、黒河川の水音がかすかに響いて四境寂寥たヾ無限に魅惑される幽閑の一境地である。
祭神 倉稲魂神、相殿 大山祗命
由緒 按ずるに、當社は往古より稲荷大明神と尊稱し奉り、社田神供料九十歩、修補田三百歩、祭禮田五百二十歩ありしを、慶長檢地の際に沒收せられたが、元祿十三年春、領主酒井忠純これを復舊せられたと云ふ。明治九年七月十七日村社に列せられ、明治四十四年五月神饌幣帛料供進の神礼に指定せられた。
祭日 例祭 五月十二日 祈年祭 三月二十六日 新嘗祭 十一月二十四日
特殊神事 舊二月初午當日御供祭と稱し、往昔より特殊の神亊が行はれ、これが人身御供の遺習であるといはれてゐる。その大要は次の如くである。往時より氏子中に二十人衆と云へる宮座二十戸あり、この人々が神社一切の亊を處理し祭典にも奉仕する。この人の中で壯者八名を御供舁と呼び、祭典前夜より社務所(別當の家)に参籠潔齋し、當日黎明の頃、黒河川にて水垢離をなし(是を垢離掻と云ふ、昔時三方郡山東村佐田濱にてなす)、面して後祭典諸般の辨備をする。各自の服装は白足袋に黒脚絆を着し、白緒の草履を穿つ、又金櫃と稱して、檜製の大なる曲物櫃に、昆布の長き二寸幅一寸位のものを圓く巻きたるもの二個と、蕨の長さ一寸餘のもの数十本を束ねたもの二把と、神酒及び木椀に赤蒸を廻し盛にして折敷に載せたものとを入れ、これに白麻幕を張り廻らし、四人が舁き、二人は道開きと稱して先導に、他の二人は後押と呼んで後方に居る。然して金櫃の側の幕の裡には縮緬の打掛を着けた、人身御供と稱する八・九歳の小女一人と、自己の一張羅の睛衣を着けた腰元と稱する其の乙女の母に相當する年齢の婦女一人が附添ひ、午前四時頃、社務所より神社に到り、神前に参進し櫃内の諸品を獻供し、人身御供の乙女と共に、一同拝禮して退出する厳かな行事である。この式で主要の行事は了ったのであるが、同日午前八時頃他に赤蒸(赤飯の類)を作り、之れに人身御供の祭典に獻供した赤蒸を混和し、小さき握飯多数を作り、大なる飯櫃二個に入れ、各々荒莚にて蔽ひ、これを荒繩にてその中央を括り御供舁を奉仕せる者二名宛が、拝殿に舁き込みで参拝の群集に投與するので、群集はこの握飯を我勝ちに先を爭ひ貰ひ受けるのである。
放生會 舊八月十五日は放仕會と稱して、當社境内に神燈を點じ、花鉾を立てゝ夕刻から當區内の青年等が中心となり、花鉾を中央に圓陣を作って盆踊を行ふのである。
百度詣 區内の人々が個人的折願に行ふのであっで、その爲めに神杜では便宜上敷取の竹片を準備してある。この百度を詣る起點は、境内地の神橋から拜所までゞある。
境内神社
六社神社 祭神 九頭竜大神 伊奘冊命 大山咋命
六社神社 祭神 水波賣命 大物主命 軻偶突智命
神明社 祭神 天照皇大神
神明社 祭神 豐受大神

名所と傳説地 「鬼ヶ瀧」雨谷より入り黒河川の上流で口無谷に在り、俗にその附近を「雨夕ヽキ」と呼ぶ。高さ五丈餘に及び、その邊りは常に霧立ちこめ、奇松巌角に枝を恣にし、すさまじい景勝の一境である。こゝには一つの傳説が俗間に傳承されてゐる。それによると、往古この谷に大蛇棲息し、村人等はこれを怖れでゐたが、或年の正月山法師來り、その由を聞きて、これを封ずるべく藁で大蛇の大模形を作り、祈祷をなしたるに果して大蛇出現して、此の瀧に落ち首骨を挫折して斃死した、その爲め七日間血が黒々と河をなして流れたので、黒河川と呼ぶに至りたと傳へて此の區民は昔時は正月の七日までは黒河川の水は用ひなかったと云ふ。


天台真盛宗歳明山玉泉寺

天台真盛宗。本尊は阿弥陀如来。「敦賀志」は「開基玉泉院清心比丘尼ハ朝倉義景の叔母にて、坊城中納言俊房卿の室也、寺内二墓あり、天正八年寂すと有、朝倉家より一丁四面の地と寺領七石の寄付状ありと云」と記す。


曹洞宗長仙寺

寺院は天台宗玉泉寺、曹洞宗長仙庵・永福庵・円光庵・長安軒,修験不動院の6か寺があったが、玉泉寺・長仙庵以外の4か寺は廃絶。玉泉寺は朝倉義景の叔母にあたる玉泉院清心比丘尼の開基と伝える。「敦賀志」には「朝倉家より一丁四面の地と寺領七石の寄付状ありと云」とある。
『敦賀郡誌』
玉泉寺、天台宗眞盛派、敦賀法泉寺末、開基玉泉院清心比丘尼は朝倉義景が叔母にて、坊城中納言俊房の室なり。朝倉家より一丁四面の地と寺領七石寄附ありきと云、明和二年十一月九日、火災に罹る。是より先き堂宇焼失し、再建したりしが、又焼失したるなりと。…
長仙菴、曹洞宗、松島永建寺末、本尊観世音。 廃寺、不動院、修験、森御所下、永福庵・圓光庵・長安軒、皆曹洞宗、永建寺末。 菩提谷と云に、本妙寺日回の墓あり。

粟屋越中守の塚
字雨谷に三方郡佐柿の国吉城主であった粟屋越中守(勝久)の塚と称されるものがある。「敦賀志」は「山神社の側に粟屋越中守の塚と称するもの、いまた其由縁を得ず、粟屋氏ハ佐柿の城主故、僅此処を隔ること二里許なれバ、其ゆかり有ならん」と記す。「敦賀部誌」には「疋田記に文禄四年、関白秀次の事あるや、勝久・伏見を落ちて白谷より雨谷越にて山村に至り、自殺すとあるは蓋し勝久の子家勝の事にて、此塚亦家勝のものなるやも知るべからず」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


山の主な歴史記録




山の伝説

『越前若狭の伝説』
鬼が滝  (山)
 鬼が滝は、黒河川の上流で口無谷にある。その水は、蛇(じゃ)が池より流出している。むかしこの池には雌雄の蛇が住んでいた。その雄蛇の方は、山村の某が雌蛇に見込まれて、蛇身となったのであるという。ある年強雨があって。一匹の蛇が、五丈余の鬼が滝の上から下に落ちて、腰骨を折って死んだ。そのために河の水は、七日間黒い血が流れていた。それで黒河と呼ぶようになった。またここの区民が正月一日から七日まで黒河川の水を使用しないのは、このためである。死んだ蛇は、雄の方であった。         (福井県の伝説)


池が原   (山)
 黒河(くろこ)山に周囲約二十町あまりの池がある。芦谷の池が原という。この池に大蛇が住んでいた。年を経たので、昇天したいと思ったが、誰か人間の身中にはいらねば、昇天はできがたいので、人の来るのを待っていた。山村の源兵衛という家の老婆が、ふたりの友だちと山へわらぴを採りに行った。そして正九つ(正午)ころ、芦谷の池が原で昼食をした。老婆は池に水を飲みに降りた。大蛇は時こそ来たれと、たちまち小魚となって、老婆の前の浅瀬にあらわれた。何事も知らぬ老婆は、水とともに小魚を飲みこんだ。見る見るうちに額に十二本の角が生じた。老婆は自分の顔が水面に写ったのをみて、驚きかつ悲んで、友達に「わたしはすでにこのような姿になった。もはや村に帰ることはできぬから、ここでお別れする。干ばつのときは、私のみやげとして、わが村のみは、かならず水はからさせませぬ。」といって、池中に飛びこんだ。
 それから数十年を経て、ある年大洪水があった。これを幸いと、大蛇は雨滝谷を出ようとして、滝から落ちて、腰を打ってその場に倒れた。七日七夜の間血の川となった。大蛇は哀れにも、ついに昇天出来なかった。        (黒河校下史蹟調査録)


 黒河(くろこ)川の奧の谷を芦(あし)谷という。そこに池の原という四百アールばかりの池がある。むかしここに竜が住んでいた。山部落に治郎左衛門という炭焼きがいた。あるときこの池の原に炭焼きに行ったが、弁当のおかずが不足したので、池の小魚を捕えて焼いて食べた。すると間もなく、からだが焼けつく思いがするので、池の水に浴したら、沈んで竜になった。
 あるとき池の水がしだいにかれて、竜が住めなくなった。それで昇天しようとしたが、中途から落ちて死んだ。そのとき血が流れて、滝の水が赤くなった。竜の死んだ日を「カンジツ」という。どういう意味かわからない。その日は陰層の十二月二十八日で。その後七日間は川水に毒があるというので、黒河川の川ぞいの村、すなわち山・御名・公文名・砂流・櫛林の村々は、正月にもちをつかなかった。今は守られていないが、やはり十二月二十八日だけはもちつきをしない。   (伝説の敦賀)

呼び売りをせぬ  (山)
 保元平治の両度の合戦に平家が勝ってから、清盛公の勢力は日に日に加わわって、国々の守護などもみな平家の一族のものに変った。越前は中納言門脇殿が守護として、疋田中山城に入部した。太郎盛斉は、粟野の雨谷(山の枝村)にかくれた。生計に困って、薪炭を背負うて、敦賀の町に売りに出たが、すこしも声を出さなかった。これが後に当地の習慣になった。 (疋田記)



山の小字一覧

山  番屋 城山腰 尻江 岸下 窪田 高畔 抜度 砂木原 上井口 鬼ケ滝 井口 中鳥 銚子口 立岩 荒谷 西釜谷 広畠 長坂 西井口 荒谷口 蛇ケ谷 ヲシノヱ 門子屋 宮ノ腰 揚石 沼田 山ノ神 上堂道 山道 山田 堀向 釜谷 滝谷口 東山 山ノ腰 小橋 向田 堂道 下揚石 沖川 溝尻 途崎 野々尻 上ケ谷 下ケ谷口 下野戸尻 西長谷口 長谷口 焼野 中田 下沼田 清水部 道ノ下 谷田 上野 赤坂 縄手 赤坂前 中川 二夕又 選別 ツムロ 馬道 橋詰 長岩 小川 突出し 荒堀 ヲト井 大水口 野畠 下フムロ 山ノ神上 宮ノ森 山崎上 上ユヅリ 山橋 下田 井川 興門下 松本海道 中シヤ 堂シ亀 越前田 篠腰 三反田 木戸上 中井ロ ウリヤ 向原 東山谷 松尾 池ノ平 雨谷 雨公口 釜谷口 南釜谷 小蛇ケ谷 黒河山


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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