丹後の地名 越前版

越前

山中(やまなか)
福井県敦賀市山中


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福井県敦賀市山中

福井県敦賀郡愛発村山中

山中の概要




《山中の概要》

敦賀市の南端で、地名のとおりの山の中にある小盆地である。藩政期の山中越の宿場で、古代愛発の関の一推定地にも挙げられている。国道161号(西近江路)が南の駄口から登坂し南の滋賀県マキノ町に通じる。笙ノ川支流五位川は地内を水源とし北流する。敦賀津より4里、近江海津まで3里半。中山とも称し、「源平盛衰記」(源氏追討使事)に「今津、海津を打過きて、荒乳の中山に懸って、天熊国境、匹壇、三口行き越えて」とある。応永年間(1394~1428)の「宗雅道すから之記」によれば飛鳥井宗雅も当地を通っている。建武5年(1338)閏7月日の朽木頼氏軍忠状に、北朝方の頼氏が同年4月30日に「荒地中山関」を打ち破って疋田に押し寄せたとある。
永正15年(1518)11月3日の頤神軒存爽算用状には「山中のせきしよ」と見えて、これは朝倉氏が近江国境に当たる山中に設けた関所と考えられる。前記「中山関」は「山中関」の誤記である可能性もあるが古来愛発山と称されてきた現在の山中から疋田に至る七里半越の西側一帯の山並みを「義経記」や「源平盛衰記」が「荒乳の中山」「敦賀の中山」などと記しているところから、南北朝期にここに「中山関」が置かれたことも十分考えられるという。「義経記」巻7「三の口の関通り給ふ事」に源義経の北国行きを阻止するため道口(三の口)に「愛発の山の関屋を拵へ」たとあり、当時愛発の中山に関があったことがうかがえる。応仁2年(1468)9月27日の知恩院隆増置文に「坊領…荒地中山舛米」とあり、「舛米」は関を通過する米にかける1%の通行税のことであるから、この頃には恒久的施設として中山関が置かれ知恩院領とされていたことが知られる。慶長国絵図には山中村と見えるが高は疋田村666石余に含まれている。

近世の山中村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の家数46(高持19・無高25・寺2)・人数196、馬25。当村は越前から京都に達する西近江路(七里半越)の近越国境に近く、宿駅の1つであった。一里塚・口留番所・高札場も設置されていた。盛時には人馬・荷物の往来で繁栄し、享保7年頃(1722)には10人の問屋がいる程の宿場であった。のち西廻航路および新道野越に荷物を奪われ徐々に衰退した。「雲浜鑑」に家数35。明治維新時には問屋は4軒に減じた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の改正戸籍簿では戸数25(農業20・日雇稼3・寺2)。「滋賀県物産誌」に戸数25・人口105、馬3、荷車5。古くは「戸数五十軒余アリテ物貨運搬ニ従事スルモノ多クシテ大ニ富ニシカ、維新ノ初、深坂街道開鑿ノ挙アルヤ生計ニ困リ居ヲ他ニ転スル者多ク、遂ニ現今ノ戸数ニ減」とある。同17年鉄道の開通後はさらに離村する者が増え、宿場としての機能は絶えた。同22年愛発村の大字となる。
近代の山中は、明治22年~現在の大字名。はじめ愛発村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西22間・南北3町余、戸数15、人口は男39・女42。 当地の共有山林は約300町余あったが離村者が自分の持分を他郷の人に売却していったため最後まで残った3軒の所有面積は15町余にすぎず残存した3軒は約2町余の水田を耕作し自給した。昭和25~26年福井・武生方面から開拓農家8戸が入植したが、資金不足や営農の不馴れから次々に離農し同46年には元からの住民1戸となった。その後同50年後半に酪農家2戸が加わり3戸となった。昭和30年代に廃村となったといい、現在は0戸0人である。


《山中の人口・世帯数》 0・0


《山中の主な社寺など》

日吉神社
氏神は日吉神社。祭神は大山咋命、旧村社。近代に入り追分の日吉神社に合祀された。

真宗大谷派願因寺
浄土宗光伝寺
寛永12年創建の真宗大谷派願因寺(明治21年無住となる)。浄土宗光伝寺があったが明治維新時に廃寺となり、のち明治8年伝教作と伝える薬師如来を海津の行正寺に移している。

親鸞の歌碑

越後流罪で護送中の親鸞がよんだという歌碑が集落内の光伝寺跡および国道筋にある。
『敦賀志』
山中村 駄口より南一里
氏神山王社愛宕社、光傳寺(真言律江州海津正行寺末) 此寺に親鸞上人越後へ流罪の時の詠とて
  越ちなるあらちの山に行つかれ
    足もちしほにそむるハかりそ
といふ哥を持伝へたれ共信かたし、官よりの流され人なれば、守護より守護へ被渡、配所に至られつらんに、足もちしほの詞いかゝ もとより哥もよくよまれて、撰集にも入たる人也、かゝる卑俗の詞にあらず、願因寺(東本願寺派江州海津願慶寺末) 此村より南へ十丁許登る、則近江と国堺也、此村に諸司代板
倉殿の下知書有(慶長ノ末三年許公儀ノ時也)、
   掟            越前山中村

『敦賀郡誌』
山中 駄口の南に在り。往古は中山と稱す。源平盛衰記・梅松論・太平記並に中山とあり。宗雅道すがらの記に山中とあり。藩政時代の宿驛なり。當時は往来繁くして、邑も賑盛に、享保には民家四十六戸ありしが、明治の初、深坂道開通以来、衰頽して戸數も二十四五に減じたるが、鐵道開通して一層甚しく、遂に現今の状態となれり。 氏神日吉神社、明治十一年三月村社に列せらる。境内神社八王子神社と共に追分日吉神社に合祀す。 願因寺、眞宗大谷派、東本願寺末、初海津願教寺末、寛永十二年三月創立、開基慶西。巌寺、光傳寺、淨土宗海津正行寺末、その薬師堂の薬師如来は、傳教作、又寺に親鷽筆三方正面彌陀影像を傳えたのと云。二十四輩順拜圖會に、親鸞越後へ流されし時、此處にて「越路なるあらちの山に行なやみ、足もちしほに染るはかりぞ」と詠れたりとあり。此歌を勒せる文化十一年建てし所の碑、今も寺址叢莽の間に残れり。寺は明治維新の後廃絶す。小豆茶屋、先組中原彌次右衛門は炭焼を業としたりしが、親鸞通行り時、山路に行難みたるを、其家に宿し、米とてあらねば、小豆を煮て進めしに、殊の外悦ばれたりとぞ。小豆茶屋の名、此に起ると云ふ。宿驛時代には名高き茶屋なりしが、今は廃絶す。
邑より海津へ越ゆる路を七里半越と稱す。又大浦へ出づべし。愛發山、今此山ぞと確に云傳へず。


《交通》
七里半街道。(西近江路・海津道・山中越・愛発越)(現在の国道161号)
敦賀から琵琶湖北岸の海津へ通じる古代以来の交通路。距離が約7里半であることに由来。西近江路・海津道は通じる地方と終着点を示し、山中越・愛発越は途中に越える山中峠・愛発山の名をとったもの。古代の官道で、紫式部様も通ったといわれる街道である。だいたいは今の国道161号線に当たる。

敦賀から笙ノ川沿いに疋田へ、支流の五位川に沿って追分-駄口-山中を経て山中峠で県境を越えて、知内川沿いに下り、さらに迫坂峠を越えて海津に至った。
路原・駄口断層など南北に連続する断層の谷を利用した自然の通路で容易に野坂山地を越えることができ北陸と畿内を結ぶ幹線道路となる。古代には靹結駅(滋賀県マキノ町)と松原駅(敦賀市)間の北陸道であった。
北陸道諸国から都へ貢進する物資は敦賀からこの道を海津へ運ばれ、湖上水運によって大津へ陸揚げされた。中世~近世前期には商業の発展とともに敦賀が北陸諸国の貢米・特産物の京畿輸送の中継地として栄え、馬借によって諸物資は海津へ運ばれた。
今は500馬力くらいの10トントラックで荷は運ばれるが、昔は牛馬であった。馬500頭くらい分の荷物を一気に運んでしまう。昔の街道筋で働く馬の全部を一つにしたほどのものすごい車が何台ともなく走り抜けていく。敦賀には馬借座が設けられ、慶長年間に120匹、寛永年間に172匹の荷馬があった。ほかに疋田馬借200匹があり、小河口19匹、市橋20匹、疋田95匹、追分20匹、駄口12匹、山中41匹の荷馬がこれに属した。上り・下り荷とも敦賀馬借は敦賀~疋田間、疋田馬借は疋田~山中間を主に駄送した。敦賀へ向かう下り荷はもと山中継ぎであったが、混雑を避けるため慶長年間以降駄口継ぎとなった。冬季3か月は海津馬の負担を考えて山中継ぎであった。
しかし寛文年間以降は西廻海運の発展で盛期を過ぎ北前船の敦賀寄港で交通機能は維持したが座の組織を持たなかった疋田馬借の打撃は大きかった。さらに安政年間の深坂峠越え、明治11年の新道野越の塩津道開削が追打ちをかけ、国道8号・鉄道北陸本線から外れて全く衰微し、街道沿い宿驛も消えていった。


《産業》


《姓氏・人物》


山中の主な歴史記録



山中の伝説

『越前若狭の伝説』
山中   (山中)
山中は、もと中山といったが、土民の信仰する山王宮の頭文字を下にするのは不敬であるとて、上下の文字を替えて、山中とした。  (福井県の伝説)

あらち山(一)   (山中)
加賀(石川県)の白山(しらやま)は、女体の神さまであったが、志賀(大津市)の辛崎(からさき)の明神(みょうじん)に嫁にいかれた。やがて身ごもられ、産み月近くなったので、自分の国へ帰って産みたいと思い、加賀の国へ下った。途中この山で急に産気づき、お産をされた。そのとき産の荒血(あらち)をこぼされたので、こ
の山を荒血山という。荒乳山とも書く。   (義経記)

新乳(あらち)山というのは唐崎大明神の住所である。この神は加賀の国の竜宮の宮と一体分身の女体である。臨月近くなられ、東国にてお産をしようと、立たれたが、嵐(あらし)山という所でにわかにお産をされた。よって山の名を新乳山と改めた。このとき生れた子を越前国白山権現と祝いまつっている。   (寺社什物記)

近江の唐崎(からさき)の大明神は、加賀の白山の竜護(りゅうご)の宮という女体の神を恋ひ慕い、妻に迎えて志賀の都で暮した。やがて懐妊し、産み月が近くなったので、国へ帰って出産しようと、加賀の国へ下られた。途中越の中山を越えるとき、山の中でにわかに産気づいたので、唐崎明神が腰を抱いて、やすやすと産をされた。
生まれた子どもは、輝くばかり美しかったが、顔が三つ、手足が六つなので、あまりのことに木の葉のかげに捨てて、加賀へ行かれた。残された子は、だれも育てる者もないのに、生長し、天人が天から降りて来て奉仕した。三年後の四月にこの子は天へ昇った。
 その後長い年月が過ぎ、文武天皇の大宝元年(七〇一)の春に天から三面の霊石が下って、「わたしは昔ここにあって、乳がなく、つらい三年を送った。よって衆生を救うため、乳のない婦人を助け、また難産の婦人が祈願をこめて参けいするならば、その願いをかなえよう。」と託宣があった。
 これが岩神で、この神の降臨があってから荒血山を有乳山と書くようになった。しかしこの岩神は今はない。京都に移したという。宮中の官女の参けいが多いからとのことで、後冷泉天皇の永承五年(一〇五〇)六月十六日であるという。京の冷泉院の岩神がそれである。京の岩神社はその後しばしば遷座している。    (伝説の敦賀)

ここに乳房(ちぶさ)岩というのがある。むかしある神様がこの山にお子を捨てられた。お子は乳がないから育つまいと思われたが、りっぱに成育された。それはこの岩が乳汁を出して、養い奉ったからである。   (南越探旧指童編)

文武犬皇の大宝元年(七〇一)のころ、天太国命・豊岩間戸命・櫛岩間戸命の三社の神様が、荒血山の石に降臨された。乳のない女が願をかけると、ただちにかなえられるので、有名になった。そのときから、荒血山を有乳山と書き直した。後にこの石神を乳房岩ととなえるようになった。都から参けいするには、距離が遠くて不便なので、永承五年(一四五〇)六月六日に、三条猪熊(いのくま)に社を建てて、ご分身をお祭りすることになった。         (敦賀記)

あらち山(二)    (山中)
延喜のころ(九〇一ころ)、志賀(しが)の建福寺に識徳一世に高い上人があった。あるとき、花見にこられた京極のご息女を見そめて、哀れ恋のとりこになってしまった。思い悩んだ彼はいつのまにか京極の御所の庭にたたずんでいた。
 上人を見つけたご息女は、「これは、いつか志賀の花見の帰りに、お会いした聖(ひじり)でございましょう。どうぞこちらへ。」
とお召しになった。上人はあまりのうれしさに、わなわなとふるえて、中門のみすの前にひざまずいて、言い出すことばも知らず、たださめざめと泣きいるばかりであった。ご息女は哀れに思い、雪のようなお手を、みすのうちから少しさし出されると、上人はそのお手に取りついて、
  初春の初子の今日の玉ははき
   手に取るからにゆらぐ玉の緒
と詠ずると、ご息女は
  極楽の玉のうてなのはすの葉に
   われをいざなてゆらぐ玉の緒
とご返歌された。
 道心堅固だった上人も、今は還俗して、ご息女との会うせを楽しむ外道と落ちてしまった。ついにご息女は懐胎された。臨月が近くなったので、ふたりは、人目をはばかって、北国へ落ちのびてきた。ときに上人は八十三才、ご息女は十七才であった。
 七里半の難所をうち越えて、山中にさしかかった。道のほとりの辻堂にて休むうち、ご息女は急に産気づいた。非常な難産で、ひどく苦しまれた・上人は一心に医王如来を念じた。そのかいあってか、しばしまどろむうちにご示現があった。驚いて目ざめてみると、東方から光がさし、堂前の川水が五色に輝いていた。この水をご息女の口に注ぐと、今までの苦痛はさらりと解けて、男の子を産んだ。その男の子は、面(おもて)が六つに、手足が十二本あった。そしてただちに天に飛び上かってしまった。八十年の後に、角鹿の津の気比の宮の末社大明神として、現われた。    (敦賀記)


あちら山 (三)  (山中)
仲哀天皇のとき、大伴の武持が、蒙古軍をこの山で打ち破って、敵兵の血で山か染まったから、荒血山という。 (刀祢系図)

笈掛松   (山中)
 新乳(あらち)山のふもとに笈掛(おいかけ)の松という名本がある。源義経が奥州へ下向のとき、この松のかげにて一宿した。そのおり松におい(背負い箱)をかけたのでこの名がある。    (寺社什物記)

その枝がみな京都の方を向いているのは、義経の心中を察してである。最初の松は百数十年前に枯れ、二代目の松も大木になったが、枯死した。    (福井県の伝説)

光伝寺    (山中)
天禄五年(天禄は四年で終わる。)十二月十六日に太陽の影が消えて、やみとなったとき、このかの内陣のとびらがみずから開いて、瑠璃の光明が天に輝き、たちまち晴天になった。これより光伝寺という。  (寺社什物記)

あずき茶屋   (山中)
むかし親鸞上人が越後へ左遷のみちすがらつ、山中村の中原弥次右衛門の家に宿泊せられた。さし上げる米とてないので、あずきをすすめたところ、上人の功徳によって、みる間に煮えた。後にその子孫は、あずき(小豆)茶屋の名をもって業とした。あずき茶屋は、宿駅時代の名物であったが、今はその跡は田地となっている。     (福井県の伝説)

 親鸞上人が北国へ左遷されたとき、この山野のけわしいのに行きなやみ、ある炭焼きの家に宿をされた。そのときあずきを煮てすすめたところ、ことのほか喜ばれた。後にこの家は茶店を開いてあずき茶屋と称した。山中村にある。今は人変り、家のみ残っている。  (気比のささ波)

 あずき茶屋は、祖師(親鸞)が北国下向のときここで休息し、あずきを煮て食べた旧跡である。        (蓮如上人御旧跡絵鈔)


あらちか関   (山中)
 むかしお殿さまがこの関で一服されたとき、茶屋のばあさんが、あずきがゆを作ってさしあげた。殿さまは「こんなにおいしいものはない。」といわれ、この関所をあずきが関と名づけた。それがだんだんなまって、あずちが関となり、さらにあらちが関になった。   (中塩清之助)

湯谷     (山中)
山中宿から江州大浦方面に分岐するところを沓掛(くつかけ)場といい、一里塚の休み石が今も残っていて、昔をしのばせている。
 ここの湯谷からわく水は、傷に効験がいちじるしいといわれていた。ある年のこと、馬がこの山道でつまずいて怪我をしたので、湯谷の水たまりに入れて、馬の足を洗ったところ、水がわかなくなり、ついにはその水たまりも、なくなってしまった。   (浅井善太郎)



山中の小字一覧

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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