丹後の地名 越前版

越前

吉河(よしこ)
福井県敦賀市吉河


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福井県敦賀市吉河

福井県敦賀郡中郷村吉河

吉河の概要




《吉河の概要》
市街地の東部、北国グランドホテルやトンネル温泉ゆのくにがある山(向出(むかいで)山)の南西麓。向出山古墳群や小谷ケ洞古墳群がある。
中世の吉川村は、戦国期に見える村名で、永正4年(1507)2月16日の金前寺寺領目録に「壱段 在所 吉川」とある。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録に「吉川村下あな田」「吉川村之下せきまい縄手」などと見える。
近世の吉河村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数20・人口94。同22年中郷村の大字となった。
近代の吉河は、明治22年~現在の大字名。はじめ中郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数21、人口は男58・女64。昭和32年、一部が石ケ町、同49年観音町・羽織町・樋ノ水町・深川町、同55年若泉町となった。


《吉河の人口・世帯数》 68・1


《吉河の主な社寺など》

吉河遺跡
全国的にみても特筆すべき弥生遺跡の吉河遺跡。笙ノ川扇状地上にあり、昭和56年から同60年にかけて発掘されたのち、国道8号バイパスの下に消滅した。調査の結果、竪穴住居跡4、掘立柱建物跡2、土壙約130、墓道6、方形周溝墓25、土壙墓6、溝31などの遺構が検出され、弥生中期から後期にかけての土器、石器、金属器、ガラス・土製品、銅鏃、木製品、植物種など膨大な遺物が出土した。この遺跡の特徴は、東西に走る大溝によって北部が居住区、南部が墓地と区画され、墓地へは墓道ともいうべき道路が通じていて、計画的な集落建設がうかがえる点にある。今後の調査で水田が発見されれば、弥生集落のすべての要素がそろうことになる、という。
『敦賀市史上』
吉河遺跡は語る 発掘調査
つぎに本市を代表する古河遺跡のこれまでの調査成果を紹介し、弥生時代の生活を追ってみたい。市内の遺跡発細調査としては、本遺跡は長い歳月を費やし、本格的に取り組まれている。調査は、国道八号線敦賀バイパス建設に伴う緊急発掘として、昭和五十六年(一九八一)より昭和六十年にかけて六次にわたる調査が実施された。調査面積も一万三千平方メートルをはかる。調査後は、大半の遺構が消滅の憂き目にあう運命にあり、道路工事に伴う記録となっている。中司照世を中心に県埋蔵文化財調査センターの調査員らにより、市民の応援を得て精力的な調査が進められており、全国屈指の弥生遺跡として評価が高くなっている。
遺跡は、古河区南西方向の標高約八メートルの、笙ノ川が形成した扇状地上に位置している。弥生時代中期(約二千年前)から後期(約千七百年前)に属する集落跡を中心とした遺跡である。結論的に述べれば、本遺跡は、いわば″吉河ムラ″の構成を知るうえで、吉河弥生人の生産活動・住居・墓地など教科書的に知る情報が数多く発掘されており、農耕集落の成立を物語る遺跡として″敦賀の登呂″の様相を呈している。調査が進むにつれて、前述の中遺跡・坂下遺跡など弥生時代後期に属する″ムラ″との関連も判明するものと期待されている。
つぎに、これまで刊行されているレポートに基づいて、本遺跡の内容をまとめていきたい。
遺構
昭和五十八年の第四次までに検出されている遺構を挙げるとつぎのようになる。竪穴式住居跡四棟・掘立柱建物跡二棟・土壙約一三〇基・墓道六条・方形周溝墓二五基・土壙墓六基・溝三一条
の多きに達する。弥生時代中期を主として、一部は後期に属する遺構が検出されている(図40)。
(1)竪穴式住居跡 平面形は円形、隅丸長方形のものが知られている。後期に属するとされる竪穴住居1とよぶ住居跡は、東西約九・八メートル、南北約九・五メートルをはかる大型の円形の平面形を呈し、壁の一部を欠いている。竪穴式住居の規模は大小があり、意味するものは深い。
(2)掘立柱建物跡 竪穴式住居跡より北部に発見されており、柱間は各一間のもので、一棟の建物の柱穴には、柱根、礎石各一個が残されていた。

小谷ケ(ほら)古墳群
集落の南端に原子力の科学館があるが、ここにあったという。館の建設により緊急発掘され、調査後消滅した。
敦賀市域の古墳は、消滅したものも含めて現在までに約100基知られている。この中で最も古いとみられるのは、4世紀後半と推定されている小谷ケ洞古墳群の2基で、一辺20m、高さ6mの方墳(1号墳)と、直径25m、高さ4mの円墳(2号墳)から、鉄剣・銅鏡・管玉・土師器片などが出土した。割竹形木棺直葬墳で、嶺南地方で発見されている古墳のなかでは最古のものに属する。古墳は、敦賀平野全域を望む丘陵の先端部に立地しており、敦賀湾を意識して築かれた、敦賀地方を支配した首長墓と考えられている。
『敦賀市史上』(図も)
小谷ヶ洞古墳群
本古墳は、本市の古代史を語る資料としてはかけがえのないものであるが、消滅して今は存在しない。財団法人福井原子力センターの建設地の造成が開始された直後、付近の樹木を伐採した時点で古墳群の存在が判明し、工事をストップして市教育委員会を調査主体として緊急発掘調査が実施された。
発掘は昭和五十年(一九七五)四月一日から五月三十一日にかけて春の雪がチラチラするなかで行われた。当初から造成地全域を調査すべく四基の古墳調査ということで行われたが、緊急調査の結果では二基の古墳の存在が明確にされた。本格的報告書が未刊なのは惜しまれ、その上に引用される機会が多いので、ここでその成果のまとめをしておきたい。
 本古墳群は吉河区の西方の標高約五五~六〇メートル内外の丘陵の先端付近に構築されたもので、自然の地形を巧みに利用し、市内全域を見おろすことができ、海を意識した、いわば敦賀津に出入した船上からも見える位置に造営されたものである(写真23・24)。
 第1号墳は丘陵の最も端、標高五五メートル内外の位置にあり、一辺が約二〇メートルの方形の平面形をしている。高さは西側で約六メートルをはかる(図44、写真25)。自然地形に約一~二メートルの盛土をして墳丘を構成している。平野部から見える部分、古墳の北、東、西に手を加えて墳丘をととのえ、南部は自然地形をあまり変えていない。墳丘には葺石、埴輪などは認められなかった。さて内部主体について述べれば、墳頂より約一メートル下、盛土中に造られていた。第1号主体(図45、写真26)は墳頂のほぼ中央に木棺直葬で南北に形成され、木口部には礫を積んだ割竹形木棺で、長さ四・七メートルと細長いもので、幅は七五センチあり、主体部の中央あたり、東端に鉄製ヤリガンナが一点のみ棺内の副葬品として確認されている。なお墳頂付近の封土中から土師器片が出土している。被葬者は頭を南にして埋葬されたと想定している。第1号主体の西隣には第2号主体があったが、その棺の形熊の検出に成功していないが、鉄剣とヤリガンナが各一点重なる状態で検出されており、第1号墳の内部主体は複数であったことが判明したわけである。
 第2号墳は、第1号墳より南、一段と小高くなっている自然地形に盛土をして、標高約六四メートルの位置に立地する。墳丘の南部は、原子力センター土地造成のためにかなり削られていた。直径約二五メートルの円墳である(図44、写真27)。その高さは約四メートルをはかり、自然地形の上に約一~一・五メートルと盛土をして墳丘を形成している。第2号墳同様、平地から見える北・東・西部には、ていねいな造成がはかられ、南部は自然地形を比較的残している。葺石の存在は角礫がみられ、確定するに至っておらず、埴輪は認められなかった。主体部(図46、写真28)は南北に割竹形木棺一基だけで、長さ三・七メートル、幅九〇センチをはかる。棺内から乳文鏡一、管玉一、刀子一が出土している。墳頂部の主体部の周辺は大形の角礫が積まれており、壺四、器台三、土師器細片の供献土器も出土している。
 なお本古墳より北、墳丘の裾付近に楕円を呈する焼土面が検出され、土師器の破片なども数十片採集されており、第2号墳に付属する祭祀遺構と想定している。
 前述のごとく本古墳群の副葬品は必要であるが、その内容にはそれぞれ意味があり、古墳の年代を示す資料である。つぎにそれぞれの出土遺物の観察結果を説明していきたい(図47、写真29)。
 (1)鉄製品 いずれもサビが進行しており、全形の明瞭なものはまれである。ただ鉄製品を細かく見ていくと、サビの中に布目痕をいずれも残しており、絹などの布にくるんで副葬したことが分かる。
  鉄剣(第1号墳) 両刃部分は復元で二四・八センチ、茎部分は八センチ残存している。サビが進行しており、鎬は明瞭ではない。
  刀子(第2号墳) 七・五センチだけ残存しているが、両端が欠損しているため全長は不明である。幅は一・三センチある。
 (2)管玉(第2号墳)長さ二・七センチ、直径一・一センチあり、両側穿孔で材質は碧玉である(本資料は現在行方不明であり、遺憾といわざるを得ない)。
 (3)乳文鏡(第1号墳) 直径六・七六センチ、厚みは外縁で二・二ミリある。内区は等間隔の八つに区画され、それぞれの区画には、円環を付した円錐状の小さな乳がつけられている。この外周には櫛歯文を配し、外縁は素文の平縁である。乳文鏡は、倣製鏡としては末期のものとされ、後期古墳から多くの出土例が知られている。
 (4)土師器 小谷ケ洞1・2号墳の墳丘から壺形土器・器台形土器などが出土した。これらは埋葬にかかわる祭祀用土器と考えられる。
 …
 さて、本古墳の年代については伴出遺物が極めて限られており、立地、他地域の古墳などからも推定せざるを得ない。小谷ケ洞2号墳出土土師器は、精製された粘土を使用し、ヘラ磨きされた壺土器や器台形土器であり、いわゆる布留式土器を代表するものであった7これらIは、敦賀地方に埴輪祭祀が波及する以前に、畿内系の有段口縁壷を中心とする供献土器様式を採用していたことを明らかにした。しかしながら、後絶する首長級の古墳のなかで埴輪祭祀を採用した古墳が出現するまでには、あと数十年を待たねばならなかった。前期末~後期前半の首長墓がいち早く埴輪祭祀を採用した若狭と著しい差異を示している。
 小谷ヶ洞2号墳が築造された年代は、墳丘出土の土師器が布留式土器のなかでも比較的古相の特色を示しており、四世紀後半にさかのぼるものであろう。従来、第2号墳の主体から出土した乳文鏡については横穴式石室よりの出土、六世紀代の年代にあてはめる考え方が一般的であるというが、供献されていた土器は、主体部のまわりに積まれていた角磯等、その出土状況から観察した結果では当初のものと断定せざるを得ない。以来第1号墳については複数の主体部から棺内副葬品が剣一、ヤリガンナ二という少量の出土品であり、年代の推定はなかなか困難である。しかしながら墳形が方墳であること、割竹形木棺でも、第2号墳より細長いことなどを重要視するという前提のもとでいえば、第2号墳よりやや先行すると観察されよう。その年代としては四世紀後半にやはり比定すべきものであろうと考える。
 本古墳群の被葬者は敦賀一帯を支配していた首長と推定され、巨大な権力を行使していたことが考えられよう。割竹形木棺の直葬という埋葬形態から推して、被葬者はいずれも畿内との交流、畿内の影響を受けていたことが想定され、やはり畿内政権との関係を強く示しているものと考える。本古墳群は、これまで嶺南地方で発掘調査を実施した古墳のなかでは最古の時期のものであった。若狭地方に目を向けると昭和五十九年(一九八四)に、三方町藤井区で発見された松尾谷古墳は若狭地方唯一の前方後方墳であり、複数の主体部を前方部、後方部に有する例であり、その年代も小谷ヶ洞古墳群と同じ年代に比定できるものである。松尾谷古墳も水源池工事のため消滅している。


向出山古墳群
向出山の北国グランドホテルへ登る急坂の道路ぶちにある。古墳中期~後期の4基が確認されているが、もとはさらに多くの古墳があったようである。
昭和29年に2基が発掘された。第1号墳は山頂に築かれた直径約50メートルの円墳で2基の竪穴式石室を有する。第1号石室は墳丘のほぼ中央に築かれ、長さ約5・7メートル、幅約1・8メ-トル。第2号石室は第1号石室の西方に並列して築かれ、長さ約2・6メートル、幅1・2メートル。第1号石室からは、土師器(高坏)、眉庇付冑、桂甲、鉄鏃、槍、臼玉・ガラス玉の玉類、銅鏡など、第2号石室からは短甲衝角付冑、直刀、鉾、鉄斧、小玉、銅鏡などが出土。両石室出土の銅鏡は四神四獣鏡で直径14・5センチ、同笵鏡とみられる。本古墳の年代は5世紀後半頃と考えられている。敦賀平野を一望し、海を意識した築造がなされ、敦賀地方を支配した首長墓である。第3号墳は横穴式石室の円墳で6世紀後半、ハソウ・提瓶などの須恵器類、馬具残片、金環などが出土。本古墳群の西方には小谷ヶ洞古墳群があり、吉河集落から坂ノ下集落に至る尾根や山麓は、古代敦賀の奥津城を築く地であったと想定されている。

向出山1号墳

デカっ!、こうなるとカメラには納まりきらない。下に案内板がある。

国指定史跡  中郷古墳群 文部省
指定年月日 昭和63年3月23日
指定理由
 敦賀平野の東方山麓部のほぼ中央部にする向出山古墳群(3基)と明神山古墳群(5基)とからなる古墳群である、この古墳群のうち、特に向出山1号墳は全国的に類例の少ない鉄地金銅装の眉庇付胄や頸甲を出土している点で貴重であり、また、明神山1号墳は陪塚・葺石をそなえた前方後方墳として北陸地方でも数少ない重要なものである、古代における内外交通の要衝であった敦賀の地に築かれたこれらの古墳は、我が国の古墳時代を解明する上で欠くことのできないものであり、史跡に指定してその保存を図ろうとするものである。

向出山1号墳(5世紀後半)
 この古墳は直径約60メートル、高さ約9メートルあり、県下では最大級の円墳です。墳丘は2段に築かれて葺石が敷かれ、また、西側の平野に向かって方形の張出し区画を持っているのが特徴です。墳頂の2基の石室から多くの副葬品が出土し、私立敦賀郷土博物館で保管展示されています。 平成10年10月1日 敦賀市教育委員会

墳頂より敦賀湾を望む。右手の盛り土の下に向出山2号墳が埋もれている。

四角の造り出し部がある。     ↓


向出山3・4号墳

1・2号墳の下のほうに3・4号墳がある。3号墳↑はまだ古墳の姿をしているが、4号墳は封土も失われ石室の石材が散らばるだけもの↓になっている。いずれも後期古墳。

案内板がある。
向出山3・4号墳
 向出山古墳群は4基の古墳からなる。そのうち山麓にあるこの2基の古墳は、6世紀後葉(1400年前)に築造された円墳であって、理葬施設としてともに横穴式石室をもつ。 
 向出山3号墳は、直径約15m、高さ約4mである。敦賀地域では最大規模の横穴式石室をもち、その全長約7.2m、棺を納めた部屋である玄室の長さ3.7m、同幅2.0m、同高さ2.7mである。昭和29年の発掘で装身具(金環・銀環)、武器(鉄刀・鉄鏃)馬具(轡)須恵器(蓋・杯・高杯など)が出土。
向出山4号墳は、墳丘が崩れているか盡経約8m,高さ約2mである。鴉穴式石室1二は土砂が堆積し、詳鈿ば不咐。やはり昭和29年の発掘で装身具(金環・管玉・ガラス小玉)、馬具(轡・兵庫鎖)、須恵器(壺・ハソウなど)が出土。
 前・中期(4・5世紀)の古墳の理葬施設は堅穴式石室(1人用で上から棺を入れる)が多く、山頂にある中期(5世紀)の向出山1号墳も堅穴式石室をもつ。後期(6世紀)には朝鮮半島から横穴式石室(複数・人用で横の入口から棺を入れる)が伝来するが、この2基の古墳もそうした例で、いわゆる家族墓である。 
昭和59年10月18日  敦賀市教育委員会


『敦賀市史上』
向出山古墳群
吉河区の東方、通称向出山と称する山の麓および山頂には古墳群が群在していたようで、既述のごとく上田三平も取り上げている。現存では四基の古墳が確認されてきていた(図50)。本古墳のうち、第1・3・4号については、昭和二十九年(一九五四)十月に発掘され、その後昭和三十四年には市指定の史跡となり、出土品は市の文化財となっている。昭和二十九年の調査は、本市考古学の祖ともいうべき石井左近を中心に進められた。出土品についても私立敦賀郷土博物館で保管されて今日に至っている。
 第1号墳についていえば、昭和四十二年に石室の実測を目的に調査を森川昌和が実施、その途中で第1号石室の北部から銅鏡と玉類を検出した。鏡と玉は市教育委員会に提出したが、文化財保護法上の手続きのないまま私立敦賀博物館の保管となっている。その後、昭和四十四年には国民宿舎建設に伴って墳丘の南東部が削られている。まさしく悲劇の古墳群の感がする。せめてもの救いは、気比史学会の地域に根ざした活動と市の埋蔵文化財保護に対する理解のなかで、第1号古墳について昭和五十八年秋、土地買い上げと古墳公園として保存されるという金字塔が立てられたことが特記できることである。
 向山山1号墳は、向出山の先端部の山頂、標高約七〇メートルに立地している古墳である。最近の墳丘の測量調査によって墳丘の内容が細かく判明することになった(図51)。墳丘は自然地形をうまく利用して構築されて、上下二段に築き、それぞれの斜面に葺石が施されている。そして、葺石は長さ二〇~四〇センチの円礫が多く、河原石がふもとから運搬されたようである。いまのところ埴輪は確認されていない。
 これまで本墳は円墳といわれてきたが、墳丘の西南部の造り出し部分が注目され、この方形の区画をどう理解するか、墳形について二説が出てきている。つまり円墳で造り出し部を有するものとする考え方と、立洞2号墳のように造り出し部は前方部の短い前方後円墳つまり帆立貝形古墳とみる考え方である。これまで封丘部分についてはメスが入れられたことがなく、葺石の配列など学術的な発掘調査による確認が待たれよう。そこで本古墳の規模であるが、円墳とみれぼ直径五六メートル、高さ九メートルで、造り出し部は東西一二メートル、南北一八メートルとされよう。一方、帆立貝形古墳とした場合、全長七〇メートル、高さ九メートルとその規模を表現できよう。後述するように、本墳の墳形が後者に決した場合には、古代史に新たな問題を投げかけるほど重要な問題と考えている。
 墳頂には並列して大小二基の竪穴式石室が構築されており、同時期の造りと思われる。第1号石室(写真35)はほぼ墳丘の中心部分に造られ、長さ約四・四メートル、幅約二メートル内外である。天井石は石室の北部と中央の二個あり、石室の側壁は河原石積みである。第2号石室(写真36)は西方にあり、長さ約二・六メートル、幅約一・一メートルをはかる。第1号石室に比べて側壁の石積みに山石を多くしており、石積みの隙間に白色の粘土をつめこんで壁を構成していた。
 二基の石室からの出土遺物は県内でも例のないほど多彩かつ異色のものであるが、その内容が中司照世により確認されているので「立洞2号墳発掘報告書付編」にもとづいて記してみたい。
 第1号石室副葬品(図52、写真37・38) 倣製四神四獣鏡一、不明銅鏡一、滑石小玉三九以上、ガラス小玉一一以上、鉄鋤一、砥石二、鉄刀多数、鉄剣多数、青銅鉸具一、鉄鉸具一、鉄鎖一〇五以上、鉄鉾五以上、鉄刀子一、鉄地金銅装眉庇付冑二、鉄地金銅装頸甲一、鉄挂甲小札一括、須恵器(杯・高杯・壺)三、土師器高杯一などが出土している。副葬品の出土状況については『敦賀市通史』のなかでとりあげられているが、のちに検出された四神四獣鏡、その他の遺物の出土状況からみて、被葬噺は北に頭を向けて埋葬されていたことであろう。
第2号石室副葬品(図53) 倣製四神四獣鏡一、金銅製三輪玉四、滑石小玉六三、竹櫛一、鉄衝角付胄一、鉄鎖甲一、鉄肩甲一括、鉄短甲一、鉄鏃三〇以上、鉄刀多数、鉄剣多数、鉄鉾複数、鉄斧二、朱のかたまりなどが出土している。二基の石室より検出された副葬品は、鏡、玉、剣や刀、そして農工具といったこの時期の古墳の教科書的な内容も備えている。ただ惜しむらくは、金属製遺物を中心にサビが進行し、その保存が待たれる。
本古墳の築造年代については、豊富な出土品、とりわけ伴出した須恵器などから中期古墳に属し五世紀末に比定できる。
 向出山2号墳は、第1号墳の北西隣に位置し、これまで盗掘を受けたり、昭和五十八年(一九八三)の土地造成に伴い市教育委員会が主体となって実施した緊急調査、いわば″七日間調査″で消滅している。直径約一六メートル、高さ約二メートルの円墳で、第1号墳と同様墳丘に葺石をもち、埴輪の存在も初めて判明した(図51)。内部主体は割竹形木棺で、長さ約四メートル、幅七五センチである。
 副葬品は棺内の北部に漆塗竹櫛四三、滑石小玉二四〇、中央部から鉄剣二、鉄刀一、南部からヤリガンナ六、鉄斧二、鉄鑿二、鉄鏃一〇、砥石一が検出され、棺外から鉄槍一、漆塗皮盾一などが発見されており、豊富な出土品である。また墳頂部から須忠器の壺一とハソウ二が出土していろ(図53-17)。墳丘における埴輪の出土は、市内では唯一の例であり注目される事実である。ただ発掘の際、埴輪で元位置を保った例はなかったということである。
 第2号墳の年代は、第1号墳に隣接することからその陪塚かともいわれていたが、出土した遺物から中期古墳、五世紀後半に比定でき、第1号墳にむしろ先行する時期と考えられている。

向出山3号墳も向出山1号墳と同様、昭和二十九年(一九五四)に発掘されたもので、出土資料は私立敦賀郷上博物館に保管されている。出土資料については、その後中司照世らによって詳細な研究がなされているのでこれを参考にさせていただいた。本古墳は吉河区の東南の山麓に築造された円墳で、直径約一四メートル、高さ三・七メートルをはかり、南西に開口する横穴式石室を有する。石室は片袖式で、全長が約七メートルあり、その内玄室の長さは三・六メートルあり、玄室の幅は奥壁寄りで一・八八メートル、中央部で二・〇二メートル、玄門寄りで一・八メートルをはかり、平面形をみると中央がふくらむ胴張りのプランを有している。玄室内での高さは二・六メートル内外を測定できる。石室の石稜は最下段に大きめの石を使用、上位にかけて小さくすることを基本とし、玄室には持送りの積み方が観察できる。
 遺物の出土状況等は報告されていないが、比較的盗掘をまぬがれているようで、市内における横穴式石室の副葬品のセッ卜関係を示す内容をもっている。石室内部からの出土遺物を挙げれば以下のようになる(図54、写真39)。須恵器は杯蓋一三、杯身八、高杯四、ハソウ二、提瓶三、脚付長頸瓶四などがあり、ハソウの一例は脚付のものである。鉄製品としては、太刀三、鉄鍬三以上、馬具の轡一組などがある。太刀は大小あり、柄の部分が鹿角装の立派なものである。装飾品として金環二、銀環一が挙げられている。石室内から縄文時代中期の土器破片も検出されている。
 中司照世は本古墳の石室の規模に注目し、横穴式石室の玄室高が人の身長を上まわるのは、地域における首長墓が多い傾向にあるという指摘をして、本古墳の被葬者を位置づけている。本古墳の築造時期は後期古墳に属し、豊富な出土資料から六世紀後半に比定できる。


八幡神社

氏神は八幡神社。寛文年間に諏訪八幡を当地に勧請したものと伝える。
『敦賀郡神社誌』
村社 八幡神社 敦賀郡中郷村吉河字宮ノ下
位置と概況 本區は本村の最東北端に位し、南方は舊國道木ノ芽街道七町を經て坂ノ下區に、東北は東郷村谷及び中の兩區に隣接してゐる。西及び南北の大部は開けて、敦賀町を始め近郷の耕田桑野を、一望の下に見る景勝の地である。東に山を背負ひ、其の山麓は木ノ芽街道にて、人家はこの附近に群在する。氏神八幡神社は區の西方に當り、東南の一部は畑及び道を隔てゝ人家に隣接してある。昭和五年春參道を改修せしが、今又境内の拡張を計劃してゐる。域内は平地にて大樹の数ふべきものはない。本殿は南面して鎭座し給ひ、社背の北及び西方部は一帯の田野である。明治二十八年の水害と同二十九年の暴風の爲め、大いに社域の風致を損したれども、近年氏子はその整備に努力しつゝある。
祭神 應神天皇
由緒 按ずるに、當社は往昔より諏訪八幡宮と尊稱し奉り、御創立は詳ならざれども、後柏原天皇永正元年四月、今の御鎭座と相封する、小谷と稱する小山の頂上に奉遷したが、更に寛文年間今の宮ノ下地籍に遷し奉つたと傳へてゐる。明治十一年三月村社に列せられ、明治二十九年八月暴風の爲め社殿倒壊し、同三十年五月再建した。
祭日 例祭 五目月十日(元舊四月三日)

舊社趾 現在當社より南一町餘の直面した小谷と稱する山麓がある、こゝより緩阪約一町の頂上に、三百歩程の平坦なる地があつて、今は松林であるが往時當區の氏神諏訪八幡宮は、此處に鎭座せるを、寛文年間現在の地に奉遷したと傳へられ、今尚、舊社趾を區民はエチゼン様と稱してゐる。其の「エチゼン」の義は明瞭でないが、現在の御鎭座地名を宮ノ下と稱するは、全く往昔この小谷に神社がありて、現社地が、其の下に當つてゐたことの一證とすべく、又口碑と符合するのである。又この舊社趾附近に古墳が分布されてゐる。其れは次章の神社附近の遺蹟で略述する。
神社附近の遺蹟 當社より東北約三・四町餘の山麓に山口五郎助氏の住宅がある。この住宅地を俗に石倉と稱してゐるが、これは古墳であつて、明治二十八年と大正五年夏との二回に吸壺・坩堝・横甕・高坏二個、坏一組・劒身二振等を發見した。この出土品の一部は今に所持せるものがある。尚これと連続して更に一個あれども、これは未だ發掘されてゐない。此の外に神社より約二町餘の前田氏の住宅背後にも發見したることがある。この附近の随所に洞窟がある。之をランの穴と稱してゐる。又この山続きの向出山を岩山とも稱し、岩窟には狐狸が棲息してゐるといヘるが、恐らくこれ古墳の分布群集地であるかと推考する。この區附近一帶の地勢土質四圍の地理的状況より見ても、古墳築造の地相を存してゐる。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


吉河の主な歴史記録



吉河の伝説

『越前若狭の伝説』
お宮の杉  (吉河)
明治二十九年八月三十一日の真夜中、当時の吉河区長洒谷藤吉の霊夢に、氏神様がその家の緑先に立ち、「藤吉、藤吉。」と呼び、「あまり疲れたから、しばらくここに休ませよ。」と、お告げがあった。不思議な夢だなと思っていると、氏神の附近の奥田治郎四郎が、お宮の二本杉がただ今風で倒れて、神殿も倒壊したとあわてて知らせてきた。そこで夜中に区民に急変を告げて、さっそく現場に駆けつけ、御神体を奉持して、その宅へ奉遷した。お宮の境内にあった二株の大杉は、お宮の杉といって、おのおの幹の回りは一丈七尺余のもので、地方の名本とされ、俗謡にも「お前とわしとは、吉河の宮の、二本杉ほど思い合う。」とうたわれたものである。    (敦賀郡神社誌)



吉河の小字一覧

吉河  小林 上出 縄手 下前田 上前田 五反田 前田 西吉河沢 上行司 宮ノ下 海道 小谷 上海道 忍寅 藪ノ下 羽織 壱町田 折立 樋ノ水 田鍬 吹寄 鳥羽 上八反田 上モロケ 亀田 上関前 四町田東 五町田東 六町田東 北石ケ町 南石ケ町 西石ケ町 からから 三反長 狐塚 樋ノ水谷 小谷ケ洞 滝谷 小林谷 狼谷 向出

関連情報





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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