丹後の地名 越前版

越前

余座(よざ)
福井県敦賀市余座


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福井県敦賀市余座

福井県敦賀郡東郷村余座

余座の概要




《余座の概要》
木の芽川が、敦賀の平野部に出てきたところ。古来からの交通の要衝だと見えるが、今も道路や鉄道の幹線が集中している。
天筒(てづつ)山の南東端に位置する。隣りの大椋神社のある集落を大蔵と呼ぶのに対して、当地の氏神は横椋神社であることから、はじめはヨコクラと呼称したと思われる。座はクラと読むので横座となり、その後クラをザと読み、ヨコザ・ヨザと呼び、余座と書くようになったと伝えられる。しかしそうではなかろう、たぶん、その逆で、元々はヨザ、ヨサといっていて、それを横座とも書いた、その座を椋と書き替えてヨコクラと呼ぶようになったものと思われる。元々は当地はヨザ、ヨサの地であろう。丹後にも与謝郡があり、それをヨサ、ヨザと呼んでいる。ヨザ、ヨサの意味がわからないから、逆に考えたものと思われる。ヨザ、ヨサは日本語で考えても解けそうにもない地名である。従来の日本式古代史学なるものでは解けない盲点的な地名と想われる。21世紀にはぜひとも明らかにしたい地名である。

古代の与祥郷は、奈良期~平安期に見える郷名で、「和名抄」越前国敦賀郡6郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。天平17年(745)9月21日の仕丁送文(正倉院丹裏古文書)に「越前国敦賀郡与祥郷戸主神人根麻呂戸口」として大神黒麻呂の名が見える。現在の敦賀市余座付近に比定されている。郷域は木ノ芽川の流域一帯か。
『敦賀志』は、
余坐村 〔大蔵村の西に在〕
氏神横坐神社〔式内里俗白山権現と云〕 境内ニ 天照皇大神 氣比大神 常宮大神を同殿にまつれる御社ます、此村の名今ハよざと音にて唱ふれ共、古くハ余坐・横坐共によくらの仮借也、いつしか坐(クラ)を音にて呼事となれり、和名抄敦賀郷名の条ニ與祥と載られたり、資元此與祥ハ余坐の事成へく、はやくより思ひ定め置つるが、此ころ善妙寺の古書共を見し中に、永禄元年五月朔日の日付にて、天野弥七郎景重か新寄進状ニ、在坪ハ与祥村の西と見えたり、永禄元年ハ今より弐百九十年許前也、其頃迄尚与祥の字を用ひられし事、此文中に見えたるハいとめつらしく覚ゆ、
『大日本地名辞書』は、
与祥郷。和名抄、敦賀郡与祥郷。○ヨサカと訓む歟、今東郷に越坂村の大字あるは、ヨサカの訛なるべし、即東郷にあたる、敦賀の東北なる木目峠の山谷を云ふ。
『敦賀郡誌』は、
余座  舞崎の東に在り。往古は横椋と稱す。クラに座の文字を充てゝより何時しか古訓を失し、ヨザと呼ぶに至れり。隣邑に大藏あり、以て考ふべし。永祿元年六月善妙寺々領目録によさ村とあり。 氏神、横椋神社、村社。

与祥は何と読むのであろうか。ヨサカ、ヨサキ、ヨサム、ヨサチそのあたりではなかろうか、たぶんヨサ、あるいはヨソでもいいのかも知れない。丹後国与謝郡の与謝(与佐・余社)と同じ地名、同じ意味を持つと思われる。

中世の与祥村は、戦国期に見える村。永禄元年(1558)5月1日の天野景重寄進田地請文(善妙寺文書)に「在坪ハ与祥村之西ニ有」と見え、天文23年(1554)に景重の親が善妙寺に寄進した地を安堵している。この地は永禄元年6月5日の善妙寺領常住分新寄進注文案で「在坪ハよさ村之西有」とされている。同日付の善妙寺領目録に「よさ村之前」「よさのうしろゑほしかた」「よさの前竹の腰」「よさの西」などと見える。慶長3年(1598)の津内村検地帳写には「よさ」を肩書きに持つ藤大夫が見える。
近世の余座村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。慶長国絵図では敦賀町・大蔵村・井川村のいずれかの一部であったと思われるが不詳という。享保12年(1727)の家数20(高持13・無高7)・人数99、馬4。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数17(全戸農)・人数99、産物は莚420束、菜種11石余・大根4万5,000本・柴4,500束・割木7,000貫・桐実25石。同22年東郷村の大字となる。
近代の余座は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北50間、戸数18、人口は男52・女53。敦賀町近郊の乾田二毛作地であるが集落西北余座池見は排水不良の湿田で冬期・梅雨期には沼状となり減水が難しいという。同32年、一部が清水町1~3丁目、同55年若泉町・藤ヶ丘町となった。


《余座の人口・世帯数》 158・54


《余座の主な社寺など》

式内・横椋(よこくら)神社

鳥居の背後は国道8号敦賀バイパスの法面、それをまたいでいる真新しい高架は、北陸新幹線。

『敦賀郡神社誌』
村社  横椋神社  敦賀郡東郷村余坐字茶屋ケ谷
位置と概況 本區は往昔横椋と稱せしが、何時の頃よりか現今の如く改め、余社と呼ぶに至つたということなるが、そは文献に徴しても、又當區鎮守の社號より見ても疑ふ處がない。西南は八町餘にて舞崎區に、北方は二町にて大藏區に、東方は井川區に接してゐる。北陸鐡道線路は、木ノ芽川に沿ひて區の東南を走り、その車窓より鬱蒼たる森と、社號の標石が見へる、これが即ち當區鎮守の横椋神社にて、區の西北端に當り、天筒山連峰の茶屋ヶ谷の山麓にある。社域入口の社號標の邊より手水舎を経て、高さ六尺許りの石垣を築き、その中央に設けられた十級の石階を上りて拝殿に至る、これより更にコンクリート造の階段七階を級せば、本殿は西前面して鎭座し給ふ。社域には椎の老木が多く、東南の田圃はこれ等の樹木に蓋はれて社景を保持し、北西は一面に椎・松が林立し、特に近年は榊が多く植栽されてゐる。此の社は延喜の制の古社にて、境域一體古色を帯び轉た往時の面影を存して、神さびにけり余坐の古宮と詠みて餘りある。附近には民家もなく全く俗塵を遮つて清明閑寂、一段と神厳の気を深からしめてゐる。
祭神 伊弉諾尊  伊弉冊尊
由緒 按ずるに、當社は往昔より白山権現又は白山妙理大椎現とも尊稱し奉つた。延喜式神名帳に、越前國敦賀郡横椋神社とあるは、即ち當社にて、氣比宮社記には『左二幸臨山天筒東麓一也但大藏村ノ西方也』とある、敦賀志稿には横坐(ヨコクラ)神社とあり、坐(クラ)を音読せばザにして、今の地名である余坐は、横椋の音便によりヨクラとなり、再轉してヨザと云ひし音聲により誤り起れるものにして、余坐は假字なりとの事が記してある。明治十一年八月二日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月三日(元舊六月一日) 祈年祭 四月三日 新嘗祭 十一月十七日
特殊神事 紀念祭又は元祭と稱し、陰暦六月一日本村各神社の例祭日を統一せしにつき、古来の由緒ある祭禮日を忘れざるため設けた祭である。
 秋祭 陰暦九月十七日、秋の初穂を献じて祭典を行つてゐる。此の日宮講と稱して當番の家で直曾がある。詳しきは後章で述べることにする。
本殿 …
境内神社 (本殿外殿内に座す)
 明神社 祭神 天照皇大神 気比大神 常宮大神
  社殿 横椋神社御本殿の向つて左側に座す 屋根には千木勝男木を配されてある。

宮講 陰暦正月・五月・九月の三度、毎十七日には宮講と稱して、各戸必ず一人は神社に參拝し、當番の家にて古風のまゝの直會がある。當番は廻り順で六戸と定め、九月に限り秋祭と同日にて七戸と決めである。若し當番の家に凶事あれば交代する、講日には各戸より必ず一人は出席するので、戸主の代理であるものは男女子でもよい。直會は大藏區に於て行はれるのと同じであるから省略する。然して毎年宮講員中より二人を、一月十五日までに伊勢兩宮に代參せしめ、歸宅すれば直に神社に参拝するのである。
神社と傳證口碑 當區には古来黍を作らず、又畑の畦畔は決して二股にせぬと云ふ。其の由来は當社の御祭神白山妙理大權現が、畏くも此の地の畑の二股畦畔に躓き給ひ、黍の葉で御目を突かせ給ひしと言ひ傳へ、爾来この遺風を守ることである。

面白い伝説。黍で眼を突いた、何を意味しているものなのか。眼を痛めたは鍜冶屋のハナシかと思われる。樫曲の八幡神社にも稗の話が伝わり、東隣の大椋神社のムカデといい、鉱山を祀ったものか。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


余座の主な歴史記録



余座の伝説




余座の小字一覧

余座  取合 深田 茶屋 西丁田 耕中 地蔵前 コラ田脇 山神 前田 岸田 西鳫田清水 北山岬 茶屋ケ谷 笹ケ谷 疲ケ谷 赤丸


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん


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