京都府綾部市青野町
京都府何鹿郡綾部町青野
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青野の概要
《青野の概要》
グンゼ綾部本社があるあたり。舞鶴のネコのミーちゃんでもアスパは知っているが、その北側の広い一帯である。
青野村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。はじめ綾部村の枝村、のち分村独立した。由良川と旧河道の間の微高地は嶋とよばれていて、畑地として桑・木綿が多く作られた。旧河道は水田となり、その南の微高地は畑・屋敷地として用いられた。「丹波負笈録」は「青野村 古綾部郷親村古所也 家数五十軒」という。綾部郷12ヵ村の1。
綾部井堰が、当村を取り巻くように流れている、井堰は近世初期にはじめて築造したと伝え、綾部藩主九鬼隆季が入部した時には、すでに絵図に見えている。。対岸味方村との間に舟渡しがある。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年綾部町の大字となる。
青野は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。明治20年代以後何鹿郡で養蚕業が盛んになるにつれ、嶋の畑地は桑園となり当地は養蚕地帯となった。明治29年郡是製糸株式会社が地内に設立されて以後郡内の養蚕製糸業の揺藍の地、後の発達に大きな役割を果たした。昭和28年青野町となる。
青野町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市大字青野と大字綾部村の一部。昭和28年台風13号による大洪水では青野東側の由良川の堤防が切れて当地は激流を真っ向に受けた住宅・田畑に大きい被害を受けた。
《青野の人口・世帯数》 1514・654
《主な社寺など》
弥生~古墳時代~平安時代の埋蔵文化財がテンコモリ。
京都府の遺跡地図より↓
青野は全体に由良川の氾濫原で、低い土地、今でこそ人家もあるが一帯は桑畑だったという。現在は再開発の最先端地域になっているが、青野という地名のイメージとしては墓場というか死者の捨て場、人里離れた地のハテの広漠たる河原の所々に墓地、というか死体がほかしてあるような、人が最後にたどり着き倒れ込んだような人生のハテの終末の葬送の地であったと想像される。当時の庶民としては死者に何もしてやれない、不憫じゃ、と思っても河原は、賀茂の河原もそうであった、そうした死者の野捨ての地であった、後はイヌかトリかウジムシが喰ってくれよう。゛死穢゛と言うものを恐れて支配者どもだが、家で死なせてはならないとして、死期が迫った者や重病人なども庶民でも生きたまま河原に捨てたという。今でも喪中につき、とかの知らせが届くが、その時代の死穢観念が今に残るアカシのようなもの。
『方丈記』は、 養和の大飢饉に、平安京では餓死した人々の多くは路上に放棄され、「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり。」こうしたなか、仁和寺の僧隆暁は、路上に横たわる死者を供養してまわる。その数はわずか2か月間に平安京内だけでも4万2300余に上ったと伝える。
栄華のミヤコといえどもほったらかしの死体がゴロゴロの地獄、青野といえどもそうしたことである。悲しい土地だなあ、などとは考えないように、何者もこの運命からは逃れられない、ワタシもキミもそう遠からずそうなる、生きているということはまたそうしたことであろう、アホをしているヒマはない。終わりはまた新たな再出発でもある、と信じよう。げんにこの地がそうであるように。
…綾部の青野も、もともと由良川に隔てられ、河川敷の氾濫原のように、うち捨てられて不便なところであったのであろう。青野を訪れたあのときにも、味方の墓地を探しまわり、そこから由良川にかけられたJRの鉄橋横に設けられた通路を、汽車が来ないかとこわごわ渡り、テニス場を見おろしながら青野に入ったものである。幕末の嘉永五年ごろにも、いまだ橋はなく渡船したというが、まさにむかしの青野地区は陸の孤島であったのであろう。むかしの墓地としてまさにふさわしいところである。…
ところで「青野西遺跡」を発掘調査していた綾部市教委は、昭和六三年九月「弥生時代の方型周溝墓と、古墳時代の前方後方墳の過渡期にあたると見られる三世紀-四世紀の方形の墳丘墓一基を確認した」と発表。前方後方墳が方形周溝墓から発展した可能性を示す資料になるものとして、関係者の注目を集めていた(昭和六三年一〇月一日京都新聞)。やっぱり青の地として合点がゆく。
これはまさに、古い歴史に裏打ちされた本格的な墓地跡で、古蒼の青野地区の姿が目に浮かんでくるようである。丹波・丹後には私市円山古墳など、奈良方面にみられない墓が次々にみつかっており、今回の青野の墳墓もこの地方独得の文化の存在を裏づける貴重な遺跡であろう(森浩一氏)という。
*青野遺跡からは、弥生時代を中心とする数多くの住居跡も発見され、なかでもこれまで北近畿ではみつかったことのない弥生時代中期(約一八〇〇~二〇〇〇年前)の珍しい小刀三点が発掘された。鑑定の結果、それは奈良県西 部の二上山で産出する、石材のサヌカイトであった (昭和六二・三・一二-京都新聞)。弥生墓地に隣接して住居があったのである。
(『西丹波秘境の旅』) |
ところが、弥生後期~古墳時代にかけての遺跡が見つかった。墓もあるが、住居もビッシリとある、集落がそのまま残されていた。
たぶん当時の自然堤防の微高地上に人が住んでいたと思われる、遺跡がない所は川で、何筋にも別れて流れていたのかも知れない。青野遺跡は白瀬橋たもとから東側へ続いている。市立病院の一帯は青野西遺跡。グンゼスクエアのあたりは青野南遺跡。アスパのあたりは綾中遺跡。吉見街道の西側は西町北大坪遺跡・同南大坪遺跡という。
大河に近いこうした低い所はコワイのでフツーは人は住まない、漢部など呼ぶ以前の元々の先住の当地の住民、水に近い所に生きるアマ系倭人系の人々の住居ではなかろうか。土錘の出土があるというから、川がコワイよりも川に恩恵を受ける人達と思われる。漢部郷の故地と伝わる地で、ここから南の方へ移り住んでいったという。
ちょっと高いかなというというくらいの所で、いつの頃かバサっと洪水に直撃されてすべて流された、当時の村の遺構が泥土の下にきれいにすべて残されたかのように見える。まるで水のポンペイである。
青野遺跡
昭和48年に発掘調査された。由良川左岸の自然堤防上にある。住居址・土壙墓・溝などとともに集落の遺構が明らかになり、出土品からみて、弥生中期から7世紀頃の須恵器までを含む重層的な遺跡であることが確認された。また土器の型式などからみて、瀬戸内地方からの文化の流入伝播が考えられている。昭和51年の試掘調査により、遺跡はさらに東に広がっており、由良川中流地域で最大の住居址遺跡であることが確認されたという。由良川をさかのぼった組と南の方からやってきた組があったのかも知れない。
原始と古代の接点 ●青野遺跡
綾部市青野町一帯には、青野遺跡・青野西遺跡・青野南遺跡など由良川中流域を代表する集落遺跡がある。この地は福知山盆地の東端にあって、これより東は由良川が山間をぬって流れる上流域となっており、いわば、中流域と上流域の変換点に位置するなど、重要な位置を占めている。遺跡は、沖積低地の中で由良川に沿っている帯状の高まり(自然堤防)の上に所在する。現在の由良川は青野遺跡の東北方を流れているが、青野遺跡の西南方側には由良川の旧河道があり、かつては由良川によって青野遺跡と青野西・青野南遺跡が分断されていた可能性が高い。
弥生時代、稲作の始まりとともに、人びとはこの沖積低地に根をおろした。遺構・遺物とも確実なのは弥生中期に入ってからである。中期の居住域は未発見であるが、青野遺跡の溝跡などから、中期の土器とともに稲作に用いる石製の収穫用具などが出土している。自然堤防上に竪穴式住居で構成された居住域があり、より由良川に近い低湿地に水田を拓いていたものと思われる。また、墓域については、青野西遺跡第五次調査地点(今の青野町弥生団地)において、方形周溝墓群がみつかっている。
原始古代において、庶民の家といえば専ら竪穴式住居であるが、青野遺跡群内でも弥生後期以降の竪穴式住居が数多くみつかっている。弥生後期の住居は平面形が円形のものが大半であるが、弥生末期以降ではすべて方形住居となっている。また、住居内の厨房施設についても、最初は炉であったものが、五世紀後半頃からカマドに変化している。
これら青野遺跡群の竪穴式住居は、古墳時代末期頃から独特の形態を示すようになる。この時期の一般的な竪穴式住居はそのカマドが北辺(南辺入口の反対側)中央に付く。それに対して、当地の場合では住居の南東隅を掘り残してそこにカマドを構築するユニークな形態となっている。このような住居形態を遺跡の名を冠して「青野型住居」と呼んでいる。この青野型住居は由良川水系の他の遺跡にも点在する。しかし、青野遺跡や青野南遺跡のように一面青野型住居ばかりというような爆発的な現象は他の遺跡ではみられない。このような現象について、例えば渡来系氏族の流入と結びつける解釈もあるが定かではない。
七世紀に入ると竪穴式住居からなる古墳時代的集落も様変わりする。青野南遺跡では、掘立柱建物群へとしだいに変遷・整備されていき、やがて何鹿郡の中心として郡衛が形成されていく。こうして最後の竪穴式住居である青野型住居は縁辺部に押しやられ、そして奈良時代には消滅してしまうのである。
(『福知山・綾部の歴史』) |
「青野遺跡第12次発掘調査現地説明会・資料」
青野型住居は福知山の土遺跡や舞鶴の由良川筋遺跡でも見られるという竪穴式の方形の古墳時代末期頃からの住居。15畳くらいの広さがあり、6畳×2にキッチンが付いたくらいの建物か。ちょっと以前までは日本の町中の庶民の家もこんなものだった。竪穴式は水に弱く日本の自然には向かず、高床式に発展したくらいの変化があったくらいか。この後に姿をあらわす掘立柱式建物がそれと思われるが、竪穴式に住んでいた痕跡は今の住宅でも玄関の土間にわずかに残されている。
青野西遺跡
今の市立病院一帯の遺跡、域内に大塚古墳がある。
当遺跡の溝には、8世紀初頭頃の大地震の噴砂現象が残されていたという。ウソじゃヤシじゃと好き放題に騒いできた、しかしその「ヤシ文献」「偽書」の大宝元年(701)の大地震が本当であったことが裏付けられた遺跡。この地震は『続日本紀』にも記録があるが、同書を読めるほどの環境にあったヤシ著者なる者がわざわざ何の為か偽書を書いた、自分と同じような目的なしに(あるとすれば自分はエライモンだと言いたいことか)さわぐヤシ野郎だったと思っているようだが、まったくアホげた説得力はないハナシであることになった。。
大宝律令が成立して「日本」という名称が確定した七〇一(大宝元)年。この年の五月一二日(旧暦三月二六日) には、『続日本紀』に「丹波国地震三日」と書かれている。「丹後国地震三月」とする写本もある。
京都府舞鶴市の志高遺跡では、京都府埋蔵文化財調査研究センターの調査で約五千数百年前の砂脈が見つかった (第一章参照)。さらに、最大幅二〇センチでさまざまな方向に延びる新しい年代の砂脈も検出され、弥生時代から奈良時代はじめにかけての地層をすべて引き裂き、奈良時代後半の地層に覆われていた。
綾部市の市街地の北にある青野西遺跡でも同センターが調査を行ない、最大幅五〇センチで南北方向に延びる砂脈が見つかった。砂脈は古墳時代前期頃の竪穴式住居とその埋土を引き裂き、平安時代の住居の柱穴は砂脈を貫いていた。この遺跡の別の調査区では綾部市教育委員会が調査を行ない、同じ年代の幅一・三メートルの砂脈が見つかった。
これらの痕跡は奈良時代で八世紀の年代となり、『続日本紀』に書かれた七〇一年の地震の頃に、京都府北部が激しく揺れたことがわかる。
(『地震の日本史』) |
*由良川考古学散歩〈18〉*焼けた住居*
これは生々しい火災現場の写真である。モノクロ写真でわかりにくかろうから、実測図も併せて掲げよう。焼土や炭と化した木材が散乱しており、まさに家が焼けた直後の状況を示している。本来ならここで消防署の出動を願い、出火場所・出火原因の特定など、現場検証が行われるところである。しかし、これは今から千八百年前(弥生時代の終わりごろ)の住居跡なので消防署の管轄外であるらしい。
この住居跡は、青野西遺跡で多数検出されている古代の竪穴式住居のひとつで、現在の綾部市立病院建設時の発掘調査で見つかったものである。消防署の調書風に記せば以下のようになろうか。
物件 竪穴式住居1棟
(直径7mの円形住居、床面積38㎡、築後何年かは不明)
所在地 綾部市青野町大塚20-1(但し、当時の呼び名は定かではない)
所有者 不明
状況 全焼(住居の壁際にドーナツ状にみられる焼土と炭化材は住居の壁が焼け落ちたものと推定)
出火時間 西暦200年ごろ(詳細な日時不明)
出火場所 不明(中央部炉跡付近か?)
出火原因 不明(失火?放火?)
消火活動等 委細記録なし
火災による死亡・怪我等 無かったものと思われる
何ともたよりない調書であるが、発掘調査報告書によればこんなものであろうか。火災原因などまったくわからないのであるが、これがもし放火だとすれば次の二つの場合が推理される。まず第一は戦争によって焼かれた場合である。弥生時代というのはそんなに牧歌的な状況ではなく、ムラ同士の間にかなりの緊張が漂っていたらしいことが考古学の研究により明らかにされている。
第二に考えられるのは意図的放火である。意図的といっても火災保険が目当てではない。住居を廃絶するときに焼却処分にしたのではないかということである。あるいは疫病でも流行(はや)ったので家ごと焼き捨てたのかもしれない。
発掘現場では何にでくわすかわからない。このように時には火災現場にも遭遇し、そうした場合には詳細な調書をとらなければならないのだ。これが発掘「調査」である。(近)
(『舞鶴市民新聞』(95...)) |
「青野西遺跡の発掘調査について」
「青野西遺跡第5次発掘調査現地説明会資料」
青野大塚古墳
市立病院の駐車場となっているはしっこに、径16.5m・高さ3.4mの円墳がある。
墳頂部。雨にも流されずに高さがある。ホコラは以仁王を祀るもののよう。木は桜のよう、花見によいかも…。調査は行われていない。
大塚古墳
青野大塚にある。変電所の西南百二十米程の畑地にある円墳である。昔から大塚と呼ばれ、数年前より吉美の高倉神社の所有となっている。
大塚は以仁王にまつわる伝説があって、その遺骸を葬ったとも、鎧冑を埋めたとも、云われている。昔は高倉神社の祭礼に「ヒヤソ」踊の一行が川を渡って大塚に来り、踊を奉納したと云う。その時塚守の出口家では本家分家一年交代で一行二十五名に膳部で接待するのが例になっていた。
塚守の出口家は綾中より移住したもので、宅地は免租地であった。従って「ヒヤソ」一行の接待はそれに代る義務として明治維新まで課せられていたが、維新に際して宅地は官有地となったので、後出口家で払下げを受けにものである。
尚大塚を掘れば祟りがあると云う云い伝えがあるが、今から六十年程前、大塚附近の田普請に、前記両出口家や関係農家より十数名が出ていたが、或る時休憩時に両出口家の当主など四、五名が塚に上り、頂上を二、三尺掘り下げ竹竿を差し込んだ処、相当深く入った所で固い石棺様の物体に行き当つたと思うと、地中より妖気が舞上り、塚上の連中は俄に気分が悪くなり、悉く高熱を出し病臥したと云う。特に竹竿で突いた者は一時危篤に陥つたと云う事実があった。(出口文吉氏淡)その後、塚に触れる者がなくなり、今も祟りを恐れて余り近寄らない。
大塚には今一つ百米程西方に小塚があったが、今は全然なく畑になっている。これ等の塚は所謂古墳時代のものと思はれ、附近一帯は祝部土器や土師器の破片の散布地であり、後世以仁王の伝説と大塚が結びつけられたものと思はれる。
(『綾部町誌』) |
青野南遺跡
何鹿郡衙と推定されている。何鹿郡衙は赤国神社あたりにあったと以前は推定されていたが、発掘調査の結果、当地ではなかろうかという。フツー郡衙といえば200メートル四方の広さがあり、40棟くらいの建物群があったという。近くには古い宗教的な中心があるものという。当地には古い神社がないので綾中廃寺をそれに当てたものか。
青野南遺跡の地方官衙遺構について
綾部史談会 中村孝行
一、位置と環境
青野南遺跡は、京都府綾部市青野町に所在する集落・官衙遺跡である。この遺跡は、福知山盆地の東端部、由良川左岸の低位河岸段丘上に立地する。青野南遺跡の所在する段丘面には、現在の綾部市街地が広がり、遺跡の周囲は近年かなり市街地化されたものの、東及び北側には水田が広がり、市街地に近接する農村部でもある。周囲には多くの遺跡が分布している。由良川右岸地域には久田山古墳群、以久田野古墳群を始めとする数多くの古墳が分布する。一方由良川左岸には弥生時代中期以降の集落遺跡である青野遺跡のほかに、青野南、綾中遺跡も集落遺跡として確認され、これらを総称して青野・綾中地区遺跡群と呼んでいる。青野・綾中地区遺跡群の中には、前述の集落遺跡のほかに白鳳時代創建とされる綾中廃寺跡、また、ここに紹介しようとする青野南遺跡においては大規模掘立柱建物等の官衙遺構も見られ、多彩な歴史景観を呈している。
二.調査の経過
青野南遺跡の発見は、昭和五十二年度に綾部市教育委員会が実施した青野遺跡第三次調査に始まる。この調査の際、青野遺跡からは旧河道を隔てた南側河岸段丘上において竪穴式住居跡を確認し、青野南遺跡と命名したものである。
昭和五十六年度には、都市計画道路がこの遺跡の中央部を東西に貫通することとなり、その事前調査を実施した。この結果、調査区域内から竪穴式住居跡・溝等のほかに、掘立柱建物跡・柵列を検出し、その遺構の状態から官衙的性格を有する建物跡と推定するに至った。
さらに昭和五十七年度調査によって、掘立柱建物群の北方向への広がりを確認し、また柱穴の重なり合いから、二~三期の建物群の存在することが明らかになった。
三、遺構の概要
青野南遺跡において検出した遺構は、掘立柱建物・柵列・竪穴式住居・溝・土壙等である。これらの遺構の中で掘立柱建物群について見ると、ここでは掘立柱建物六棟、柵列(一本柱列)三列を検出し、これらに、昭和五十五年度綾中廃寺跡第二次調査において検出した掘立柱建物一棟と柵列二列を、同様の遺構として加えることができる(第一図)。これら建物群は、方位関係から二群の建物群に大別できる。まずA群はSB八一○七・一五、SB八二○八で、N-十二度二十五分-Eの方位を指すものである。次にB群は、SB八一○八・一一・一二、SB八○○五の四棟の建物と、SA八一○一・○二、SA八○○一・○二、SA八二○一の五列の柵列を含み、N-四度-E前後の方位を指すものである。なお、SA八二○一はSA八○○一の延長線上にあり、同一柵列と見なすこともできる。これらA・B二群の間には一○度近い方位の差が見られ、また、SB八一○七とSB八一○八とは位置的に共存し得ない関係にあることからも、両群は時代を異にするものと考えることができる。A・B両群の前後関係については、出土遺物等からA群が古く、B群が新しいものと推定している。
A群の建物構成は必ずしも明らかではないが、現在までに確認した三棟の建物は、いずれも二間×四間程度の比較的小型のもので、これらが正方形またはコ字型に配置されていることが推定できる。各建物間の方位はよく合致し、これらが計画的に記置されたものであることを物語っている。
B群に含まれる遺構としては、大型建物SB八一○八を中心として柵列および小型の建物を検出しているが、各遺構間には方位的な統一性と共に、完数尺を用いた計画的な配置が行われたことがうかがえる。さらに、一辺一メートルを越える方形の柱穴掘り方を有し、桁行二○、四メートル、梁間五、一メートルに及ぶSB八一○八は、地方官衙の中心部に位置する建物として遜色のないものと言えよう。これら建物群を官衙遺構と見た場合、この地方で考えられるのは、丹波国何鹿郡の郡衙跡ということになる。周囲の歴史的環境も、多数の七世紀代の竪穴式住居跡群の存庄や、隣接して所在したものと推定する奈良時代前期の寺院跡など、郡衙成立の要件を備えるものと言える。
四.出土遺物と遺構の年代
青野南適跡において出土した遺物は、須恵器・土師器の土器類が中心であり、そのほかに若干の石製品、瓦セン類、中世陶磁器がある。 竪穴式住居跡から出土する遺物は、須恵器にあっては杯身に短い立ち上がりを有するものをわずかに含むが、大半は宝珠つまみの付く小型の杯蓋と併行する時期のものによって占められ、高台を有する杯身もわずかに見られる。
このことから、堅穴式住居跡の年代は、七世紀の前半から中葉のものとすることができよう。掘立柱建物に伴う遺物は少なく、柱穴掘り方から出土する土器類も建物の年代決定には不適当な場合が多い。掘立柱建物B群の上限を画するのに関与する遺物としては、SB八一○八の柱穴掘り方から出土した平瓦片が挙げられる。これは、七世紀後半の創建とされる綾中廃寺の創建瓦であることから、SB八一○八が綾中廃寺の創建年代をさかのぼることはない。一方、下限を画する良好な資料も見当たらないが、掘立柱建物周辺からは、返りの消失した大型の杯蓋とこれに伴う杯身が多く出土し、これらを伴う竪穴式住居跡の見られないことから、この遺物が掘立柱建物に近い年代の遺物かも知れない。掘立柱建物A群については、昭和五十七年度調査によって、SB八二○八の上層に宝珠つまみの付いた小型の杯蓋を含む土壙の存在することが明らかになった。これによってA群の時期が当初の予想よりかなり古いことも考えられるが、現在遺物等の整理中のため、今後の検討課題としておきたい。
五、まとめ
青野南遺跡の掘立柱建物群の発見によって、今まで不明であった何鹿郡衙の所在地を推定できることとなった。また、七世紀住居跡群の存在や、奈良時代前期創建の綾中廃寺等、郡衙を取り巻く環境は、この地方の古代史を解明する上で益々重要性を増しつつある。都市計画道路の完成と共に、更に市街地化の進行が予想されるこの地域の中で、埋蔵文化財の保存について、十分の配慮と対応がなされることを望みたい。
(『両丹地方史37』(83、7、31)) |
「青野南遺跡第9次調査説明会資料」
二宮神社・三宮神社
二宮神社の南方に三宮神社があったが、昭和45年に二宮神社に合祀されたという。
三ノ宮 南 青野村 二ヶ所
祭ル神 豊斟渟ノ尊 祭礼 八月十五日
二ノ宮 北
祭ル神 素盞烏ノ尊
在中二ヶ所ニ祭ル 鳥居ノ額有リ 森凡二十間四方
舞堂 鳥居
(『丹波志』) |
二宮神社(青野)
祭神 国常立命、国狭槌命
本殿を二座に分け、向つて左が国常立命、右が国狭槌命である。昔からあらたかなお宮として、御神体は勿論、本殿の掃除さへ恐れてしなかつたと云ふ。境内に周囲三・五米の大檜がある。
三宮神社(青野)
祭神 豊斟渟命
境内社に祇園神社がある。昔から毎年夏祭が盛に行はれている。又境内に大欅があるが、周囲七・五米もあって綾部随一の大木である。
(『綾部町誌』) |
白尾稲荷神社
白尾稲荷神社(青野)
嘉永二年、鍛治屋治助、寅屋与三右衛門、三方屋清兵衛、扇屋広右衛門、紙屋佐助の五人が世話方となり、伏見稲荷神社より勧請し白尾稲荷大明神と称した。
明治三年廃社を命ぜられ、止を得ず青野の桜井八郎右衛門邸に移されたが、其の後現在の地に祀られ、特に芸妓などの信仰が厚く、遠方からの信者も少くない。毎年行はれる初午の祭礼は有名である。
(『綾部町誌』) |
臨済宗妙心寺派青野山宝積寺
青野山宝積寺 禅宗 綾部隆興寺末 青野村
本尊 地蔵 行基作
(『丹波志』) |
宝積寺(青野)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 地蔵菩薩
青野山と号す。元和年間の創立、享保十二年再建、其の後宝暦六年及び天保五年に造営している。山門の偏額は白隠禅師の筆である。
(『綾部町誌』) |
グンゼ製糸
青野は郡是製糸の発祥地。グンゼを知らぬ人はなかろうが、買わない人もなかろうが、さらにグンゼを買って下さい、別に宣伝料とかは頂いておりませんが、かってにおすすめ、お願いしまっ。
吉見街道に沿ったこのあたり、昔と同じだが、道が広くなって整備されている。立派に作りかえられたが、しかしもう何かすでに寂れているような、負けで忘れられているような…。斜陽化しかけているものを観光開発のメダマにするといっても頭の中で考えるほどには簡単ではなかろう。。旧海軍の倉庫をメダマにして、アホほどの税金を貢いぎ込んで300万人を集めるとかの、ゼニ勘定も出来ぬ者の大風呂敷辟易の超迷案と較べればそれはずっとマシだが。。
『何鹿郡誌』より↑
今とあまり変わらない、玄関のポーチができたくらいか。
何鹿郡の一帯も養蚕は盛んであったが、農間稼ぎであって余技のアルバイトのようなもの、最初は桑も蚕も製糸技術もヒドイもので、この産業の中心は関東の官営の富岡製糸工場とかあるように、あちらの方であった。明治18年の東京上野の五品共進会において、京都府出品の繭は「本会列品中恐らく粗のさきがけならん」と酷評される状態であったという。自信を持って出品したが、ほかを知らない田舎者の井の中の蛙、恐れを知らぬというか、何とドンジリの超名誉を授かることとなったという。ほかのことも勉強するでなく、勝手にワシがサイコーと思い上がっていたのに、我が身のその愚かの極みにリコーにも気が付くことになった。この大恥ショックが綾部を変えていく。
明治20年代に入ると、今の綾部市高槻町の山室杢三郎が「長瀬桑」の品種改良に成功した。これによってそれまでの桑苗移入地から、一躍全国的に優秀品種生産地となった。当時、桑苗1本米1石に近い値で売られたと伝えられる。長瀬桑は関東方面にも広がっていった。また、明治20年にもと綾部藩氏族授産場を借りて養蚕伝習所が成立し、まず20%の指導者を養成した。これはのちに郡是製糸社長になる波多野鶴吉の構想に基づくもので、簡易伝習所は綾部・中筋・東八田・物部・中上林・奥上林にも設けられ、明治25年からは養成された技術者が簡易巡回教師として、各町村に配置されるなど、養蚕から製糸まで郡全体の技術を統一し向上させることになった。その間「烟気取」と呼ばれる丹波地方独特の自生技術も完成されていったという。舞鶴(田辺)もそうだが、元士族(藩士)がクビになって喰っていく方法として製糸業の中心になっていくことが多かったが、何鹿は農民であった。彼らはお互いに学び合って賢くなっていく。そうした流れのなか、明治29年に郡是製糸株式会社が設立された。波多野鶴吉は、前田正名を東京から招いて演説会を組織した。1、500名の聴衆には「国に国是あり、府県町村それぞれに是なかるべからす」という前田の所説が共感をもって迎えられた。新しい会社は郡是と名付けられた。出資者は波多野の兄で、近世以来豪農である羽室嘉右衛門が筆頭株主ではあったがその持株は1割にも満たず、全体の75%にあたる700余名は1~2株の小株主であった。すなわち養蚕農家が自ら株主となって参加したのであった。
郡是製糸はその後次第に一人歩きして養蚕農家を支配していくことになるが、ほとんどを輸出向けにした生糸生産は増大し、郡内の養蚕業も拡大の一途をたどった。大正2年には、綾部郡是(のち神栄製糸)が創立され、現在まで、社名変更したグンゼとともに繊維の町綾部を形づくってきたという。
蚕糸に託した郡の未来 ●波多野鶴吉と都是の創立
明治の世となり、海外へ門戸を開くようになると、生糸は重要な輸出品となり、その生産を伸ばしていった。綾部でも当時、製糸業を行なう者がおり、国内向けの太糸をつくっていた。
明治一九年(一八八六)、京都府の蚕糸業を奨励するための機関である京都府蚕糸業取締所設立の発起人会が福知山で開かれ、これに何鹿郡代表の一人として二九歳の波多野鶴吉も参加していた。彼は、後には取締所頭取となり、府下の蚕糸業の指導者となった。養蚕技術の普及のため、各地に養蚕伝習所が開かれ、明治二六年には高等養蚕伝習所(現綾部高校)が創立された。鶴吉は、自らその所長となって技術者養成に努め、さちに、若者を養蚕製糸の先進地へ技術習得のために派遣したり、生糸の規格を統一するための共同揚返所を設置した。一方、生家羽室家の屋敷内で一〇釜(後に三四釜)の羽室製糸の経営にも乗り出している。なお、明治二三年にキリスト教に入信したが、そのことが後の郡是経営にとって重要な意義をもった。
このように何鹿郡蚕糸業の発展を模索しながらも漸次確信を固めていき、いよいよ明治二九年六月、郡是製糸株式会社を設立した。その特色は、あくまで何鹿郡を蚕糸業によって発展させようという強い地域意識に貫かれていることである。「郡是」とは、郡を発展させるための基本方針を意味するが、大正期になるとこうした在地主義は次第に薄れていった。
同社は、その当時の何鹿郡産繭額三、五〇〇石を原料とし、一六八釜・従業員二二〇名・資本金九万八、〇〇〇円から始まった。株(四、九〇〇株・一株二〇円)については、何鹿郡内の養蚕家に一株、二株の少額株主になってもらい、それによって養蚕家と会社の結びつきや原料繭の確保に役立てた。また、郡内小製糸家を合併し、その従業員を受け継いでいった。さらに郡内養蚕家の子女を製糸工として採用し、寄宿舎でキリスト教の精神に基づくしつけや、華・茶・裁縫などを教え、地元養蚕家の主婦として送り出している。このように会社と養蚕家との結びつきを深めた。創業から一〇年間は、釜数も工場も増加せず、配当もあったりなかったりの苦しさがあったが、日露戦争と第一次世界大戦による好況や輸出生糸の高騰、正量取引による養蚕家の信頼、さらに米国スキンナー社との生糸の特約取引、金融家安田善次郎との信頼関係などの幸運にも恵まれ、大正一四年(一九二五)には工場数二四・釜数六、四七八・従業員一万一、八〇〇人・資本金二、〇〇〇万円と大きく発展した。
戦時中は蚕糸統制で衰微、代わって軍需工場となり、その中堅工業技術者養成のため社内に綾部工業学校(現綾部高校)を設立した。戦後は原料繭の不足や化学繊維の発達のため製糸業は漸次衰退したが、「グンゼ」として肌着や婦人靴下を中心とした多角経営に変貌している。
(『福知山・綾部の歴史』) |
波多野先生遺徳碑
碑文謹訳
波多野先生遺徳碑
正二位勲一等伯爵清浦奎吾題額
丹波八上城主にして従三位を贈らる。波多野君、諱は秀治。尊王事蹟炳として汗青(史書記録)を照らす。其の後裔にして中上林に居る者を鶴堂先生と曰う。先生諱は鶴吉、本姓は羽室、波多野氏を冒す。人と為り、誠愨(まごころがあついこと)謹直にして創始の才あり。夙に済世の志を抱き、以て我国富の源は蚕糸貿易に在りと為す、年、未だ壮ならざるに蚕業一筋に志し、其の企画するところを渝ず(変えない)。闇然たれども日に章かとなる。
明治十九年、何鹿郡蚕糸業組合を創めて、其の長となる。三十一年、蚕業同業組合と改称し、長と為るは故の如し。又京都府蚕糸同業聯命会組長を兼ぬ。大正五年三月、皆、之を辞して専ら、郡是製糸株式会社を経営す。先生は府郡の蚕業を統ぶること三十余年、農家に勧めて養蚕の法を改め、製糸家を督して治糸の術を究む。伝習所、講習所を設けて、人材を教育し以って指導の任に当らしむ。道徳経済に薫化頗る行わるるは此れ其の誠が之を動かす者なり。昭和七年四月、官は法を改め、蚕糸同業組合を廃す。惜しいかな先生の遺業は一隅に、忽ちその名を亡ぜんとす。然れども.其の実は既に府下に遍く、何ぞ必ずしもは区区たる何鹿郡と謂わんや。先生、郡是会社に長たること亦、久し矣。大正六年十一月、皇后陛下行啓され効績(功績)を嘉賞され、七宝香爐を賜う。実に光栄と謂うべきなり。七年、二月二十三日、溘焉として(急に)長逝、朝野ワン惜(悲しみ惜しむ)す。是より先、緑綬褒章を賜い正六位に叙せらる。
没後、大日本蚕糸会総裁載仁親王、恩賜賞を追贈するは亦.以って其の誠の感ずる所を見る可し。(矣。)
初めに先生、郡是会社を創むるや、曰く、以って何鹿一郡の蚕繭を治むるを得れば則ち足れりと。而るに今や、工場は三十余を置き、綿として(連なるさま)本土、九州、朝鮮に施及(広く及ぶさま)す。其の生糸は本邦輸出の十一(十分の一)を優占し以って、国家の富?に貢献す。
此の期せずして自に至りし者は惟うに先生の至誠、能く之を成したるなり。先生??に基督教を以って会社に訓え、後に川合信水先生に請いて、自ら学びて後に人を治めんと欲し、弟子の礼を執る。天道の説全きを聞くや、面目を新らたにして躬を以って範を示めし大行を(大事業)教化す。没せんとする日、在郷軍人会に抵りて日本魂の義を論じ、慷慨激越して疾俄かに発して終に立たず。嗚呼、先生の尊王済世の志業は死に至りても口に絶たず。能く先徳に対揚(匹敵すること)する者と謂うべきなり。
頃者(近ごろ)前組長小雲君嘉一郎等、碑を建て、以って、先生の遺業を勒せんと欲し、(刻む)、
予に文を請う。因りて見聞する所を略叙す。(あらましを述べる)銘に曰く。天の命ずる所、篤く信じて疑わず。師の教うる所楽しみて以って之を行う。道義を根と為し、暢條(のびるさま)として枝を分ち、滋蔓、四疆す(四つに分れて)。蚕桑繭糸は斉家の本にして富国の基。扶桑(日本)槿域(朝鮮)遍く光輝を見る。皇后行啓され紫惟に賜謁す。恩栄、前に光る。遺業は隆として四雄(尾)山麓、由良川のビ(岸)に施ぶ(及ぶ)。豊碑(功徳をしるす大いなる石)に深く刻む。徳聲以って熙る(広まる)を。昭和七年八月中瀚(中旬) 内田又一郎 撰文
従七位 小川鈍 書
波多野翁頒徳碑移転の記
この碑は昭利七年八月、何鹿郡蚕糸同業組合が解散の記念に、同組合ならびに郡是製糸株式会社の創設者波多野鶴吉翁の遺徳を偲び、並松町の波多野記念館(現市民センター)前に建立されたものであります。今回グンゼ創立佐八十周年を機会に波多野翁顕彰会とグンゼ南丘会の要望をもとに関係者の賛同を得て、翁にゆかりのこの地に移設し、永くその偉容をとどめることといたしました。
題額 伯爵 清浦 奎吾閣下
内田又一郎先生
小川 鶴斉先生
昭和五十一年十一月
綾部市長 羽室 清
グンゼ株式会社取締役会長 小林 実
元何鹿郡蚕糸連合会会長 山口武右衛門 |
グンゼスクエア
最近できた施設。綾部バラ園↓
バラ園の真ん中に咲くアンネのバラ。その中央の金属プレートは世界連邦のマークで、公園全体もこのマークのように作られている。
アンネのバラは舞鶴では1リンだけ咲いているのを見たことがある、それくらいのマチなのかも知れない、もうすでに亡びているようなマチか。隣だが綾部市民はレベルが違う、案内板がある。
アンネのバラ・日本伝来と伝播の真実
”もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、わたしは世界と人類のために働きます。戦争が何の役にたつのでしょう。なぜ人間は仲よく暮らせないのでしょう。”
第二次世界大戦時ナチスに捕えられ、強制収容所で15歳の短い命を失った少女、アンネ・フランクが、苦悩の隠れ家生活の中で平和を訴えた日記の一節である。「アンネのバラ」はベルギーのバラ育種家デル・フォルグ氏が育成した新品種で、アンネの死を悼んで「アンネの形見のバラ」と命名し、アンネの遺志を伝えるため活動していたアンネの父、オットー・フランク氏に贈られたものである。
このような、平和と命の大切さを伝えるアンネのバラが日本にもたらされ、広まるにあたっては、そこに不思議な綾部との大きなかかわりがある。
綾部市白道路町出身の大槻武二氏が1946年に創設した「聖イエス会」の合唱団が1971年海外演奏旅行に行った。
その途中、イスラエルのナタニアで一人の初老の紳士が合唱団に声をかけてきた。彼こそアンネの父オットー氏であった。
オットー氏は、恐怖のアウシュビッツ強制収容所から、家族の中でただ一人生還した人である。
合唱団帰国後、メンバーの一員・大槻道子氏はオットー氏との間で文通を重ね友情を深めていった。1972年クリスマスに、オットー氏から「アンネの理想と理念に対して深い理解を寄せて下さるあなたにアンネのバラを託します」との手紙を添えて、10本の苗木が送られてきた。しかし、長旅のうえ検疫や冬の寒さにより10本のうち9本は枯死寸前で、ただ1本だけが京都・嵯峨野教会の大槻武二氏の庭で根付き、1973年春、日本で初めてアンネのバラの花が咲いた。
1975年、大槻道子氏は渡欧して、オットー氏とスイスで再会した。翌年春、再会記念として再度10本の苗木が送られてきた。この時の10本はそれぞれに増やされていったと思われるが、すべては把握されていない。しかし、その中の1本を増殖のためにと託された綾部市高槻町の山室隆一、建治父子の事は特筆したい。
隆一氏は大槻武二氏の義弟で、建治氏は道子氏のいとこである。高校の教師だった二人は、このバラによってアンネの平和への願いを伝える事が使命と信じ、託された1本をもとに接ぎ木による増殖を始めた。平和を願う全国の人々に送り続けたバラは、今年3月までに約8000本となった。
こうしてアンネのバラは、「愛と平和の使徒」として日本各地で愛される存在となっている。 2010年10月16日
寄贈 アンネのバラ 山室建治
綾部市制施行60周年市民会議
市民バラ園整備実行委員会 |
あやべ特産館↓(バックの建物)
グンゼ博物苑↓(内部)
大きな駐車場がある。タダ。
グンゼも大事で綾部の誇りだが、グンゼばっかりに片寄りすぎかも、さらに古いグンゼ以上かも知れないすばらしい歴史のある土地であることを忘れないでほしいと願う。
しかし古い物はそこそこでよい、知っているに越したことはないが、知らずともとりあえずはやっていける、すぐ近くに本社工場があるのだから今の最新のグンゼ技術を見せてほしい。観光で売り出すというなら、そのメダマは最新鋭の方であろう、特に若い人を引きつけたければ、この道であろう。最新鋭はヒミツ、隠しておいて、若い人来て下さいはない、こうした企業のゼニ儲け根性では未来は描けまい。グンゼ様のことを言っているのではないが、古い伝統の上に今はどう進化しているのか、どんな課題が残されているのか、さらに将来はどうしようというのか、こちらの方がはるかに面白そう。
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
青野の主な歴史記録
『目で見る福知山・綾部の100年』
郡是製糸の教婦と工女(綾部市・大正中期)
黒衣黒袴姿が教婦。工女の直接指導者であり城丹製糸科や女学校出身者を養成した。工女は小学校卒業者で全寮生であった。創業初期は近辺の養蚕家子女であったが大正期には九州・東北からも募集された。
今なら憲法違反、労基法違反。こんな子供を酷使してゼニをかせぎ近代化軍国化して軍事大国になり、ついに大負けしたとか、いまだ立ち直れず、スンバラシイスンバラシイと自画自賛するアホなムキもある。
グンゼ製糸の歴史
綾部市・綾部小 六年三組 松田とも子・藤山純子・上田美穂子・相原千晶・出野久美
綾部の町は山にかこまれた町です。
わたしたちは、グンゼについて調べることになりました。グンゼ製糸工場というと、地元の人たちは、もうすっかりおなじみの工場だと思います。グンゼでは下着やくつ下、パンティストッキングなど昔から数多く生産しています。そこで、校長先生や八木先生に聞いた話や、実際グンゼに行って聞いたこと、見学したことをまとめてみたいと思います。
由良川は一級かせん(河川)で全国に流れている川のなかでも長い川だそうです。わたしはそういう自まんできる川があってうれしいです。なぜグンゼのことに由良川が出てくるかというと、グンゼは生糸をつくっていました。生糸をつくるためには蚕が必要です。由良川の川すじにはたくさん桑がつくられていました。蚕をかうことは、むかしには米作りの次に大切な産業だったそうです。
わたしの家でもむかしは蚕をかっていました。わたしの小さいころ、畑に桑がたくさん作ってあったことを、今でもはっきり覚えています。その桑はおじいちゃんやおばあちゃんがリヤカーでたくさん運んで売りにいっていました。わたしの家の天じょうは高い。おばあちゃんに聞いたんだけど「蚕をこうとった家はみんな天じょうが高いんやで。なんで天じょうが高いかというと、蚕を入れたたなをつんで、たくさんかわんなんからや」とおしえてくれました。
明治元年に、奥上林、中奥上林にはじめて製糸工場ができました。そのころは、手で生糸をつくったそうです。明治一五年、中奥上林では機械で生糸をつくりました。
明治一八年に品評会があって、そこに出した綾部の生糸がビリから一位になって、こんなことではいけないと、みんなで協力して始めたのがグンゼです。なぜグンゼ(郡是)という名がついたかというと、何鹿郡の郡をとって郡の方針という意味で郡是としたんだそうです。そのころ綾部は何鹿郡でした。〝是〃というのは「これがよいという方針」という意味です。グンゼができたのは明治二九年六月です。
グンゼでは女工さんたちの手によって、きぬ糸がしあげられていったそうです。あつい三六度のおゆに、四つ五つのまゆを入れて、ほぐした糸をよりあわせ、きぬ糸にするのです。毎日のように、あついおゆの中に手をつけなければならないので、女工さんたちの手は、皮がむけてザラザラしていたということです。私たちより二つ三つしかちがわないのにそんな苦労をするなんて、えらいなあと思いました。大正十年ごろが一番さかんで、十四・五才までの人が一番多く働いていたんだそうです。この人たちのことを糸ひきさんともよんだそうです。ふるさとの父母と別れて、すみこんで、五・六人ずつ一つの部屋でねとまりし、朝サイレンがなると起き出して、働きに行き、十三時間労働でした。はじめは二人で一つの手まきをうけもち、二人でやっていましたが、最後には二十かせんもの機械を一人でうけもたされたということです。
あちらで糸が切れ、こちらで糸が切れ、とても気苦労があったそうで、途中で切れたのに気づかずそのまま回して、太さが細くなってしまい不合格になって、あとで部屋によばれてしかられる時が一番悲しかったそうです。
そのころ、かわい先生という、とても立派な先生が働くだけではいけないといわれて、誠修学院というのをつくられて数学、国語、さいはう、お茶、ぎょうぎ作法などが教えられたそうです。まっ黒な服を着て町を歩かれると、誠修学園の生徒であることがすぐわかる。誠修学園に入れておけば、まちがいないという信頼から遠くの方からも、誠修学園に入るためグンゼにつとめた人も多いそうです。
この綾部でも、女の人はグンゼにつとめました。
わたしたちは、グンゼの事をもっとよく理解するために、「あゝ野麦峠」をみに行きました。会社はちがっても、同じ製糸工場をモデルにした映画でした。
野麦峠を通って、ふぶきのあれる中を四十里もの道のりを雪に足をとられながら歩く、大勢のしんこたち。とてもかわいそうでした。よく働いた時は「百円工女さま」と使えるだけ使って、けっかくという病気になると「立入るべからず」という立札を立てたせまくるしい小屋におしこめて、お医者さんにもかからせないで、看病もしてやらず、家族の者をむかえにこさせ「医者代や、いろいろ手間賃をはぶいたら一銭もはらえねえ」といっておい返すなど、ほんとうに悪どい人たちでした。つらさにたえきれなくなって自殺したのも一人や二人ではありません。むちでたたかれ、食事の時間は五分間。時計を回して、朝は二十分早く、夜は二十分遅く、こんなことでは体が弱ってしまうのも無理はありません。つらくなってにげ帰れば、前金にもらった十円の五倍の五十円を親がはらわなければならなくなって、父さん母さんにめいわくがかかるためどうすることもできず、自殺していくのでした。
私はその人たちが、自分の無力さをどんなにくやみ、悲しんだかわかる気がします。
金持ちの人たちは、だんぼうのかかった部屋で、はなやかなきぬの衣服をまとって、毎日でもダンス会をすることができるのに、自分でつくっていながら、それを着ることができないなんて、何となさけなかったことでしょう。
波多野鶴吉翁の銅像は南が丘に建てられています。ここに四〇年間も建ててあるそうです。ここだったら空気もいいし綾部の町がよく見おろせます。
私は波多野さんの銅像をクロッキーしながら思いました。その顔はまるで、波多野さんとあったこともない人間でも、一目でその性格がわかるようでした。おだやかに高い所から下の風景を見おろしているようすは、やさしさがかんじられました。
波多野鶴吉さんは一八五八(安政五)年に綾部市に生まれました。そして一九〇一(明治三四)年グンゼの社長となり大正七年二月に亡くなるまで、六五年間グンゼのためにつくされました。
銅像の後には、グンゼ製糸株式会社をつくって、養蚕や製糸の発展にちからをいれたことや、キリスト教の信者として信仰と、仕事を愛し、郷土のためにつくしたということがかかれてあるのだそうです。
私は、今後もあの高いところから、これからのグンゼの発展を見守っていてほしいなと思いました。
グンゼは京都府では一番に機械を入れました。このころから栄えはじめました。
大正時代のグンゼ工場の生糸の生産数量は九五・五%というとても大量の輸出だったそうです。ところが、大正三年の資本金は十五万円だったのに、それ以上使ってしまい、倒産寸前でした。そのころの農家の収入は次の表のとおりです。
こうしてみると、普通農家よりも養蚕農家の収入は多く、支出の面では支出と収入が同じでとんとんだということがわかります。
あくる大正四年から、日本の経済はうって変ってよくなりました。すなわち世界の国が品物をほしがるようになったので、輸入より輸出がさかんになりました。その輸出はアメリカ、中国を中心に生糸、絹織物が主でした。しかしグンゼの輸出を独占していたスキンナ商会が生糸でそんをして、お金がはらえなくなったのでこんどは三井物産と新しく取り引きを開始し、会社の年間取り引きの六〇%~七〇%をしめるようになりました。
大正五年には岡山県に津山工場を建て、府下、兵庫県以外に工場を建てたのはこれが第一号でした。大正六年の営業報告書には「蚕糸業の形勢も全く変ってきた。グンゼも工場を拡げたり、だめになった他の工場を買い取ったりして、だんだん拡げていくことを期待する」と書かれています。
この年の全従業員数は、五、〇八六人で、工場数一六、まゆをゆでるかまの数三、〇〇四個でした。そして創立二〇周年のこの年、大正天皇の奥さんが綾部市に見にこられ、グンゼの名前が一段とたかまりました。
そしてそれまでは、まゆのねだんがまちまちで、高かったり安かったりしていたけれども、組合ができたので、一貫何円ときちんと統一して売るようになりました。
グンゼの景気がよかった頃は一貫百円という高さで売れました。時代は大正の十三~五年の間です。校長先生の話だと
「大正の末ごろの校長先生のお給料は二五円でした。そのお給料の四ケ月分ものお金が一貫のねだんだったから、グンゼはとても景気がよかった」といわれました。
ところが昭和に入って間もなく、景気が悪くなってきました。その理由としてあげられるのは、きぬの洋服を着るのはお金持ちだけで、ふつうの人はそまつなきれの洋服しか着なかったからです。それだけではありません。みなさんもご承知のように、昭和に入ってから、日本は外国と戦争をはじめました。第二次世界大戦です。日本のグンゼはアメリカを主に、他の国へ多く輸出していました。けれども、戦争でアメリカと争っているのです。それでアメリカとの貿易はすっかりとざされてしまい、グンゼはだんだんさびれていきました。
そして、またまたたいへんなことがおこってしまいました。新製品です。アメリカではナイロンの糸で、今までグンゼが作っていた品物を作りはじめました。このころのグンゼはほんとうにめちゃくちゃだと思いました。
この戦争が終ったあとがまた、たいへんだったそうです。なにしろ長い間さびれていたグンゼなのですから。そして現在では、一番よく売れたころの五分の一ぐらいにへっています。それはだんだんと、人びとが着物を着なくなってきたからです。そして今は、生糸以外にメリヤスもの、ニット、ファンデーション、スポーツウェア、織物、テキスタイル、プラスチック、機械、くつ下、合成加工品などが作られています。そしてきれいな工場になり、八時すぎのサイレンで女工さんたちが働きにいかれます。
次にわたしたちだけで、グンゼに行って現在のグンゼのことを、いろいろ教えてもらいました。
一九七八年の事業別売上は、メリヤスが四四・七%で一番多く、次がくつ下で一六・一%だそうです。
人数は、生糸を作っていたころは一千人ぐらいだったけど今では約七百人ぐらいにへってきたそうです。そして働いている人は、本工場で七百人中男の人が百五十人ほどです。ここで働く女の人は、福井県、新潟県、京都府、鳥取県、島根県などから来ているそうです。
それから建物の面積は、むかしとほとんどかわっていないそうです。
自まんできることはなんですかと聞いてみると「みんながまじめに一生けん命働いていることです」といわれました。部屋はきれいに整理されていました。三つのしつけの中に、〃そうじをする〃というのがありました。それできれいにしてあるんだなと思いました。他の部屋には波多野さんの持ちものなどがいっぱいありました。
今日、蚕の試験場は、全国で二カ所しかありません。全国で二カ所という試験場の一つが、いなかの綾部にあるのです。何だかいっぺんに有名になったような気がするくらいです。その試験場では、昔から何万びきという蚕が、桑をむしゃむしゃ食べてきました。その蚕は、グンゼで働く人たちの手によって加工されてきました。その加工されたものはやがて絹糸となり、店先でグンゼKKとかいてある糸まきにまかれて売られています。
ふだん何気なく使っている絹糸。その絹糸には大きな歴史、人間の努力がきざみこまれています。絹糸は昔の綾部、昔の日本の産業の流れをじっと見つめてきています。絹糸だけではありません。グンゼもです。グンゼも綾部の働く人たちの姿を明治二十九年から今日まで見つめています。これから先も歴史を作っていってくれると思います。
(『由良川子ども風土記』) |
おばあちゃんがグンゼへ働きに行った時のこと
福知山市・三岳小 六年 東 京美
おばあちゃんは、十三才の時からグンゼへ働きに行きました。小学校を卒業すると、すぐグンゼから働きにくるようにたのみにこられた。卒業した人で、高等科という上の学校へ進む人は、十人に三人ほどだった。
十人ほど知らない人ばかりで、一部屋になった。おばあちゃんは、まゆをたいて、細い糸にする仕事ばかり七年間していた。そのほかにまゆをくばる仕事をする人や、工場をそうじする人などがいた。
休まずに勤めていたら、一週間か十日に一回休みになった。休みの日でも、午前中は廊下のそうじをしたり、一時間ほど先生に礼儀やさいほうや、料理を教えてもらっていた。だから、このころのグンゼの女工は、ほかの会社の人より、きちんとぎょうぎがよかった。さいほうは、何でもぬえるように教えてもらった。午後からはほんとの休みになったので、町へ出てみたり、三だん池へ行ったり「おにが城」という山へ登ったり、いろいろなことをした。
年に一回は、まったけがりとか、それがない時は、運動会などがあった。ごりょう神社のお祭り、おぼん、お正月は休みだった。おぼん、お正月は家に帰してもらえた。
一か月休まずに働けば、てぬぐい一本もらえた。五年間勤めれば、鏡台がもらえ、八年間勤めたら、タンスがもらえた。
おばあちゃんは手ぬぐい四十二本くらいと、七年間勤めたんだから鏡台をもらった。
もらうお金は、よい糸を引いたり、よく仕事をする人のほうが多かった。一等工女が二円、ふつうの人で一円代が出れば、ほめてもらえた。一番安い人で、二十五銭だった。十五日に一回、お金の成績発表があった。でも、そのお金は、会社につみたてて、現金はもらえなかった。一年に一回お金の合計をして、そのお金がもらえる日があった。その時、二百円か三百円もらえればいい方だった。
そのころの、いろいろな物のねだん
・たんもの ふつう 五~六円
上等 二十円
・汽車賃 上川口から福知山まで 十四銭
・はがき 一銭五厘
…
入った当時、一カ月か二カ月の間は、特に苦しかった。朝ねむたかったし、仕事を教えてもらう時、きびしい人だとわからなかったら、すごくおこられたので、家に帰りたいほどいやだった。教えてもらう時、しんせつにしてもらうと、いっしょに働いている人たちから、かげ口を言われたりした。
それに、仕事の成績が悪いと泣くような日があった。
楽しかったことは、一番仲よしの子と同じ日に休みになれた時。町の子とも友だちになったので、その子の家へ行ってごはんをごちそうになったりした。
それに、十月にまったけがりがあって、まったけがとれると、山で肉などといっしょに煮て食べさせてもらった。その時がとても楽しかった。おぼんとお正月に家へ帰れる日も楽しみだった。自分で仕立てた着物や、おはおりが仕上がった時も、だいて寝たいほどうれしかった。その自分で仕立てた着物を今度家へ帰る時、着て帰ろうと、ワクワクしていたそうだ。
(『由良川子ども風土記』) |
リコウな子たち。この子らのおジイちゃん世代の書き手としては何か恥ずかしくなってくるワイ(*^▽^*)
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