吾雀郷(あすすきごう)
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京都府綾部市志賀郷町・向田町・篠田町・別所町・金河内町・坊口町・仁和町・西方町・内久井町 京都府何鹿郡志賀郷村 |
吾雀郷の概要《吾雀郷の概要》 「和名抄」丹波国何鹿郡十六郷の1つ。刊本に「吾雀」、高山寺本に「五雀」とある。いずれも訓を欠くが、郷域には式内社何鹿郡十二座の1つ阿須々岐神社(金河内町)があり、「あすすき」と訓んだものと推定されている。 「雀」はスズメだが、雄略記に「庭雀うずすまり居て」の歌謡があり、これはスズメと読まれている。ツバメ、カモメのようにメは鳥だそう、スズは何の事か不明だが、鈴のような鳴声の鳥の意味かも。仁徳は大雀命(記)で、紀は大鷦鷯尊と書き、オホサザキと読まれている。サザキは今のミソサザイのことで、美しい鈴の鳴声の鳥。 福知山市立雀部(ささべ)小学校がある、ササベかササキベとしか読めない。「吾雀」はアササキと読むしかないが、ササとススは通音で、阿須須岐神社があるから、アススキと呼んだと考えられている、しかし別にアササキ郷であっても何も間違いではまかろうし、むしろ正しいのではなかろうか。 吾雀郷はスズメが居たからこうした地名になったものか、鹿が居たから何鹿郡か、イカルという鳥が居たから何鹿郡か、そうしたアホなハナシはないようなことで、雀は単に当字と思われ、スズメは何の関係もなかろう。 アススキ神社は金宮とも呼ばれているので、このススやササは金属を意味していると思われる。アは接頭語で意味はほとんどない、キは村のことか。ササキやススキ、金村や錫村の意味と思われる。 竹(ササ)と雀とかぐや姫と月が関係深いのは、それらはみな金属で繋がるからであろう。 しかしどこにそんな金属鉱床があるのか、舞鶴帯と呼ばれる一帯で鉱山などはこの辺りでは聞いたこともない。石灰や石炭は出るので、石炭がとれるくらいのずいぶん古い地質時代のもので、一般に古い堆積岩だが、舞鶴鉱山など見られ、複雑な動きがあったようで鉱物も混じっているのであろうか、実際に専門の目を持つ者が歩いてみないことにはわかりそうもない。そのほか犀川はサヒ川か、片目の鍜冶伝説が残る。そうしたことくらいしか証拠らしきものはない。 古い文献記録では、「三代実録」の元慶3年(879)11月9日条に「丹波国言上、慶雲見二管何鹿郡阿須須岐神社一」とみえる。平安時代のはじめの頃には実在した社名・地名であった。 郷域は綾部市志賀郷町・向田町・篠田町・別所町・金河内町・坊口町・仁和町・西方町・内久井町、旧志賀郷村一帯に比定されている。 中世は吾雀庄(あすすぎのしょう)で吾雀郷(和名抄)に立荘されたと考えられる平安末期~戦国期に見える荘園。 荘名は養和元年(1181)12月8付後白河院庁下文案(新熊野神社文書)に、新熊野社領28か所の国役などを免除したなかに「丹波国 吾雀庄 志万庄」と見える。 新熊野社は永暦年間に後白河法皇が熊野権現を京都東山に勧請したもので、当荘はこの頃寄進されたものと思われ、別所町にある熊野神社は当荘守護神として勧請されたものであろうとされる。 鎌倉後期には新熊野社領は天台座主の管理下で、「天台座主記」文永8年7月23日条によれば当荘は延暦寺講堂造営料にあてられていた。同書文永10年5月2日条によれば、造講堂にあたって雑掌3人が定められ、そのうち教因律師が「丹波国吾雀庄」など4か荘、真範律師が「丹波国吾雀中村」など5か荘の担当となっており、当荘の支配は分割されている。 康永3年(1344)7月日の亮性法親王庁解文に後高倉院政時、近江国田中荘の替として妙法院門跡尊性法親王が領家となって以来<当荘は妙法院門跡に相伝知行されたが、尊教僧正の時本家新熊野社と相論があり、荘内西方村は妙法院門跡領となったという。同法親王庁解文には「丹波国吾雀庄 件吾雀庄者、為三箇村之地、本家新熊野社也」とあり、荘内は中・西方・向田の3か村に分かれ、中村は本家新熊野社領、西方・向田両村は領家妙法院門跡領となっている。 このうち西方村は尊教僧正管領時に実静僧正に分譲され、室町期にはその領家職半分は北野社の有するところとなっている。「北野社家日記」明応元年(1492)10月4日条に、応永5年8月25日付の「丹波国和崎西方領家職半分」の細川満元寄進状案が所載されており、文明5年正月の北野社社領目録にも「一 同国吾雀西方領家半分」と見え以後「北野社家日記」中に「吾雀西方(和崎西方)領家半分」の記事が散見するという。 延徳2年(1490)2月25日には「北野宮寺領丹波国舟井庄并吾雀西方領家半分」などが守護使不入の地とされているが、これは北野社領で守護使不入の地となった初例という。 寛正2年(1461)9月10日の何鹿郡所領注文に「吾雀 同西方」と見え、安国寺再建の棟別銭が課されている。永正9年(1512)2月10日には当荘内山尾名の田畠山林などが近江守行秀より志賀八郎右衛門尉に譲られ、天文14年(1545)11月25日に山尾名内1町10代が八郎右衛門尉氏行から志賀弥八郎に譲られ、元亀2年(1571)正月11日には「志賀山尾分」の1反25代が尾崎政久から志賀山尾新丞に売り渡されている。 この志賀氏は室町期に吾雀荘に入った国人領主で、一族には大永年中(1521~28)志賀郷天王山城にいた吾雀入道をはじめ、北野城(志賀城)の城主や丹後田辺郷の代官職になった者などがいる。 その後、当アススキ地域がシガと呼ばれるようになった氏である。 遺称としては阿須須岐神社 この神額では阿須須岐と表記、案内板などでは阿須須伎、当字だから一定していない。 吾雀の主な歴史記録関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『何鹿郡誌』 『綾部市史』各巻 その他たくさん |
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