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綾中(あやなか)
京都府綾部市綾中町


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京都府綾部市綾中町

京都府何鹿郡綾部町綾中

綾中の概要




《綾中の概要》
バザールタウン・アスパのある一帯。山陰本線から北へ舞鶴線が走り、東は由良川の堤防に接する。江戸期には中村と称した。小さな村たが、古くから開けた地で、中村というから、中心地であったのであろうか。古墳時代の住居跡が発掘されており、綾中廃寺跡からは奈良期の布目瓦や風鐸の風招なども出土する。
綾中村は、明治15~22年の村。江戸期以来の中村が改称。同22年綾部町の大字となる。
綾中は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。同28年綾中町となる。
綾中町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《綾中の人口・世帯数》 348・135


《主な社寺など》

綾中遺跡
古墳時代後期の住居跡が発見されている。

『舞鶴市民新聞』(.070824)(写真も)

由良川考古学散歩-159-
長胴派?球胴派?
ここに二つの甕が並んでいます。背の高さはほぼ一緒(三十二㌢ほど)ですが、横幅がずいぶん違いますね。つまりスタイルが全然違う。片方は長胴の甕だし、一方は球胴の甕です。こうして二つ並べるとその違いがよく分かるでしょう。
この二つの甕は、同一の遺跡(綾部市綾中遺跡)から出土しました。時代は七世紀。この辺りは郡衙や寺院が建ち並ぶ古代何鹿郡の中心地だった所です。ところで、これら二つの古代の土器、考古学の世界では甕と言いますが、その呼称から、例えば水がめのような用途を連想してはいけません。実際には、竃の上にかけて湯を沸かしたりするためのもの、つまり釜みたいな使い方をするものなのです。
では、それなら、今からお湯を沸かすことにいたしましょう。お釜に水を張って竃にヨツコラショってわけですが、で?
どちらのお釜にいたしますか? だって、ほら、ご覧の通り、長胴のものと球胴のものと二種類ありますから。あなたは、どちらをお使いになりますか?
うーん、どっちがいいかなあ、長胴の方が細身ですっきりしてていいかなあ、それとも球胴の方もたっぷりお湯が沸かせそうでいい感じだなあ。なんて、悩んでるうちにお湯が沸いちゃいますよ。
あなたは北近畿にお住まいの方だから、球胴の方をお勧めします。なぜなら、古代において、丹波・丹後・若狭の辺りで用いられたのは、もっぱら球胴の甕の方だったからです。一方、長胴の甕は都周辺を始めとして全国各地で用いられました。長胴の方が古代の甕としては主流、多数派なのです。でもこの辺り、北近畿においては、長胴の方はほとんど流行らず、なぜか球胴派なんですね。
お釜の形にも地域色があるのです。長胴・球胴仲良く並んだ綾中遺跡の例を最初にお目にかけましたが、実際こんな光景はこの辺りではほとんど見ることはありません。
長胴派は圧倒的に少数派で肩身の狭い思いをしている地域だったのです、特にこの由良川中流域では。スリムな体型より肥満型が多数を占めていたのですね。但し、土器のお釜のスタイルに関してのことですけど。(近)
(『舞鶴市民新聞』(.070824)(写真も))


綾中廃寺
綾部郷の中央部、現在の小字堂ノ元、アスパの裏側、山陰本線と舞鶴線に挟まれた所だけれども、そこには七堂伽藍のあった所という伝承があり、実際に付近からは古代寺院の礎石や瓦などが出土している。現存するものは軒丸瓦・同平瓦、風鐸の風招、須恵器などで、軒丸瓦のうちには山田寺式(7世紀末)と藤原宮式(8世紀初)のものがある。風招は銅製鋳造の完形品で幅14センチ。
昭和初年国鉄舞鶴線拡張工事の時に堂ノ元の中央付近から「真如院」と彫刻した自然石が発見されて現存しているが、古代寺院との関連は不明。
また土地の人が岩神と称した巨石があり、石の中央のくぼみに年中雨水が溜り、この水をいぼにつけると必ず取れるという信仰があった。古代寺院の塔の心礎かと思われるが、この鉄道建設に伴い破砕されてしまったという。

JR舞鶴線↑ 吉見街道の踏切より、東側をのぞむ。
先で線路がカーブしているので、心礎の巨石があったという場所は見えない、カーブの少し先、ここから120メートルくらい先になる。
この舞鶴線は阪鶴鉄道と呼ばれ、日露戦争のさなかに舞鶴鎮守府まで昼夜分かたぬ突貫工事で敷設されたもの。

そこには、今は「青野第一踏切」がある。その南側たもとに案内板と「真如院」の石碑がある。郡衙があったとされるのは、この先(北側)である。


この踏切のあたりに高い塔が建っていた。1坪もある心礎石というなら、俵野廃寺の心礎石よりも大きい、あれよりもさらに高い塔があったのであろうか。

綾中廃寺址
綾中に、小字堂の元という所がある。こゝは昔から七堂伽藍のあった所と云い伝えている。昭和八年一月、当時郡是に勤務していた郷土史家村島渚氏と筆者が、始めて実地踏査の結果、其の附近に残された礎石や、おびたゞしい布目瓦の破片などから、大体奈良時代の大寺趾であると推定した。その後松島氏は西村大州氏の所蔵にかゝる鐙瓦と宇瓦を一見して愈々確信を得、同年六月、丹波毎日新聞紙上で「綾部の上代文化と大寺追跡」として発表されたものである。
この廃寺趾から出た礎石は、今も綾中町の出口恭余昇氏宅の靴脱石及び井戸端の台石となって残っている。以前この出口氏の家の中に、貯桑場を造った時、地下二尺位の所から多数のかづら石と共に出た礎石で、皆焼け石であった。石材は花崗岩で、直径約一米位、上面の柱受けの場所を僅かに加工したと思はれる程度のものである。尚そこより川糸通りに沿うて東方三、四十米余の所にある民家の板垣の下に、一米五十糎位の間隔を置いて一直線に礎石が並んでいたそうである。又郡是通りの舞鶴線踏切より百米程東方、川糸通りと舞鶴線を斜につないでいる溝があるが、その溝の中央に昔から約一坪もあるかと思はれるような巨石があった。土地の人は岩神さんと称して、常に賽銭など供えていた。石の中央はくぼんでいて、年中雨水がたまって、日照りにも乾いたことがなかった。土地の人々はこの水をいぼにつけると、必ず取れると云う信仰があった。この石が大寺の塔の礎石であったと云い伝えていた。惜しいことには山陰線開通後溝をつける為、この石を細く割って取りのけてしまった。その時、何分神格化された岩だけあって、僧侶を招いて丁重に祈祷をしたと云う。その折不思議なことに見たこともない程鳥が集って来て、岩神さんの上空を飛び廻ったと古老は伝えている。
西村太州氏所蔵の瓦はその後行方不明になってしまったが、村島民の著書、三丹蚕業郷土史の中に写真として掲載されているから、その面影を知ることが出来る。鐙瓦の蓮花文は八葉の複弁式で、子房は中位、内に十一の蓮子を数えることが出来る。縁の文様は珠文をめぐらし、その外縁は鋸歯文である。宇瓦は唐草文様で、上線には珠文、下線と左右には波文をつけているところなどは、様式からいえば奈良前期の特長を示しているから、或は白鳳頃の造寺かも知れない。下っても奈良時代であろう。
昭和四年国鉄舞鶴線の拡張工事をした時、堂の元の中央部の沿線附近から、真如院と彫刻した自然石が発掘された。普通の山石で、自然のまゝで文字面も凸凹があり、書体は甚だ古風である。恐らくこの寺院に関係したものであることは疑えない。
要するに廃寺趾附近の地名に、堂の元を中心として、四ッ堂、花ノ木、庵ノ上等寺院関係と思はれるものが残っていることや、瓦や礎石が寺院趾であることを証明している。この地は古来、福知山方面より綾部を経て京都、舞鶴へ通ずる道路である川糸通に接し、古代漢部郷の中心地帯であったに違いない。現在大字は綾中となっているが蓋し綾部の中心の意味とも考えられる。未だ研究調査が完成していないから伽藍配置や年代を確定する所までは行っていないが、奈良前期としても当時既に五百数十ケ寺の造寺を見ているから不思議でもなく、村島氏も指摘されているように、古代漢部の蚕糸業の隆盛による経済力と、帰化人による先進文化の集積によって、当時地方に稀な寺院建築が行はれたもので、附近の古墳の存在と共に往昔の綾部を語る有力な遺跡と云はねばならない。
(『綾部町誌』)


綾中廃寺の瓦。山田寺式↑と藤原宮式↑(郷土資料館)



綾中廃寺 綾中町小字堂ノ元から、布目瓦や大きな礎石が発見され、文献には全く記載されていない寺であることから、綾中廃寺と名付けられている。この寺跡が最初に確認されたのは、昭和八年一月、「昔からこの地に七堂伽藍があった。」という伝承をもとに実地調査した村島渚・村上佑二の両氏によってである。この結果を村島氏は、同年八月に発刊された同氏編著の『三丹蚕業郷土史』に発表した。この本には、八葉複弁の軒丸瓦、唐草文の軒瓦、布目の平瓦片が写真として報告されているが、残念ながら現在その瓦の所在はわからない。村島氏は説明を加えて、「京都線踏切西方二〇〇メートルばかりの地点に、中央に柱受けの円座を刻んだ万一間ばかりの大石があったということは、古老の記憶に新たなるところであるが、これこそは往昔綾部の空に饗えていた塔の心柱の礎石であったことは疑う余地もない。」と述べている。
その後、村上氏は昭和三十三年六月発刊の『綾部町史』の中で、礎石や伝承についてさらに詳細に報告している。『綾部町史』が出てから後も軒丸瓦や平瓦、あるいは風鐸の風招が出土しており、現在では、軒丸瓦三点、軒平瓦一点、風鐸の風招一点、須恵器三点と、平瓦・丸瓦の破片多数が発見されている。これら出土品についてここでは概略を述べ、詳細は各説編の説明にゆずりたい。
蓮華文軒丸瓦は、単弁八葉のもの一点と、複弁八葉のもの二点がある。単弁のものは山田寺式のもので七世紀末のものと考えられる。複弁のものは二点とも同じ型でつくられており、昭和八年に採集されたものも同型である。この瓦は藤原宮式とよばれるもので、八世紀はじめのころの様式と考えてよい。(口絵参照)
軒平瓦には唐草文があり、文様やつくりからみて八世紀はじめのころのものと思われ、複弁蓮華文の軒丸瓦と組み合うものと考えられる。風鐸は堂塔の軒先をかざるもので、その中につるされた舌を風によって動かすものが風招である。出土したのは銅製鋳造の完形品で、幅が一四・七センチメートルある。この風招の大きさから考えて、風鐸は相当大きいものであったと相心像される。
これらの出土品とともに注目すべきことは、小字堂ノ元を中心に、焼けた花崗岩製の礎石列があったことである。巨石の中央に穴をもった心礎と思われるものや、「真如院」と陰刻された石も発見されている。この廃寺の規模や年代などを追求するためには、小字堂ノ元と、花ノ木・庵ノ上など、広範囲にわたって詳しい調査をする必要がある。
出土古瓦の様式がしめす八世紀前後という時期は、都が藤原京から平城京へ移行するころであり、地方でも寺院の造立が相ついだ時代である。この寺院が、伝承にあるような七堂伽藍を備えていたかどうかは明らかでない。『出雲風土記』の研究によると、出雲では十一か寺のうち八か寺が金堂、三か寺は塔のみであって、現にそれらに比定される寺院趾の土地は、いずれも七堂伽藍が建てられる面積がないということである。このことは地方の小規模寺院を考える上に大きな参考になる。
綾中廃寺の造立は古墳などの状況からみて、郡司クラスの手になるものではなかろうか。この郡司クラスが古墳時代からの在地有力豪族であったか、畿内から移動してきた新興の有力者であったか定かではない。ただ、いわゆる「漢部系」の人が綾中付近に流入してきたことや、古瓦文様に畿内直結というべき藤原宮式を含むことから、後者の可能性を否定することはできないであろう。古代寺院は仏教文化の伝播をしめすだけでなく、当時の政治・文化・学問の中心であり、国政の中でも重点がおかれていた。とりわけ奈良時代では、瓦葺きの建物は、地方にあっては寺院に限られていたといっても過言ではなく、草や板葺の集落内でひときわめだち、人々の目を圧倒したことであろう。綾中のような広々とした位置に塔を建立したことは、支配者の権威を象徴するものであったと思われる。
(『綾部市史』(図も))


不思議な形をした↑瓦積み基壇。郡衙の建物とされる柱列↑
天平浪漫紀行・京都」より

僧侶と役人が往きかう何鹿の都  ●綾中廃寺と何鹿郡衙
古代の寺院 JR綾部駅の東方約五〇〇㍍、綾部市綾中町一帯からは、古瓦の破片が出土したり、大きな礎石が発見されたりしたことが、昭和八年(一九三三)に刊行された『三丹蚕業郷土史』や同三三年刊行の『綾部町史』の中で紹介されている。
これらの資料から、この地に堂塔を備えた古代寺院が存在したことを「疑う余地のない」ことと考えられてきた。
綾中廃寺の調査 昭和五一年から青野遺跡の範囲確認調査の一環として、綾中町でも試掘調査が行なわれた。これを皮切りにその後の開発に伴う事前調査など、大小さまざまな規模の調査が実施されることとなり、今日に至っている。
試掘調査など小規模な発掘調査が多いため、いまだ寺院を裏付ける直接的な遺構は確認されていないが、糸巻き状をした瓦積みの「基壇状遺構」の発見や、多量の瓦が埋まった溝など、寺院に結びつく資料は増加している。
綾中廃寺の瓦 綾中廃寺にかかわる調査で、これまでに出土した瓦は、整理用コンテナ数百箱分に上り、それらは文様や製作の技法から三種に分類
Ⅰ類 軒丸瓦は単弁八葉の蓮華文で、瓦当部の直径は約一六㌢。蓮弁は肉厚で、弁中央が盛り上がり、弁端は丸味をおびる。周縁は直立の無文で、幅は狭い。この瓦は、百済末期様式の特徴を備え、七世紀後半のものと考えられる。これと組み合う軒平瓦は三重弧文で、この組み合わせは、綾中廃寺の創建当時のものと考えられる。
Ⅱ類 軒丸瓦は複弁八葉蓮華文で、瓦当部は約一七㌢。彫りは浅く平面的であり、藤原宮式を祖形として形式化の進んだものといえる。これと組み合う軒平瓦は偏行唐草文で、左へ流れる唐草と上外区に珠文、下外区に鋸歯文を配するものである。これらは八世紀前半のものと考えられ、この組み合わせは、堂塔の修理、あるいは増築時に用いられたと考えられる。
Ⅲ類 素弁八葉と唐草文帯を凸線によって表現した軒丸瓦があるが、類例が少なく詳細は不明である。
こうした出土瓦の様式から、綾中廃寺は白鳳時代に創建され、奈良時代に大修理、平安時代までは存続し、その後衰退したと考えられる。
大寺と官衙 綾中廃寺の北に隣接する青野南遺跡は、発掘調査によって大型の掘立柱建物が発見され、当時の郡役所である何鹿郡衙の跡と推定されている。
当時の寺院は、すべて豪族の氏寺であったことから、当地にも最新の技術を取り入れ、大きな寺を建立するだけの力を持った豪族がいたということになろう。また、地方の有力豪族が郡司に任じられたことを考えると、寺と官衙が隣接して建てられたこの地が律令時代の何鹿郡の中心地であったと推定できよう。
(『図説福知山・綾部の歴史』)

由良川考古学散歩199
 七世紀後半、丹波国何鹿郡漢部郷の地に寺院が建立されました。それが現在の綾部市綾中町の地下に眠る古代遺跡としての綾中廃寺です。現JR舞鶴線をかつて敷設した際に塔心礎と思われる巨石が見つかったり、一帯の畑地などから古代瓦が採集されていたりして、戦前から古代寺院跡として認識されていた遺跡ではありますが、本来の寺名も忘失された謎の古代寺院で、伽藍配置なども不明のままです。寺院の中心部分を舞鶴線が東西に横断しており、肝心な個所を発掘調査することもできません。これまで調査できたのは、寺院の縁辺部とおぼしき個所ばかりです。
 一九八〇年度の調査では、寺院推定域の西北部から特異な遺構が見つかっています。写真に示すように、瓦積基壇の遺構なのですが、四隅に突出する妙な平面形をしています。基壇とは周辺の地盤より一段高く土を盛り上げて建造物の基礎としたものを言いますが、この基層遺構は辺が中央に括れこんでいて幅は三㍍程度しかないですから、通常の建物はとても建ちそうにありません。まあ、墓石か石塔のようなものなら建立可能でしまうが。
 ところで、この基壇は瓦積基壇というものでありまして、基壇の側面の保護と装飾を兼ねて瓦を積み重ねて外装しています。瓦積基壇というのは、わが国古代の寺院跡ではよく見られるものです。なんといっても、そこはお寺ですから、基壇の外装材として瓦は調達しやすいわけ。新品の瓦でなくても、使い古しでも余りものでもかまわない。現に、この綾中廃寺の基壇に用いられた瓦も中古の破損品が多いようです。
 それにしても、この風変わりな施設はそもそも何のために造られたのでしょうか。基壇の上に建っていたはずの構造物が残っていれば話は簡単なのですが、それは跡形もなく消えていました。伽藍の中心部に位置するわけでもなく、寺院推定域の端っこにあったこの謎の基壇遺構について、どのように想定すればよいのでしょうか。調査報告書では、基壇の地盤が周りに比べてやや低いことと、堆積土などの観察結果から、この辺りがかつては浅い池または沼状を呈していたと考え、基壇遺構を池に設けられた中の島のようなものと推定しています。
 「ほほうー」となると、これは池の護岸の外装としての亙積みだというわけですね。いや中々しゃれた情景ですねー。私もこの案に賛成します。というのも、往時の由良川は、現在よりもずっと南西の方、今の綾中町の南側を流れていたようで、綾中廃寺は由良川に南面するまさにウオーターフロントの位置に建立されたものだからです。当時の地域社会のシンボルとしての寺院を、由良川から逃げるように遠く離れたところに建立することなど有り得なかった、私はそう考えます。(近)
(『舞鶴市民新聞』(2011.1.7))

報道によれば、亀岡市稗田野町の佐伯遺跡から当寺と同じ瓦が見つかったという。
綾部市の綾中廃寺と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられ、寺院を区画する柱塀の痕跡もあった。 約100メートル離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。
(『京都新聞』(2018.1.18))


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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