京都府綾部市別所町
京都府何鹿郡志賀郷村別所
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別所の概要
《別所の概要》
府道486号線沿いにある篠田神社の三叉路から北ヘ入った山裾の集落。南に耕地が開けている。
別所村は、江戸期~明治22年の村。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年志賀郷村の大字となる。
別所は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。同年別所町となる。
別所町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。
《別所の人口・世帯数》 98・43
《主な社寺など》
熊野神社
案内板がある。
熊野十二所権現像
熊野神社と隣接する別当寺、願成寺には、藤原(平安)時代の作といわれる熊野十二所権現の本地仏が分置されてい。藤原時代に流行した浄土教の影響で紀州の熊野神社に十二所の本地仏が定まり、永暦年間(一一六〇~六一)京都に新熊野神社として勧請され、王城鎮護の神として祀られました。吾雀荘(志賀郷)はその荘園として寄進され、守護神として別所久万の神社に十二所権現像が祀られました。
当社所蔵の熊野十二所権現像は、中世京都新熊野社の荘園であった頃の作といわれ、市文化財になっている。
熊野神社 願成寺 別所町
市指定文化財
熊野十二所権現像 藤原時代木造 像高四五~五四センチメートル
菩薩形立像 四躯 僧形立像 二躯
熊野神社
蔵王権現像 一躯 十一面観音立像 一躯 願成寺
熊野神社と願成寺とは隣り合っており、熊野十二所権現の本地仏が分置されている。これらはいずれも藤原後期の素朴な小像であるが、そのおっとりとした一木造の姿にはすてがたい魅力がある。十一面観音立像は、頭上の面がこわれていて明らかでないが、全体としておだやかでよく整っており、山伏の本尊である蔵王権現像は、簡単な彫りのうちに藤原時代の優美な感覚がよく表されていて、ともにすぐれた作である。(注)これら平安藤原時代の仏像が市内の各地の寺や堂にまつられていることは、平安期に入ってから仏教がこの地方に広まり、造寺.造仏がなされたことをしめしている。一〇世紀の中ごろに、南無阿弥陀仏の名号を唱えて大きい布教活動をしたといわれる空也上人を、開基または中興としている寺院が市内にきわめて多いことも、仏教信仰がこのころからより広まったことをしめしている。空也上人を開基または中興としている寺院
正暦寺 高屋寺 施福寺(再興) 岩王寺 願成寺 福性寺 西照寺 宝満寺 興隆寺 観音寺(中興)
これらの寺も、はじめは小さな草葺きの堂であったのであろうが、それをまつるのに庶民も参加しはじめたのであろう。、
郷土の熊野信仰
別所町の那智山願成寺と熊野神社には、熊野十二所権現がまつられていることは前に述べたところである。熊野権現を京都に勧請したのは、永暦年間(一一六〇~一)といわれ、治承二年(一一七八)には熊野の修験者たちが山陰道にあらわれており、京都の新熊野社の荘園二八か所のうち、丹波国には吾雀荘と志万荘があった。この熊野十二所権現像は、これら荘園の守護神として在地の人々にまつられたものであろう。
平氏の熊野信仰については前に述べたが、綾部にもこれにかかわる伝承がある。それによれば、平重盛は丹後の知行国主となり、天の橋立の景勝を愛して、府中に館をもっていた。また綾部にも所領をもち、並松の景色がきわめて熊野によく似ているというので、ここに熊野三所権現を勧請したという。いまこの地には、那智山正暦寺・熊野神社・熊野新宮社(明治になって熊野神社に合社)があり、地名に、本宮・新宮が残っている。正暦寺の一祠には那智の本地仏、千手観音像がまつられている。この像は藤原様式の繊細な感じのする木像で、鎌倉前期の作といわれ、熊野信仰の盛んな風潮の中で作られたものである。その外、熊野神社・熊野新宮社・十二社神社・十二所神社・十二所権現などがまつられており、本社が一五社、境内社が七社、合わせて二二社におよんでいる。いずれも鎌倉初期から熊野信仰の盛行する中で、中世の間に勧請しまつられたものであろう。 (『綾部市史』) |
当社のすぐ背後を京都縦貫道が走り、車が走りぬける騒音が聞こえてくる。当社後背に円墳が二基あるそうである。別所地名は古代の俘囚の移配地、そこで金属を採集精錬したとの説もあるが、あのあたりにでも金属があったものか。大きな山ではないので、すぐに取り尽くしたことであろう。当社はこの地名の後に作られた社であろうか。新熊野の荘園でなくとも彼らはどこへでも行く、熊野修験といえどもただの宗教者だけではなく、喰っていかねばならない以上は鉱床探しも行ったものであろうか。
高野山真言宗那智山願成寺
熊野十二所神社の東に願成寺がある。このお堂だけである。参道の手前の草むらのなかに、「二王門跡」と書かれた石碑がある。
願成寺
本尊阿弥陀如来、天暦七年九五三年僧光勝の開基、世々篠田大明神の別当であった。天正初年明智光秀軍に焼かれ古跡を失するも、廷宝二年一六七四年若洲の僧盛尊によって中興されたが再び衰微、古の盛美を物語る唯一の仁王門も明治時代に焼失して寔に遺憾なことである。 (『志賀郷村誌』) |
古民家
18世紀初頭に建設されて民家が現存し、礎石の上に柱を建てる民家建築の初期のものとして注目されている、そうである。
《交通》
《産業》
《姓氏》
別所の主な歴史記録
吾雀荘
『倭名抄』の吾雀郷の荘となったもので旧志賀郷村の地域である。荘名は養和元年(一一八一)院庁下文に見え、志万荘とともに新熊野社領二十八所の一となっている。熊野権現を京都に勧請したのは永暦年聞(一一六〇-一)のことといわれ、治承二年(一一七八)には能野の修験者たちが山陰道にあらわれているから、吾雀荘が新熊野領となったのはこのころのことと思われる。別所町に熊野神社がまつられ、熊野十二所権現像が伝えられるのは、おそらくこの荘園の守護神として勧請されたものであろう。
『天台座主記』、文永八年(一二七一)六月廿三日と文永十年五月二日の条に、講堂造営のため丹波国吾雀荘の年貢をあてられた記事がある。新熊野社は天台座主の管理するところであったので、一時その年貢が叡山の費用にあてられたことではなかろうか。京都の「妙法院文書」によれば、康永三年(一三四四)のころ
には荘内は分かれて三村となり、中村は新熊野社用にあて、西方・向田の二村は妙法院門跡の所領となった。文明五年(一四七三)には、西方村領家半分、すなわち領家の得る年貢の半分は京都の北野神社のものとなった。この荘から志賀氏が在地土豪として成長し、戦国期に活躍するのである。
(『綾部市史』) |
伝説
別所の小字一覧
別所町
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関連情報
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