京都府綾部市坊口町
京都府何鹿郡志賀郷村坊河内
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坊口の概要
《坊口の概要》
金河内の手前から北ヘ分岐する府道金河内地頭線(491号)を少し入った所。犀川支流の小河川に沿った谷あいの農業集落。三方を山に囲まれ、南に耕地が開けている。
坊口町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市両河内の一部で、坊河内と標記した。
北の山を越えると舞鶴市久田美、桑飼上、大江町市原谷に至り、当村は犀川流域の村々から丹後田辺への交通の要衝であったという。
《坊口の人口・世帯数》 85・41
《主な社寺など》
山尾古墳
*階段状に列石四段確認*墳墓変遷解明に貴重*
綾部市坊口町、山尾古墳(七世紀後半)は、階段状に四段の列石を積み重ねた珍しい方墳だったことが分かり、府埋蔵文化財調査研究センターが七日発表した。四段形式は梶山古墳(鳥取県国府町、七世紀初め)に次ぐ確認例。古墳時代末期の当時は、天皇陵など有力者以外は中央から墳墓を簡素化する薄葬令が出されたときとされており、中央と密接な関係にある有力な人物の墓とみられ、同センターでは「墳墓の変遷を知る上でも貴重な発見」としている。山尾古墳は丘陵地の急斜面に築かれ、石室のある一辺九㍍と7.2㍍の二段の列石(いずれも高さ五十㌢)が今年七月に見つかり、二段列石の方墳としていた。引き続き調査したところ、二段目から3.3㍍下に長さ十四㍍の三段目、さらに4.4㍍下に長さ21.6㍍の四段目が見つかった。いずれもコの字形の列石(高さ五十㌢)で、人頭大の石が石垣状に並べてあった。同時期の三段以上の列石型は、八角形墳で三段の舒明天皇陵(奈良県桜井市)や四段の梶山古墳のほか、方墳で五段の大谷一号墳(岡山県北房町)があり、確認例はきわめて少ない。日本書紀によると、薄葬令は大化二年642に出されたもので、「王」以上でも一辺は約十五㍍以内と規定し、天皇や中央の有力者以外は墳墓を簡略化していくよう命じたとされる。同センターの野々口陽子調査員は「薄葬令は実際に出されたかどうかは諸説があるが、四段式は墳丘を大きく豪華に見せる効果があり、被葬者はかなり身分の高い人物と見て間違いないだろう」と話している。新納泉・岡山大助教授(考古学)の話「薄葬令にも影響を受けない中央と密接に結び付ついたこの地域の新興勢力の中心人物の墓と見るのが自然で、天皇陵発達課程を考える上でも貴重」
(『読売新聞』(H6、9、8)) |
「方形壇を持つ古墳」
曹洞宗洞谷山長松寺
白鳳時代の銅製聖観音立像を所蔵している。
福知山市寺の補巌山久昌寺の末寺
(『天田郡志資料』) |
長松寺
本尊聖観世音大士、何鹿郡西国第廿四番霊場養和元年(一一八一年)たり。弘治三年一五五七年兵火に罹り永禄十一年元達和尚曹洞宗に改創、元禄三年一六九〇年坊河内大火に焼滅し元文元年一七三六年再建し現代に至る。文政十年に造った大鐘は百年余りにして大東亜戦に応召、未だ甦らない。
(『志賀郷村誌』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
坊口の主な歴史記録
聖観音立像
坊口町長松寺蔵の金銅仏で市指定文化財である。当寺本尊の聖観音坐像の胎内に納められている。両手の掌を胸の前で合わせ、中央正面に化仏一体をもつ宝冠を載き、纒衣は左右対称で単弁一〇個の蓮華座に直立する像で、白鳳時代の作と考えられる。寺伝によれば、白藤彦七郎家の念持仏であったものを、当寺開山の道華元達が永禄十年(一五六七)にその子孫より買い求めて本寺に安置したものとしている。 (『綾部市史』) |
古代においてこの丹波・丹後地方に観音信仰がどのように伝来し展開していったのかはわからない。観音菩薩の仏像としては、丹波地方では長松寺(綾部市)に伝来を不詳とするも奈良時代前期の制作と推定される観音菩薩立像の小金銅仏がある。また、丹後地方では「国分寺の研究」(角田文衛著、一九三八刊)のなかで丹後国分寺の旧仏の可能性があるとして初めて紹介された金銅製の観音菩薩半跏思惟像(大阪府正木美術館蔵)が伝来する。この二つの金銅仏が当地方で造立されたものか、あるいはいつどのようにして運ばれて来たものかなどは一切不明であるが、丹波・丹後地方に遺存する観音像の最古例として注目される。寺伝の域を出ないが、丹波国穴太寺・丹後国成相寺・同国松尾寺の創建がいずれも慶雲年間(七○四~○八)に集中している点も、丹波・丹後地方に古くから観音信仰が伝わっていた証拠として参考となるであろう。 (『舞鶴市史』) |
◇滝倉山金剛寺
坊河内村と市原村即ち丹波丹後国境に七丘七岳の盆地がある。その地形は宛然高野山を圧縮したような土地である。
昔此地に何鹿那西国第廿五番札所滝倉山金剛寺が存在していた。此附近を一括して「ダケ」と呼んでいるが岳、丈、長の義で「高」の転語であり、「タキ」滝は高の類語で此高い盆地から、水が低きに流れるから滝倉山の名ができたのであろう。此盆地の一角に小さな池があって其中に石垣を結い橋を渡し弁財天が祭られ古寺の跡とのこしておる。此寺の本尊准捉観世音はとっくの昔下山になり今は坊河内の観音山に在わすのである。
此寺跡に伝説の歌を彫た石像が立っていたが明治廿九年の山崩に埋れ去った。其歌は
行けば左戻れば左、朝日輝き夕日照す、
櫨の木の下に、黄金千両。
この歌は解釈不明の謎と言われているが其意味は、行けば左戻れば左という地点は平面的には考えられぬことで之は立体的に考えるならば、左に川む見て川口を行くと水上に遡るわけで、その水上から川を左に下ると出発点に皈るので結局「川上」の意である。次に朝日も照り夕日も仝じように照す土地は高山の頂であるので、此二句は川上の高い所を暗示するのである。その川上の山頂に櫨の木が生えていて其下に黄金が埋めてあるという謎である。滝倉山金剛寺縁起によると、
昔この山に大山火事が起り金剛寺の伽藍を烏有に化した。その大山火事による火焔裏を本尊の観音様が何れにか飛去って行方が知れなくなった。この現象を見ていた人たちは八方手をつくして霊仏の行方を求めたが発見することができなかった。戎信心の人が弁財天に参籠して霊告によって此謎の歌を暗示されて本尊の在所を知ることができた。その所を村の人は天狗岩と名付けている。これが縁起の大要であるが郡西国礼所の故実としっくりしない物語である。
惟うに平安末期から宋銭密輸入が盛になり国内に種々な弊害が発生したので、政府は其取締を厳重にしたことがある。古来志賀の里人は丹後の由良と交易した歴史が長いから、何人かゞ此霊場に宋銭を埋隠して此謎とのこしたものであるまいか。
(『志賀郷村誌』) |
由良川 考古学散歩100 七不思議プラス1
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綾部市の西北部、犀川の上流域一帯は志賀郷と呼ばれ、古くからの伝承が息づく静かな山里ですが、その一隅、坊口町の丘陵上にその遺跡はありました。調査開始前のその姿は草に埋もれた径十㍍にもみたない小さな塚状の高まりで、後世に建てられたお稲荷さんの小さい祠ありました。よく見ると石材が散乱しており、古墳の一種である横穴式石室墳の遺構だと分かり、所在の小字名から「山尾古墳」と命名されました。
ところで、ここを京都縦貫自動車道が通ることになったので、山尾古墳はそれに伴い、一九九六年四月から発掘調査されることになりました。調査を担当したのは(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターの高野(野々口)陽子さん。その春採用されたばかりの新人調査員で、これが初めて担当する調査でした。調査開始時には、どこにでもありそうな普通の横穴式石室墳に見えたこの古墳でしたが、調査が進展していくうちに意外な事実が判明してきました。それは「そこらへんにはない」きわめて稀な横穴式石室墳であったのです。この古墳の特異性は横穴式石室という埋葬施設にあるのではなく、墳丘構造にあったのでした。
山尾古墳は従来の古墳とはかなり違った姿をしていました。正面側(石室開口部のある側)の境丘には、丘陵尾根の傾斜に沿ってなんと四段にも石垣状の列石をコの字状に巡らせていたのです。この見事に企画性をもって基壇状に積まれた石列は、従来の例えば私市円山古墳に見られるような墳丘の葺石とは性格を異にするもので、このような墳丘構造は古項終未期(七世紀代)のきわめて限定された古墳にしか用いられないのです。
例えば都の官人層の墓に用いられる形態であって、それが綾部のかなり奥まったところから突然出現したものですから、みな驚き、とまどいました。いったいいかなる人物の墓なのか?この命題に高野さんは果敢に挑戦します。
山尾古墳が造られた七世紀後半ごろといえば、丹波国何鹿郡(今の綾部市)には綾中廃寺や何鹿郡衙が郡内漢部郷(同市綾中町・青野町一帯)に建てられていました。しかし、山尾古境はそれとは距離が離れすぎており、関係性が薄いと考えた高野さんは、山尾古墳の所在する何鹿郡吾雀郷に勢力をもつ新興氏族をイメージしました。
この氏族から都に出仕し官人層となったものがおり、その人物の墓だと考えたのです。高野さんは何鹿郡に関係する氏族の中で刑部(おさかべ)氏に目をつけました。だけど、何鹿郡における刑部氏の居住については、文献上は九世紀にまでしか遡れません。そこで高野さんは、山尾古墳周辺の地名から「彦在(ひこざい)」という小字名に注日しました。なぜなら、刑部氏が祖と仰ぐ「彦坐王(古事記に開化天皇の子で四道将軍丹波道主王の父と記される)」と関連が深いと考えられるからです。
山尾古墳の被葬者についての、この高野説、いかがですか。志賀郷には「志賀の七不思議」と呼ばれる古代からの不思議な出来事が伝承されています。ならば、ここはひとつ山尾古墳もそれに加えて「七不思議プラス1」というのはどうでしょう。(近)
(『舞鶴市民新聞』(020913)) |
*由良川 考古学散歩101*
*識者の助言*
発掘調査の行程は、写真を撮るために進められていく感がある。写真の良し悪しが調査自体の評価を左右し、誤魔化しがきかないからだ。写真には高位置からの撮影が欠かせない。そのためにタワーあるいはやぐらと呼ぶ足場を組み上げる。高い位置から写真を撮影するための設備である。
足場は約一㍍四方で一段一・五㍍程度、時には五段組みすることもあり、カメラの位置が地上九㍍、ということもざらにある。仕事でなければ登りたくはない。だからこそ足場での撮影では気合が入る。落ち葉一枚、足跡ひとつ、影さえも入れたくはない。足場を据える場所も入念に選ぶ。
足場を据える場所は被写体を見下ろす絶好の位置に限る。ところが、その場所が遺跡にとって重要な場所だったとしたら…。
綾部市坊口町にあった山尾古墳は前回紹介した通り、全国的にみても十例余りしか確認されていない四段の石列を持つ特徴的な古墳である。ただ、そのことが分かったのは調査終了間際のことだった。それまでは、ごくありふれた小規模な後期古墳ということで調査が進められていった。件の足場も石室間近の石室を見下ろす位置に据え付けられていたのである。調査が終盤を迎えたころ、大阪大学の都出比呂志教授が現地を訪れた。都出先生は古墳時代研究の第一人者である。そして一言、「足場の下も掘りなさい」。
当時私も現場を見たが、そのような見識は持ち合わせていなかった。私ばかりではない。数多くの人々が現地を目にしながらも、それまで適切な助言がなされてこなかった。
先生の助言のもと、足場を撤去し掘り広げてみると、三段目・四段目の列石が姿を現わした。ごくありふれた古墳が全国的にみても数の少ない古墳へと評価を一変させたのである。
専門的な評価を得た割には、山尾古墳を知る人は少ない。もう数カ月早くこの事実が分かっていれば山尾古墳の運命は変わっていたのかも知れない。(三)
(『舞鶴市民新聞』(021011)) |
伝説
坊口の小字一覧
坊口町
六反田 大ケ田 才ノ下 栢ノ木 由里 籠迫 モリ分 中坪 出合 林シ 竹本 茶ノ木ケ鼻 松ノ下 箱垣 重代 森宗佐崎 中嶋 上山岡 下山岡 洞ケ谷 尾ノ内 山尾
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