京都府綾部市駅前通り
京都府何鹿郡綾部町・綾部村
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駅前通りの概要
《駅前通りの概要》
JR綾部駅とその南に位置する。従来からの駅前で、ロータリーと府道8号から本町6丁目までの南北の通り(府道709号・中山綾部線)に沿った町。飲食店・小旅館・医院・金融機関・スーパー・商店などが立ち並んでいる。
駅前通りは、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市大字綾部町・綾部村の各一部。
《駅前通りの人口・世帯数》 98・41
《主な社寺など》
綾部駅
南口
綾部駅舎は元々は当地に作られるようには計画されていなく、味方町の齋神社の向かい辺りに計画されていた.という。今のこの駅舎は三代目で、北口も設けられている。カッチョよすぎる、ワタシらの世代にはあまりなじみがない。
綾部駅の設置 政府が買い上げる前の京都鉄道会社の予定線として、綾部停車場の位置はすでに味方の宮ノ前に確定しており、土地の買収も完了し、一部敷地の盛り土までなされていた。ところが官設の具体化により、舞鶴線の測量が実施されるときになって、停車場の位置がふたたび問題となってきた。綾部町区の有志らは、由良川より西に設置するよう新たな運動をくりひろげ、陸軍大臣・海軍大臣・逓信大臣らへ陳情した。これに対し綾部東部と味方地区は連合して西部案に反対し、逓信大臣・鉄道作業局長・現地の技師らへ陳情し、明治三十五年九月から十月にかけて、両派は由良川をはさんで対立し、はげしい運動を展開した。陳情書によれば西部派の反対理由は、綾部町一三地区のうち一二地区と、官公衙・金融・商業などの中心である市街地は西部にあり、また水害の心配も少なく、地形的にも将来の綾部の発展は西部方面であり、由良川の水運も西岸でなくては陸揚げができず、もし洪水で橋が流れたら長期間停車場と市街地との連絡は断たれ、軍需物資の輸送などにも影響が大きい、などあらゆる点で停車場を西部に設けることの有利さをのべた。そのうえ、すでに買収されている味方の用地を売却して西部に新しい用地を買い、その差額である国庫の損失については、地元で責任をもって返済に努力すると申し立てている。
明治三十六年三月、舞鶴線敷地買収委員角倉府職員が綾部をたずね、新旧路線敷地の無条件交換および新しい停車場敷地を地元寄付にする条件を伝え、もしその条件が満たされないならば、停車場は味方にせざるを得ないことを伝えた。この具体案がしめされると、町当局は驚いて早速三月十日に全町協議会を召集して具体案について協議した。そのなかで綾部町と周辺村落では意見が対立し、村落側が、停車場の位置は村に関係のない問題であるとしたので協議会は決裂してしまった。そこで翌十一日、綾部・本宮両町村の有志が集まり、町単独でこの問題をすすめることにし、一口金三千円を限度として停車場の敷地を寄付するか、または路線敷地を交換するかを選んで交渉することに決定した。その後交渉をかさね、停車場の敷地寄付と綾部町地内新旧路線の無条件交換を承諾し、地主に対し田一坪を七〇~七五銭・畑一坪六〇~六五銭の範囲で町が買い上げ、これを無償で政府に渡し、政府からは買収済みの旧路線敷地のうち同街の地所を無償で下付する条件で成立した。その交換に要する敷地はおよそ一万坪で、旧敷地を売却した結果、差額見積りのおよそ三千円は町が引き受けることになり、買収委員は郡役所に事務所を置き買収事務をとった。明治三十六年四月十二日、停車場の位置は綾部町西北端の東馬場下より井倉の境に至る長さ三〇〇間余り、坪数七五〇〇坪(現在地)と発表され、前年から紛糾してきた停車場の位置問題もようやく決着した。同年四月二十日、東京において入札をおこない、第二区(中筋-綾部間)は越前の佐藤助九邸が請負い、五月一日より着工、詰所は五月下旬綾部天理教会に開設し、村越技師が主任に任命された。一方敷地の交換も順調にすすみ、新路線分敷地八二二九・六八坪の代償として買収ずみの旧敷地八五五八・七九坪の下付を受け、そのうち約五千坪は売却の予約が整い、残り約三千坪は小作契約が成立し、一部は牧草園として利用された。
(『綾部町誌』) |
『目で見る福知山・綾部の100年』より↑↓
綾部駅(綾部市・昭和14年) 綾部駅は、日露の風雲急を告げる明治37年6月竣工、同年11月福知山ー新舞鶴間の鉄道開通に合わせて開業。以来60年綾部の玄関口としての役割を果たした。駅前のバスは久木バス。
綾部駅の待合室(綾部市・昭和4年頃) 駅特有の大きな木製のいか。着物姿の母親と子供の動き、右書の文字板などの古い時代の、のどかな駅の待合室である。
以前の西舞鶴駅に似ているように思える、この初代駅はワタシは知らない。
綾部駅前広場の整備は三十四年に着工し、三十七年春に完成した。家屋移転数は六九棟であった。広さは三九〇〇平方メートルで旧広場の約八倍に拡張され、他にはみられない団体広場がつくられて、大本大祭や菊人形など観光客の玄関口としての役目を果たすことになった。工事費は三千万円(うち国鉄負担一四〇〇万円、国庫補助一千万円、市費六〇〇万円)であった。
またこの駅前広場整備と同時に改築にとりかかっていた綾部駅舎が、昭和三十七年十月十六日に竣工した。旧綾部駅は、明治三十七年に阪鶴鉄道の開通により営業をはじめ、四十年八月には日本国有鉄道が買収したが、約六〇年間綾部の玄関口としての役目を果たした。綾部に市制がしかれてから、綾部駅前を市の表玄関としてふさわしいものにすることは初代長岡市長の念願の一つで、強力な運動をつづけていたものであった。新しく建てられた駅舎は乳白色の鉄筋コンクリート二階建てで旧駅舎の二倍の大きさとなり、福知山鉄道管理局内に三か所しかないというモダンな建物は、拡張された駅前広場と美しい調和をみせて綾部市玄関の面目を一新した。
(『綾部市史』) |
二代目になるとワタシら世代もなじみであった。
『目で見る福知山・綾部の100年』より↑↓
綾部駅(綾部市・昭和37年頃) 都市計画第1期事業として昭和34年綾部駅前の整備に着工、37年には乳白色の鉄筋コンクリート二階建ての新駅舎が完成し、拡張された駅前広場と美しい調和を見せている。
昭和だな、という感じの建物だった。
同書にはこうした写真も見られる↓
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西馬場 西馬場下 東石ヶ坪
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