京都府綾部市八代町
京都府何鹿郡東八田村奥黒谷
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八代の概要
《八代の概要》
黒谷の熊野神社の横手から1キロばかり黒谷川をさかのぼったところに位置する集落、奥黒谷とも呼ばれる。周囲は山ばかりで、川沿いのわずかな平地や傾斜地に民家がある。当町には平家の落人伝説が伝わる。
奥黒谷村は、江戸期~明治22年の村名。はじめ山家藩領、寛永5年からは旗本梅迫谷氏知行地。当初は黒谷村の枝郷で、幕末に分村独立したと見られる。村内に耕地は少なく、山を越えて高槻村へ出作をしている。生業に紙漉きをし、紙運上を領主に上納した。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年東八田
村の大字となる。
奥黒谷は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年、市の字区域および名称変更のときに氏神八代神社の名をもって八代町と改称した。
《八代の人口・世帯数》 25・14
《主な社寺など》
八代神社
集落に入った所に鎮座。八昆古命と安倍宗任を祀る歴史の化石のような神社である。誰も確かなことは知らないが、何か秘められた忘れられたすごすぎる過去がありそうである。宗任もすごすごすぎるが、ヤヒコもまたすごすぎ。戦後70年が過ぎても天皇陛下バンザイの皇国史観から抜け出せなく、一般に郷土史でもヤマトとの関係ばかりを言うが、何も当地一帯ばかりでないが実際は東北とも関係がありそうに思われる。丹後人が忌み嫌われる東北地方と関係がないことはなかろう。片方ばかり見るのでなく視野をもっとひろげねばなるまい。
八代神社
一 神社名 八代神社 所在地 綾部市八代町小字藤ケ迫二一番地
一 祭神 八昆古命 安倍宗任
(一) 沿革
創立年代は未詳なるも伝説によれば、康平五年(一〇六二)の頃安倍貞任の弟安倍宗任がこの地に隠棲し、本社に武神として祀ったものと伝える。
神殿、拝殴は明治四十四年の改修で拝殿は銅板葺とし、神殿は昭和二十九年に銅板葺に屋根の改修をした。
一 祭日 十月十三日
一 氏子地域戸数 八代町 三四戸
(二) 八代神社の由緒
八代神社は元八大荒神と称して、八昆古命と安倍宗任を祀ったものであるが、宝剣やその他の遺物が奉納されているところから、宗任を武人として尊敬された。
宗任は八代町で亡くなり、神として祀られたとつたえられている。
八代神社は兵役について御利益を示されると言うので他村からの参詣者が多かった。又霊験を示された例も少なくなかった。
(三) 本殿の建築歴
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(『郷土誌 東八田』) |
八昆古は越後一宮の弥彦神社(正式にはイヤヒコ神社)の神と思われる。弥彦神社は天香山命が祀られているので、天香山命を伊夜比古(弥彦)命というと推定されている。また高倉下命ともされるが、片目の神と伝承されていて、祭日は3月18日、丹後藤社神社境内社の天目一社があり、祭神は天目一箇命といい、祭日は3月18日であるのと同じ。弥彦神は鍜冶神である。実際にかの地は銅鉱がある。香山のカゴは銅のことと思われる。
鉱山もない所に鉱山神が祀られることはなかろう、そうすれば、当地は銅(+銀?)鉱山の地であったのではなかろうか。
安倍宗任(鳥海三郎)は「俘囚の長」として象徴的に語られているだけで、勝手に他国を侵略をしておいて、かの地の元からの住民を俘囚と呼ぶのはおかしい、「俘囚の乱」などはアメ帝でも考え及ぶまい名付けかたであり、日本の支配者の伝統的なヤシ語であろうか。かの地の住民を拉致し「俘囚」と呼んで当地へも移住させた、鉱山労働者として強制的に別所などとと呼ばれた地へ住ませた、ずっと後になってつい70年ほど前も似たことをやっているので、ありそうな話には思われるが、証拠はきれいに残されてはいない。公認の史書に確たる歴史を見つけるのは困難である。
長年に何波にも渡って繰り返された北方への侵略戦争で、宗任時代は古代史上ではもう終わりの時代、ひどいやり方を見かねた宗任が現地住民側に加勢したようである。安倍氏は現地の人々にとっては正義の味方であったし今もそうだという。安倍氏は今の総理もその血を受け継ぐ人ではあるというが、この人は例外で強い者の味方、モリトモ氏とかの味方で8億円とかまけてやったとかいわれているが、時代錯誤の侵略側権力側に立つ反動人。それでも今のドメデタイ国の有権者はモリトモ氏とかと似たようなレベルのようで支持率が高いそう。父親(晋太郎)や祖父(寛)は彼(晋三)とは反対で「平和の政治家」として人気が高いという、祖父は東条と対立し翼賛会非推薦議員であった。
安倍は安日(あび)神のアビから出た名なのかも知れない、安日彦+長髄彦=アラハバキだというのだが、正確なことは誰にもわからない。トミの長髄彦といったりするが、鳥海三郎の鳥海はトミと読める、何かまったくのデタラメ話でもなさそうにも思われるが、正史などにはまったく触れないことでもあり、なにともわかりようもない。
わからないが、何かすっかり忘れてしまった過去、当地ばかりでなく日本国の過去を秘めていそうな神社のようである。
宗任伝説は当社ばかりでなく、真倉の稚児ケ滝不動にも伝わる。
浦島神社
集落入口である。右手の高い所にあるホコラが浦島神社(左奥の鳥居は八代神社)。神額がないので、ムラの人二人に社名を確認した、浦島の神、浦島神社だそうである。
丹後の神様が祀られている、丹後の海人が入っている、ここで鯛釣りするわけないので、海が荒れる季節に当地へ入り銅を採った鍜冶神として祀られているのではなかろうか。伊佐津川から八田川、由良川までは丹後の力が強いように思われる。丹後といっても当時は丹波だが、海側から開発されたのかも知れない。「海の京都」はホラくさいが、「海の丹波」は本当の歴史としてここにも証拠が残る。
浦島神社 所在地 八代神社の真向い
一 祭神 浦島神
一 由緒
本社には関係のない神を祭ったものであるが、八代神社の真向いにあって、これに関する文献は無いから不明である。
真言万能時代の遺物として現在首なしになった像と塚が保存されている。この像は全く真言時代を偲ぶ立波なものであったが今から凡そ二、三百年の昔大洪水の為流され、何所へとも知れず埋められてしまった。
その後村人は何も気にせずにいたが、岡本治右工門の先代は常に心にかけ人知れず探していたがある晩夢に人が表われ、「あの像体は何所にあるから掘ってくれ」といった。翌日そこを掘って見ると夢に見た通り像体は見付かったが、肝心の頭が見当たらなかったと言うのである。 (『郷土誌 東八田』) |
不思議な形状をした石がゴロゴロと、神社境内などに集められている。日浦石といって、北側の舞鶴市城屋の奥の日浦谷の石と同じ物、砂岩が流水に削られてできたもののよう。視点を変えて見方を変えればいろいろな物に見えてくる。
このホコラのある高台も全体がこの石のようだし、両側の山もこの石のよう。こうした所に金属が出るのだろうか、しかしこうした神社があるのだから、出たとしか考えようがない。
山の神
集落の一番奥に鎮座。いろいろなホコラもここに集められている。案内板もある。
大きなワラジが奉納されている。大きい方は1メートルある。とすれば全長7メートルほどの巨人に捧げられた物である。
山の神様は各地にあり、大きなワラジが奉納されている。巨人(大人)伝説も各地にあり、近くの「岡の大女房」などはよく知られている。
山の宮神社
所在地 字北谷(八代地区の人家の最北端
一 祭神 大山祇命
一 社殿 梁行 三尺九寸 桁行 三尺四寸
一 面積 二十坪 民有地であるが村中の所有である
一 由緒
俗に山の神さんで通っているし各地区に祭られている。図で見られる通り大きはなわらじを供えている。山仕事する人が信仰している神である。 (『郷土誌 東八田』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
八代の主な歴史記録
奥黒谷村(八代町)
全域が山に囲まれて他と隔絶している為に承徳(一〇九七)の頃落人が来て住みついたという伝承がある。丹後の城屋より八代に通ずる道があるが、安倍宗任が舞鶴方面から八代に入り住み着いた話は名高い。 (『郷土誌 東八田』) |
歴史物語 安部宗任
政治か乱れて来ると地方では豪族たちが中心になって、一族のものや、近くの有力な農民たちを従えて武装し、わがままな国司に対抗しょうとしていた。
このようにして、各地区に武士が生まれ、その武士たちがまとまって武士団をつくっていった。一方国司となって地方に下がった貴族の中にはそのままその土地に住み着くものもいた。そして武士団の頭となって地方の豪族や、有力農民と結びついて武士団は勢力をひろげていった、このような武士団の頭の代表的なものが源氏や平氏である。
関東地方に新しく根拠地を構えた源氏は大きな力を貯えるようになったが、東北地方は京都の朝廷の目が届かない独立国であった。東北地方には、「えぞ」と呼ぶ人がいて酋長となり自治団を作り朝廷に貢ぎものを差しだしていた。この酋長の中から勢力を伸ばしてきたのが、安部氏であった。
安部氏はいまの岩手県にあたる地域を地盤にしていた。ところが安部頼時の頃になると国司の命令にも従わなくなったので朝廷は源頼義を征討に向わしたが安部氏は強大な兵力をもっていたので、源氏の軍勢も苦労したが漸く勝利を得た、この戦いを「前九年の役」といっている。
その後安部兄弟は源氏に追われて、何れに走ったか明らかでないが兄の貞任は「衣のたてはほころびにけり」と源義家がうたいかけたところ貞任は「年をへし糸の乱れの苦しさに」と上の句で答えているところから衣川の戦いで討死にしたとも考えられるが他の説も出てくる。またこの戦いが長く続いた様子を後に出てくる石田神社の冷泉院の御綸旨にも現れているが、それ以後の様子は次の舞的市史に述べている宗任の話になるので「宗任と稚児童子」にうつることとする。
先ず八代神社の祭神である安部宗任の系図を申せば左のとうりである。宗任の妹は藤原鎌足の子孫と縁ずき、その子は平氏の女と緑すきその子と宗任の女子と結婚している。その子は藤原氏の跡をついだのである。
真倉駅に稚子の滝不動明王、安部宗任の子千世童子を祈るとある。其倉地区の一の瀨橋を渡ると三五〇メートルのところにお堂があり、不動尊がまつられている、豪族安部頼時に八人の子があった二男を貞任、三男を宗任で武人として有名である。父頼時がうたれ、兄弟は源義時の身辺につきまとうているのを見破られた。
貞任はうたれ宗任は弟正任等を連れて京都方面に逃れたが宗任等は都に入ることが許されず遂に追放され四国の伊予に渡り、ひそかに京都に舞戻ったが、また発見され、又もや逃れて丹後に来り当地真倉の山奥にある不動堂に身をかくしたのであった。このとき自分が連れてきた稚子千世童子と共に暫時、此の不動明王に祈願を込めて再起をを願ったが追手の近ずくのを知り、この堂を逃れ立つには足手纏いになる稚子千世童子を敵の手に渡すに忍びず涙を呑んで、その場で刺し殺し不動堂の脇に亡骸を埋め、碑を建てる暇もないので自分の愛用している紫竹の杖を碑の代りに、押し立て後日の目印として不動明王にその子の冥福を祈願して自分は急ぎ近辺の通称紙すき谷に逃れそこから山を越へ奥黒谷と言う所へ来て巌陰に身をひそめて居る所を追手に見つかり遂に最後をとげたと言い伝えられている。尚この不動堂の境内の竹に根を生じ芽を出したと言う。 (『郷土誌 東八田』) |
*松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈433〉*西地区の古伝承*「真倉・稚児ケ滝不動」その2*
*真倉から山を越えた奥黒谷にひそんだ安倍宗任*子孫が当地に自生するコウゾで紙漉*
稚児ケ滝にわが子を刺して埋め、目じるしに紫竹の杖をさして逃げた安倍宗任」(あべのむねとう)は、紙漉谷をさかのぼり、ひと山越えた奥黒谷の地にひそんだといいます。
奥黒谷では、この伝承を事実として伝え、氏神の 「八代(やしろ)神社」には、安倍宗任を先祖神として祀っています。
安倍宗任が隠れ住んでまもなく、詮議の手は黒谷の奥にまでおよびます。
宗任がついに発見されたようすを「地元では今もなまなましく伝見ています。
-ひとりの老婆が黒谷川のほとりで飯かごを洗っていた。と、鎧武者があらわれて宗任はどこかときいた。老婆はいずれ逃れる道はないと観念したが、口を閉ざしたまま手にした杓子で川上を指した-。
こうして宗任はとらえられたと伝えますが、だまって杓子で指すのみであったという老婆の姿に、この黒谷の人ひとの宗任へのあつい思いが伝えられています。
歴史の中での安倍宗任は、平安時代中期の陸奥(むつ)の武将で、奥六郡の「浮囚の長(ふしゅうのちょう)」であった安倍頼時の子です。
前九年の役で天喜五年(一〇五七)乳頼時が戦死したあと、兄の貞任とともに抗戦しますが、康平五年(一〇六二)九月十七日の厨川柵(くりやがわのき・現盛岡市)の決戦に敗れ、源頼義・義家の征討軍に投降し、同七年三月伊予(四国愛媛県に流され、治暦三年(一〇六七)九州太宰府に移されたとされます。
九州の水軍松浦党や伊予水軍の安倍氏などは、その子孫だという説がありますが、宗任の娘が奥州藤原氏二代基衝(もとひら)に嫁して三代秀衝を産んだことは、ひろく知られています。
後三年の役や前九年の役については、新しい見方が出はじめています。それは、平安時代の地方征討作戦のなかで、特に東北日本に対しては民族差別意識にもとづく政策があったのではないか、とみられるようになりました。
アイヌ民族として顔つきが違い、ことばがちがい、暮らしぶりがちがうことで「東夷(あずまえぴす)」とあなどられ、差別された人びとの怒りは、何度か平安時代の東北の大地をゆるがしました。もともと京に出自をもちながら、その人たちの側にたち、みずから「浮囚の長」と宣言して立ち上がったのが安倍氏であり、またのちの奥州藤原氏でした。
これらの暴動は、京の政権では「浮囚の乱」とよばれ、武士を動員し軍勢を派遣して鎮圧をはかりました。
若狭湾海部(あまべ)がこれにかかわったのではないかとみられるのが、元慶二年(八七八)の「出羽浮囚の乱」です。この二年後の元慶四年には、冠島の「息津島(おきつしま)神」や磯葛島の「葛島神」など、海部の神々に朝廷から幣帛が贈られ、神階が授けられています。(同志社大の森浩一先生の話から)
平安時代の九世紀から、十一世紀にかけてくりかえされた東北住民の抵抗が終わりを告げたのが、宗任らによる「厨川の戦い」でした。
しかし、投降した安倍の一族は、京に送られたあと各地に散ったとみられ、瀬戸内海や北九州の水軍の中に生き残ったという説があります。
真倉と黒谷を結ぶ安倍宗任伝説も、むしろ中世の戦いの中で敗れて隠れ住んだ水軍の一族が、先祖伝承としての安倍宗任を「山深い土地に根づかせたとみることもできます。
いずれにしても隠れ住んだ人たちにとって、生きていくための重要な手段が、この地に自生する「楮(こうぞ)」を原料とした紙漉きであったことはまちがいないようです。
″和紙の里″口黒谷はよく知られていますが、黒谷川をさらに二㌔さかのぼる奥黒谷が、安倍一族の子孫によってひらかれた紙漉き発祥の地であることは、あまり知られていません。
いまも宗任を祀る八代神社の周辺にはコウゾが自生し、この季節には、家々の軒下にコウゾの樹皮「かご」が干され、秋深い山里の風物詩として、遠い先祖の抵抗の歴史を語りついでいます。
(『舞鶴市民新聞』(95.10.27)) |
伝説
御霊地
八代神社の境に三柱神社が祀ってある。その横を御霊地といって八代神社の祭神安倍宗任の霊が祭られているという。村の人は各社へ参詣した後に、この御霊地へ参詣し、残る供え物全部この場へ納めるのが一般の例となっている。安倍宗任一族を供養する気拝の表われとみえる。
みようが様と薬師様
薬師様の教えとしていまも残っているミョウガ様がある。毎年節分に、ミョウガの出具合によって稲の豊作を、占うことができる。
(『郷土誌 東八田』) |
八代の小字一覧
八代町
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