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丹波の

白道路(はくどうじ・はそうじ)
京都府綾部市白道路町



極楽寺の大賀ハス

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京都府綾部市白道路町

京都府何鹿郡物部村白道路

白道路の概要




《白道路の概要》
上八田変電所の少し西寄り、府道物部梅迫停車場線()沿いにある。谷間だが、そうした感じはなく、高原の感じがする。この地域は山は低く谷が浅いため水が乏しく干損をこうむることがあり、溜池が重要視されてきた、江戸期以降、溜池の築造により用水確保が図られている。文政7年に稗田新池、安政4年に大畑口池が築造され、天保3年には谷の奥池が修理されたという。そうした溜池が府道沿いにも見られる。
普通はハソウジ(ハサウチ)と呼ばれている。漢字通ならハクドウジが本来の呼び方かと思われる。白童子のことか、酒呑童子・茨木童子を思い起こすが、ハク(璞久)は銅鉱石のこととか(『銅の文化史』)、璞久童子で銅(+銀)鉱山の親分のことか。それともスハキ童子のスが脱落したものか。
南側の高浪山にその鉱山はあったものか、星原などもこの山の裏側にある。高浪山(神波山295m)はカンナビ山の意味かと思われるが、この山並は舞鶴鉱山と鬼ケ城鉱山などとを結ぶ中間にあって同じ地質で、銅鉱山がないほうがおかしいような山である。地名はそうした意味かと思われるが、しかし何もそうした遺跡や記録や伝承はない。
地名の初見は寛正2年(1461)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)で「はさうち」とある。
白道路村は、江戸期~明治22年の村。小字に奥・中村・遠坂がある。物部四箇の一。 慶長6年旗本城下藤懸氏知行地、元和5年から一部は園部藩領となる。
旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、園部藩領は同4年園部県を経て、いずれも京都府に所属。同22年物部村の大字となる。
白道路は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ物部村、昭和30年からは綾部市の大字。昭和30年白道路町となる。
白道路町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


《白道路の人口・世帯数》 235・100


《主な社寺など》

高浪山(神並山・神浪山)295.8m

村の南に高浪(こうなみ)山があり、これを神奈備山とする説もある。今でも土地の人はこの山を神聖祝し、「かうなみ権現へ願かけをする」風習があるという。極楽寺の大賀ハス池より望む↑

神並山と鎌倉田
「かうなみ」山には式内の珂牟奈備神社がまつられてあった。今でも地元の人は此の山を神霊視して、病人があるとか怪我をするとかの場合には第一に「かうなみ権現」へ願かけをする風習になってゐる。
又当区の中村の田の畔に一箇の塚が大正八年迄残存してゐた。里人は「鎌倉田」といってゐた。口碑によると「昔鎌倉武士が向淵と八田方面から西走して此の地点迄くると真南の神並山から白羽の矢が流れて来てこめかみに中り、矢疵の為に死んだから此の塚の所に葬つたとうる。即ち珂牟奈備神社の神前を馬で乗り通そうとしたから神罰にあつたのだ」と伝へられてゐる。以て、神並権現の霊験あらたかな事と、地方の信仰の厚かった事が分る。
(『物部村誌』)

高波山の中腹の、式内の珂牟奈備神社(下宮神社)は、別名高波権現とよんで信仰していた、その昔鎌倉武士(古老は鎌倉権五郎といっている)が、向内道路を東から乗馬で西走中、権現さんから白羽の矢が飛来し、矢痕の為に死亡した、その地に塚を作り、その附近を鎌倉田と呼んでいる。大正八年の耕地整理で塚はなくなったのであるが、鎌倉塚の碑は極楽寺霊園の一角に建っており、往時を偲ぶことが出来るのである。  (『物部史誌』)


「鎌倉田」(かまくらでん)は、上の地図のチェックが入ってるところあたり、極楽寺よりわずかに東側の、神浪縫製の工場があるあたりの道路を挟んで北側のあたりから当寺のあたり。
極楽寺の裏山は墓地になっているが、そこに「伝説 鎌倉塚の石碑」と書かれた木柱と石碑がある。石碑は風化していて何が書かれているのか不明だが、極楽寺の案内板によれば、この石碑は「鎌倉権五郎碑」となっている。
片目の鎌倉権五郎景政で、矢が目に当たって片目になり死んだというのが本当のスジではなかろうか。この人の伝説地なら天目一箇神を祀る鉱山地だろうと推測され、白道路もこれに由来する地名かと思われる。上原氏の祖も景正とか伝わる、どこか混同がありそうな。。


五反田古墳群、多和田古墳群などがある。

上ノ宮神社

高浪山の麓に、上ノ宮(かみのみや)神社がある、同所の下ノ宮神社、諏訪神社と合わせ三社を村の氏神とする。
向かって右が上ノ宮神社、左は下ノ宮神社。諏訪神社の社殿がない。たぶん上下も合わせた全体が諏訪神社なのか。
小さい方の下ノ宮神社は何鹿郡式内社の珂牟奈備神社との説もある。本来の祭日は天目一箇神の祭日9月17日のようである。

上ノ宮大明神   白道路(ハソウジ)村 産神
祭ル神      祭礼
舞堂 一二ノ鳥居 森凡二十間ニ三十間 下ノ宮大明神 鳥居有 森凡五十間ニ一町半斗 諏訪大明神ト云 社無シ 舞堂 鳥居有 森凡一町半ニ二町斗 合三社氏神ナリ
(『丹波志』)

上宮神社(元村社)
本村大字白道路小字北口に鎮座、祭神は須佐男命であって創建の年月は不詳であるけれども元禄十五年に再建してゐる。
【参考】本神社境内に祭ってある下宮神社は元、高浪山腹に祭られて珂牟奈備神社と称してゐたが中古現地に遷祀したものである。創建は延喜以前のものであることは大日本史や延喜式によっても明かであるが維新後其の筋に於て取調べの際に調査洩れになったのは誠に遺憾である。
【本社に関する次の記録参照】
 大日本史に八田(今上下八田村、在賀美東)後日矢田荘(東寺文書)有珂牟奈備神社(延喜式)「註」今の白道路は八田荘に属してゐたから珂牟奈備神社とあるのは今の下宮神社を指して居る事が明かである。
 尚終戦当時迄は元郷社須波伎部神社には何鹿郡より(郡制廃止後は京都府より)元村社、高蔵神社、仝上宮神社へ本村より毎年例祭及大祭には神饌並に幣帛料を供進してゐたのである。
(『物部村誌』)

上宮神社 (白道路町川井田三五番地ノ一に鎮座)
祭神 須佐之男命
創祀の年月日や、鎮座の次第等は不詳であるが、元禄一五年(一七〇二年)再建、寛保元年(一七四一年)改建、大阪鑿屋の草花加兵衛、同平四郎の作となっている。その他由緒等は不詳である、「丹波志」によると、「上ノ宮大明神、白道路村産神、舞堂一、二ツノ鳥居、森、凡二十間ニ、三十間。下宮大明神、鳥居有リ、森、一町半ニ、二町斗、合セテ三社氏神ナリ」とある。
上宮神社は太平洋戦争の終結までは、物部村の村社であって、毎年例祭や大祭には村当局から幣帛料の供進を受けていた。
毎年三月一日は祈願祭が執行される、当日は氏子、宮司、自治会長、農事組合長、総代等多数が参拝し、種籾を始め米、餅、酒、魚、野菜、果物等をお供えして、今年の豊作と合わせて、家内安全、町内の平安を祈願する厳粛な式典である。一〇月一〇日は例大祭(戦前は一〇月一七日)である、その昔は、宵宮も本宮も、それはそれは賑やかに屋台の練り込みも盛大で、村をあげてのお祭りであり、おごそかな祭礼が奉納されていたのである、戦中は中断しており、戦後において復活の兆しもあり、昭和三〇年頃迄ささやかな祭礼を行っていたが、その後人手不足等で永らく中断していた、昭和五〇年に昔なつかしい白道路太鼓が、有志の方々の努力で復活し、五六年から宵宮には祭囃子も甦った、屋台や太鼓(現在は子供太鼓)、弓、挟箱.大鳥毛、毛槍、等々昔そのままの道具によって、「エッツ、エッツ」と奴姿の若者が境内を練り歩く様は、正に郷土芸能そのものであり、氏子の融和と地域の平和発展に大きな力となって居る、囃子の曲は、祇園囃子に最も近いと云われ、締め太鼓二人、鉦四人、笛六~八人、音頭二人などによりー盛大な中にもおごそかに行われる。また本宮当日は氏子、宮司、総代が参拝し厳粛な式典が執り行われる。
一一月一日は新嘗祭(新穀感謝祭)が先の祈願祭同様、多数の参列者のもとに、稲穂を始め丁重なお供えの品々を神前に献じて、今年の収種と平穏無事に深く感謝する祭典が営まれる。
本神社の境内に祀ってある下宮神社は、その昔高波山の山腹に祀られて珂牟奈備神社と称していた(別名高波権現)。祭神は天手力男命、創立の年月日は不詳であるが、創祀創建は延喜(西暦九〇〇年)以前であることは、大日本史や延喜式によって明らかである、維新後、その筋において取り調べの際、調査洩れになったのは誠に遺憾である。大日本史には八田、後日矢田荘(東寺文書)に当宮有りとなっており、今の白道路は東八田荘に属しており、「延喜式」に云われる八田の珂牟奈備神社は今の下宮神社を指しているのである。口伝によると、高地に神を祀れば神威顕著に現われ、低い処に祀れば神威穏やかなりと云われ、村人相謀り字狭間山の麓に社を遷して祀り下宮権現と称しておおいに信仰した、今尚この最寄りを下宮と云う、明治六年(一八七三年)村社、上宮神社の境内に移転合祀し、下宮神社として今日に至っている。毎年例祭は、八月二三日が宵宮であり、夕方から宮当番の隣組全員が集まり、献灯参拝し、総代や参拝した氏子とともに、宮からの神酒と当番持寄りの肴で直会(有難く戴くこと)し、歓談する。
稲荷神社。祭神は倉稲魂神、創立の年月日は不詳である、古来、小字桜ケ坪に鎮座の神と小字岩角に鎮座の神、及び、遠坂ニッ山の麓に鎮座して居た三社の神を、明治六年三月に上宮神社境内に移転して、合祀したのが今日の稲荷神社の始まりである。此の宮は祭神の名前のとおり、稲の豊作を守護する神で、五穀豊穣と災いを除き福を授ける開運の神として、今なお変わらない信仰があり、稲荷明神のお使いとされる狐の石像もある、例祭は二月初午の日であり、昭和六二年からは、宮司が例祭の式典を奉仕するようになった。更に式典に続いて古神札等の焚上祭も合わせて行われ、大勢の方々の参拝で賑わう、式後はそれぞれがお供えした稲荷寿司や、赤飯のおにぎり、おこわ等で庭火を 囲んで直会がもたれ、和やかに歓談する。
諏訪神社。祭神は建御名方命、創立創祀の次第は不詳である。比の地に移転した年月について明らかでないが、明治六年の各社移転の際ではないかと云われている。もとの鎮座地は、小字谷ノ奥一番地東南約一〇〇メートルの小山であったようで、その下の谷には清水の湧き出る小池があり、今もその池を「諏訪池」と呼んでおり、どんな干天にも渇れることがなく、付近には恵みの深い大切な池である。例祭は毎年七月二六日が宵宮であり、総代や宮当番全員の参拝のもとに献灯し、神酒を捧げ、宵宮を奉仕する、その後は当番持寄りの肴で直会の小宴を張る。
伊勢湾台風で下宮神社拝殿が全壊したり、昭和三〇年代の打続く台風で、森の大木の倒伏や社の被害甚大であったが総代の不断の努力や、氏子の熱意によって、改修営繕が立派になされているのである。
境内社以外にも、白道路には向内の稲荷さんや、大峰山白道路分神を祀る行者さん、殿岡の高力稲荷さん、あちこちに鎮座している株の荒神さん、最寄りにある山の神さん、地蔵さん等々、数多くの社があり、いにしえより敬神の念が非常に厚かったことを物語っている。
向内山の頂き、広場には愛宕神社が祀られている。創祖、由緒等つまびらかでないが、京都の愛宕神社の分神と考えられている、昔須波伎に大火があり、それ以来防火の守護神として、正月三ケ日のうちには全戸がお参りをしていた、現在でも須波伎からは正月に、参拝されている人々がある。例祭は毎年七月二三日であり、祭りに近い日、宮当番全員で掃除を行い、祭り当日は献灯、献饌し多数の人々が参拝して、安全息災を祈念している。
(『物部史誌』)


臨済宗東福寺派東谷山極楽寺

写真の右手にハス池があって、写真を写しに来る人がある。

東谷山 極楽寺(字白道路)
 所属宗派 臨済宗東福寺   本尊 薬師如来
 開山は安国寺(郡内東八田村)十五世朗室妙チン和尚(文明十二年寂)である。開創当時は平僧地であって住職はなく安国寺の管理下であった。二世桂岩令昌和尚は堂宇を再建し寺運の奥隆を図ったから中興と崇められた。五世洞岩令庭は同村東谷の出身である。現在の地をトして三たび堂宇を改建したので再中興として尊ばれた。東谷山の山号は蓋し其の出身地に因んで名づけたものではなからうか。七世妙道令微の時不幸火災に遇ふて(明治二十一年)堂宇は烏有に帰したので四度改築せられたのが現在の寺院である。(寺伝)現住職は八世五藤謙宗
(『物部村誌』)

東谷山 極楽寺(白道路町)
 所属宗派 臨済宗東福寺派
 本  尊 薬師如来
 開 基  朗宝妙チン
 開 山  文明一一年(一四七九)
 現 住  伊藤謙光(一〇世)
極楽寺は臨済宗東福寺派安国寺(市内安国寺町)の末寺であり、開創は安国寺一五世朗窒妙チン和尚と伝えられている。当時住職はなく、安国寺が管理していた。二世桂岩令昌和尚は堂宇を再建して、寺運を図ったので中興と崇められた。五世洞岩令庭和尚は、白道路の東谷出身であり、堂宇を改建し大いに寺の隆盛に努め、再中興として称えられており、向内山に位置している寺であるにもかかわらず、東谷山極楽寺の山号は、五世和尚の出身地に因んだものではなかろうかと思考される。八世妙道令徴和尚のとき、明治二二年(一八八九)不幸にして、大火に遇い、本尊薬師如来像を始め、全山烏有に帰したのである。其の後寺は再建されたが、本尊が焼失してなくなり、代りとして、寄進された観世音菩薩を祭っていた。九世後藤謙宗和尚の代となり、昭和の農村恐慌や打続く事変、戦争の混乱期に遭遇し、苦難の年月であったが堪え忍び、爾来橿信徒の寄りどころとなり、寺運の復興に努め、今日に及んでいる。昭和一〇年(1939)、公会堂が竣工するまでは、寺が寄合所であり、区の常会はもとより、婦人会も青年会もすべてが寺の広間を利用し、大いに寺を活用し、常に住民に密着して、里人に慕われる寺の存在であった。また大東亜戦争中、農繁期には和尚さんの好意で託児所を開設し、戦後二七年頃からも再開して、大勢の幼児を預かって大いに喜ばれたものである。なお同年には授戒会の大法要を行った。昭和三一年(一九五六)、仏教会主催の花祭りが当山で盛大に行われ、稚児行列や出し物で賑わった。後藤住職は昭和五三年(一九七八)、多額の私財を投じて寺の隠寮である温古庵の新築を果たし、また和尚が念願の鐘楼建設にも多額の浄財を寄贈、その他数限りなく寺の興隆に寄与し、九〇有余年の春秋を重ね、今尚矍鑠であり、読経の声も朗朗として衆を魅了している。漸くにして、昭和五九年(一九八四)、日展審査員で彫刻家としても名声の高い、仏師松本繁来の力作による、立派な薬師如来像を檀信徒帯刀直治から寄贈を得て、ここに開創時の寺の形を整えることが出来たのである。
寺の参道中腹右手には、二千年の夢から覚め、ロマンを秘めた大賀蓮池があり、初夏ともなれば薄紅色の大輪の花 開き、その見事さは即極楽浄土かと思われる。また参道脇には、郷土出身で天龍寺や林丘寺の管長を務めた、明治の傑僧由理滴水禅師の遺徳を偲ぶ顕彰の碑が、昭和五七年(一九八二)これまた、帯刀直治の寄贈と、檀家の寄進によって建立されており、禅師の遺偈である「曹源一滴」「蓋地蓋天」の碑文は、天龍寺管長関牧翁師の直筆になるものである。
少し登ったところには、綾部西国三三ヶ所霊場一九番札所として、観音堂が改築されており、如意輪観世音菩薩が安置され、「おしなべて、みなゆくさきは、極楽寺、大悲のちかい、たのむみなれば」と詠歌されているのである。その前方には、奇しくも八八ヶ所霊場一九番札所の御堂が建っており、弘法大師の石仏が安置されている、因みに白道路八八ヶ所のお大師さんは、明治二一年(一八八八)、住職八世妙道令徴和尚が、何鹿郡はもとより、加佐郡や天田郡を広く行脚して浄財を募り、一番は樹令四〇〇年の霊木三本杉、とお滝で名高い不動さんに始まり、東から西へ一九番の極楽寺に至り、向内山に登って寺の守護神である金比羅神社を通って、愛宕山の愛宕神社を経て、桜ケ坪の八八番まで約二キロの参拝コースは、四月二一日の祭日頃になると、並木の桜花やつつじの花爛漫で、楽しくお参りが出来るのである。
寺の参道を登りつめるや、右手には昭和五九年(一九八四)、新築された雄大で高雅な鐘楼が建っており、富山県高岡の老子鋳造所で製作された大梵鐘が、「大悲の鐘」と命名され、「六道にひびきわたれとつく鐘は、大慈大悲のみこえなりけり」と鳴りわたっているのである。庭を隔てて本堂仏間には、さきに述べた本尊の薬師如来座像や、寺宝の阿弥陀如来立像が安置されている。その昔、白道路町片山にあった真言宗の寺院で、高羅山西方寺が廃寺となり、その本尊であった阿弥陀如来立像は(作者不詳、源空海作との口碑もある)、明治一二年(一八七九)、極楽寺境内に阿弥陀堂を建て、祭っていたが、昭和四九年(一九七四)、綾部市の重要文化財として指定されるに及び、寺の本堂に移転安置し、寺宝としているのである。阿弥陀堂は改築して、庚申堂とし、青面金剛(病魔、悪鬼を払う神で作者不詳)、創作は弘化二年(一八四五)といわれている。寺の本堂には、昭和五八年(一九八三)宮津市栗田在住の岡本ナミの寄進により、改築された仏間の両側に、整然と配列した揃いの位牌、中央には唐朝中期の逸品青銅製の十三重舎利塔があり、客間には滴水禅師の扁額や四方平治郎(注)の横額、其の他、禅師縁りの品々や、九世住職丹精の麗筆も鮮やかな書や、ふすまの数々があり、境内には萬物慰霊塔や養蚕最盛期を偲ぶ大正八年(一九一九)建立の蚕露供養塔等がある。
高波山の中腹の、式内の珂牟奈備神社(下宮神社)は、別名高波権現とよんで信仰していた、その昔鎌倉武士(古老は鎌倉権五郎といっている)が、向内道路を東から乗馬で西走中、権現さんから白羽の矢が飛来し、矢痕の為に死亡した、その地に塚を作り、その附近を鎌倉田と呼んでいる。大正八年の耕地整理で塚はなくなったのであるが、鎌倉塚の碑は極楽寺霊園の一角に建っており、往時を偲ぶことが出来るのである。
昭和五九年(一九八四)は、寺においては村を挙げての画期的な事業施行の年となった、九世後藤和尚の退山式、一〇世伊藤謙光和尚の晋山式、鐘楼の建立、位牌堂改装、本尊薬師如来像の開眼供養等、後世に残る記念すべき慶事の多い年であった。
昭和六三年(一九八八)、永年の懸案であった寺の共同墓地が、寺総代らの努力により、立派に達成され、寺の風格も一段と充実した。
 注 四方平治郎 白道路在住 教育者として、また書道の達人として広く知られており、雅号を 龍可 と称した。
滴水和尚に深く私淑し禅師の研究については第一人者である。
(『物部史誌』)


はす池
7月中旬くらいからとある。中旬頃↓あまり咲いていない。


二千年の睡リからさめた 大賀ハス
 この蓮は、昔、日本各地に生えていたものが二千年ぶりで蘇った古代蓮てある。
蓮にまつわる話として故大賀一郎博士のことに触れなければならない。博士は昭和初期に南満州(中国東北部)で、数百年昔の蓮の種子を発見し、育て上げて学位を取り、蓮博士と称せられた学者。この池の蓮の種子も、博士が千葉市で発見した三粒の種子の一粒である。
千葉市検見川(けみがわ)は、大昔、海に近い一面の湿地で、地下は深い泥炭層てある。
 博士は弟子の学生や地元学生の協力を得、毎日々々、泥を掘ってはフルイにかけ、水で洗うという作業を続けた。昭和二十六年は、第二次世界大戦後で、器具機械は乏しく、食物も不足な時代。今日見つがらねば作業を中止しようと決意した四十日目に、地下六mを掘ったところ、フルイに三粒の種子がかかる。
昭和二十六年三月三十日の夕方である。その時の博士の顔は涙と泥でグシャグシャだったという。
 三粒の種子の一粒は博士の庭で、一粒は地元検見川で二千年の睡リがら芽を出し、昭和二十七年七月十八日に花が咲いた時は、生物の奇跡として世界の学会は驚く。翌二十八年にはドイツの国際園芸博覧会で開花し、世界で認められ「大賀ハス」と名づけられ、千葉県の文化財に指定されている。
 今、京都府では府立植物園と、ここだけが、この珍しい蓮の花を咲かせている。
 はちす葉のにごりにしまぬ こころもて
  なにかは露の玉とあざむく
            僧正 遍照


当寺の周辺には白道路不動尊や八十八ヵ所などもある。




高浪城
神波(高浪)山城(白道路町神波)
 丹波志・古跡陵墓ノ部に次のようにある。
高波山ト云古跡(白道路村内・中村)
 古城 北エ下所ニ水ノ手ト云所有 一ノ丸 二ノ丸ト云二段有 八丁斗 住人不知
白道路集落の南にそびえる、標高二九五メートルの山頂に、方三〇メートルの本丸と二の丸があり、その南壁に三本の竪堀が見られる。この城主は藤懸氏の客分で、後に家老になったという。郷士大石氏の本城とも伝えられている。
 大石氏子孫 白道路村
  遠坂ニ郷士大石弥右衛門特高有之 地頭藤懸(掛)殿客分
  家老ニ引越 古跡殿屋敷ト云フ(丹波志)
(『物部史誌』)


《交通》
遠坂峠
白道路から南方の神波山を越えて、向こう側の星原や有岡へ越える峠。お不動さんや上宮神社から登る、昔はよく利用されたというが、今はもうどこにその道があったのかも不明で自然に帰ってしまっている廃道状態のよう。
氷上郡にも遠坂村というのがあったが、遠(とお)は登尾とか書くことが多いが峠のトオでタワのこと、稜線がタワンで低くなっている鞍部部分を指して要するそこを越えた峠である。坂も峠のことである。古人がどうして隣村へ行くのにわざわざこうした高い山を越えたのか現代人には不思議だが、それ相応の正当な理由あってのことなのであろう。

《産業》


《姓氏》
白道路は由利滴水の生誕地
極楽寺の境内に「滴水碑」が立てられている。


由利滴水禅師誕生之地
天龍寺中興滴水宜牧禅師の誕生地は物部村字白道路小字中村四五五番屋敷なり。其の地を按ずるに、村社上宮神社の鳥居より二百米突許り、南方に當り、中村峠へ到る道の右側に位し、今畑こなれり。其の生縁を示せば
父 上田彦兵衛 覚峯道悟居士
   文政十巳亥三月二日亡
母 上田絹 圓光浄満大姉
   明治九丙子十二月十一日死
母の生家、京郡府何鹿郡中上林村字八津合小字殿村波多野宗兵衛次女
禅師は加佐郡河守町由利清左衛門の養子となりて出家す。故に由利を姓とす。
義父 寂心院誠譽圓応居士 明治五壬申四月十四日亡
義母 誠心院善譽貞光大姉 明治十丁丑二月十五日死

由利滴水
由利滴水は嵯峨天龍寺の偉僧なり。諱は宜牧號は滴水又は無異室といふ。文政五年四月八日物部村字白遣路(中村)上田彦兵衡の第三子に生る。四歳にして父を喪ひ九歳にして丹後加佐郡行永村の龍勝寺に入り大法和尚に禮して得度す。後備前なる池田侯の菩提所曹源寺に詣り儀山善成に参して大悟に入る。これより滴水と號す、時に年二十八。「曹源之一滴水、一生受用不盡」の遺偈あるはこれによれるなり。藝州の名刹佛通寺に住し文久二年天龍寺に入る。元治元年七月長州の兵來りて天龍寺に屯す。軍敗れて去りし後薩摩の兵村田新八寺を囲みて方に砲撃せんとす。滴水出て曰く、「山内兵なし古刹を焼くなかれ。」と。新八承諾せしも後約を変じて之を焼けり。新八鹿児島の役に死するや滴水之を佛罰なりといへり。明治五年禅宗三派の管長となりて天龍寺を董す。高木龍淵、橋本餓山、山岡鐵舟、鳥尾得庵、天田愚庵等皆其の鎚下より出づ。滴水家風森嚴綿密にして細事と雖も之を苟もせず。最も福徳を謹みて一紙一飯も甚だ之を重んず。其の布褌の如きも自ら之を洗ひ曾て之を人に委せず。雛僧の知らざる間に之を濯ぎ了りきといふ。其の一代の行状悉く世人の典型たり。明治二十六年管長及び寺を高木籠源に譲り愛宕都條學院村の林丘寺にかくる。二十九年再び天龍寺に入り管長となりしが明治三十二年一月二十日寂す。年七十八。(大日本人名辞書、滴水禅師)
(『何鹿郡誌』)

由利滴水
由利滴水は嵯峨天龍寺の偉僧なり、諱は宜牧号は滴水又は無異室といふ、文政五年四月八日物部村字白道路、父は上田彦兵衛母は絹の第三子に生る。四歳にして父を喪ひ加佐郡河守町(現大江町)由利清左ヱ門の養子となる。九歳にして丹後如佐郡行永村の龍勝寺に入り大法和尚に礼して得度す。後備前なる池田侯の菩提寺、曹源寺に詣り儀山善成に参して大悟に入る。之より滴水と号す。時に年二十八「曹源之一滴水、一生受用不尽」の遺偈あるはこれによれるなり。
芸州の名刹仏通寺に住し、文久二年天龍寺に入る。元治元年七月長州の兵来りて天龍寺に屯す。軍敗れて後薩摩の兵村田新八寺を囲みて方に砲撃せんとす。滴水出て曰く「山内兵なし古刹を焼く勿れ」と新八承諾せしも後約を変じて之を焼けむ。新八、鹿児島の役に死するや滴水之を仏罰なりといへり。明治五年禅宗三派の管長となりて天龍寺を薫す。高木龍淵、橋本峨、山岡鉄舟、鳥尾得庵、天田愚庵皆其の鎚下より出づ。滴水家風森厳綿密にして細事と雖も之を苛もせず。最も福徳を謹みて一紙一飯も甚だ之を重んず。其の布禅の如きも自ら之を洗ひ会て之と人に委せず雛僧の知らざる間に濯ぎたりきといふ。其の一代の行状悉く世人の典型たり。明治二十六年管長及寺と高木龍淵に譲り愛宕郡修学院村の林丘寺にかくる。同二十九年再び天龍寺に入り管長となりしが明治三十二年一月二十日寂す。年七十八。(大日本人名辞書、滴水禅師何鹿郡誌より転載)  (『物部村誌』)

由理滴水
 嵯峨天龍寺や修学院門跡林丘寺中興の祖とうたわれ、幕末、明治の傑僧として、広くその名を知られた由理滴水禅師は、いみ名を宜牧と言い、文政五年四月八日、丹波の国何鹿郡白道路村において、父上田彦兵衛、母絹の第三子として生まれた。四才のとき父を失い、加佐郡河守町(大江町)、由里清左衛門の養子となった、九才の時、丹後の国加佐郡行永村(舞鶴市行永)、龍勝寺の大法和尚に師事し得度する。一六才のとき、同じ舞鶴の東山寺で天猷和尚(後に京都の南禅寺管長となった高僧)に三年間師事する。一九才から九年間、備前の国池田侯の菩提寺である曹源寺において、当時、天下にその人ありと言われた儀山和尚のもとで、ひたすら禅の道に励んだのである。或る夏の日禅師が風呂番をしていたときのことである、儀山和尚から「湯が熱すぎる、水を持ってこい」といわれて、何気なく桶の底に残っていた水を「ポイ」っと捨てたとき、師匠が大喝一声「大馬鹿者、一滴の水にも生命がある、この干天に草木がどれだけ水を欲しがっているか、それを不用意に捨てるとは何事ぞ、そんな心掛けでは何年修業していても役に立たぬ」と言われた一言が身にしみて、それ以後は一滴の水の生命を自分の命として尊び、自分の名を滴水と改め、身命を惜しまぬ大修業をして大悟徹底したのである。
 二八才のとき儀山禅師の命に従い、安芸の仏通寺にて三年間住し、嘉永五年、三一才で京都に入り、嵯峨廣澤の要行院に義堂長老を訪れる。長老が天龍寺前版(註1)に任じられ、鹿王院を継席するに及び、禅師が替わって要行院に住す。
 此の院にて一〇年余、その後文久二年四一才にて天龍寺の西堂(註2)に栄進した。
 元治元年七月一九日薩摩と長州の両軍が、蛤御門や中立売御門で戦った世に首う禁門の変である。このとき天龍寺に陣を構えていた長州軍が敗退のあと、翌二〇日、薩摩軍の隊長村田新八が寺を囲み、まさに砲撃せんとしたその時に「山内兵なし、古刹を焼くなかれ、どうしても比の寺を撃つと言うなら、まず、わしを撃ってからにせい」と、一喝したのが滴水禅師であった。
 維新の三舟の一人と言われ、功練のあった山岡鉄舟は、滴水禅師に師事し、深く禅の修行をされ鉄舟をして、「わしが今日あるは禅師のおかげである」と、言わしめた等々、幾多の逸話に富んだ聖僧である。
 明治 四年、五〇才、天龍寺管長となる。明治天皇より紫衣を賜り、一〇月二四日参内して天恩を謝す。
 明治 五年、五一才、大教正に補され、禅室三派(臨済・曹洞・黄檗)の管長に選任される。
 明治一七年、六三才、官命により、林丘寺住職を兼同寺の廃頽を中興する。
 明治二五年、七一才、天龍寺管長を龍渕和尚に譲り、林丘寺に閑栖する。
 明治三〇年、七六才、再び天龍寺管長となり、専ら伽藍再建を統督する。
 明治三二年、七八才、天龍寺堂塔伽藍の再建工事完了する、大遠忌を挙行せんとするに際し、俄然病状が悪化して同年一月二〇日午前九時一〇分に寂す。
 禅師の偉大さは、大悟徹底無我の境地において、あるときは一滴の水となり、あるときは大海の水となり、随時随所に己の生命を活用したことにあるといわれている。
 白道路町極楽寺の境内には、郷土の誇りである、禅師の遺徳を偲ぶ顕彰碑、天龍寺管長関牧翁師の揮毫による「曹源一滴、蓋地蓋天」があり、生誕地の白道路町辻には、林丘寺門跡柱月尼僧の直筆による、「滴水禅師生誕地」の立派な記念碑がそれぞれ、昭和五七年に地元民の熱意によって建立されており、禅師の徳を偲び、深く仏心を養うよりどころとなっている。
 (註1) 前堂ともいう、僧堂聖僧の龕の左右を出入版と為し、出入版より己前を前版、または前堂と言う、これ前堂首座の管領するところなり。
 (註2) また西庵、他山の前住の人叢林に来るときは之を賓位に置く、賓位は西なる故に西堂という。
     現時は住持の化を助け衆僧を接得せる者、即ち法制一会の導師を西堂と称す、位置大いに高し。
         (政教社発行滴水禅師逸事、旧物部村史参照))
(『物部史誌』)


かりれん(火裏蓮)(新舞鶴)
テレビで山岡鉄舟の剣禅一如の道をさぐる放送をしている。鉄舟の書いたものが舞鶴の各地からでてくる。鉄舟は舞鶴に来たのだろうか。
由里滴水は文政五年綾部で生れ、天保元年(一八三○年)舞鶴の龍勝寺で得度した。その後京都の天龍寺の管長になった。満水と鉄舟の出会いは、鉄舟が五十三年の人生をおえるより九年さかのぼる明治十二年のことだ。滴水が天龍寺再建の請願のため東上し、東京本郷の鶴祥院に住んでいた。ここで禅の講義をしていた。聴きにきた人のその中に鉄舟もいたのだ。一刀流の奥儀を極めながら、何か満足することがないのか、剣禅一如の道をさぐっていたのだ。寝食を忘れる程の努力であった。鉄舟は幼少より、父小野朝右衛門高福について一刀流を学び、十七才のとき父の住地飛騨より江戸にもどり、翌年北辰一刀流の千葉道場に入門した。そのころ忍流槍術の使い手として有名だった山岡紀一郎正規にけいこをつけてもらうようになり、二○才のとき紀一郎の妹、英子を嫁にして山岡家の養子となった。二十四才のとき千葉道場の同門、溝河八郎らと尊皇攘夷を結成した。自ら社会の混乱の中に身を投じた。江戸開城の後は、徳川慶喜と共に駿府へ移り、権大参事となった。後に明治政府に出仕し、子爵を授けられた。その後も剣禅一如の道をさぐった。
山岡鉄舟と由里滴水の関係は、ふたりの間でよく使われた「かりれん」のことばどおり、師弟、兄弟もこえる強いつながりをもった。
無刀流を開眼した鉄舟は、天皇側近をはなれ自由の身になり、体の故障の治療もかね漂泊の旅に出た。その行先のひとつとして、師滴水ゆかりの地舞鶴を訪れたのです。鉄舟の書は松尾寺や三浜地区にあり、朝鮮独立党の志士朴永孝や金王均の書も舞鶴の西村家につたえられている。
鉄舟はその後病床にあった晩年にも、書の揮ごうの筆は続けた。又訪れてきた一豪商がいった。
「大商売をしようと思ったら、勝敗利潤にピクビクしてはだめです。もうけようと思えばどきどきするし、損をしてはと案ずると、身がちぢまる。そこで是非に執着しないようやることでした」
鉄舟は自ら、この商人の話につき
「余の剣道と交え考える時、その妙言いうべきからざるなり」と手記している。かれが続けていた参禅とは別に、開悟のヒントが与えられたものだ。
鉄舟のような悟りの地にはいけないが、人間はときには自らをいため、本心を問うてみることが大切なことである。しかし鉄舟と滴水の仲はまれにみるものである。私は「かりれん」のことばで、警鐘をうちならせられた感が深かった。
(『舞鶴の民話4』)

プロ野球の上原浩治選手の父親が白道路の出身。親戚が綾部市内にも居られるとか。


白道路の主な歴史記録




伝説


蛇の執念
 昭和五〇年頃に物部小学校で、学芸会に演じられたり、平成七年九月市制施行四五周年記念の一環として、里町の市中央公民館ホールで、わがまち綾部再発見事業「人形劇あやべむかしばなしJ(綾部青年会議所主催、市・市教委・鮭の子文庫後援)で上演され好評を博した、地元の昔話「蛇の執念」は次のようなものであった。

 昔、白通路にお品というたいそう働き者のばあさんがおっちゃったげな、ある年の初夏のことじやった。お品ばあさん、綾部に急用ができて、なんでもその日の夜明けまでに着かねばということで、まだお星さんの出ているうちに家を出て、尻坂峠を越えて以久田野まで来たときのことじやった。初夏というても朝方は冷え込むし、朝速かったもんじゃからばあさんは、オシツコがしとうなったんじゃ。こんな朝早うなら誰も見とらんじゃろうと思うて、道端の草むらに入ると、しゃがみこんで用をたし、さて立ち上がろうとするとこりゃどうじゃ、腰が伸びんし、足も立たん、手も動かにゃ、ひざも動かん。ばあさんあらん限りの力を振りしぼったんじゃがどうにもならん、驚きと怖さで気を失わんばかりじやった、「神さま、仏さま、ご先祖さま」と一心に唱えたそうな。その時折よく、一人の侍が通り掛かったんじゃ、綾部藩家中の剛の者で侍は、いぶかしげな顔をしながら、うずくまるお品ばあさんを見ていたが突然、腰の一刀を引き抜くと「エイッ!」と一閃(せん)、ばあさんの後ろの草むらを横なぎにしたんじゃ、するとなんとも異様な音がして手ごたえ充分、跳び上がって果てたのは、長さ一〇尺、太さ四寸(注、一尺は約三〇㌢、一寸はその一〇分のこもあろうかと思われる大きな蛇じゃった。蛇の金縛りから解かれたばあさんは、何度も礼を言うと、急ぎどきゆえと失礼をわび、綾部へ向かったということじゃ。
 それから何日かたってお品ばあさんの畑に、それは、それはでっかい西瓜ができたんじゃ、二尺はゆうにあったじゃろう、「そうじゃ、この前のお侍さんに差しあげよう」と、思い立ったばあさんは、大きな風呂敷に西瓜を包んで「ヨッコラショ」と背中に背負って、くだんの侍のところへ向かったんじゃ。
 侍はお品ばあさんの元気な顔を見ると、さも安堵したように「おう元気か、よかった、よかった」と、家の中に招き入れたということじゃ、ばあさんは「お侍さま、この前のお礼です」と、大きな西瓜を差し出したんじゃ、侍は「おう、これは立派なスイカじゃ、ご苦労、ご苦労」と、その西瓜をジーツと見ていたんじゃが、やがて、口を開くと「おいばあさんや、この西瓜お前の畑で採れたのか」と、言うが早いか奥にとって返し、再び出て来たその姿は、後鉢巻きにたすきがけ、袴の裾を高く上げ、手には白刃をギラリ!と下げて現われた、ばあさんびっくり仰天、腰も抜かさんばかりに鷲いたんじゃ、侍はそんなばあさんを見て、静かな口調で「おい、ばあさん、恐るには及ばんぞ、今から拙者が見事な西瓜料理を見せてやるからの。」
 大上段に振りかぶった白刃「エイッ」と、一声、鋭い気合いと共に大きな西瓜は真っ二つになって、三尺ばかり跳び上がり、その中から、これまた二つに胴切りされた大きな蛇が三匹も、出てきたじゃげなということじゃ。
 実(げ)に恐ろしや、蛇の執念。
(『物部史誌』)

白道路不動様
         綾部市・物部小 六年 四方寛之
白道路村には、標高三百メートルの山があります。名前は神並山。東の谷、西の谷などがあります。この伝説は、東の谷の出来事。
文政時代のある家の息子が、東の谷に草かりをしに来ました。熱心に仕事をやっていると、小便がしたくなり、なにげなくやりました。ところがある日、体じゅうにできものができ、まっ赤にはれました。この出来事をほかの人に話してみると、
「小便したところには石のぞうがうずまっているので、ばちがあたったんじゃろ」
と言われたんです。そこでさっそく、三尺ほど穴をほってみると「カチッ」と何かにくわがあたり、だしてみると、二尺の大きさのものが出てきました。ほりだしたものを寺に持って行き、きれいに洗ってみると、両手に刀のようなものを持っておられたのです。
「これは不動様ではないか」
時代は変わり天保の時代。この神様をまつり、小便をかけたことをあやまったのです。すると、どうでしょう、この息子のできものがきれいになおったのです。この出来事が村じゅうにひろまり、三月二十六日にお経を読むようになりました。これから三日間大雨が降り続き、不動様より少し上流に滝が出来たのです。この滝を通って流れる水は、病によくきくとひょうばんになり、白道路以外からも多くの人が参りに来るようになりました。石の像をほったこの息子には高い位をさずけ、きちんとほおむったということです。
この不動様の祭りは、現在は十月二十七日となりました。そして滝から落ちる水は、今でもひどい病気の時には飲むことがあるといわれています。  (『由良川子ども風土記』)





白道路の小字一覧


白道路町 桜ケ坪 門谷 木反田 川戸 東谷 殿岡 岩鼠 笹谷 姥ケ谷 岡田 鎌倉田 北口 北国田 谷ノ奥 片山 辻 深田 河井田 大道 崩 大谷 大畑 多和田 堀塚 葉山 下五反田 五反田 戸坂 新田坊 遠坂 野 吹ケ多和 柳原 亀ケ谷 蛇田 狭間 鍋倉 樋ノ口 古池 摺鉢田 河原田 岸本 穴戸 高浪 門谷 大谷 東谷 吹ケ多知 向内大畑 笹谷 狭間 葉山 崩

『物部村誌』
字白道路
「耕地」 門谷、木反田、川戸、東谷、大谷、殿岡、岩角、笹谷、姥ゲ谷、岡田、鎌倉田 桜ゲ坪、北国田、谷奥、方山、辻、深田、河井田、大道、崩、大畑、多和田、堀塚、葉山、戸坂、新田防、遠坂、吹ケ多和、野、下五反田、柳原、亀ケ谷、蛇田、狭間、鍋倉、古池、樋ノ口、摺鉢田、河原田、岸本、穴戸、 計四十一
「林野」 大畑、葉山、吹ケ多和、崩、高浪、笹谷、大谷、東谷、門谷、向内、狭間  計十一


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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