京都府綾部市橋上町
京都府何鹿郡山家村橋上
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橋上の概要
《橋上の概要》
上林川の谷あいの台地上に位置する。南北に細長く集落が点在していて交通の便が悪いというか、道は狭い。川に近く漁にはよいのかも、集落の上を京都縦貫道が走る。
橋ノ上村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家村のうち、のち分村独立。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年山家村の大字となる。
橋上は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年橋上町となる。
橋上町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。
《橋上の人口・世帯数》 40・19
《橋上の主な社寺など》
丸山神社
昭和18年に大房天王社と斎神社を合祀した丸山神社、高い所に鎮座ある。
丸山神社 四級社 橋上町丸山
(イ)大房神社を明治十八年四月に現在地に遷し、仝年九月(ロ)斎神社を合祀し、大正七年六月八日丸山神社と改称する事の許可を受けた。
・(イ)大房神社、祭神は素盞嗚尊、祭日は旧九月五日 天文十九年(一五五〇)八月再建天明元年(一七八一)下橋上に移転、寛政三年(一七九一)二月再建する。明治十八年の文書に、
今回当村産土大房神社の祠を移転するや、此祠たる既に百余年を経て、茅屋も穿漏し柱梁も朽腐し、既に修繕を加えざるべからざるに至れり。而して之を修するも実に大費にして移転するも費用に於て差異あらず。且社の都合もあれば、乃ち官許を得て古の社地字丸山へ転遷せしに、前言する如く費用増加し又旧内殿を用ゆる計画の所、前章の如く大破損にて、之に修繕を加へざれば用い難し、此等の費用寒村三十余戸の微力を以て仕弁する能はず。因て伏して願を由方有志の諸君多少を論ぜず御寄附あらん事を希望す。明治十八年九月二十三日 四方岩吉・四方嘉荘・四方治兵衛・福田正秀とあり。 村内各区より寄附を頂き完成する。
・(ロ)斎神社 祭神 倭姫命 嘉禄二年(一二二六)三月神祇卜部兼連より斎神社と社格を与えられ、延宝五年(一六七七)十月吉田社家より森瀬大明神の社格あり。明治六年取調により無格杜と公定される。明治十七年十一月に摂社と公定され、明治十八年丸山に移転合社する。昭和九年合祀五十年祭を行い、昭和五十九年十二月九日宮満の日に遷宮百年祭を執行する。神輿は吉美の高倉神社より譲り受けたもので、旧社地までのお旅をする。御神体・旗持・弓持・刀持にお旅太鼓の行列である。
・摂社 大川神社 加佐郡有路からの分霊を祭る
・摂社 稲荷神社 祭神は稲倉尊命
(『山家史誌』) |
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
円山応挙の妻
応挙は桑田郡穴太村(亀岡市)の出身である。享保十八年 (一七三三)に生まれ、宝暦年間(一七五一-一七六〇)に上洛、呉服屋・道具商につとめ画業を志した頃、妻帯して独立した。妻女は名不詳であるがこの時代の系統書に女性を入れないのが通例のため記録がない。この女性が橋上の木下家出であるのは間違いなく、現当主(木下一) 五代前の政右衛門(旧村誌では正栄?)と本分家の関係にある半兵衛の息女と思われる。(香住、応挙寺談) 今もって木下家で法要を司どる。なお応挙の次男、応受は橋上へ戻って母方の木下家を継いだが早世した。(ブリタニカ大辞典)
(『山家史誌』) |
橋上の主な歴史記録
橋上の伝説
日知神
橋上、西梁の山裾に、日知(ひじり)神を祀る小さな祠がある。明治をさかのぼる百年ほど前に或る坊さんが遍歴してきて、発作をおこし死んだ。その霊をなぐさめるためだという。ひじりは「ひだる」の転訛であろうか。
七人塚と道心渕
七人塚という無銘の塚が橋上の西梁にある。むかし道心という侍一行七人が通行のみぎり谷家中の士と斬りあい、相果て川原の岩の上で自害したというので道心渕の名が残っている。哀れんでやや北よりの台地に遺骸を葬ったというのが七人塚の由来である。この話は本当らしくて、当時の民俗信仰をよく物語っている。
最近、前記の「日知神」の祠から〝奉勧請″の納札が出てきて、その木札の表には蟻が巣喰っていて読めないところもあるが大要つぎのとおりである。
祓此土安穏
奉 勧請[ ]地 荒神守護 □
天人常充満
山家橋上七人塚〇〇薩摩国士族〇〇〇三十[ ]山本久太郎 元方 佐々木
六人○足永正元年十一月廿日大川ニ死去 但シ七人塚[ ] 佐々
三十参年五月二申侯[ ]四名者元之 佐々木
勧請 [ ]都 林了運 佐々木
裏面には、明治第十六年旧五月〇〇日改 法華経勧請仕候也
とあって、永正年間(一五〇四~一五二〇)といい、薩摩といい、道心も山家藩(一五八二以降)とのかかわりもよくわからない。しかし信仰厚く塚には今も一華が手向けられており、民俗学的に貴重な伝承である。七人塚は青天井であるので、御札は佐々木一族によって日知神の祠に納められたものであろう。
三人塚
三人塚と謂われる墓所は、橋上大門橋の北側丘上の山林にある。谷家忠節の士三人の殉死墳墓の所といわれるが氏名のわかっていないのが不思儀である。三人の侍は「主君の行列の見える所、菩提寺の釣鐘の音の聞こえる所」と言い置きて、鎧具足帯刀のまま葬られたと伝えられる。後年に誰か掘りかけたあとがある。
五郎橋の由来
橋上町の上林川に架かる五郎橋は昔から京都と舞鶴を結ぶ重要な街道筋に位置していたが、その名の由来は明らかでない。林義思(戸奈瀬町)が舞鶴市字水間の古老から聞いたところによると、「昔水間に五郎という木挽がいて、山家藩の家中に出入していたが、あるとき、大暴風雨があって、山家藩の名木が倒れたが、誰も手を出すものがなく、五郎がそれを貰い受けた。余り立派なので切りくだくのは勿体ないと、大勢の人を頼んで、長いまま下の川まで引きおろし橋をかけた。以来便利になって人々は大いに喜び、その名をとって「五郎橋」と呼ぶようになったという。洪水のたびに改修を重ね、昭和三十一年永久橋が完成した。
(『山家史誌』) |
橋上の小字一覧
橋上町 木戸谷 山際 布毛 谷田 芋谷 五郎 岡皆地 車田 寒地 照用 下照用 岼ノ下 簗 大門 千原 西簗 下橋上 猪ノ谷 小熊 榎畠 マワリ 丸山 太谷 日尻神 小屋ノ谷 長尾
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