京都府綾部市東山町
京都府何鹿郡山家村鷹栖
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東山町の概要
《東山町の概要》
東山町。天然寺境内より↓
上林川と由良川の合流点西岸の台地上に位置する。旧山家村の中心地で、町並みを形成し、東綾中学校などがある。
東山町は、昭和28年~現在の綾部市の町名で、もとは綾部市鷹栖の一部。町名の由来は市街地の東で、旧山家村内に位置することによるという。
《東山町の人口・世帯数》 249・89
《東山町の主な社寺など》
神社
○若宮荒神宮 祭神級長津彦命、級長戸辺命 祭日七月二十七日 東山町(受戸) 井坪谷
神名秘書によると風の宮雨の宮といって荒神二神を祀り、風災を免れて豊作を祈り、また風邪の疫神を追い払うとある。初め諸願成就の拝礼鎮座所として、光格天皇の文化十年(一八一三)八月十五日丹後街道ぶちの上林川沿いに建てられていたが、天保二年(一八三一)一月受戸邑中によって現在地に遷宮された。
昭和三十年八月拝殿改修。諸願成就の願札多く信仰の篤さを物語り、祭事には陰陽師や御嶽教教士が当り、その名も残されている。
○天満宮 祭神菅原道真 東山町萩の蔭にありと丹波誌に記してあるが、今はなくなっている。
○不動社 祭神不動明王 祭日八月二日 東山町萩の蔭上棟川畔の岩場
祭日には東山町挙って奉仕し、参詣者も多い
○火除け稲荷神社 祭神倉稲魂命 東山町山家
商家の家敷神として祭る事が多いが、中町の稲荷さんとして明治六年に勧請したと言われている。それに山家製糸株式会社に鎮座していた稲荷さん(明治二十一年勧請)を合祀された神社である
〇三崎稲荷神社 祭神倉稲魂命 東山町山家
元は坂町に鎮座していたが本経寺に遷され、山家劇場前にまつる。
(『山家史誌』) |
浄土宗雲向山天然寺
町並みから外れかかった小山の上にある。
雲向山天然教寺 浄土宗京智恩院末 山家町
慶長元年開山 桑蓮社真誉上人 一阿実厳大和尚也 近年田辺松林寺末ト云
(『丹波志』) |
雲向山天然寺 浄土宗総本山智恩院門末(田辺松林寺末) 東山町(上町)吹越三四-三 二、八六六㎡
本尊阿弥陀如来(長さ一尺七寸坐高三尺四寸)観音、勢至両立し、三尊は安阿弥の作といわれている。
地蔵菩薩、十二神は享和二年(一八〇二)春四国浄蓮が再興し、七月二十四日に開眼した。閻魔王は谷道立が再興。寛弘年中(一〇〇四~一二)京都比叡山横川恵信僧都、諸国行脚のときに当山に庵室を建て、自ら薬師如来の尊像数体を造って「薬師院」と称した。寛永(一六二三~四四)の初め頃、二代藩主谷衡政公、浄土宗の僧乗蓮真誉上人に帰依し一寺を建立して雲向山天然寺といった。そして真誉を開基とした。祠堂の田畑高七石を与えた。
本堂五間半に四間半、庫裡三間に五間、門行三間横二間、鐘楼一間半四方、薬師堂三間に、地蔵堂は一間半四方子安地蔵と名づけ小野篁の作といわれている。明治十三年六月町の大火により焼失したが、余じんに胎蔵と錫杖を発見し収納した。同年再建した。
(『山家史誌』) |
法華宗本能寺派感応山本経寺
感応山本経寺 法花宗京本能寺末 山家町
除地 開基 荒河屋
(『丹波志』) |
感応山本経寺 法華宗大東山本能寺末 東山町山家二〇一 除地二、〇八〇㎡ 馬場四八米巾三六〇㎝
本尊主題釈迦牟尼仏、多宝如来、上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、四天王、不動愛染、鬼子母神、大黒天十羅刹女、日蓮大菩薩、元は真言宗本久寺と称していたが、慶安四年(一六五一)京都伏見小栗栖本経寺の学僧文隆が当寺へ来て法論の末改宗させ法華の寺とした。時の領主谷大学頭衛政公代家老塩見利斉という人は、日蓮宗に帰依し、本宗の僧日受、山陰道弘道布教にきたとき、転宗してお堂を再建し寄進した。本山より本経寺の寺号を贈り、日受大徳を開山とし、塩見利斉を開基とした。寛文二年(一六六二)三代谷衛広公より地子を免じられた。安永八年(一七七九)九月焼失し再建した。本堂間口六間半裏四間、庫裡六間裏三間半、番神堂二間四面当時の檀家四十五戸であった。安置してある大黒天は商売繁盛、五穀豊作の霊験大で江戸末期まで丹波丹後より参詣多かった。
(『山家史誌』) |
明正寺廃寺
明正寺 眞宗本山西本願寺派(田辺瑞光寺末) 東山町山家 此除地一、三二〇㎡
本尊方便法身尊容阿弥陀如来(坐長一尺八寸)須弥九重
法信庵北谷に在る。藩祖谷衛好公御後室釈尼明正院殿が帰依して建立した、寛永十九年(一六四二)十二月二十六日明正寺号を賜った。開基釈慶安で祖代出羽守衛友公が寺領免除された。御堂五間に五間半、庫裡三間に六間、大正二年廃寺となり、綾部浄光寺に合併された。文化五年当時檀家七十五戸
(『山家史誌』) |
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
有道佐一(ありみちさいち)
「有道」はどう読むのかわからなかった、アリジさんだろう、加佐郡有道郷と書くから、たぶん元々は大江町有路の人ではなかろうか。
有道佐一画伯
誇るべき人物といえば有道佐一画伯を措いて他にない。もとより山家出身としての人ばかりでなく、山家村や丹波地方を越えて、ひろく日本を代表する不世出の画家である。
在所 綾部市東山町山家三三番地
明治二九年 何鹿部志賀郷村遅岫(篠田町)の豪家に生まれる。
仝 三八年 家運かたむき両親と共に山家坂町に移り住む。
大正 四年 十九歳のとき、たまたま写生旅行に山家を訪れた鹿子木孟郎画伯に見出され、師弟の契りを結ぶ。
師範学校中退。上京の費用もないまま、厳父の励ましを唯一のよりどころに十年余、ひたすらデッサンに努める。
昭和 二年 三十一歳、上京。鹿子木塾生となり十年間、師の仕事を手伝いながら研鑽を重ねる。
仝 一一年 四十歳、訪欧。パリを中心に風物の写生に専念、路傍で写生中、パリ画壇の気鋭であったジャコメッティに見出され「サロン・チュイルリー」の会員に推される。ピカソ・マチス・オトンフリエスにも伝わるところとなり、日本人初の画を納める。
仝 一三年 帰朝、四十二歳。あらゆる画壇、団体の誘いを断わりつづけ、山家の自然にこもって、比類のない画作を続ける。
仝 五四年 七月、八十三歳。東京セントラル美術館にて回観展ひらかれる。
十一月、綾部でも回顧展ひらく。
仝 五八年 二月十日、永眠。八十七歳。 諡 天翔院画心佐宗居士
画伯の画は古今東西を通じて全く比類なく、画壇に屹立するものである。当時「筆舌につくし難い」と嘆じたのは外相有田八郎、在仏大使佐藤尚武らで、のちも蜷川虎三京都府知事ら数多名士の称揚あとを絶たず、一時は画壇のトップを争うほどの声価であった。鹿子木塾時代の「奉天入城」は戦時中まで全国のあちこちに掲額されていたものである。パリでの写生画やその後の名作「山家村」を始め、絶讃の油画数百点、日本画一万余点が生涯にわたって画きつづけられた。そのうち三十余の油画、千余の日本画は今も故山の山家アトリエ(則神居)ふかく所蔵されている。
戦前には綾部・何鹿の有力者をこぞって「有道会」が結成されていた。いつのほどか画伯をめぐって近親近在者と小倉百人一首かるた会が盛んになり、軌後は有明会として隆盛をきわめ、時の全国名人の参来や、綾部・福知山・舞鶴からの来会もしきりであった。このように余技の遊びとしても実力鍛練の道であり、その芸魂と気骨は今もなお余風となって、畏敬の念とともに多くの人に慕われている。
(『山家史誌』) |
東山町の主な歴史記録
車でなら、アッという間に通り越してしまうが、当町は山家1万石の城下町であった。
城下町
ふるい山陰道は亀岡から西の篠山街道を経て、佐治から和田山に向かったが、近世は園部・八木・須知・桧山経由福知山に至ったもので、綾部や山家の城下へは途中の桧山から別れ、山家へはさらに街道から分岐北上、草尾峠を越して上林川が由良川に合流する城下に達したわけである。田辺藩(舞鶴)の参観交代は川の渡しによってこの山家経由の通路によっていた。
上林川を接する右岸台地に谷陣屋と画してこの城下町は発生した。低位台地上の町家は合流点から三〇メートルの高さにあり、深い先行谷が左岸段丘上にある谷藩陣屋(居館)と士族屋敷を区画したものである。
一般には城下町と総称されるが、山家の場合は宿場街から陣屋町へと形成されていったというのが本当であろう。しかし本陣は置かれていない。この洪涵平地は狭いながらに交通の要路として、慶長年間、或いはそれ以前から宿場町の様相を呈しはじめ、天正十年(一五八二)初代、谷衛友の入部以後、陣屋町の成り立ちを見るわけであるが、当初の頃は関ケ原の戦(慶長五年) (一六〇〇)以後も戦乱に明け暮れて、衛友没の寛永四年(一六二七)までには、町としての縄取り(線引)は未だであったろうと推測される。したがって二代衛政、寛文二年没(一六六二)三代衛広、元禄二年没(一六八九)の間に、陣屋町の成立を見、以降享保年間(一七一五)と思われる池、火除地の設置など態勢が完備してゆくわけである。
今も残る正徳三年(一七一三)の古図(町区累代継承)さらに六十年後の明和九年(一七七二)(青野家蔵)の町絵図をみると、その発達繁栄のさまと過程がよくうかがわれる。
惣家数九拾八軒 内四軒年見地 (図面記載)
並 寺弐ケ寺 池四ッ有
馬場町口より坂町作兵衛迄通り間数百壱間
同所より上町吉良兵衛迄同百九拾壱間半
馬場町長サ百間余リ幅三間。本経寺道長サ弐拾六間四尺幅弐間。上町儀兵衛横鷹栖道幅宅間半。
同平助横不動作場道幅弐間半。(以下、菅沼謙蔵手控による。(木下家文書)
町橋詰より馬場町端迄弐百弐拾間。
同橋詰より上町端迄三百三間。高弐拾七石七升 畑方 此取米拾三石四升、
未年免高四ッ九分五厘、右毎々未歟当時不知古書之侭記之。
町高八拾三石八升、家数合百弐軒、人数合四百九拾壱人内、男二三四・女
二五七。牛一疋、馬弐疋。
絵図によると、池五、火除地六の取り方が他城下町に比し別して明らかであり、台地上の防火腐心のさまは特長的である。商家、町家としては、いまでも一部屋号に残る、鍋屋・志賀屋・若松星・たんごや・いがや・ふしみや・荒賀屋・糀屋・大嶋屋・いでんや・砂岩屋・田辺屋・津国屋・宮津屋・丸屋・大黒屋・玉屋・亀屋等々があり、業種では、医・旅篭三・米・油・塩・呉服反物・菓子三・大工・鍛冶・紺屋三・竹・傘・下駄・桶・木賃宿・質・畳・トコヤ・薬種なども記されている。(明和三年山家町山畑水帳、明治四年御高調下帳による)。なお町惣畑八町三反四歩、惣高八拾三石八升一合三勺、銀納拾七石七斗、大豆五升三合、五里口拾二石二斗の割の貢納となっていて、明治まで変わりはない。
以上にみるとおり町発生以来、籍は鷹栖村にあったが統治区画の便宣上、タカノス・町・裏番に三分され、以来この区分はながく昭和の綾部市合併までつづくこととなる。寺院三カ寺も古く寛永初期 (一六三〇)に再建された天然寺、本経寺と、万治二年(一六五九)開基の明正寺がある。高札場も中町火除地前にあった。肥後橋を渡って上がる坂町は石垣、石段のつづく美しい家並だったという。後年明治に入ってここから小字山家の番地が附され、中町、上町を径て馬場町の町道具蔵(のちの山家村役場、現在の東綾中学校正門付近)が百番地である。請戸は町に準じていた。また上町請戸のあたりに一里塚、庚申塚もあった。
珍しい役割としてほ丸役・半役・煙役・何分何厘役の格付があり、小物割等の定納、役務などの称であったろうと思われる。五人組の定めの上に統治と年貢収納の藩奉行と末端役所に代る庄屋があって(町には庄屋がなく、名主惣代がこれに当たり)仲介の役目をした。明治五-七年の西村家(吉左衛門)庄屋日誌によると、くりかえし「山家へ行く、若松屋にて会合」の記録あり、物産の集中、協議統制のさまがよく物語られている。
ある老舗のはなしでは廃藩に当たって「やっと頭の上の重石がとれた」という内儀の逸話の残るのも面白い。事実、殿様の無くなったときの百姓町民の偽らぬ感情であったかもしれない。
降って明治に入っても山家の町はまだまだ繁華が続く。ここに一つの回想録がある。「榎本宰吉覚書」の一端だが、明治中期の光景が克明にまざまざと描かれている。「盆正月の売出しには、坂町・中町の本通りは人出で雑沓を極めた。馬場町辺も以前は活気があった。お医者さんに明正寺と云う門構えの門徒寺、劇場、傘屋、饅頭屋、うどん屋、木賃宿、とうふ屋、桶屋、大工、左官、箕製造ありて、綾部街道の門戸で交通も頻繁であった。売出しには入口に店をならべ他所から商人が多数入り込んで、靴綱抜き(牛の一枚革で造ったもの)串柿、塩干物、蜜柑、昆布、下駄、履物類その他、商人が買手の袖の中へ手をさし入れて値段の押引をやっている。また算盤を持って客を追ひかけ……(中略)何といっても一等旅舘の若松屋、次いで下志賀屋、上志賀屋、酒屋、魚屋、古物商、取売酒屋、染物屋等、料理屋では町芸者も居た。……(中略)合資会社(銀行)もあり、顔役の浪切、太郎兵衛の二人が居て、何れも出身は相撲取りであったとか、町内を肩で風切る懐ろ手でブラブラ廻り、喧嘩の仲裁をやったり児分も持っていた、いわゆる山家の侠客で芝居があると(後の大正倶楽部・笑和倶楽部の場所とは別)特定席に陣取って、喧嘩口論が起きると取押さへもやる権威物であった。山家名物の饅頭屋が伊賀屋と新五郎さんと二軒並んで優劣なしによく売れた。特徴は中味の餡は比較的少ないが外味に味のあるのが山家饅頭の特異性で、一厘・二厘・三厘の三種、二厘が今の五円饅頭と匹敵する。むしろ昔の二厘が大ききから味に於て優れていると思った。その後五厘饅頭ができて、口に当てて頬張りかねる大きさだった。何れにしても山家饅頭は界隈で誰知らないものはない名物の一として、山家通ればお土産は必ず饅頭を筆頭とされたので、京都街道往き来の道中で園部の唐板、山家饅頭と、それならこそ坂町、馬場町、中町通りの四軒が饅頭専門の店で食っていけたのである。」とこの記述は興味ぶかい。
このような町家の成り立ちも京都・綾部・若狭への分岐点であったことに基因し、田辺湾の魚、塩などが梅迫経由、横峠(峠に甘酒を売る茶店もあった)を越えて、京街道に沿う村々へ運ばれたことは事実で、請戸はそれに続く町の新開地である。しかし鉄道山陰線の開通、山家駅の開設以後は自然に衰えてゆくこととなる。加えて日中戦争、太平洋戦争期の物資窮乏は商家を滅失のドン底に突き落とし、戦後も町村合併によって行政機関の流出、産業企構の大変革、自家用車の普及もあってさびれる一方となってしまった。役場も郵便局もなくなり商家四・五軒を数えるに過ぎない。劇場は戦後間もなく閉鎖、かつて昭和十二~四年頃流れた「ああそれなのにネエ」のメロディと共に、商工会の放った不動公園の花宴も戦前なごりの徒花となった。祭り行事や盆踊り、観音さんの出し物、地蔵盆の万燈流しもすっかり面貌変わりをしてしまった。けれども人々の生命力は強い、急激に過疎化してゆく旧村内の中にあって、さほど人家人口の減ることもなく、城下町としての面目は無くなったにせよ、道幅も家並みのたたずまいも静かに昔の面影を偲ばせている。
(『山家史誌』) |
東山町の伝説
東山町の小字一覧
東山町
萩ノ蔭 山家 小畑 中山 井坪谷 見附 受戸成 稗田 吹越
『山家史誌』
請戸 (東山町)
今は受戸と書いているが古い呼名は請戸である。藩政時代の畑山林水帳にもこの呼名があり、田辺街道の出入口として物品などの請所に当り、見付の名と共に検問、荷の受け所の有った処からと言われている。
又請戸はもともと請負場、請所といって新開地を指すもので、古文書にも開墾の記録があり、昭和初期にもこれを続行し戦時中にも青年団などが開拓に動員された記録が残されている。
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