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丹波の

広瀬(ひろせ)
京都府綾部市広瀬町


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京都府綾部市広瀬町

京都府何鹿郡山家村広瀬

広瀬の概要




《広瀬の概要》
山家陣屋がある一帯で、由良川北岸の山腹に位置する。西は上林川が南流して由良川に合流。由良川沿いに国道27号が走る。
広瀬村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家村の枝村、のち分村独立。山家藩領。
広瀬は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年広瀬町となる。
広瀬町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《広瀬の人口・世帯数》 121・48


《広瀬の主な社寺など》

伊也神社(式内社)


山家陣屋跡の模擬櫓門の向かいの山麓に鎮座、案内板がある。

延喜式内 伊也(イヤ)神社
鎮座 広瀬町城山一四番地の三
境内 六九四坪
祭神 大日霊貴尊 素盞嗚尊 月夜見尊
縁起 崇神天皇の御代緑盤萱の典丹波道主命この地に先臨し給うい、甲ヶ峯の麓に宮を築き祀られたのが初で、後伊也神社を勧請し何鹿郡延喜式十二座の一に数えられいる。天正年中火災により焼失その跡を御社(ゴシャ)と呼び居りしが文化七年(一八一〇)十月従二位清原宜光公願成就により現在地磐座の清地に御本殿を移転新築された社である。明治三年類焼翌年再建昭和五十五年修復す。綾部市観光協会


伊也神社 広瀬村の谷侯陣屋内なる稲荷社を指定されたり。現今山家村字広瀬に鎮座。

伊也神社(式内社) 山家村字広瀬小字城山にあり。村社にして大日?貴尊、素盞鳴命、月夜見神の三神を祭る。氏子五五戸、広瀬全区之に属す。徳川時代土俗いなり社と奉称し、陰暦九月十六日を例祭とせしが、今は十月十五日となせり。
(『何鹿郡誌』)

伊也神社
所在 綾部市広瀬町城山
祭神 大日霊貴尊・素盞鳴尊 「渡会氏神名帳考証」では大屋彦神となっている。
由緒 当社はもと広瀬町伊也ケ谷(伊神いがみ)にあったが、天正年間大火にかかり、谷氏陣屋の山手である現在地に遷した。今も旧宮跡を御社と呼んでいる。明治三年谷藩庁の火災に類焼し、宮大工桑原直右衛門によって再建された。社伝によると伊也神社は、丹波道主命によって奉斎されたことになっている。
(『綾部市史』)

式内社四級社伊也神社 祭神大日霊貴尊・素盞嗚尊・月夜見尊 広瀬町城山一四-三 境内二三一三㎡
祭日旧九月十六日 伝説に崇神天皇十年丹波道主王この他に光臨し給う。王の薨後伊也神社を勧請するという。始め伊也ケ谷(伊神)の奥の御社に祀ったが、天正八年(一五八〇)に火災にあい現在地に遷す。
谷藩では伊也神社を稲荷神社と読んでいたらしいが、延喜式巻第十に丹波国何鹿部の十二座の内の一社に記され、式内祉として明瞭である。旧地には三抱え余りの樫の古木が残っている。
幣箱の蓋裏書に「寄附文化七痍午年(一八一〇)冬十月七日従二位清原宣光謹書」とあり箱内には祈祷書があって「開化天皇 仁応九代 垂仁天皇十一代 景行天皇 行丹波道主之王也丹波国何鹿郡山家庄甲峯三神天照太神素盞嗚尊月夜見尊守護神諸神達 助計給比守利給辺上祈祷申 事謹美〃〃申寿 文化七庚午年(一八一〇)冬十月七日 寄附奉納腰成就 (印) 従二位清原宣光謹書(印)(印)」と、書かれている。
明治庚午年(一八七〇)十一月、山家藩庁失火により類焼する。明治四辛未年吉祥日再建の棟札あり。昭和五十五年大本教祭主となって改築が行われた。
(『山家史誌』)
史料少なく何ともナゾの残る、解明を求められるずいぶんと古い神社である。イヤと読むのはそう延喜式に訓が付いているからである。元の鎮座地の伊神という所は八幡神社が鎮座する辺りである。
『綾部市史』は、
綾部の伝承 綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命。受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟官神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。
もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り 甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神 素戔鳴尊 月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。
これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。

丹波道主が伊神に住んでいて、当社を祀ったという。
山家には斎神社がたくさんあって、これらの社も丹後の竹野神社(祭神の一柱は日子坐王)でなかろうかと思われ、こうした社の元締めのようなものかも…
斎神社は、上原、下原、下替地町に鎮座、橋上の丸山神社にも合祀されているし、釜輪の釜一三神社も元は斎神社と呼んでいた、戸奈瀬の天清三神神社も同様に元は斎神社であった。山家以外では味方と下八田に鎮座している。これらの社も本来の祭神はあるいは日子坐王・丹波道主かも知れない。舞鶴の真倉川から八田川-由良川のこのあたり一帯がその一族の拠点であったのかも知れない。

また越後国蒲原郡の名神大社・伊夜比古神社(今の通称は弥彦(やひこ)神社)と何か関係がありそうな社名である。
弥彦神社の祭日は3月18日、祭神は一つ目とされる、天香山とも高倉下ともされていて、天日槍とも見られる。鉱山鍜冶神であろう。銅の矢尻のことだろうか。当地一帯にも銅山か銀山があって、あちこちからそれを取りにきていた、丹後勢も加わっていて、彼らが中心であったのかも…
あと当社と関係がありそうな神社は八代町の八代神社か、八毘古命と安倍宗任を祭神としている。
それと釜輪の日前神社か。
河岸段丘上で、広い平らな土地は少なく農業というよりは鉱山とか交通の要地として発展してきたものか。

また出雲国意宇郡に式内社・揖夜神社がある。斉明紀の「言屋社」、黄泉比良坂とされる伊賦夜坂の近くにある、揖夜はイヤとかイフヤと呼ばれる。風土記の伊布夜社、イフヤだから関係ないか。


八幡神社

広い境内の神社。
案内板があるが、禿げていて読みにくい。

広瀬八幡宮
所在 綾部市広瀬町伊神鎮座 境内一五七〇坪
祭神 応神天皇 厄神々社武内宿祢公と合祀
沿革 曽て縁起一巻が覚応寺に所蔵されたと聞くがその尊い古文書を知る人もなし、寛文五年(一六六五年)二月谷藩主第十三代従五位下出羽守衛広公の再建勧進によるものと記録あり、藩政時代の武家は八幡宮の氏子(一一四戸)として、地元の住民は八幡宮を氏神として崇敬した。
明治六年郷社に列せられたが財産及び拝殿等不設備の故を以て京都府は之を認めず昭和九年以後田畑山林約五町歩と金子若干併せて壱万円也の基本財産を達成し漸く同十二年拝殿及び所属舎等の建築完成を告げたるも日支大事変突発の為処理を了せず同十五年紀元二千六百年記念事業として前期計画を認められ住民一同の絶大な支援を仰ぎ同年八月二十日指定郷社の指令を受け同年十月十七日上棟兼竣工式を挙行する事ができた。献金貳拾円以上の篤志者を表彰した。その名簿は境内に別建記念碑の裏面に掲載してその美徳を永遠に伝えることとした。因みに昭和二十六年四月二日法律第一二六号を以て宗教法人法が制定実施され自然村社郷社など従来の社格を意味する如き名称は廃止された。
当八幡宮昭和二十七年四月三十日神社疔総理鷹司信輔(印)より宗教団体であることの証明書の交付を受け法務省(登認所)に登録済み、更に宗教法人八幡宮の??についても昭和二十八年五月十一日京都府知事蜷川虎三(印)より認証を受けた(広瀬町自治会)


八幡宮     広瀬村 産神
祭ル神    祭礼 八月十五日
拝殿 長屋 一二ノ鳥居 宮守真言宗高野山三山(ミサン)寺円覚院 地頭祈願所二十石寄付ト云 末社諏訪大明神 薬師天神本ハ諏訪山ト云 麓ニ古八幡森アリ 地頭ヨリ八幡ヲ引テ本社ト成 天神ハ天神山ヨリ薬師ハ薬師山ヨリ引 森凡三十間四方 祭ハ 町立合ナリ
(『丹波志』)

八幡宮 山家村字広瀬小字伊神にあり。明治六年郷社と公定。応神天皇を祭る。氏子五五戸、広瀬全区之に属す。寛文五年、山家領主谷衛広公の再建勧進に係り、山家陣屋付の武士は氏神として崇敬殊に篤かりき。例祭は十月九日。
(『何鹿郡誌』)

郷社 二級社 八幡宮 祭神 応仁天皇(四五㎝の木像) 広瀬町伊神 境内五、二四六㎡
慶長十六年(一六一一)八月という棟札があり、古来伝えられた縁起の一巻があったが、社殿荒れはて砕けてしまって何年に誰が創立したか分らぬようになったとの言い伝えがある。寛文五年(一六六五)二月、三代藩主衝広公が再建、同年八月放生会の日、遷宮式が行われ、武家の氏神として祀られた。祭礼は旧八月十五日で、藩主よりあやつり人形・三番叟などの奉納があった。明治になって郷社として、山家地区を代表する神社となり、広瀬地区民の氏神であると共に、山家地区の奉祝・祈願・報告等の儀式が行われ、学校卒業の報告祭もあった。昭和十五年全面改築され現在の社殿となっている。
○摂社とし厄神神社(武内宿祢)をまつり、毎年一月十八日には広瀬町同志会が協賛し盛大に厄神祭が行われる。
・境内摂社 諏訪神社 祭神 建御多方命 南方刀美命 八阪刀売命  祭日陰暦九月十七日
大治元年(一一二六)九月信州諏訪の諏訪神社より御分霊して、同境内の西南端の諏訪の池の上に祀り、広瀬庶民の厄神とした。明治六年八幡宮の摂社となり現在地に遷す
文化八年(一八一一)三月旧地奉遷祭礼を行い、同年九月十七日華表を建立。昭和十五年本殿修理上家新築す。
・境内末社 天満宮 祭神 菅原道真 元は天神山に鎮座していたが棟札に「奉造立天満宮享保二十乙卯年(一七三五)閏三月十日上棟遷宮共修之畢」と書いてある。昭和七年一月五日改築
・境内小社 天王社 祭神 午頭天王で疫病を除く神といわれ、又、素盞嗚尊に変身すともいわれる。元は御社に祀ってあったのを現在地に祀るという。
(『山家史誌』)

祖霊社

陣屋の中にある。
○祖霊社 谷霊神社 広瀬町上ノ町八五ノ庚  境内七七〇平方米
祭神は藩祖従五位下谷大膳亮衛好公、初代従五位下谷出羽守衛広公を祀る。祭日は旧九月十五日
安永七戊戌年(一七七八)九月第七代従五位下播磨守衛秀公が、藩祖三木の陣に戦死してから二百年に当り、三木の大膳廓に墓碑を建立し、谷霊神杜を建立する。
(『山家史誌』)

その他の神社
荒神 (広瀬町)
谷家衛政公の四男俗名又兵衛十七、八才の頃突然家出をされ行方が不明であったが、高野山に入って得度され四十才の頃に飄然と帰って来られた。名を眞観と称して別居を荒神の地に建て奉仏三昧に一生を送られる。宇津清衛門という人が眞観師に仕えた。師が往生に及ぶ時之を徳として遺言し遺品の一切を宇津氏に与え別居は広瀬村に下された。村にては此処に荒神を祭り集会所とし日待、三夜待をなす処とした。今は堂は無く地名のみ存す。
○荒神 谷又兵衛真観師を祀る  広瀬町荒神
谷衛政公弟四男又兵衛十七、八才の時家出行方不明となっていたが、高野山にこもって修業得道し四十才頃に飄然として立帰る。真観と称して別居を荒神の地に建て、奉仏三昧の一生を送る。宇津清右衛門、真観師に仕えていたが、師は往生する時に遺言して遺品の一切を清右衛門に与え、またその住居は広瀬村に下された。ここに荒神を祀り、集合所として日待・三夜待をする所とした。今は地名だけ残っている。
〇無格社 白峯神社 祭神は淳仁天皇・崇徳天皇である。広顔町
○愛宕神社 雷神を祀る  広龍町愛宕山麓
広瀬村の東北方、艮の守護神として、火災除難のために祀る
○稲荷神社 祭神 倉稲玉命  広瀬町金田
(『山家史誌』)


真言宗高野山門覚院、三宝院門跡教護山御山(みやま)寺(廃寺)
教護山御山寺 真言宗高野山門覚院、三宝院門跡  広瀬町伊神
本尊大日如来、不動明王、谷藩の祈祷所として宮寺を連立、社領二十石、此除地六四二三㎡を与えられた。
創立年代不明だが、方丈四間に六間、廊下一間半に二間、台所二間半に六間、門一間一尺に一間五尺、土蔵一間半に二間の構えであったと記録されている。文政十一年(一八二八)三月九日失火により全焼し、十一代藩主衝滋公により再建される。明治維新で廃寺となり、明治四年正月九日藩庁の焼失により本堂を移して仮庁舎となった。法院別当安達左門は還俗して庫裡に住み、明治の初め山家の兼務宮司となっている。
○墓地六地蔵 広瀬町   以前七尺の片張りがあった。中にマリヤ灯篭がある
(『山家史誌』)


和久左衛門佐の屋敷跡と照福寺旧地

中世土豪の和久左衛門佐の屋敷跡といわれる左衛門屋敷跡と照福寺の旧地があるという。伊也神社の参道から登れる。中世の山城らしく、嶮しい山の頂上のようで、行くのはやめた。歩いて何分とかついでに書いておけば、あるいは実際に登る人も増えるかも…
地図(『山家史誌』より)


光秀の丹波平定…何鹿郡には、光秀に服従しない土豪がまだ残っていた。その一人は山家城主の和久左衛門佐である。左衛門佐はさきに八木城主内藤備前守を敗走させて勇名をはせ、地の利を得てその勢いはあなどりがたいものがあった。光秀軍は福知山を平定すると山家に進撃してきたので左衛門佐も降服したが、山家城を破却するとの条件で許されたようである。しかし城城内に照福寺があったので、城ではない、寺であると称して城郭を取り払わなかったため、天正八年(一五八〇)六月二十日、光秀は兵をやって攻め落とした。このとき左衛門佐はいずれともなく逃れたため、光秀はあくまで和久を探し出して捕えようと和知の豪族出野左衛門助と片山兵内にその旨を下知している。(御霊神社文書)
(『綾部市史』)

…丹波もひどく荒され、築城のために墓石なども引かれている。このころ山家には在地地頭として勢力を持っていたのが、和久氏である。和知・口上林まで勢力をのばし、それを支えるものとしでは各地の神社や荒神を護る地主豪族があって、館と呼ぶ大きな屋敷を構え郎党の結合支配をしていたもののようである。
和久氏は北面の武士として禁裏に仕えていたと云う伝えもあるが、四方家文書では「当山家城主都久左衛門佐を申するは、元祖近江国佐々木殿二男にて心有って此山家に住居す。」とあり、在地豪族より信頼され教慕されていたようすである。和久氏の山城はいまも「左衛門屋敷」といって甲ケ峯にあり、菩提寺としてその峯横の平ら地に照福寺のあった跡があり「照福寺が成つ」と呼ばれている。ちなみに照福寺住職は代々和久氏を名乗る。この頃の正伝として極めて興味ぶかいのは、和久・伊藤氏の姓変えである。佐衛門佐と苗字を同じくするのは不敬とし、かつ伊藤は「ワクにイトは細し」として、和木の「新左衛門」株は「白波瀬」に姓を変えたという。
子孫徳之丞先祖の鎗あり、付根元三株也と丹波志はしるす。
永禄三年(一五六〇)三月若狭高浜の城主逸見駿河守宗近が軍勢五千余騎をもって、十倉渡辺氏・山家和久氏を降伏させ、三月二十日一尾(裏町)城主大槻佐渡守と戦ったが、村上峰之助の援兵によって敗走した。
永禄六年四月和藤合戦と云って、八木城主内藤備前守と山家城主和久左衛門佐との合戦あり、白波瀬肥前守が主体となって戦い「白波瀬運記」とて下原町白波瀬茂家文書、鷹栖町白波瀬勝己家に、「下原合戦記」とて菅沼家文書もある。「下原合戦記」は全五巻になっていて惜しむらく第四巻のみ手元に残り、内藤備前守の旗揃記と落城、天正七年(一五七八)六月の記事の巻物が下原町八木家文書としてある。
要は古文書総合によれば、内藤備前守が意にしたがわぬ赤井氏和久氏を討ち破り丹後国へ攻め人らんとして、折からの大雨をつき大原から和木峠を越え下原へ侵入したのに始まる。白波瀬肥前守、謀って禅定庵に招じ入れ夜討せんと計をめぐらす。和久左衛門佐の軍勢、白波瀬一党援助しようとして鷹栖村野上に着いたが、洪水滔滔として渡る所がない。上林十倉の城主渡辺内藤友綱先陣つかまつらんと濁流に乗り入れ押し渡る。(菅沼文書には一番乗りを鷹栖の住人四方新介高貞としている)続けとばかり皆乗り切り白波瀨軍に合流し、内藤軍を山中に破り、備前守の首級を得る。(のちここを備州が尾という)。時に永福六年四月廿七日の夜中であった。(内藤丹波年代記では天正四年八月四日とあり、菅沼文書も年は不明だが八月とある)残る一子内藤小五郎に小姓中桐丹下と残兵を付添わせ八木の本陣へ送り返す。この時参戦した面々に、白波瀬・伊藤・岩見・小林・林・岩本・山口・三ケ槻・樋口・廣瀬・渡辺・荻野・西村・佐竹・柳原・菅沼・佐藤等があり、在地の小豪族、地侍たちであった。
丹波平定を命じられた明智光秀は苦戦を重ねた末やっと福知山を平定し、何鹿郡に残っていた山家城和久氏を攻め降伏させる。このとき城の破却を条件としたが、城域に寺があるとして応じなかったので、追討され成敗をうけた。天正八年六月二一日付の光秀書状(御霊神社文書)に要約次のとおり書かれている。
 「和久左衛門大夫城破却の儀去年申付の処寺家と号して残し置かれ雅意に任せていたが昨日成敗を加え候…
尚以て和久左息並に上介肥前入道取逃候……随分念を入尋ね出し急度搦め捕り出す可く候…」
 これが和知の豪放、出野左衛門助と片山兵内に宛た光秀の下知状である。その光秀も丹波平定後、信長に叛き京都本能寺に自害させたが、すぐ秀吉軍によって敗死した。戦乱の世もようやく統一されようとする天正十年、秀吉の旗下にあった谷大勝亮衛好の中国攻め武功により(系譜に詳記)、その子、衛友が山家の地を与えられ入部する。以降山家藩の成立することは史実に展開されるとおりである。やがて徳川幕府制度確立と、田辺藩細川家との親睦によって谷藩政も関ケ原(天下分けめの戦い)以後安定期に入る。上杉・梅迫・十倉へ分知後はしばしば封建社会の動向にしたがって揺れ動きつつ、三百年の治世がつづくこととなる。
(『山家史誌』)
山家甲ヶ峯城跡

城山と呼んでいる。甲ヶ峰とか鴻ヶ峰とかけっこうあちこちにあるが、高ヶ峰のことだろうか。甲賀ではなかろう。同山の山中から経塚が発見され、経壷(室町期)が現存するという。


山家陣屋




山家陣屋がよく残っている、当時がだいたい偲べる。ここが丹波最古とされる陣屋の心臓部、表御門で、その先に藩主の館があった。
案内板がある。
山家城址
ここは、谷出羽守衛友が天正一〇年秀吉より一万六千石をもって、美濃国から封ぜられた、谷藩政中心の地である。
藩主谷出羽守衛友の父は、大膳亮衛好といい織田信長に仕え、天正四年の大阪本願寺攻めに軍功をあげ家紋「揚羽蝶」を賜るが、天正七年播州三木城別所長治を攻め討死し、三木の如意山金剛寺に祀る。(大膳郭に墓地)
山家初代蒲主谷出羽守衛友は、父衛好と共に三木城攻めに加わり、父討死のとき、その屍を奪い返し仇を討ち取る。
このときの勇戦の感状を、秀吉から家紋「五三の桐」を受け本領(山家)加増され、山家に封ぜられた。
城址内の灯籠には、こうした史実を止める「揚羽蝶」と「五三の桐」の紋が残されている。
こうした歴史を秘める、この山家城址は約二一、三〇〇平方メートルの面積を有し、城址内には藩主の相霊を祀る、谷霊神社や背後の山腹には式内社の一つである伊也神社があり、歴史的な文化をいまも止めている。この城址は、春は梅と桜、夏は色濃い緑に上林川の瀬音、秋はもみじの紅葉と、広く市民が憩う風光明媚な地として親しまれている。  綾部市




陣屋北側には井戸や掘りが残されている。


近世山家藩の陣屋町は、だいたい今の広瀬町と東山町にあたる。由良川と上林川の合流点の断崖上に館がある、川面からなら100メートルばかり高い所である。西南は川に囲まれ、東北は甲ケ峯の尾根に続き、尾根には戦国時代の土豪和久氏の城跡がある。この地は山家村の中央部にあたるだけでなく、京都と丹後田辺を結ぶ京街道(田辺街道)および上林谷を経て若狭に通ずる若狭街道の分岐点となっており、何鹿郡東部の交通の要衝であった。
『山家史誌』より↓


丹波最古の城下町 ●谷氏と山家陣屋
谷氏は近江国甲賀郡谷郷出身で、衛好の時、織田信長、続いて豊臣秀吉の配下となって各地を歴戦した。子の衛友は天正一〇年(一五八二)丹波国何鹿郡山家に配置された。関ケ原の戦いで西軍に属して田辺城(舞鶴市)攻めに参加したが、戦意なく、内応の功によって地位を安定させ、慶長六年(一六〇一)何鹿郡東部一九か村と同郡の山役高を得て、一万六、〇〇〇石の大名となった。山家藩の始まりである。この藩は丹波七藩のうち、最古の藩であった。谷衛友は、陣屋を広瀬の山腹に、対岸の上林川の河岸段丘に城下町をおいて、藩政を展開した。
寛永四年(一六二七)衛友は三子に六、〇〇〇石を分知する事を遺命し、翌五年に分知が行なわれて、上杉・梅迫・十倉の三旗本谷領が成立した。
こうして本家の山家藩領は一万八二石余一三か村の朱印高(拝領高)村となり、領内を五郷四三か村に分けて支配した。領内の各村は分知の結果、山家藩と旗本領が入り交じり、分割支配されるが、旗本上杉谷氏の断絶により、これらの領地が柏原織田氏領や天領に替わり、いっそう複雑な支配機構が成立した。
山家藩は貞享三年(一六八六)全領検地を実施し、その結果所領高は一万七、三〇〇余石と、七二㌫トの増加となり、藩政の基礎を固めた。以後山家藩政は、この貞享検地高をもって展開していった。
衛友が築いた山家陣屋は「鷹栖陣屋」「山家殿」とも呼ばれた。山腹の台地上にあって、北東を山で限り、南西に広がる陣屋地に大手門・広瀬門・北門をおき空堀を掘って周囲を限り、居館と藩庁をおいて家中屋敷とした。
城下町は由良川の支流上林川をはさんで俯瞰する河岸段丘上に定め、鷹栖村の内に町分(城下町・現東山町)を形成した。家中と城下町との連絡は、上林川に架橋された七尺(二㍍余り)幅の肥後橋が用いられた。橋の架橋修理、家中の草刈は町役として城下町が負担した。城下町は、坂町・上町(中町を含む)・馬場町の三町からなり、寛政の頃(一七八九~一八〇一)、町家九八軒、町高(胸高)は八三石八斗(三町八反余) であった。町内には火除地四か所、二つの寺院がおかれており、領内経済の中枢地として懸屋(金融業者)があり、「なべや」・「丹後屋」などの豪商や商家も見られ、糸屋稼ぎもあった。町政は町奉行のもと町年寄があたった。町民は、家一軒に相当する「丸役」を基準とする「役」の数により負担が決められ、煙役(無役)も存在した。
山家城下町は藩領の中枢的存在であると共に、山陰道から分岐した丹後街道の宿場町であり、さらにここから若狭街道を分岐する。丹後街道は草尾峠から由良川を渡り、山家町を経て横峠を越え、梅迫から田辺に達する。若狭街道は上林谷を通り若狭への道である。寛政二年の「丹波国大絵図」では、それぞれに一里塚が存在し、町分に旅籠人足駅問屋があったとしている。  (木下禮次))
(『福知山・綾部の歴史』)

谷出羽守衛友が当地に居館を設けたのは天正10年(1582)のことで山家殿とよばれた。慶長6年(1601)の御知行方目録(山家藩庁文書)によれば知行高は一万六千石である。
本丸は上林川に臨む急峻な断崖上にあり、中央付近に藩祖を祀る谷霊(こくれい)神社(安永七年創建)がある。家中屋敷は本丸南方の段丘上に構築された。この地域を現在も家中(かちゅう)(小字名は上ノ町・下ノ町)とよぶ。大手門は合流点の突端付近にあり、京都方面へは由良川を渡船で上原村へ連絡した。
城下町(陣屋町)は館北方の上林川を隔てた台地上に設けられた。
書けばこうしてたことで、今は車でスイスイ行けるので、嶮しい所だな、くらいだが、下から歩いて登るとなると、肥後橋から登る肥後坂だと、こんな道が登れるのか、この道で合っているのか、これは道なのか、道と呼べるようなシロモノでない、人里離れた高山の踏み分け登山道でないか、一歩踏み外せばはるか下の川まで転げ落ちてお陀仏だ、現代人としてはウソだろうと不安になってくるような急坂のはるか上で、大手道からしてこんなことで、足腰弱い現代人には死ぬ覚悟がないと歩いてはムリである。

館から望む陣屋町(今の東山町)↓


「肥後橋」↑と書かれている、今は国道27号線の橋梁で、川面からは20メートルほどある高い橋だが、当時はもっと低い所にあったと思われる、この橋が陣屋と町を繋いでいた。

陣屋町は、もとは鷹栖村の一部であったが陣屋町として縄張りが行われ、小規模ながら町屋・寺院などが丁字形の街路に沿って配置されており、上町(かんまち)・中町(なかまち)・坂町(さかまち)・馬場町(ばばまち)などの町名があった。町と家中の連絡は町の南端から上林川に架かる肥後橋によった。肥後殿橋(丹波負笈録)ともよび、丹後田辺領主細川氏が九州転封にあたり架橋したという伝承があり、細川・谷両大名の友宜の一証とされている。

山家陣屋と城下町
山家陣屋
谷衛友は山家へ入部したとき、広瀬の城山に城地を選んだ。これを鷹栖陣屋、または山家殿といっている。城地は由良川と上林川にはさまれた要地で、上林川をのぞむけわしい台地上にあり、うしろは山を負い、南・西・北の三面は川によってさえぎられている。うしろの甲ガ峯は、戦国時代の土豪和久氏の城があったところである。いまの谷霊神社の地に館を設け、その館周辺に家臣団の邸宅を配して家中をつくった。南側の坂の上(肥後橋の上)に大手門、広瀬の入口に広瀬門、うしろに北門を設け、館の周囲と広瀬に空堀をつくってまわりを限った。家中の中央部に藩庁をおき、東南の山のふもとに馬場を設けている。この陣屋と対岸の段丘上の城下町とは、肥後橋によって通じていた。

山家城下町 城下町は鷹栖村にあって町分を形成しており、坂町・上町・馬場町があった。また京・田辺間の交通の要地でもあった。京街道は、丹後田辺から梅迫・横峠を通って山家町へ入り、それより由良川を渡し舟で上原へわたり、草尾峠をこえて水呑・檜山へ通ずるものである。また山家から上林・若狭へ通じる若狭街道が分かれており、馬場町から鷹栖村を通る綾部街道があった。これらの道路によって領内各村を通じ、山家町は領内経済の中心となった。
江戸中期のようすは図の通りである。町中央に制札場を設けて、領内各村への道程の規準とした。また、火除地・火除池をつくり、番屋を設け、小規模ながら一万石の城下町の形をととのえた。町地・町分高は表(16)の通りであるが、町内構成をしめす「役」についての資料は興味あるものである。家一軒にあたる役を丸役として、課役・負担を課したものと思われる。有力な商人は二、三役をもち、多くの人々は半役や三歩役しかもっていない。これによって町内の階層分化のようすがうかがわれる。他村地や町端の年貢地に住んでいる者は煙役だけとなっている。丸役や煙役の内容やちがいについては今のところわからない。
城地が甲ガ峯の中腹のけわしいところにあり、城下町は深い谷をへだてて大きく離れたところに成立したことは、地形の制約によるとはいえ、他の城下町と大きく変わるところで、山家城下町の特色といえる。この城下町に藩財政と結びついて、鍋屋・たんごやなどの豪商が成長するのである。
家中の武家たちと密接に結びつくのは広瀬村であって、日常の出入りや、下級武士との婚姻も多くみられるところである。
(『綾部市史』)

山家塞址。山家塞址は山家村字広瀬小字城山にあり。谷氏の治所にして、之を鷹栖陣屋とも山家殿ともいへり。天正年間谷衛友之に封ぜられてより十四世、明治二年藩籍奉還に至るまで、治所とせし所なり。伊也神社下方にありて、其の館址は谷霊神社(祭神は谷衛好。衛友の父子)を建立して保存せり。
(『何鹿郡誌』)

城跡公園

武家屋敷の石垣が残る、今は公園として整備が進む。
山家城址公園(広瀬町上ノ町) 昭和二十八年五月陣屋跡を公園化する土地交渉も行われたが、昭和四十七年十月より再燃し、昭和五十一年四月八日第一期工事の竣工式を行った。工費九百五十万円で地元拠出金三百万円を目標に募金したところ三百六十万円の協力を得て完成。憩いの家として「梅里苑」の設置も出来て、春は「さくら祭」秋は「もみじ察」を行い、年々盛大さを増している。
山家資料館を昭和五十五年総工費四百万円で計画し、府の助成六十万円と百万円の融資を受け、地元民の二百万円余りの寄付で、十一月十八日もみじ祭の日竣工式を挙げた。山家の歴史を語る文書・民具等を地区民の協力を得ながら展示している。附近に家中武士の屋敷跡、伊知神社、和久城主の山塞、照福寺ケ成、甲が峯の眺望など未開発の名蹟がある。
(『山家史誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
谷氏


山家藩の成立
山家藩は谷衛友が天正十年に山家へ入部したのにはじまる。谷氏は佐々木定網の後裔で、近江国甲賀郡谷の郷に住み「谷」をなのったといい、代々足利将軍家や近江の浅井氏につかえていた。衛好の時、美濃の斉藤道三に仕えたが、のち織田信長に従うところとなり、天正四年(一五七六)の石山本願寺攻略で木津・難波表の戦功により、次のような感状をうけている。
 於木津難波表相働首五到来感悦候 弥向後可抽戦功候也
    天正四年五月甘三日      信長(朱印)
     谷野大膳どのへ        
                (山家藩庁文書)
谷野というのは、衛好が一時伯父谷野綱衡に養われ谷野と称していたからである。衛好は秀吉の部下に加わり中国攻略に従ったが、天正七年の播州三木城攻めで、平田にある賀伏坂の作戦中に毛利の大軍と戦ってついに戦死した。時に年五十歳であった。彼の遺体を葬った賀伏坂はのちに大膳郭といい、毎年藩士二名が代参した。
衛友は衛好の子であって、幼名を甚太郎といい、のち出羽守となった。十七歳のときに父に従って三木城攻めに加わったが、父の戦死の時ただちにその敵をうち、父の遺体をうばいかえした。衛好父子の武功は『信長公記』や『別所長治記』に記されている。
秀吉は衛好の戦死をあわれみ、衛友に左の感状を与えて父の本領六千石と新規に二か所の加増を行っている。
 今度別所誅伐の剋父大勝亮抽軍功遂討死別而不便被思食
   本領之外二ヶ所被宛行者也
   天正七年九月廿八日   秀吉(朱印)
        谷甚太郎どの                         (山家藩庁文書)
衛友は秀吉に仕えて伊勢・賤ケ岳・長久手・和泉の千斛堀・積善寺・九州の島津攻めなどと転戦し、加増を重ねて大名となり、山崎合戦の後、天正十年に山家城主となった。
衛友は秀吉の没後、関ケ原の戦で西軍に属して、丹波の諸将とともに細川幽斎のまもった田辺城(舞鶴)を攻めたが、戦後細川父子のとりなしで本領を安堵された。そうして何鹿郡内で一万六千石を領し、広瀬の城山に城地を選んで対岸の台地に城下町をつくった。

山家藩と旗本谷領の分立
谷衛友は関ケ原の戦の後江戸幕府に仕え、大阪冬・夏の戦に従軍して大和口の攻撃で恩賞をうけた。晩年は御夜話の衆に加えられ、外様大名としての地位を確かにしていった。衛友は寛永四年十二月に六十五歳で没したが、その生涯は戦乱の時代に身をおこし、天正~慶長の戦乱期を巧みに生きぬき、近世大名の地位をたもちつづけたのであった。寛永四年に三子を分家させたことは前にのべたところである。これにより、衛友没後の寛永五年に梅迫・上杉・十倉の旗本谷領が成立し、本家山家領は朱印高一万石となった。梅迫領は六男の谷宇右衛門衛忠の入部にはじまる。衛忠は千五百石を領有して梅迫の竪道に陣屋を設け、十倉氏を代官として一〇か村を支配した。旗本十倉領は三男助三郎衛勝早世のあと、子衛清が入部して二千石を領有したのにはじまり、十倉村中筋最寄に陣屋をおいた。道家氏・岩本氏を代官として九か村を支配した。
長男衛成の子衛之は分家して上杉に入り二千五百石を領し、延近に陣屋をおいて佐々氏・坂本氏を代官とした。衛之は兵助、また内蔵助といい、将軍家光に仕えて御書院番となり、のち寄合となったが、子衛貞のときには小普請組となった。ついで孫の衛晴には後嗣がなく、そのため貞享二年(一六八五)に絶家した。
こうして上杉谷領はなくなり、そのあと上杉村は旗本田中内匠領から天領になり、高槻村は柏原領となった。
旗本領の分立は、梅迫のように一村を全部旗本領とする場合と分知する場合があり、多くが後者となっている。従って一円支配的であった山家藩領に入込支配の村が多くなり、山家領・旗本谷領のはか柏原領などが入りまじる入込支配の形となっていった。寛永以降の山家藩の所領は、表(4)山家藩石高と村高にしめす通りである。
山家薄制 山家藩のようすについては、散在する資料をまとめてその大要をつかむことしかできない。だから藩の組織や藩士の構成なども断片的にしかわからない。
山家藩主は代々大学頭・出羽守・播磨守となり、従五位下を家格とし、江戸城では柳ノ間詰であった。山家藩の職別および家臣団について次のものをあげることができる。
上の表(5)(6)はいずれも幕末のもので、江戸時代の全容を明らかにするとはいえないが、一万石の大名としての職制なり、家臣団の構成についてほぼその内容を示すものである。家臣団は知行取三〇名と蔵米(給米)取六五名に分かれており、その構成比は他藩とほぼ同じである。
山家藩の在方(地方)支配については、村々に庄屋・年寄・組頭をおき、庄屋は大体世襲の形をとっている。山家町分には町名主をおいているが、有力商人が役職についていたようであり、また山家・吉美・志賀郷・奥上林などの郷単位に大庄屋をおいて、地方行政をつかさどらせている。
(『綾部市史』)


広瀬の主な歴史記録




広瀬の伝説


出羽守衛友の武勇伝
山家藩の藩祖は羽柴筑前守秀吉の部将谷天膳頭衛好の嫡男・出羽守衛友で、羽柴秀吉、織田信長の命を受け中国征伐に出陣、播州三木城の別所長治を攻めたとき衛好は鉄砲で腹部に重傷を負い落馬した。敵はその首級を取ろうと群がったが、気丈な衛好は大地に坐ったまま大身の槍を振廻して寄せつけない。父に従って戦に加わっておった衛友は弱冠十六歳、父の危急を知って単騎敵を追散らし、父を肩にかけて陣所へ戻ったが衛好はまもなく息を引取った。
今日も三木の近くに大膳様というお堂があり、毎年命日が縁日になって賑やかなお祭りがある。このお祭りには山家旧藩士の代参がないと式ができんので、毎年二人ずつ招待されて三木へ行った。昭和になってから(註 支那事変が始まる頃)は招待もなくなり、三木へ行かなくなった。(梅原建治郎一日一題)
註 三木市郊外の小高い丘の上に谷大膳頭衛好の墓地があり、「谷大膳公の碑」が建っている。門扉に谷家の揚羽の紋が見られる。
また鬼おどりで有名な如意山金剛寺(真言宗御室派)の護摩堂には本尊不動明王とその両側に谷大膳公一族の霊牌が祀られている。


獅噛(しかみ)火鉢の由来
四海浪おだやかに、人皆天下泰平をうたう徳川時代に、我が山家藩には、おもしろい物語があった。いつの頃からか、また、誰によって作られたものかは明らかではないが、谷家代々、秘蔵の宝物として、大小二個の宣徳の丸火鉢があり、大きい方は江戸にあって六人力、小さい方は山家にあって四人力の力がないと容易に動かすことができないほど立派なものであったという。
この事がいつの間にか幕府に聞え「公儀に差出せ」との命令が下った。このとき山家藩では、これを拒む者が多くいろいろと評議をこらした。もし将軍棟の御目にとまろうものなら否応なしに献上しなければならぬ掟であったから御家中ではなかなかの大事であった。この役を買って出たのは江戸詰めの道家要蔵という士であった。台覧の当日は将軍出座、老中以下出仕の諸大名威儀を正して待つ中を道家要蔵は慰斗目の裃、小刀を前にたばさみ、火鉢を屈強な家臣二人に持たせて現れ、御諚口に平伏、一礼してから大火鉢を軽々と右の掌に乗せ、静かに立ってツッッと将軍の御前に進み、
〝谷の獅噛火鉢、御覧じませ〟というなり、居並ぶ大名の前を捧げたまま、悠々とお廊下へ、そして玄関からさっさと駕に揺られて藩邸へ帰ってしまった。
将軍以下、要蔵の膂力と豪胆さに肝をつぶして暫くは声もなかった。
その翌日、殿中で人通りの多いお廊下に
〝谷の小出羽にすきたるものは 獅噛火鉢か道家要蔵〟と書いた落首が貼ってあった。
要蔵後に家老職に昇進、藩主の信任は殊のほか厚かったが四十二歳で没している。


観音峠と名鴬
山陰道の園部と須知のほぼ中間に、観音峠という高さ約二百七十米の峠がある。山家の殿様の谷播磨守が幕末間近かに、この峠の観音堂で休憩せられた折、江戸でお国土産として、百金を投じて買い求めてこられた名鴬に、餌水を与えさせられた。ところが鳥司が誤ってその鴬を取り逃がしてしまったので、ひどく御勘気を蒙ったそうだ。こうした訳でこの谷間にはその名鴬が何代かの子孫を伝えていて、観音峠の鴬はその啼く音が、玄人の耳には今もなお違うとの話だ。それで園部の藩主小出公も、観音峠までわざわざ鴬の音を聴きに往かれたという事である。
(『山家史誌』)





広瀬の小字一覧


広瀬町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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