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本宮町(ほんぐうちょう)
京都府綾部市本宮町


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京都府綾部市本宮町

京都府何鹿郡綾部町本宮町

本宮町の概要




《本宮町の概要》
本宮町は、市街地の東南部、本宮山の東麓の一帯。東を国鉄山陰本線が南北に貫通する。宗教法人大本本部があり、その諸施設が多いところ、というか、そればかりのところ。当地一帯は大本の発祥地であり聖地である。
もっと持ち上げれば革命発祥の地、宗教革命、神道革命、シャーマニズム革命発祥の地である。支配者に奪われ歪められ民衆支配の道具にされてしまったニセ宗教を、再び民衆の側に取り戻すための宗教改革運動が民衆によって始められた地である。

ここに出口家があった↓。今の大本梅松苑の北西の隅になる。


ここで「お筆先」は書かれたという。


「みろく殿」↑↓。
国登録有形文化財 大本 みろく殿
平成26年(2014) 4月25日登録
みろ<殿は昭和28年(1953)4月に完成し、建物高21.2m、桁行46m、梁間中央部と脇間で31m、屋根銅板葺、入母屋造、妻入、裳階(もこし)を廻し、西面は入母屋造の玄関、東面は神殿等が付属する構造になっています。
建物全体は社寺建築を基調とし、鉄骨造で789畳敷きの広間に格天井で柱を一切有しない大空間の建築物です。
この建物は、平成4年(1992)大本開教百年に長生殿が完成するまでの約40年間にわたり、中心的な神殿として使用してきましたが、現在は信徒の祖先や戦争・不慮の災害等で犠牲となられた全世界のみたまを祀り、慰霊をしています。


みろく殿
大本弾圧事件で取り壊されたみろく殿を昭和28年(1953)に再建した、広さは千畳敷とも呼ばれる壮大な神殿。中央には一切の柱を配さない建物で、平成26年には国の登録有形文化財に指定されました。内部には大本の歴史を概観できるパネルや貴重な資料が多数展示されており、参観可能です。


天皇制国家の弾圧を受けて引き倒された神殿
美しい壮大な建物、当時の大本のメーン神殿だが、これを引き倒し大弾圧を加えた、ド恥ずべきド栄光の、子孫にドホコリを持って伝えたい、地域のドユメとドロマンただよう所行をドスンバラシイ近代国家は、ここにそのドみにくい正体を残している。
この建物だけではなく、木も石も墓もすべて破壊した。庭園には日本各地から集められた立派な樹木がたくさんあるが、これらもすべて切り倒し、池も埋めた。このあたりをサラチにしてグランドにしてしまった。

都合の悪いことは忘れましょうではなく、さすがにスンバラシイ国だ、やることがえげつない。ドアホと呼ばれたくなければ、しっかりと覚えておこう。
口先では強そうな大きなことを言っているが、その心魂はケチな小心な臆病な大人げないというか大軍隊をもつ大帝国の大権力がド情けない、こんなもの(失礼。教祖は代々女系で継承されている)を恐れる程度のドクソでしかない。スンバラシイ国の正体がサルでもよくわかるというものである。
アメリカが恐くて恐くてクスっともよう言わんはずだ。アメリカの後でアメリカのケンカ相手に横からせいでもよいのにいかにも強そうに吠えている国難者程度のことだ。
ケチな天皇教では、それ以外の者を祀るなどは許されることではない。そうしたことをすれば天皇を頂点とするスンバラシイ国家の秩序が崩壊しかねないと恐れる。天皇以外を祀れば邪教であった。
天皇教が下層社会の苦しみをもしや救えれば、それもよいかも知れないが、天皇教はあくまでも天皇自身とその取り巻きの上層貴族社会を支えるだけの宗教的イデオロギーである。下層のことなど知るわけもないし考えたことなどはまったくないものである。
「神道」も「仏教」も天皇教や天皇を頂点とする体制を支え補完する限りで正教であった。お釈迦様の教えとは異なる教理であるが、それが正教で、釈迦の教え通りは邪教とされる。神道といっても元々はアニミズムやシャーマニズムだから、本来は天皇など世俗の権力などはどうでもよいものである。だから本来通りの神道なら、ドスンバラシイ国内では邪教であり、強権体制に弾圧される。どちらが本当の邪教かは問うのも馬鹿らしい。力のある者が正しいのである、これを礼賛礼拝するものが正教、本来の教えとはまったく異なっているドニセ物であっても…。下層のドクズども(権力から見て)の唱える体制維持に反する真実などは邪教徒のたわごとである。天皇は世界一の神、天皇が言うことが唯一の真理とする国であった。

今のどこかの北の国よりもはるかに強権的、軍事的、侵略的であった天皇制スンバラシイ国家のこの地で↑「いまの世は強い者がちの悪魔と金ばかりの世」「これでは世は立ちゆかぬ」この世を「さっぱりさらにいたし 三千世界の大せんたく大そうじを致し水晶の世にいたす」、その手助けのために大本はあると教えはじめた。
ドイカレばかりの国で、神道も首根っこをその国の管理下に置かれていた、そんな中で失礼ながら極貧の女性がひとり語り始めた、社会通念の大ウソを見抜いていた。そしてウソと欲と暴力で固め、アジア最強の天皇国家を大洗濯大掃除し倒した。彼女だけの力ではないにしても、後の日本革命世界革命の一翼を担っていた。
ここに立って見ていても何とも信じがたい歴史である。一生懸命になってヨイショする愚かな人も多いが、結局の所は近代日本の国家とはその程度のアホくさいダラクとフハイ蔓延したニセモンであったのだろう。
神道のルターでありカルバンがここでその書を書いていた、長くその教祖の教えを失わないようにと手を合わせた、どんな宗教も元々はそうした考えであったが、次第次第に本来の精神を失っていき、まったく違うモドキものとなっていった、支配者を支持礼賛するだけ、民衆はまったく忘れてしまった、あんなものは宗教ではないクソだ、などと言われる将来がなきように、と。

別に少し前のこの大弾圧事件だけでなく、過去にはそうした弾圧は何度も行われてきた。それから今は何か大きく変わったということでもあるまい、とキモに銘じたい。天皇権力は消滅したはずではあるが…
いろいろあってこそ人間社会なのであり、日本人はあちこちから渡来してきた人達の吹きだまりでそれが混血したものだから、身長がいろいなように、髪の色も黒とは何も限るまい、黒でないとだめとか、金髪でも黒染めにさせる、などの信じられないような公立学校がある、というか、それがほぼフツーかもしれないようなことだという、本当ならスンバラシイが過ぎるではないか。それに何の意味があるのだろう、身長は何㎝にします、それより高い人は足を切ってくだはれ、低い人はどうすればいいのか、とにかく何㎝にしなさいというようなハナシである、皇国史観のガリガリのイカレばかりか、世界が笑うぞ。そんなことより彼女らに教えるべきことはクサルほどもあるだろが。まともとは思えない話である。あきませんな、やりすぎでえげつない。それではハゲの先生はカツラをかぶっているのか、白髪の先生も黒染めが強要されているのか。ガッコーの言い分を聞きたい、HPなど見ても何もなさそう、たぶん何もなかろうカラッポだろうが…。もうちっと人間らしい社会にしようとする人間らしい気持ちはまったくないのであろう、なおさんのハナクソでももらって飲むとよいかも…

『図説福知山綾部の歴史』より↑↓
引き倒されるみろく殿(綾部市・昭和11・大本本部提供) 昭和10年(1935)年末に始まった大弾圧(第2次大本事件)により、みろく殿は柱を切られ、ロープで引き倒された。
何も古いハナシではない、現在もこの流れは残っている、まだまだ将来も残ろう、ヘンな口実にだまされて、ケンポー変えてしまい、再びこうしたことにならぬようにしたい。



本宮町といっても、時代により、その範囲はことなる。元々は本宮山(丸山・鶴山などとも)の東麓に位置して、江戸期は綾部城下で、坪ノ内村の町分であったところ。
明治14~22年の何鹿郡の町名で、もとは本宮村の一部。明治22年綾部町の大字となる。
本宮町は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。同28年新町・田町・新宮町・本宮町・本町1~8丁目となる。
本宮町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは本宮町・本宮村の各一部。

本宮村というのは、明治9~22年の何鹿郡の村。新宮村・坪ノ内村が合併して成立した。明治14年一部(江戸期綾部城下の坪ノ内村町分)が本宮町となり分離。同22年綾部町の大字となる。
本宮村は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年上野町・川糸町・新町・田町・月見町・並松町・若竹町・本宮町となる。


《本宮町の人口・世帯数》 


《主な社寺など》

大本梅松苑

不断は信者でもない限りは立ち入れないが、紅葉の季節の3日間は一般にも開放される。あちこちの門が開かれ、どこからでも入れる。現地の案内板によると、

大本梅松苑
大本は、明治25年(1892)にこの地で開教し、現在は、ここ梅松苑(綾部市)と天恩郷(亀岡市)を二大聖地としています。
梅松苑の静かで広大な敷地内には、国の登録有形文化財や二十世紀最大級の木造建築物といわれる貴重な神殿などの建築物が建ち並び、緑深い庭園とといに心いやされるパワースポットとなっています。


みろく殿。(手前の木は神木の榎)


長生殿

長生殿
平成4年(1992)に開教100周年を記念して建築された大本中心神殿で、大別して5棟の建築群から構成されています。主用材に300年以上の木曽檜など1.800本を使った20世紀最大級の木造建築であり、今に受け継がれた伝統の技法を駆使した建築物として、国の迎賓館建築の際には参考にもされました。建築物としての素晴らしさとともに、大本の真髄に触れることができる場所です。


木の花庵


重要文化財 木の花庵
この建物は、京都府船井郡瑞穂町質志小字観音十九番地に建てられていた、岡花金五郎氏の住宅でありました。
その後、大本に譲渡され昭和四十四年夏に解体、四十七年五月にこの地に移築復元され、同月十五日、重要文化財として、指定されたものであります。
その構造形式手法等から調べて、摂丹地方における屈指の古民家で、ほぼ十七世紀の中頃(江戸中期)に建てられたものと認められ、民家建築として貴重な遺構とされております。
なお、“木の花庵“とは、大本三代教主出口直日によって命名されたものであります。


緑寿館(教主公館)


金竜海


金竜海について
金竜海は「竜宮の乙姫のすまいどころ」として、出口なお開祖が早くから予見し築造を望まれていたもので、大正の初め、出口王仁三郎聖師の号令一下、信徒の献労によって築きあげられた池です。
竜宮の乙姫(神名・玉依姫神、豊玉姫神)とは、神示によると、明治25年(1892)、大本開教と同時に大本神業に真っ先に馳せ参じられたという、衣食住の経済全般に絶大な神力を発揮されるご神霊です。
また、金竜海には、無数のご神霊も住まいされています。開祖は晩年「この海には八百万のご竜体の神々さまが皆お集りなさるのやから神界からみたら金の水になっているのや」と述べられています。昭和11年(1936)、この金竜海は第二次大本事件(宗教弾圧)のために土に埋められ、何鹿郡設グラントにされていましたが、昭和20年(1945)、大本事件無罪解決に伴い、綾部町は大本に土地を返還。金竜海も昭和23年(1948)、1月から足かけ、4年に及ぶ作業の末に二再されました。
さらに平成17年(2005)11月、島の中で地続きのままだったた「大和島」が、大本開教百二十年記念の先かげの事業として復元されました。
五大洲の雛形
「みづ清き金竜海の島々は日出る国の雛形と祝い定めて築きたり。日出る国の日の本は、全く世界の雛形ぞ」(大正7年1月、出口王仁三郎聖師)とあるごとく、聖師は金竜海に浮かぶ島々を、日本、世界の雛形として築造されました。五大洲と金竜海島々の関係は、図示のとおりです。





《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


本宮町の主な歴史記録


『図説福知山綾部の歴史』(写真も)

三千世界を水晶の世に  ●出口なおと大本
 宗教法人大本は、明治二五年(一八九二)綾部にて出口なおによって開かれた神道系宗教である。
 なおは、天保七年旧一二月(一八三七年一月)福知山の上紺屋町で生れた。その頃から生家が没落し、九歳で商家へ奉公に出て家計を助けた。一七歳頃、叔母が跡を継いでいた綾部の出口家の養女となり、一八歳で大工政五郎と結婚、三男五女を生んだが、なおが五〇歳のとき夫と死別。苦しい家計を支えるため、なおは糸引きや饅頭売り、紙屑買いなど昼も夜も働き通した。その上、子供たちのなかから絶縁者や家出行方不明・自殺未遂・発狂者を出し、「地獄の釜の焦げおこしとは我のことか」と、不幸のどん底の人生に耐えねばならなかった。
 明治二三年、三女ひさの狂乱、続いて長女よねの発狂など心労が重なり、同二五年旧正月、なお自身が神がかりとなり、神の言葉を口走るようになった。座敷牢のなかでろくろく字も知らないなおが、釘で柱に書いた神の啓示が「おふでさき」(神諭)の始めで、以後大正七年(一九一八)昇天するまでの二七年間に多くの「おふでさき」を残し、大本の根本的な宗教観を示した。その内容は、天地創造、神の経綸、神と人とのかかわり、日本民族の運命と変革の予言、人類への予言と警告などであるが、これらを通じて一貫する中心的な考え方は、「世の立替え立直し」である。「いまの世は強い者がちの悪魔と金ばかりの世」「これでは世は立ちゆかぬから艮の金神があらはれ三千世界の立替え立直しをいたすぞよ」そしてこの世を「さっぱりさらつ(新)にいたし 三千世界の大せんたく大そうじを致し すいしょう(水晶)の世にいたす」というもので、大本はそのための神の御用に奉仕するために現れたのだと言っている。
 当時は、明治政府が推し進める政策の裏で、多くの民衆が貧困と犠牲を強いられていた。大本は、明六一揆や自由民権運動などの「世なおし」精神を受継ぎ、終末観による民衆救済と平和をかかげた新しい宗教として受け入れられ、その活動は、底辺の苦しさを自ら経験したなお自身の必死の抗議と抵抗であった。やがて、なおの五女すみと結婚した出口王仁三郎(亀岡市曽我部町出身)が、「おふでさき」をもとに八一巻の『霊界物語』を著し、大本教義の聖典として体系化した。また教団組織を拡充し、綾部の在地的な小教団から全国的な大宗教教団へと成長していった。こうして大本は、全盛期には信徒三〇万・別院二七・分院三九・支部約二、〇〇〇を超える組織に拡大したのである。
 しかしその革命的な思想のため、大正一〇年・昭和一〇年(一九三五)の二回にわたり、国体の変革を企図する「邪教」として弾圧を受け、幹部の逮捕、神殿・本殿の破却など壊滅的打撃を受けた。
 戦後復活し、戦前以上に隆盛となった。特に「お照らしは一体、世界は一つ」と万教同根・人類愛善を訴え、二度の世界大戦を再び繰り返さないように世界連邦運動に積極的に取組み、世界平和を願う宗教運動を展開している。 (山崎 巌)



大本本部 (現)綾部市本宮町
 由良川左岸の本宮山およびその西北山麓一帯に位置する(江戸時代の新宮村と坪内村の境界付近)。明治二五年(一八九二)に開教した教派神道系に属する宗教。開祖は出口なお。
 出口なおは、天保七年(一八三六)福知山城下上紺屋町の桐村五郎三郎の長女として出生。嘉永六年(一八五三)綾部郷坪内村の叔母出口ゆりの養女となり、安政二年(一八五五)政五郎を婿養子に迎え出口家を継いだ。腕ききの大工であるが浪費家でもあった夫政五郎の死後、なおは極貧のなかで三男五女を養育したが、明治二五年二月三日突然神がかりの状態に陥った。なおは神の意志として「お筆先」を書き始め、周囲の人々に伝えたものがのちに「大本神諭」としてまとめ上げられた。その最初のものは次のようなものである(天の巻)。
  三ぜん世界一度に開く梅の花、艮の金神(こんじん)の世に成り
  たぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞ
  よ。日本は神道、神が構はな行けぬ国であるぞよ。
  (中略)天理・金光・黒住・妙霊、先走り、とどめに艮
  の金神が現われて、世の立替を致すぞよ。(中略)三千
  世界の事は、何一とつ判らん事の無い神であるから、
  淋しく成りたら、綾部の大本へ出て参りて、お話を
  聞かして頂けば、何も彼も世界一目に見える、神徳
  を授けるぞよ。
 なおの金神信仰は金光教の強い影響を受けたものであったが、その予言や病気直しの祈祷は「綾部の金神さん」として有名になった。明治三二年、南桑田郡曾我部村穴太(現亀岡市)出身の上田喜三郎(のちの出口王仁三郎)が教団に加わるに及んで教義の体系化が進み、第一次世界大戦時には全国的に注目されるに至った。政府は大本教の社会的影響力を危惧し「大本神諭」(火の巻)を発禁処分とし、大正一〇年(一九二一)には不敬罪・新聞紙法違反などを名目に幹部の一斉検挙、神殿の破壊などを行った(第一次大本事件)。
 大正一三年、出口王仁三郎は蒙古に教線を広げ世界各地の宗教団体とも連携し、国内では、昭和恐慌にあえぐ農民に「五六七(みろく)の世が参りたぞよ」と弥勒下生を説いた。大本の立替え、立直しの思想は国家革新の思想と結びついて再び世の注目を浴びるに至ったが、政府は国体変革を企てる危険な社会運動であるとして、昭和一〇年(一九三五)再度徹底的な弾圧を強行した。幹部は治安維持法違反・不敬罪で起訴され、本宮山の神域や五六七殿黄金閣が破壊された(第二次大本事件)。
 昭和二一年大本は「愛善苑」として再建され、二三年には「大本愛善苑」と改称し世界連邦運動に取り組み、綾部市が昭和二五年にわが国最初の世界連邦平和都市宣言を行う推進力となった。昭和二七年名称を再び「大本」と改称し、民衆宗教としてユニークな活動を続けている。最近では文化芸術活動を通じて外国への進出もめぎましい。
 現在、大本本部は亀岡市の天恩郷(てんおんきょう)(宣教の場)と綾部市の梅松苑(祭祀の場)に分れており、梅松苑には、みろく殿・教主館・松香館・亀山織(ルビ・つるやまおり)工房などがある。ことに教主館は純和様建築の枠を集めて近年完成したものである。また船井郡瑞穂町から移築した茅葺民家の木ノ花(このはな)庵は江戸前期の高持百姓住宅として重要文化財の指定を受けている。おもな祭典は節分大祭(二月三日)・みろく大祭(四月七日)・神集祭(旧七月六-一二日)などがある。
(『京都府の地名』)


大本教
    綾部市・綾部小 六年 衣川輝子
私達の住んでいるこの綾部には、大本教という大きな宗教があります。私達は、この大本さんについていろいろな人からお話を聞きました。
大本教は、出口なおさんの教えから生まれました。出口なおさんに神様がかかられて、なおさんが神様の教えを伝えられたそうです。なおさんは、よく予言をされたそうです。私はなぜその教えが人の中へ広まっていったのか、よくわかりませんでした。でもあとから考えてみると、大雨がふるとか、日でりが続くとか、予言してそれが当たると人々がなおさんを信じるので、その予言があたれば当たるほど、人々はなおさんを信じ、しまいには、大勢の人達が大本の宗教についたのだと思いました。
大本の教えというのは、「世界平和」の考え方を強めていたそうです。これはたいへんりっばな考え方だと思います。けれども、昭和の大とうわ戦争の前に、戦争へ、戦争へという人々の考え方と、大本教の考えとが合わなくて、あの本宮山に建っていたりっぱなお城がダイナマイトでドバンといっしゅんのうちにつぶされたそうです。その場にいた人達は、もう目の玉が飛び出るぐらいびっくりしたでしょう。そして、綾部で一番大切にされていた建物といってもいいものがつぶされたのですから、きもがつぶれる思いだったでしょう。それから、この建物の木は、日本各地から取りよせられたすばらしい木だったのに、その木は全部やかれたそうです。もったいないなあ、と思いました。当時なので、その木をまきにして使えたら、人々はたいへん助かったことでしょうに。それいらい大本の全部の建物がつぶされてしまったそうです。
大本の信者さん達は、心がつぶれる思いだったでしょう。それから、ある大本の熱心な信者さんのお話を聞きました。その人は、えらい人で、人がみなかん心していた人だそうです。それなのに、ある日の事、今のけい察に当たる人達が、くつもぬがずにどたばたと家へおしいってきて、何もわけを言わずにたいはしてしまったんだそうです。みなさんも考えてみて下さい。自分は何もわるい事をしていないのにろうやの中にぽいっと入れられるなんて。その人はがまんしきれず、自分の血で、自分の考えをちゃんと書き残してなくなられたそうです。政府は、人々の役に立つ人を一人、いやもっと死なせたんでしょう。その当時の大本でのえらい人はみんなろうやにつながれていて、がまんしてがまんしぬいて、ろうやから出て来た時にはまた、大本の教えを広めていかれたそうです。その人達は、ろうやの中で、歯をくいしばり、くいしばり、どんなに心をなやましたことでしょう。
戦争へと心をむける人、世界平和へと心をむける人、その人達の考えがかち合って、この時は戦争への考えがかちましたが今は、きっとちがうでしょう。戦争なんて、人が死んで、不安でかなしいだけで、なにも得なことはありません。平和の宗教大本教は、これからも先、人々の心の中にとけこんで、人々の心を動かす事でしょう。(『由良川子ども風土記』)


大本愛善苑
明治二十五年正月、出口直子が神示を受け、国常立尊の神格を体して大本教を開いたのが発端である。其の後神気愈々加はり、霊感の発する所「お筆先」となり、世界人類に対して予言警告を発し、救世の大道堂示したと云う。其の後出口王仁三郎教祖直子の意を休し、金明会(明治三二)金明霊学会C明治三三)大日本修斎会(明治四一)と改称しつゝ教団を率い、明治四十三年より本宮山の麓に神苑の造営にかゝり、第一次世界戦争(大正三年)勃発と共に皇道大本と攻めた。大正八年頃には壮麗なみろく腰、教主殿、黄金閣、金竜海、山上には神殿その他数々の神殿、建造物が立並び、府下亀岡町には天恩郷を建設して修養道場とし、その隆盛は海外にまで響くようになったが、大正十年二月十二日第一次の弾圧を受け、王仁三郎は一時検挙に会ったが間もなく保釈となった。然し本宮山上に新築されていた壮厳な神殿は全く取りつぶしとなった。
大正十四年、人種、民族、宗教を超えて、人類大和合を説く人類愛善会が創立され、海外にまでその活躍は目ざましかった。当時大本教の発展は再興調に達し、全国に別院分院六十六、分所及び支部三千五百を数えられるに至つた。昭和九年昭和神聖会を結成し、一大精神革新運動を展開し、人類愛善新聞数百万部を発行する勢となったが、昭和十年十二月八目突如として第二次弾圧を受け、亀岡、綾部両地の神殿建造物、全国の別院等徹底的に破壊され、王仁三郎以下幹部悉く捕えられ、大本教は全く壊滅したかに見えた。
昭和十五年二月、第二次大本教事件は王仁三郎を無期に、以下の幹部も夫々重科の判決を受けたが、控訴のまゝ太平洋戦争に突入、そのまゝ獄舎の身となっていたが、昭和二十年九月八日、「大本教の教義は宇宙観、神観、人生観に対し、理路整然なる教義なり」と大審院より無罪の判決を受け、同年十二月大本愛善苑と改称、「大本愛善苑は宇宙の根源にます主神を奉斎、人は神の子、人類は同胞の自覚に立つ各宗を越え、万教同根の真理を基とす」のスローガンの下に、新しい宗教運動に邁進することゝなり、綾部は根本霊場として復活することになつた。然るに昭和二十三年一月十九日苑主王仁三郎は七十八才を以て昇天、すみ子夫人その後をついで苑主として教団を率い復興に努めた。
因に教祖直子は天保七年十二月十六日福知山の桐村五郎三郎の長女として生れ、母に仕へて至誠至孝、十三才の時藩主より孝女として表彰されに。二十才の時叔母の婚家先である綾部の出口家の養女となり、大工であっに夫政五郎を迎えて三男五女をあげにが、病夫と貧苦の為に身を粉にして働き、苦難の中にあってよく信仰を続けていた結果、遂に神の霊感を得て大本教の開祖となつたものである。
又王仁三郎は明治四年南桑田郡曾我部村上田吉松の長男として生れ、幼にして神童と云はれ、小学校を終るや十四才にして、代用教員となった。明治二十九年より神道を学び、明治三十二年綾部に来り、大本教に入った。翌三十三年直子の末子すみ子と結婚、これより大本教建設に乗り出し、宗団の組織教義の確立、神苑の建設に力をつくした。然るに大本教の隆盛期、即ち大正十年第一次大本教弾圧に会い、同十三年大陸に志を立てゝ蒙古に入ったが捕えられて送還され、この後は人類愛善運動に挺身し、亀岡に本部を建設して世界的な活躍に入った矢先、昭和十年第二次弾圧となり、治安維持及び不敬罪の嫌疑によって六年八ケ月間入獄、凡ゆる苦難に堪えて来たが、昭和二十年九月、大審院に於て無罪の判決を受けた。王仁三郎は宗教家であると共に芸術家であって、和歌、書画、楽焼等非凡多作を以て知られ、殊にその口述にまる霊界物語八十一巻の著述は、同教の教典として信者の間に読まれている。 (『綾部町誌』)



大本
開教 大本は、明治二十五年に綾部で開教した宗派神道系に属する宗教で、開祖は出口なおである。なおは天保七年(一八三六)、福知山の桐村家に生まれた。生家はもと藩の仕上げ大工をつとめる裕福な職人の家であったが、なおの生まれるころには急速に没落しつつあって、なおが七歳のとき父は甘酒の行商をはじめ、母は糸つむぎをして家計をまかなったという。なおは一一歳のときから商家へ奉公に出て家のくらしをたすけ、母に孝養をつくした。一八歳のとき綾部の出口家の養女となり、二〇歳で政五郎を夫にむかえた。夫は腕のよい大工であったが、酒と芝居が大好きな駄酒落をいう明るく気楽な人で、貸したものは返してもらうこともせず、金銭的にもうとく浪費癖があったから、家はしだいに没落していった。明治五年には住みなれた家を売りはらい、上町の借家へうつった。なおはかたむいてゆく家の生計を助けるため、少女時代に習いおぼえたまんじゅうをつくって売りはじめた。五二歳で夫を失ってからはさらに貧しくなり、紙くず買いや糸ひきの賃労働などで細々と生計をたてていた。こうしたなおの長くきびしい生活体験は、当時の社会の底辺にうごめく多くの細民の生活の一例でもあった。なおのこうした生活体験は、のちに大本を開教したとき、その教義の形成に深くかかわっていたと思われる。
なおは五七歳の正月、不思議な霊夢をみ、まもなくはげしい神がかりとなり、やがて神の意志として「お筆先」をかきはじめた。
「三千世界一どに開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ 梅でひらいて松でおさめる神国の世になりた
 ぞよ いまは獣の世強いものがちの悪魔ばかりの世であるぞよ 悪神に化かされてまだ眼がさめん暗がり
 の世になりておるぞよ これでは世はたちてはゆかんから 神が表にあらわれて 三千世界の立替え立直
 しをいたすぞよ 用意をなされよ この世はさっぱり新つにいたしてしまうぞよ 三千世界の大せんたく
 大そうじをいたして 天下太平に世をおさめて 万劫末代つづく
 神国の世にいたすぞよ」
と三千世界を立て替え立て直す「艮の金神」の信仰を説き、民衆の救済と理想社会の到来を予言し、人々の改心をうったえた。明治以後急速に資本主義化がすすむなかで、近代化の恩恵をうけることなく常に貧困にさらされていた地方の庶民の根強い願望をふまえ、「お筆先」は、すべてを金銭万能視する資本主義社会の悪と近代の物質文明をもちこんだ外国に反発して、国と国の戦争のない 「水晶の世」「みろくの世」の実現を予言した。そのなかには民衆宗教がうけついできた世直し的な終末観が、現実社会への痛烈な憤りをもってしめされている。なおは幼い子供をかかえながら糸ひきやボロ買いをし、また予言をし、筆先をかき、近隣の病人をなおしていつの間にか「綾部の金神さん」とよばれるようになり、信者がしだいにふえていった。
明治三十二年、上田喜三郎(のちの聖師出口王仁三郎)をむかえ、金明霊学会がつくられた。喜三郎は明治四年、亀岡市穴太の農家に生まれ、波乱にみちた青年期をおくり、高熊山の修業で宗教的体験をえて自己の使命を悟り、病気なおしと霊斎修業をつうじて布教していた。また静岡県の稲荷講社で、長沢雄楯について鎮魂帰神法といわれる神人感合の法を修業した。綾部へきた喜三郎は、非公認の宗教活動のために警察の圧迫をうけていたなおを助け、稲荷講社所属の金明霊学会をつくることで布教活動を合法化した。明治三十三年、喜三郎はなおの五女すみと結婚して出口家に入り、のちに王仁三郎と改名した。しかし教団は執拗な警察の圧迫によって信者がへり、ふるい幹部との対立がふかまった王仁三郎は一時綾部をはなれた。
明治末の関西の宗教界を遍歴して視野をひろげた王仁三郎は、明治四十一年、新たな教団づくりと教勢拡張の構想をいだいて綾部にもどった。王仁三郎の心中には資本家・地主へのはげしい怒りと、これら特権階級を益するにすぎない戦争を否定する精神が一貫しており、それだけになおの「お筆先」の精神につよく共感していた。「軍備なり戦いは皆地主と資本家との為にこそなるぺけれ、貧しきものには限りなき苦しみの基となるものなり。」(道の栞 明治三十七年)とのべている。
明治四十一年に王仁三郎は大日本修斎会を組織して大本の布教機関とし、当時宗教教団としてはめずらしい印刷所をもうけてつぎつぎに機関誌を発刊し、全国的な宗教活動に入った。布教の実践部隊として大正三年に「直霊(なおひ)軍」が結成され、全国で大道布教が開始された。羽織・袴にたすきをかけ、長髪にすげがさ、わらじに脚はんという風変りないでたちで、のぼりをおし立て、騎馬姿あり、太鼓をうつものあり、のちには自動車までくりだして宣伝活動をおこなった。「直霊軍」の編成は壮年層が中核となり、別に青竜隊・婦人隊・白虎隊・娘子軍・幼年軍が編成された。「綾部の長髪族」とかげ口をたたかれながらも、大正維新の志士をもって自ら任じ、「勝利の都に達するまでは死すとも退却しない覚悟」をもってお筆先の予言警告を宣伝した。こうして病気なおしや素朴な終末観を信じる土着的な一地方の小教団から、しだいに広い社会層の関心をひく全国的な教団に発展していった。
大正五年には「皇道大本」と改称し、翌六年には機関誌「神霊界」を発刊した。これに、なおの「お筆先」を漢字まじり文に整えてわかりやすくし、「大本神諭」として発表したが、第一次世界大戦のぼっ発による国際的危機感と、大本の説く終末観とがむすびついて大きな反響をまきおこした。英文学者で海軍機関学校教官の浅野和三郎らの知識人をはじめ、上級軍人・実業家などの入信があいついで、教勢を拡大していった。
王仁三郎は、「太古に国常立尊が艮へ退隠されたときから悪神の支配する暗黒世界となり、この世にありとあらゆる悪と汚濁が生じた。世界の正しい人間ほど苦しみ病む時代になった。一旦退隠された国祖は、この末法・終末の世を立替え立直すため、神自らの意志により大本は出現した。」と、独自の教義をつくり強調した。
綾部を大本出現の総本山として多くの神殿施設をいとなむとともに、大正八年には亀岡城址を手に入れて宣教の拠点とし、翌九年には大阪の大正日々新聞を買収し、日刊新聞によって大本神諭の予言や警告、立替え立直しの主張を天下に宣伝した。第一次世界大戦末期の日本社会はロシア革命や社会主義運動の影響をうけ、米騒動にみられる大きな社会不安のなかで、時代がゆきづまり、危機の兆候がみちていると感じる人が多かった。こうした社会状況のなかで、大本の立替え立直し説と鎮魂帰神による神霊世界の実証は、秘教的な魅力で人々の心をとらえた。
大正十年は、「三十年で世の立かえ」というお筆先のことばをもとにして、明治二十五年の開教から三〇年目にあたること、また辛酉の年(中国の史書で革命の年とされる)でもあることから、この年に立替え立直しが行われると流布された。大正七年、神霊界に発表された論説には、「この現状世界が木っ葉に打ち砕かれる時期が眼前に迫っている。それは第一次大戦につづいておこる世界と日本との大戦争と天災によってはじまる。それはいまからわずか一、二年のあいだにはじまる。最後には神力の大発現があって、大地震・大つなみ・大暴風雨・火の雨などによって解決される。」とした。そしてまた、「東京は元の薄野になるぞよ。永久は続かんぞよ。東の国は一晴れの後は暗がり。これに気の附く人民はないぞよ。……外国を地震・雷・火の雨降らしてたやさねば、世界は神国にならん。……綾部は宜くなりて、末で都と致すぞよ。」
という神諭も発表された。この主張は社会に大きな反響をもたらし、予言的宗教として大本は注目されて入信者は急激にふえ、綾部には予言を信じて全国から来住する人々があいついだ。
こうして大木の布教活動が大きな社会的反響をよぶようになったため、政府は大本を、世をまどわす「邪教」として打撃をくわえることになった。明治政府が天皇を中心とした「祭政一致」を宣言し、「神社は国家の宗祀」とする明治憲法下における宗教政策は、すべての宗教の上に神道を君臨させた。そのため実質的には信教の自由はみとめられず、国家神道は国民の義務として強制された。ことに新宗教にたいしては明治四十一年、天理教が独立の教派神道の一派として公認されたのを最後に、昭和二十年の敗戦のときまで新宗教はまったく公認されなかった。ファシズム体制の強化とともに、非公認の新宗教のとりしまりは内務省にうつされ、特高によるきびしい監視と弾圧への政策がとりつづけられた。

第一次大本事件
大正十年二月十二日、京都府警察部は、警官二〇〇余名をくりだして綾部の大本本部をおそい、幹部を不敬罪・新聞紙法違反などで起訴した。鶴山の神殿は破壊され、なおの墓は天皇の陵に類似するものとして改築を強制された。弾圧の理由は、大本の指導者である王仁三郎が、天皇にたいする不敬の神諭や論文を神霊界誌などに掲載したということにあった。
これにたいして王仁三郎は、神諭は王仁三郎白身が神がかりして開祖のお筆先をさにわし、解釈したもので、自分が勝手に創作したものではない、したがって現界における政治や不敬問題とはかかわりはない。神霊現象の刑事責任を問うのかと反論した。大正十年九月十六日から公判がはじまり、十月五日に結審し、王仁三郎以下に不敬罪・新聞紙法違反として有罪の判決がくだされた。
大本側はこの判決を不服として即日控訴したが、大正十三年七月、二審の判決においても有罪とされた。大本側はまた上告し、大審院の審理にもちこまれた。大正十四年から大審院で事実審理が行われたが、昭和二年五月、大正天皇の死去による大赦令によって免訴となり、六年間にわたる法廷での争いも一応おわりをつげた。
王仁三郎は、起訴されていた大正十年十月から新教典「霊界物語」の口述をはじめ、十五年末までに七二巻の口述をおわっている。また大正十三年二月には信者数人をつれてひそかに日本をはなれ、蒙古にはいって布教活動をしたが、パインタラで捕えられて日本に送りかえされ、大阪の未決藍にいれられた。この間に中国の紅卍会と手をつなぎ、海外の宗教団体とも連絡し、「万教同根」の大本の理想の実現をはかって大正十四年六月、平和運動の組織として人類愛善会を結成した。

教練拡大
昭和初年、日本は内外にわたって非常な激動期にあった。田中内閣の強硬な大陸政策と関東軍による張作霖爆死事件、金融恐慌による会社倒産や銀行の取り付けさわぎがあいつぎ、失業者の増加と生活難によって社会不安は深刻化した。昭和四年にはアメリカの金融恐慌が全世界にひろまり、世界恐慌となって日本経済を不況のどん底におとしいれ、労働争議・小作争議が続発した。政府は治安維持法・治安警察法をもちいて弾圧を強行した。
こうした社会不安のなかで、昭和三年三月三日、出口王仁三郎が満五六歳七か月となった日、神示によって「みろく大祭」が行われた。神諭には、「五六七(みろく)の世が参りたぞよ。釈迦が五十六億七千万年の後に至仁至愛神(みろくさま)の神改(よ)が来ると予言したのは五六七と申す事であるぞよ。」とある。王仁三郎はここに「みろく菩薩」として下生し、いよいよみろく神業のため現界的活動をするというのである。みろく大祭を機に、大本は活発に全国布教を行った。一千名をこえる宣伝使を任命し、王仁三郎も全国をまわって布教につとめたために教勢は急速に拡大し、大本の支所・分所は、昭和三年の五九二か所が六年には一〇四八か所となった。また文書宣教もきわめて活発に行い、亀岡の天恩郷内で印刷出版した。海外宣教にも力をいれ、人類愛善会本部が、アジア・ヨーロッパの都市に設けられた。
大本の立替え立直しの思想は、農村救済をはじめとする国家革新の主張となっていった。昭和六年、満州事変がぼっ発するとにわかに、大本および人類愛善会が満州で脚光をあび、時局に即応した活動が注目されはじめた。ついで昭和青年会が、皇道精神にたつ愛国団体として広はんに動いた。さらに昭和九年に結成された昭和神聖会は、軍部をはじめ政界の上層部との関係をふかめ、また国家革新を志向する各種の右翼団体とも協力するもっとも有力な団体とみなされるようになった。こうした動きに対し、「武力革命を呼号する右翼軍人と王仁三郎とが結びついて、大本教の豊かな資金が右翼に流れ、その動きが重大事態を予想させるもの」があると、警備当局は考えた。そうして政府は、「宗教的仮面を脱却した危険な社会運動、として再び弾圧の方針をかためた。

第二次大本事件
昭和十年十二月八日未明、内務省警保局の総指揮のもとに、武装した警官五五〇名が綾部と亀岡の大本本部を急襲した。「大本を地上から抹殺する」とのきびしい方針のもとに多数の幹部を検挙し、徹底した弾圧と捜索が全国的に行われた。島根別院の大祭に臨んでいた王仁三郎は、十二月八日に松江で検挙され、幹部六一名は治安維持法違反・不敬罪で起訴され、内務省は大本の活動を全面的に禁止した。マスコミは、大本は邪教・妖教・怪教であり、「国体変革を企図する陰謀団体」であるとして報道した。
政府は裁判をまたずに、大本の全施設の破壊を命じた。なおの墓は三たび移転させられ、亀岡の月宮殿はダイナマイトで破壊され、綾部のみろく殿は柱を切りロープでひき倒された。神苑は樹木までことごとく伐り倒された。信者の墓石からは教階をしめす文字がけずられ、本宮山の階段の石や、石の手洗いまでが破砕された。しかも破壊の費用一切は大本が負担させられた。土地は、綾部・亀岡の両町に安値で払い下げられ、綾部ではグラウンドや国民学校用地として使用された。「霊界物語」をはじめ教団発行の全印刷物は発売禁止とし、焼却させられた。
幹部の取り調べはきわめてきびしく、獄死者もでた。地方組織や信者にたいする圧迫もつよく、留置、参考人の取り調べをはじめ、警告・訓告とともに御神体や出版物の押収があいつぎ、邪教徒・国賊の非難がくりかえされた。わが国の歴史上まれにみる、強引ですさまじい宗教弾圧であった。しかし、王仁三郎たちは起訴理由の事実無根を主張してゆずらなかった。ながい法廷闘争ののち昭和十七年七月、二審判決で治安維持法だけは無罪となった。昭和二十年、敗戦によって国家神道は崩壊し、天皇は人間宣言を発して、不敬罪も大赦によって解消した。
昭和二十一年、大本は「愛善苑」として再建された。大本の旧地は綾部町より無償で返還された。弾圧にたえて信仰を守りつづけてきた信者を結集してしだいに布教を活発化し、とくに平和運動の展開によって広く社会的な関心をあつめるようになった。昭和二十五年に綾部市、二十七年には亀岡市が世界連邦平和都市宣言をしたのは、大本のつよい働きかけがあったことによる。開祖なおをたすけ、大本の基礎をきずきかため、大本の創始者ともいうべき王仁三郎は、昭和二十三年一月十九日、七七歳の波乱にみちた生涯をとじた。
昭和二十七年、教団の名称を「大本」と復活し、平和と芸術を通じ、みろく信仰と立替え立直しの独自の教義をもつ民衆宗教として活動をつづけている。
(『綾部市史』)



大弾圧を受けた「世直し教団」大本教
京都府綾部市と亀岡市に本部を置く大本教は、全人類が平和に安楽に暮らせる世の中(みろくの世)を実現することを理想として活動している宗教団体です。大本教は、全ての宗教は同じ根源から出ているとして、世界中の宗教の協調を呼びかけたり、芸術は神の行いに通じるもので宗教の母であるとして、芸術活動に力を入れたり、人類の相互理解促進のため、国際共通語としてのエスペラント語の普及運動を行うなど、ユニークな宗教活動で知られています。
大本教の誕生は、一八九二(明治二五)年の節分の日に、綾部の貧しい大工の未亡人出口ナオに、突然「艮の金神(うしとらのこんじん)」が神がかりして出現したことに始まるとされています。この「艮の金神」は、世間では災いをもたらす悪神で鬼とされていますが、大本教では、この神こそが世界を造った根本の善神であり、これを長い間不当に閉じ込めるという誤りを犯したために世の中が乱れたと主張します。そのため、大本教の節分大祭では、「福は内、鬼も内」と唱えながら豆まきをするそうです。
出口ナオは、この神の出現こそ人類救済の時代の始まりを意味するとして、「三千世界を立て替え、建て直し、神の国をもたらす」という世直しの教えを唱えたのでした。これは、金がものをいう汚れた利己主義の世の中を根本的に改革するということを意味しています。
一方、亀岡市穴太の貧農の子に生まれた上田喜三郎は、一八九八(明治三一)年に高熊山にこもって修行中に、神通力を受け、世界を救う使命を自覚したとされます。彼は翌年、綾部を訪れて偶然に出口ナオと出会い、自分の考えと一致するナオの教えに入信したのでした。彼はなおの娘と結婚し、出口王仁三郎と名乗るようになり、ナオが書き留める神のお告げ(お筆先)を教団の教えとして整え、組織の確立を進めていきました。二人の協力で教団は次第に勢力を拡大しました。
大正時代に入ると、雑誌を発行したり、「大正日々新聞」という大阪の新聞の経営にも乗り出し、大本教の存在は世間に広く知られるようになり、軍人や知識人や学生にも信者が増えていきました。教団の青年隊員たちは、白衣と袴を身につけ、頭は長髪にハチマキという華々しい姿で馬にまたがり、エネルギッシュな宣伝活動を進めました。そして教団の中には、大正一〇年が世の中の「立て替え」の年であり、日本の社会には一大変動が起こるという予言まで登場しました。
ところが当時の政府にとっては、「世の中を立て替える」などという思想は危険なものである上、米騒動や第一次大戦後の不況以来の政情不安を乗り切るためにも、このような集団に見せしめ的な懲罰を加えることが必要でした。一九二一(大正一〇)年、政府は「大本教は社会不安をあおるものであり、竹槍一〇万本や爆弾を貯えて蜂起を計画している」などと宣伝し、出口王仁三郎らを不敬罪、新聞紙法違反などで逮捕、起訴しました。これが第一次大本教事件です。この裁判は、第一、第二審で出口王仁三郎らが有罪になったものの、大した根拠があるわけでもなく、さらに審理中に昭和天皇の即位による恩赦で免訴となり、一応終了しました。
その後、大本教は、出口王仁三郎が満州や蒙古にまで進出して布教活動を行うなど、以前にも増して勢いを伸ばしていきました。ところが、昭和の軍国主義の時代になると、思想・学問・宗教などあらゆる分野で、少しでも政府に批判的なものは、次々に弾圧されていきました。政府にとっては、大本教が派手な宣伝活動によって有力者を含む多数の人々を巻き込み、クーデターの危険のある一部革新派軍人たちとも結びついていることが見過ごせなくなっていました。また、「艮の金神」を根本神とする大本教の思想は、天皇家の祖先神をないがしろにすることになり、伊勢神宮や皇居に似た豪勢な神殿を造営しているということも許し難いことだったのです。
一九三五(昭和一〇)年一二月七日深夜、京都府警察本部の警祭官五五〇人は、バス二二台に分乗して綾部と亀岡の大本教本部に向かいました。警官隊は暗闇の中を、「火事だ」、「電報だ」などと叫びながら本部の建物に乱入し、幹部を根こそぎ逮捕し、同時に全国の信徒三〇〇〇人を逮捕しました。逮捕された人々は、激しい拷問を受け、二〇人以上が留置中に死亡し、自殺者も出ました。そして、出口王仁三郎や妻で二代目教主の出口すみをはじめ幹部六二人が「治安維持法」違反、「不敬罪」などで起訴されました。さらに、翌年の四月には、裁判の判決も出ないうちに、綾部と亀岡の本部の全ての建物がロープで引き倒され、あるいはダイナマイトで爆破され、徹底的に破壊されました。これほど徹底的で無法な宗教弾圧は、近代史上他に例を見ません。
この大本教弾圧事件の後、扶桑ひとのみち教、天理本道教、創価教育学会などの宗教団体も次々に弾圧を受けています。天皇制ファシズムの矛先は、社会主義や労働運動・反戦運動などにとどまらず、宗教などを含む国民生活のあらゆる分野に向けられていったのです。
戦争が終わり、大本教の名誉は回復されましたが、教団が受けた物的・精神的被害はあまりにも大きく、再び活力をとりもどすのは容易なことではありませんでした。
現在の綾部市と亀岡市の大本教本部の建物は、全て戦後に再建されたものですが、亀岡市の本部の敷地内には、大本教事件の時に破壊された首のない伊都能売観音座像、倒された前田夕幕の歌碑、ダイナマイトで爆破されてひびの入った石などがわずかばかり残されています。
(『語りつぐ京都の戦争と平和』)


伝説





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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