京都府綾部市淵垣町
京都府何鹿郡西八田村淵垣
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淵垣の概要
《淵垣の概要》
JR舞鶴線の淵垣駅↓があるところ一帯。八田川と上八田川の合流点に開けた地域。
江戸期は下村(八田下村)のうち。のち下八田村・淵垣村・岡安村に分村した。
淵垣村は、江戸期~明治22年の村。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年西八田村の大字となる。
淵垣は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ西八田村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年淵垣町となる。
淵垣町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。
《淵垣の人口・世帯数》 385・163
《主な社寺など》
八幡神社
小字奥谷に八幡神社がある。国道27号からも見える。社蔵の棟札によれば康永2年(1343)に当時の丹波守護仁木頼章によって社殿が造営された。本殿は禅宗様の混入が強い三間社という創建時の遺構を残し元文4年(1739)の再建である、一部に古村が用いられており、しかも旧規を踏襲したもので創建当時の社格が高かったことをうかがわせるものといわれる。
八幡宮 三社作 下八田村 淵垣村 山手ニ 産宮
祭ル神 祭礼 九月八日
舞堂 鳥居境外ニ有 森凡二十間ニ一町斗 二ノ宮ハ 村内ニアリ 三ノ宮ハ拡田ニ有 都合三社ナリ 上ノ宮ハ拡 岡安立台 地ハ渕垣也 舞堂アリ 森凡四十間四方 九月五日祭
(『丹波志』) |
八幡神社
所在地 渕垣奥谷
祭 神 誉田別命
由緒沿革 康永二年癸未六月十一日 康永二年癸未六月十一日従五位上伊賀守兼兵部大輔源朝臣頼平造営
天地八陽神咒経沙波詞
明治六年六月村社
明治四十一年三月 二宮神社祭神大巳貴命少彦名合祀
氏子 五〇戸
祭日 十月五日
境内神社 西宮神社
祭神 蛭子命、清和天皇、以仁王、
源頼光、源国基
(『西八田村誌』) |
上宮神社
駅の西側の山に鎮座。
上宮神社
所在地 渕垣広通力トカ三番地の乙
祭 神 素戔嗚尊
由緒沿革
造営の紀元は火災に罹り不詳。
再建は寛保三年癸亥六月六日ちよ(ん)の始め、霜月八日上屋並びに本社の棟上げ延亨二年乙丑三月六日竣功八月二十四日遷宮
氏子 岡安村、渕垣村の戸数一〇五戸が氏子となる。
社殿 梁行三間四尺八寸、桁行三間四尺八寸、三間社流造 欅材
境内社
今宮神社 祭神由緒不詳 一間社流造 梁行四尺八寸 桁行四尺二寸
若宮神社 祭神仁徳天皇 由緒不詳
構造は今宮神社に同じ
祭日 十月五日
(『西八田村誌』) |
「藩記」には、「此神渕垣岡安両村之氏神也」とある。
岩上神社
淵垣駅の向かい。池などはない。国道27号線工事か何かで埋められたのかも…
渕垣岩上神社
渕垣岩上神社は三百余年の古い歴史を持つ由緒深いお宮で、御神体及び神殿は社名の通り天然岩石で造られ、石段下に岩に囲まれた小池あり、年中清水湧出し、ひでりでも、かれたことなく、大雨でも増水汚濁せず、此の御神水をいただき、痛む所につけると、全快すると言う。特に、できものの神様として、昔から霊験あらたかな有名な神として、年中遠近からの信仰者も多く、この神様の御利益を受けられた人は数多く、お祭りは、毎年二月の節分と、七月三日の年二回大祭あり、お宮は渕垣バス停留所より東へ約百米。 (『西八田村誌』) |
臨済宗妙心寺派大応山妙徳寺
八幡神社の隣。
妙徳寺
所在地 渕垣奥谷
山 号 大応山
宗 派 臨済宗妙心寺派
本 尊 釈迦如来
由緒沿革
開基は大蔵院殿前備中守吸口(江)徳大居士。
(神位)開山普光幢国師観応二年二月二十五日示寂。
再三の兵火に罹り、元禄以前のを知る由もなく、時の権力者により真言宗或は臨済宗と変遷し、足利尊氏時代より臨済宗として今日に至る。
現住職 村田弘道 開法第二世
檀 家 約一二〇戸 (『西八田村誌』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
淵垣の主な歴史記録
淵垣八幡神社 八田郷は上杉氏の所領であるが、一円支配ではなく散在的な領有であったと思われる。「上杉家文書」によれば応永あてが七年の文書に、「八田郷は仁木義尹に宛行うけれども八田本郷内四名は上杉憲基にあてがう」とある。この仁木氏は足利氏の流れであり、足利尊氏の側近として活躍し、丹波国守護となった仁木頼章の家系である。
仁木頼章は淵垣の八幡神社を造営しており、そのことは社殿に保存される棟札で明らかにされた。しかもこの社殿が地方の神社では珍しい三間社造に建てられていることから、仁木氏の並々ならぬ力の入れ方がうかがえるのである。南北朝の戦乱はげしい中で、足利一族が寺領寄進のほかに源氏ゆかりの八幡宮を八田郷に造営したことは、何鹿郡と足利一族との関係の深さを一そう感じさせるものである。
淵垣八幡神社本殿
本殿は三間社流造の建築で、元文四年(一七三九)に淵垣村の氏子講中が再建したものである。身舎と向拝の各柱間に備えられた蟇股は、割合よく整った形をもち、この地方における江戸中期ごろの特色をよくしめしている。
この社殿の注目される点は、一部に江戸時代以前のかなり古い細部形式をもった古部材がのこされていることである。向拝部分は全く江戸期のものであるが、身舎部分では身舎の円柱十二本・長押・頭貫・大斗および妻飾りの大瓶束・花肘木などが古材として指摘できる。また身舎内部の内外陣を区画する板扉や幣軸なども、これらと同じかそれに近い古さのものと考えられる。
身舎の柱位置は古い時期のままと考えられるが、もとの隅柱を円柱にするなど相互間の転用が認められるから、旧規を踏襲し、前身社殿の遺材を利用して建て直していることがわかる。社蔵の元文四年棟札には、康永二年(一三四三)に建った社殿が年を経たので、破損したところを改めて再建したという意味のことが書いてある。現に康永二年の古棟札がのこり、元文に至るまで焼けなかったようだから、前身社殿は康永二年の建立と考えられる。したがって遺存する古材は康永二年造営に関わるものということになる。このことは、次に述べるように、古材の細部形式の点からもうなずかれることである。
古材の時代性を最もよく示すのは妻飾に用いられている大瓶束と花肘木の形式である(図A)。大瓶束頂部を飾る花肘木は絵様をもたず、線形も単純で直線的なものであり、上端は水平である。大瓶束は断面円形で項部はゆるやかな粽をもち、足もとは直線的にすぼまり、両側をえぐるだけの簡単な装飾にとどまっている。これらの形式は禅宗様に属するが、それらの類例と比較すると、鎌倉末から南北朝にかけてのころの禅宗様初期の古制を示していることがわかる。
図B・Cは柱貫木鼻と大瓶乗頂部から棟行にでる木鼻の形である。花肘木の場合と違って上端が先方で一段もり上っている。この上には現状と同じく連斗をおいたと考えられるが(連斗・巻斗には古いものがない)、大斗と連斗との高さ位置を調整するためにこうした手法が用いられる。ただ一般には、このもり上りは一材から造り出されるのであるが、ここではもり上げ部分は別木をはぎ合わせてつくっている。禅宗様では頭貫は台輪をうけるためかならず上部は水平になるが、ここでは台輪を用いないものの頭貫はほんらいの技法にしたがって水平につくられ、ついで必要なもり上げ分をはぎ合わせたものと思われる。このように考えると、当社のはこうした手法が定着するに至るまでの過渡的な例であろうと考えられる。
当社所蔵の康永二年の棟札は次のように読める。
…
これによると、康永二年時の造営は、当時の丹波守護仁木頼章によるものであり、「所願成就」といういい方からしても、頼章側から積極的にすすめた事業であったように思われる。造営の実際に当っては頼章の家人と考えられる沙弥某と僧慶秀とが奉行となった。仁木頼章がこの造営を行った意図は明らかでないが、足利尊氏によってこのころに行われたと考えられる篠村八幡官の造営にならったものであろうことがまず考えられる。
この社のある八田郷は、よく知られるように足利氏にとって因縁のある土地であり、光福寺(後の安国寺)や岩王寺などすでに尊氏の庇護をうけていた寺院もあった。この地が社地としてえらばれたのもこうした背景にもとづくものと思われる。
こうしたことを念頭においてもう一度この社殿をみなおすと、注意されてくるのは、この社が三間社であることと禅宗様の混入が強いという二点である。中世における社格は、複合した諸要素をもとにして定まってきたものであろうが、それらの諸要素の中でもとりわけ施主の地位というものが大きな比重を占めたと考えられる。近世の例をみても、村人達によってのみ奉祭される神社の社殿は、たとえ規模が大きくても一間社であるものが多く、官杜的な性格を帯びるものや、権門勢家を願主に仰ぐものには三間社・五間社であるものが多い。中世でも同様のことがいえるのであって、丹波の場合でも丹波一宮である出雲神社本殿(一四四五年建立)は三間社であるが、名主層を施主としたと考えられる梅田神社本殿(一三三八年建立)は一間社である。こうしてみると、社殿が三間社であることは、淵垣八幡宮が頼章にとっては大事な意味をもつ高い地位を与えられた神社であったことを考えさせる。
つぎに禅宗様混入のことであるが、丹波地方で禅宗様細部が和様建築の中にとり入れられる例は、嘉暦二年(一三二七)建立の大福光寺本堂において見られ、ついで梅田神社本殿において認められる。淵垣八幡神社のはこれらにつづく例であるが、前二者が比較的末梢的で部分的なとり入れ方であるのに対し、ここのは構造的なものにまでおよび、かつより純粋な形での禅宗様がとり入れられている。禅宗様導入の問題は、施主・造営奉行・工匠等にかかわることなのだが、この場合施主が守護であるということは大きな意味をもっていると思われる。守護の権力によって工匠の自由な起用もでき、新様式の導入もより容易であったろうからである。棟札において大工の姓名が明らかにされないのは残念だが、「大工」の文字の下に「藤」らしき文字がみえ、その下の字は「井」とは読めないから「藤原」ではないかと考えられる。室町時代以降は番匠大工の大部分が「藤原」を名のるが、南北朝以前においてはかならずしもそうでない。したがってある程度その姓から系譜をたどることもできようが、丹波全体として知られうる資料がすくないのでおよそのことも今はいえない。ただ篠村八幡宮の創立時の大工が藤原為貞であったが、(篠村史)尊氏-頼章のラインでこの大工が来た可能性もあり得ることを指摘しておきたい。なお棟札の最初に書いてある「天地八陽神呪経」とはインド伝来の古い仏典の一つであるが、このような字句がとりあげられていることの意味を考えてみなければならないが、この点は後考にまちたい。
西丹波地方は中世の神社遺構が非常に乏しい。その中で、部分的にしかのこっていないとはいえ、南北朝にさかのぼる遺構が存在していたことの意義は大きい。それだけでなく、様式史的にも面白く、造立事情もほぼ知られるという点でも貴重な遺構である。
(『綾部市史』) |
伝説
淵垣の小字一覧
淵垣町
三社田 柏谷 兵谷 木寺 古社ノ下 森ケ井戸 ミヤマ 馬場 奥ノ谷 田尻 久田 段京 九斗谷 蛭子谷 高野 古川 郷久 荒神段 大谷口 菅谷 宍谷 広道 林ノ下 岩神 樋ノ口 横田代 横田 カトカ 大坪 角 大谷 茶木原 高尾 峠ノ谷 念仏谷 六ケ坪 西ケ谷 小白 西ケ開 墓谷 川原 淵垣 薮ノ下 北谷 古見野座 大田 ツメザコ 馬々谷 七回 才ケ坪 馬場ケ谷 西大坪 広道カトカ 西ケ谷 野座 菅谷 兵谷 木寺 九斗谷 大谷 蛭子谷 念仏谷 奥ノ谷 高尾 北谷
「山家藩記」には「にう」の小字名が見える。二ノ宮神社があるところという。
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