京都府綾部市位田町
京都府何鹿郡豊里村位田
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位田の概要
《位田の概要》
「ふれあい牧場」の以久田野台地あたりから、南側由良川までの地域。高城山(212m)の南麓の由良川沿いに府道舞鶴福知山線(74号)が走り、沿道に約2㎞にわたり集落が立地。東は里町、西は栗町に隣接。上位田・中位田・下位田・岡倉と旭ケ丘からなる。耕地の多くは位田橋を通じた由良川の対岸にある。
位田は、南北朝期から見える地名。貞和5年(1349)3月11日の楞厳寺敷地紛失状に「限東位田境」とあるのが初見。楞厳寺縁起によれば延徳2年(1490)6月28日丹波守護代上原豊前守が位田城にこもる謀反人(荻野・大槻氏)を攻めている。この様子は「蔭涼軒日録」延徳2年7月3日条に「此日於丹波有大合戦、物部豊前守為大将攻位田城」と見える。また「北野社家日記」延徳2年11月10日条に位田城は自ら放火して落とされたという。寛正2年(1461)9月10日付の何鹿郡所領注文に上位田・下位田が見える。
位田村は、江戸期~明治22年の村。慶長6年(1601)の御知行方目録(山家藩庁文書)では高840石「伊田村」とあり、山家藩領。寛永4年(1627一六二七)山家藩主谷氏が村高の約3分の1を子弟に分け与え、上杉谷氏(のちに柏原藩領)と十倉谷氏を立てたため、元禄13年(1700)の知行所村高付帳によれば山家藩領(560石)・柏原藩領(130石)・十倉谷領(150石)の3給地であった。支配は以後も変わらず。村政には3領の庄屋が協議してあたっている。
旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、藩領は同4年山家県、柏原県を経て、いずれも京都府に所属。同22年以久田村の大字となる。
位田は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ以久田村、昭和24年豊里村、同30年からは綾部市の大字。昭和30年位田町となる。
位田町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。
《位田の人口・世帯数》 702・260
《主な社寺など》
古墳群
下位田の氏政神社境内に宮越(みやのこし)古墳群(7基)。下位田の細谷にも数基(全壊)があったという。
式内社・御手槻神社
御手槻大明神 式内神名 位田村
祭ル神 祭礼 九月九日
幾見郷ハ往古位田合テ七ケ村ノ所一社ノ氏神ニテ 今ノ里村ニ高倉明神ノ旅所 桜ケ馬場ハ古ハ御手槻明神ノ馬場ナリ 源平戦ノ比 伊豆国高倉ノ段ヨリ高倉院落玉ヒシヲ後高倉村ニ天一大明神ト祭ル 此二社ヲ用久敷七ケ村立合祭礼有之所 御手槻明神ハ位田分ノ地ナリト云公事有 終ニ位田限ノ御手槻明神ト極 六ケ村ハ天一高倉明神ノ氏子トナル故後見六ケト云テ拉田合テ七ケ村也 則今幾見ノ位田ト云
(『丹波志』) |
御手槻神社
位田村の満月大明神を指定。現今、以久田村字位田に鎮座。
(『何鹿郡誌』) |
御手槻神社
所在 綾部市位田町岩井
祭神 伊邪那岐命、「渡会氏神名帳考証」では豊宇気姫命としている。
由緒 創立年代は不詳、祭神については従来諸説があったが、昭和11年祭神決定を申請し、「特選神名牒」および伴信友の説をとって決定された。
俗に御手槻大明神・満月大明神などといい、日月を以て神紋としている。当社はもと吉見の里の氏神であったが、のちに位田に譲ったとの伝承がある。地理的位置からみて吉見郷に属していたと考えても無理はなく、現に里町は氏子になっている。
(『綾部市史』) |
御手槻神社
所在 豊里村字位田小字岩井 祭神 不詳(諾冊二尊か)
・由緒並伝説 不詳。明治十年六月延喜式内決定の旨京都府より伝達あり。口碑によれば、祭神は伊奘諾尊・伊奘冊尊二柱にして日月の紋章を用う。往古は吉見郷一帯も氏子なりしと。
資料
(1)祭神決定申請 昭和十一年六月十日、…右神社は延喜式内社ニシテ、祭神ハ神社明細帳ニ祭神不詳ト記載サレ居候処…特選神名牒(帳)五百八十五頁及伴信友神名帳考証ニハ、同神社祭神(伊邪那岐命ト明確ニ記
載相成居候…
(2)祭神決定願 昭和十四年十二月六日、…伊邪那岐命筑紫ノ日向ノ小戸ノ樟原ニ御禊祓給ヒシ故事ニ傲ヒ御禊ヲ本体トシテ祭典ニ干与スル者前日ヨリ参篭潔斎ノ上奉仕シ氏子諸員モ御禊祓ヲ受ケザレバ何事モ奉仕スベカラズ……例祭ニハ特ニ御船行事ニヨリ神輿御禊ヲナス…太田亮著日本国誌資料叢書丹波丹後書何鹿式内拾弐座中式内御手槻大明神ノ祭神伊邪那岐命ト記載ウル等…
(3)古代ヨリ当社ノ御用品ニハ悉ク日月ノ神紋ヲ付ス。之レ地方神社ニハ稀ニ見ル所ナり。
御祭神ノ日月ノ如ク輝キ給フ国土山川物産ミノ祖神タル故ナラン。
(4)山家旧藩主の崇敬が厚かつた記録書もある。
境内末社
・稲荷神社 祭神 保食命。由錆不詳 ・若宮神社 祭神由緒共に不詳
・天満神社 祭神 菅原神 由緒不詳 ・大山祇神社 幸い神神社 祭神由緒共に不詳
(『豊里村誌』) |
氏政神社
位田城の西に宮ノ越城跡があり、その山城跡にある神社、古墳群もあり、山城や古墳群と当社との関係は不明である。
南側の府道から見る鎮座の山(宮越山か)。こちら側には参道がない、反対側にあるが、草茫々のため、恐れを成して、草が枯れてから行ってみようと思う。
氏正大明神 下位田村
祭ル神 祭礼 九月九日
舞堂 森凡三十間四方 氏正卜云城主ヲ祭カ可考
(『丹波志』) |
氏政神社
所在 豊里村字位田小字宮の越 祭神 不詳
由緒並伝説 戦国時代以前より在りし由伝うるも文献記録なし。元禄十年五月改築。
祭神に就いては、口碑に素盞嗚尊と伝へ又奇稲田姫命ともいう。(大正三年七月六日)(昭和十一年府より赤松俊秀氏出張調査されしも決定を見ず)社殿朱塗の故に祭神は女神かとの説あり。
旱魃の際神輿洗をすれば霊験ありと伝う。
境内末社
・大川神社 祭神 五元神 由緒不詳
・熊野神社 祭神 伊奘冊命 〃
・稲荷神社 祭神 保食神 〃
(『豊里村誌』) |
檜前不動尊
不動尊の由来
この不動尊は嘉永年間、この地の造り酒屋初代村上清兵衛秀房氏が、当時の村飛脚の若連中に依頼し、遠く武蔵の国成田山より、不動尊の分身をいただき、比の地に迎え祀り村人の疫病災難の消除を祈願されたのが始まりと伝えられております。
以来百数十年、滔々として尽きぬ流れの瀨戸川のはとりに鎮まり、道行く人々の安全と里人の無病息災を守り続け給いて、現在に至りました。その間、近隣の有志により管理されて参りましたが、永い間の風雪に祠もいたみ、参道も朽ちていたのを、奉賛会をつくり現在の姿にしました。
この機会にその由来と歴史を後世に残すため、下位田の村上英雄さんに和歌をつくっていただきました。
父祖以来信仰あつむ不動明王
武蔵の国より 迎え鎮まる
滝鳴るに瀬戸の水音たゆるなく
加護垂れ賜へ 不動明王
例祭 三月の彼岸
桧前不動尊奉賛会 |
曹洞宗観流山浄泉寺
位田橋からなら、その正面に見えるお寺、背後の山は位田城。
源渓山浄泉寺 禅宗 上位田村
開山南渓和尚 福知山久昌寺末 安永七年ニ至百六十年余 本尊観音
(『丹波志』) |
浄泉寺(観流山浄泉寺)
所在 豊里村字位田小字田岸
本山 越前永平寺 丹波久昌寺末
宗派 曹洞宗、本尊 聖観世音菩薩
縁起並伝説
慶長年間同国天田那福知山町久昌二代存悦之ヲ開闢ス、
元禄元戊午年 開基喜菴之創建也(社寺明細帳記)
(開山南渓存越(悦)禅師は高僧であり、馬を以て布教托鉢し、多くの廃寺を再興された。本郡十五寺という。)
古くは深渓山浄泉寺と号したと、親在より奥地にあったものか、或は堂ケ谷の地名の附近であろうか。元真言宗が開山後曹洞宗となる。旧時は堂守程度か、百余年前より住職の寺院となると伝えている。
什物 その他参考文献なし。
(『豊里村誌』) |
位田城と位田の乱
綾部のあちこちからよく見える山で、上が削平されていて、眺望のよい山城跡とすぐわかる。位田橋を渡った所の山を高城(たかしろ)(212メートル)といい、西方(写真では左側)の低い尾根(150メートル)を低城(ひくしろ)あるいは古城(ふるしろ)という。いずれも山城跡で、室町時代の位田晴長の拠る所と伝える。低城の西方の小谷を隔てた丘陵端の氏政神社境内一帯には大規模な土塁が残る。案内板がある。
もっと古くは蜘蛛がいたという。水の神か、はてまた土蜘蛛さんか。
高城山案内マップ
綾部市いきいき地域づくり事業
豊里地区自治会連合会城
この山は、室町時代の終わり項、幕府の力が弱まり、戦国時代が始まろうとした延徳元年(一四八九年)に物部の上原守護代にそむいた荻野、大槻氏が、ここを本拠として一ヶ年の長さにわたり戦い続けた山城である。この乱を「位田の乱」という。
又、古城はその昔鎌倉時代に位田氏の居城ではないかと言われている。「太平記」に尊氏と戦う位田氏の名が出ている。
言い伝えによると、萩野彦六なる者城を構えるとも聞く。その後位田城は尊氏軍に又後には明智軍よって攻めほろぼされた由
位田の乱
大槻・荻野氏と守護代上原氏との戦いを位田の乱とよんでおり、これについて『楞厳寺縁起』には次のように記している。
「(前略)夏ニ延徳元己酉歳十一月六日 荻野 大槻諸牢人ト為テ 当国ノ守護代上原豊前守 同紀伊守父子へ訴訟ト号シ 謀叛ヲ企ツ 城槨ヲ構へ朝敵致ス 同十二月十三日ニ群勢守護ノ手当 寺へ打入悉資材ヲ奪取リ 十九日マテ逼留シ先引退リ 翌年庚戌六月廿八日ニ位田城へ国中守護勢ハ申ニ及バズ 諸侍者兵革ヲ調へ思々出立同攻具足耳目ヲ驚ス者也 豊前守父子合力ノ為ニ 但州 摂州 備州ノ衆 彼レ是レ十三箇国ノ群勢城へ取寄リ 已ニ七月三日火攻アリトイへドモ落チズ 寄手被庇者数ヲ知ラス 同討死数十人 其後色々調法計略有リト雖 城ノ衆疼マス 同十一月十日 終ニ運ヲ開キ本宅立帰ラレ畢」
この戦いは守護方の軍勢に加えて、但州・摂州・備州などの軍勢が上原氏に合力して位田城を攻めたもので、大きな戦いであった。『蔭涼軒日録』延徳二年七月三日の条に、
「此日於二丹波一有二大合戦二。物部豊前守為二大将一攻二位田城一。城七ヶ所有レ之。此城者外城也。攻衆百余人被レ討手負五百余人有之。城衆亦五六人打死。此内須智源三弟又打死矣。」
と記され、「楞厳寺縁起」の記事と全く一致している。また延町の東光院の記録に、
「当国何鹿郡位田乱ニ般若烟焼 庚戌歳(延徳二年)六月八日 上志万於古曽戸之宮烟焼」
とあって、岡町の木曾殿神社がこのとき兵火に焼けたことを記している。
この当時七か所に城があり、位田城は外城であると記されているが、それらの城や城主についてはわからない。しかし岡町あたりも兵火にかかっているところをみると、相当広い地域で戦われていたものと考えられる。位田城に拠った荻野・大槻氏は、丹波と近国の軍勢に攻められても屈服せず、かえって攻撃軍に大きな痛手を与えている。こうした両氏の勢力は、やはり在地を確かに支配していたことにより培われたものであろう。須智源三は須知に居た土豪と思われ、守護代方の軍の構成をうかがわせるものである。
位田の乱後の荻野氏・大槻氏の動向は明らかではない。両氏はともに有力地主より成長して、幕府・守護の被官となり、国人として在地を支配し、山城に拠って領主化の道を進んでいたが、明智光秀の丹波平定の戦いに敗れて帰農していったものと思われる。
(『綾部市史』) |
「位田城跡」
「位田古城跡(宮ノ越城跡)」
綾部ふれあい牧場
京都府農林水産技術センター畜産センター
京都府立農業大学
位田の北部は以久田野台地の広い所である。
当地へ府や市、京産大などは定員80名の獣医学部を新設したかったというが、トカゲどもが烏賊様してジャマしくさったようで、お友達の学校にさらわれてしまい、ユメは消えた。納得のいく何の説明もないままである。しかしクソトカゲのアタマを刎ねれば、またチャンスはあるかも…
《交通》
《産業》
《姓氏》
位田の主な歴史記録
位田
位田とは、往古、品階及び位階五位以上を有する者に給与する田地をいう。(国史大辞典)この地名もこの名残であろうが、果して誰の所有であったか不明である。
(『豊里村誌』) |
伝説
高城山の蜘蛛
綾部市の井倉の大見家は代々美人の筋であったが、これに目をつけた高津の蜘蛛が毎夜々々美男の武士に化けて通った。そのうちにみごもった娘は、ある夜、男の足に針をさした。男が帰っていった後、そのしたたる血痕をつけて行ったら位田の高城という山の峰で蜘蛛が死んでいた。間もなく女は沢山の蜘蛛の子を生んだ。その美女の墓は今、井倉のコージン薮にある。
この話は水神の化身である蜘蛛-普通は大蛇である場合が多い-が一人の美しい処女を求めた求好譚の一つの型式である。一人の処女のもとに大蛇の化身である美男が通って来て、その男の在処を知るために苧環の麻の端を男の衣裳につけて跡をたどって、男の在処を見定める話の節は、われわれのいう苧環型の異類求婚譚であって、大三輪の神話につながる数千年来の型式である。水の神の奉仕者に処女を任命した古い習俗の痕跡を物語る説話であって、神話につながる一連の説話の持つ意味には遠く且深いものがあることはいうまでもない。この類の昔話の中には、日本の古い婚姻形式を示すデータも、又異民族通婚の痕を暗示するファクターも含まれていることを知るのである。
井倉に残る民話の一断片にも昔を語る重要な要素を持つということは注意されなければならない。(一九五〇・四)
(『丹波の話』) |
位田の小字一覧
位田町
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