丹後の地名プラス

丹波の

何鹿(いかるが)郡
京都府綾部市


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京都府綾部市

京都府何鹿郡

何鹿郡の概要




《何鹿郡の概要》

ナニシカとしか読んではもらえないという。何鹿郡は今は消滅して全域が綾部市となっている。いかにも古代の地名らしくヒビキはよいが、何もわからないというナゾの地名である。


どこだったか、こんな車↑を見かけたが、鳥かどうかは別としても、古代が生きているのには感動した。舞鶴にもFM放送ができたと聞くが、カサ放送ではなかったと思う。歴史の重みというのか土地の文化の重みというのか、現在そこに住む者のそこらのレベルが違うのか、目の届いている範囲の狭さをわざわざ自ら暴露し、カコを忘れミライも忘れ、勝手に都合の良いように歴史修正改竄するようなイカれたケチなマチですよ、の現れですよでなければよいが…

郡名考
イカル・イカルガという小鳥
←『綾部市史』より
鵤(いかる・いかるが)という鳥を私は見たことがない、書によれば、スズメ目アトリ科の鳥。地方によっては「三光鳥(サンコウチョウ)」とも呼ぶ。古名は「いかるが(斑鳩)」。ムクドリとほぼ同じ大きさ、全長約23cm。額、眼先、頭頂が黒く、大きい黄色のくちばしが特徴。体は全体に明るい灰色で、翼と尾は光沢のある黒色、翼には白帯があり、飛ぶときによく目だつ鳥だという。比較的のっそりして、活発には活動しない。中国東北部、沿海州、朝鮮半島、日本に分布している。日本では本州以北で繁殖し、北日本のものは冬に本州中部以南に渡って過ごす。山地の落葉広葉樹林や、その二次林、林縁など、低木の入り混じった開けたところにすむ。分布はどちらかといえば局所的で、全国的にはあまり数の多い鳥ではない、そうである。
柳田国男の「野鳥雑記」
いかるがといふ鳥がヒジリコキーと啼いたといふのも、古い時代の戯れ言葉かと思はれる。ヒジリは上人で女房は無い筈であるのに、時々はその聖の児といふものが居たのである。キーは調子を高く別に発声するから、恐らくは嘲ける意味に聴えたのであらう。地方によっては此烏を三光鳥とも謂って、「月星日」と啼くといふのが、信州の諏訪筑摩ではミノカサキー、奥州のどこかの田舎ではアケベエキー、即ち紅い衣を著よと聴いて居た時代もあった。四月山々の花のゆったりと咲く頃に、なつかしい心持を以て此鳥の枝に遊ぶのを、見て居た子供たちの姿まで目に浮ぶやうである。

鳴き声が「イカルコキー」とも聞こえるために、この名があるとも言われる。しかし本当にトリなら「何鹿」とは漢字表記しないであろう、これなら鹿ではないか。斑鳩とかもう少しは鳥らしい漢字を当てるであろうし、一種類のトリ、それもほとんど見かけない小さな野鳥の名の郡名というのもどこかナットクしがたい。もっとメジャーな動物のカエル郡とかタヌキ郡とかホタル郡とかがあちこちにたくさんあるのならともかくも、他の意味の地名とたまたま偶然に発音が同じトリであったということではなかろうか。


トリとは考えにくい、そうだとすれば、
何鹿=イ(発音上の接頭語)+カル+カ(場所を示す接尾語)。
語幹はカルということになる。
最初のイは無くても何も意味上に変化はない。
「茶碗」と言っても「お茶碗」と言っても、同じ茶碗であるようなハナシである。
現に、
広島県広島市安佐北区狩留家(かるが)町
広島県呉市狩留賀(かるが)町
がある。安佐北郡の狩留賀は平安末期の記録に見える。地名の意味の考証は伝説的なものしかない。

イカルカの語尾は変わってもいいことになる。
越中国礪波郡に、伊加流伎(いかるぎ)村があった。天平宝字3年の記録に見える地名だが、現在地は不明。
栃木県足利市鵤木(いかるぎ)町
がある。カ(處)がキ(村)と変わっただけかと思われる。

何鹿郡は和名抄の訓注に伊加留加とあり、イカルカと読むが、何も知らなければ決して正しくは読めない地名である。
藤原宮跡から出土した木簡に、「伊看我評」、「伊干我郡島里」とある。評は郡の、里は郷の古い表記法で、大宝律令以前はこのように書いた。藤原宮は和銅3年(701年)までてあったので、その時以前の木簡になるが、このように表記されている。今漢字通りに読めばイカンカ郡であるが、当時はどう読んでいたのかはわからない。ツルガを敦賀、スルガを駿河、クルマを群馬の漢字の用例から、あるいはイカルガと読んでいたのではと三好氏は述べている(下記の引用参照)。

「カル」とは何か?
これもすでに先人たちが研究してくれている。カルといえば、「軽」(今の橿原市大軽町)が思い起こされる、記紀などにもよく登場する高市郡内の古代地名である。
軽境岡宮・軽曲峡宮・軽境原宮・軽島明宮などの宮名、軽のつく地名としては、軽池・軽坂(応神紀)、軽村(雄略紀)、軽曲殿(欽明紀)、軽街(推古紀)、軽市(天武紀)などがあり、軽街は「軽の諸越の衢」(日本霊異記)ともいった。厩坂道・厩がつくられ(応神紀)、紀伊国に通じる軽路(万葉集)があるなど、早くに開けた地であった。宝亀11年(780)の西大寺流記帳に「高市郡加隆庄」、建久2年(1191)の西大寺所領庄園注文(西大寺文書)にも「高市郡加留庄」とあり、寛弘2年(1005)藤原道長は軽寺に宿泊している(御堂関白記)。などなど。

この「軽」について『日本の中の朝鮮文化』は、
松本清張氏は、この斑鳩ということも朝鮮をさした韓(から)の転訛、つまり「軽(かる)」からきたものではないかとしてこう書いている。
   記紀によると孝元天皇は「軽の境原宮」にいたという。軽の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子や軽太子、軽大郎皇女(この兄妹は近親相姦で罰せられた)の名がある。「軽」は「韓(から)」である。この近くの弥生遺跡で有名な「唐古(からこ)」も唐(とう)でなく韓からきていると思う。
   法隆寺のあたりを斑鳩(イカルガ)の地という。名義不詳となっているが、これも「軽」から出ているとみてよい。カルにイの接頭語かついたのであろうか。(「大和の祖先」)

私は清張氏のこの書を持たないので孫引きだが、加羅→軽だと言うのである。氏だけではないが、このように考える人も多い。カルは朝鮮半島南部にあった加羅(加耶)国のことだと言う。
より古くは中国文献では弁韓(弁辰)と呼ばれた地で、弁は当時の現地語ではカルと読む。同地を日本では任那(みまな)と呼んだりし、さらには日本の植民地だとしたりする、しかし任那は漢字通りに読めばニムナで、ニムは主人のことであり、ナは国だから、日本へ渡来した加羅人が自分らの主人の地とか自分らの本国だという意味を込めてそう呼んでいたのようにみえる。

モンゴル系だから日本人にはR音は発声しにくい、RとLの使い分けられる日本人はそうはいない、ロンドン(London)とローマ(Roma)のLとRが聞き分けられ、使い分けられるだろうか、どちらも同じロとしか認識できない。ずっとずっと古い日本語祖語にはたぶんR、Lの使い分けはあったと推測するが、いつの間にかもうすっかり忘れてしまったものだろうか。今の日本語のラリルレロはRとLの間くらいだが、それはDとかTとか近い他の音に変わることがよくある、今なら間違いだ、などということになるが、当時は通音で別にどちらでもかまわない。
中国語は日本語とは別の語族で、ヨーロッパ系に近いのか、RLの使い分けがある、令和のレはどちらなのだろう。
カダとかカタ、カチ、カツ、カトとかに変わることがある。カツラなども加羅でないかと、鈴木武樹氏は書いている。秦氏の桂川とかもそうかもということになる。与保呂の奥にも桂貯水池があるが、あのあたりに元の与保呂村があったのかも知れない。
葛城とか、葛城氏とか、元は加羅から渡来してきた古来の人達であったのかも。哮嶽(いかるがのたけ)とか物部氏の聖地もここにあるので、彼らもまた元は加羅なのかも、ということになる。


何鹿とは郡名になる以前の何鹿という所はどこにあったのか。丹波国丹波郡丹波郷に見るように、国名や郡名も元は小さな範囲を呼ぶ地名であったことが多い。だから何鹿郡何鹿地区がどこかということである。何鹿、何鹿と言うが、その元の場所、本場はどこかなのか、ということである。
そのような地名は今はないし、古文書類にもない。推測するより手はない。
犀川の流域、安場川の流域、上林川の流域、だいたいこれがこれまでの説に見られる。

ワタシは枯木、唐部、須波伎村や諏訪神社、物部のある犀川流域と考える。中丹最古と言われる成山古墳群はじめ私市円山などの巨大古墳もあり、このあたりは古墳時代は何鹿郡域の中心地と見られる。
遺称的な地名としては、
枯木(からき・西坂町)は加羅村(からき)のことかと思われる。舞鶴にも枯木浦、枯木神社、宮津にも枯木浦がある。
唐部(からべ・今田町)は加羅部であろう。
唐部
唐部は、唐人部、辛部、韓部と同義であつて、唐人即ち韓人を以て組織した部落をいう。この地名もこれに関係あるか。(何鹿町村誌以久田村之部に拠る)
(『豊里村誌』)

辛人部 カラビトベ 任那族か。辛人即ち韓人を以って組織したる部なるべし。出雲国大税賑給歴名帳に「漆招郷犬上里辛人部近女」と云ふ人見ゆ。
韓部 カラベ これも辛人部に同じく任那族なるべきか。天長十年三月紀に「備前国人直講博士正六位上韓部廣公、姓を眞道宿禰と賜ふ。廣公の先は百済国人也、」など見ゆ。
和名抄、日向国児湯郡に韓家郷あり、此の部のありし地か。
辛部 カラベ 和名抄、筑前国宗像郡に辛家郷あり。此の部のありし地と考へらる。又肥後国菊池郡にも辛家郷あり。
(『姓氏家系辞典』)

須波伎はソフル村の意味かと思われるが、その村の諏訪神社があちこちに勧請されている。諏訪神社とされ、信濃の諏訪大社と見られているが、それはたぶん間違いで、本来はそことは関係はなく本来はソフル神社の意味であったと思われる。
山背国愛宕郡の式内社にも須波神社がある。上賀茂神社の境内摂社に一つなっているという、諏訪神社ともされているようで、賀茂氏も元は葛城にいたので、カル系なのかも知れないが、須波神社はソフル神社だろうとは誰も考えた人はないようである。

物部氏は北九州からこちらへ来たとされるが、その前は加羅であったと思われる。物部氏の祖・天照国照彦火明櫛玉饒速日尊が天磐船に乗って天降ったと伝えられるのが河内国河上哮峯という。この峯は今も伝わり、生駒山脈の北の端とされる。葛城山系の一番の北といってもよい。平群郡の斑鳩もこの麓である。「哮峯」は「いかるがのみね」と読まれ、彼らの祖国カルの名を伝えている。イコマといいヘクリといいイカルガといい、誇ることすらあれ隠すことなく歴史を伝えているのだが、後の世の人々にはそれが素直には理解ができなかったと思われる。
権力によって天から降ってきた現人神の治める国とかアホげな「歴史」で強制的に洗脳されて、日本人の歴史観が史実から逸れていき、やがてはあの恥ずべき侵略戦争へと続くことになる。上流が荒れると下流は大洪水の大被害に合う、遠く川の上流にまで目が届くはずもないような行政や政治、市民や組織などは軽薄なクソであるし、古代史やひょっとして地名学もまじめな話として大事な学問であるのかも知れない。意外な所に過去の真実が隠されていたりもする。荒れた土地を掘って現代からは想像もできないような恐竜時代を復元するようなものである。

やがてその加羅も562年にはすべて新羅に統合されて滅亡し、何鹿の加羅人達も、「加羅は亡びたという、日本ではみな物部となるらしいゾ」、ということでイカルガは物部となった…、のかもわからない。
綾部と言えば、漢氏や秦氏ばかりが(いやいや?)言われるが、もちろん彼らも来たのではあるが、彼らは今来の渡来人である。今はnewのことで、5世紀頃からの新来の渡来人である。
彼らの渡来よりももっと早く加羅系の人達、日槍系の人達が開発していた地であったと思われる。弥生時代までさかのぼる「古来の渡来人」とでも呼べばいいのか、郡名にちなみ彼らカル系の歴史は忘れてはなるまい。


何鹿郡の簡単な通史

何鹿郡は、由良川中流の福知山盆地の東半部と支流の上林川・八田川・犀川の流域および伊佐津川上流地域からなっている。今の綾部市域の全域と西で接する福知山市内の一部(報恩寺・印内・山野口・私市)である。

〔古代〕縄文、弥生時代の遺跡や遺物も発見されている。古墳は郡内全域に分布し、群集墳が多く、前方後円墳が10余基、府内最大の私市円山古墳がある。
綾中には7世紀後半に創建されたと考えられる綾中廃寺址があり、秦氏・漢氏との関連を想像させる。
平安期に入ると「三代実録」に丹波国何鹿郡仏南寺など多くの郡内記事が見える。「和名抄」には賀美・拝師・八田・吉美・物部・吾雀・高殿・私部・栗村・高津・志麻・文井・小幡・漢部・三方・余戸の16郷が記される。式内社は須波伎部神社・阿須須伎神社・佐陀施神社・河牟奈備神社・御手槻神社・伊也神社・赤国神社・高蔵神社・佐須我神社・嶋万神社・福太神社の12座。
〔中世〕12世紀以降には郡内に京都の貴族・社寺の荘園ができる。栗村・私市・吉美・高津・吾雀・志万・上林・上杉の各荘や漢部御厨などである。南北朝期に足利尊氏は自家にゆかりのある八田郷の光福寺を丹波国安国寺とし、多くの荘園を寄進した。戦国期になると上原・大槻・荻野・上林などの豪族が郡内に割拠した。天正7年何鹿郡は明智光秀によって征服され、天正10年本能寺の変後丹波は羽柴秀吉の所領となり、何鹿郡は一柳市助が代官として支配した。
〔近世〕はじめ福知山藩領であった郡西部を寛永11年から九鬼氏が2万石、北東部に天正10年から谷氏が1万石、慶長6年から石橋に入った藤懸氏が6、000石を領した。ほかに園部藩・柏原藩などの諸藩領と幕府領が入り組んでいた。
村数・石高は「正保郷帳」では62か村・4万1、180石余、「天保郷帳」では71か村・4万2、361石余、「旧高旧領」では4万9、525石余。初期には由良川を横切って綾部・天田・栗林の三井堰が造られ、両岸680町歩余を潅漑した。元禄期から由良川では舟運が発達し、由良港と天田堰の大島港まで高瀬舟が航行して、米・塩をはじめとする物資が輸送された。19世紀になると綿作が盛んになり、繰綿・綿織物を扱う仲買商人が畿内と結んで活躍するようになった。
〔近代〕明治維新により何鹿郡は京都府に編入。明治12年郡区町村編制法の施行により、83か村となり綾部に郡役所がおかれた。明治22年市制町村制の施行により、何鹿郡は綾部町と、中筋・以久田・'小畑・物部・志賀郷・吉美・西八田・東八田・山家・口上林・中上林・奥上林・佐賀村の14か町村となった。明治20年代から養蚕製糸業が活発となり、農家は集約的養蚕を行って収繭量をふやし、綾部町には郡是製糸株式会社が明治29年に創立された。この頃から大正~昭和初年へかけて綾部町は蚕都として発展していった。明治25年には大本教が開教され、綾部は宗教都市の性格をもつようになった。昭和25年、綾部町と近隣6か村が合併して綾部市となり、昭和30年に郡内5か村、同31年に佐賀村が分村して綾部市に合併し、何鹿郡全域は綾部市となり、郡名は消滅した。


イカルガの名の残るところ
奈良県生駒郡斑鳩町斑鳩(いかるが)
斑鳩寺(法隆寺)のある所で、明治22年の法隆寺村・富郷村の地域、矢田丘陵東南麓、富雄川右岸にあたる。平群郡夜摩(やま)郷の地。
斑鳩の地名の初見は、用明天皇元年紀、正月条に「其の一を厩戸皇子と曰す。是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」とある記事。斑鳩はイカルの生息地による地名とする説もある。河内・難波への交通の便もよく、政治・経済・文化の要地であった。斑鳩宮・岡本宮・葦垣宮・泊瀬王宮などの諸宮があり、斑鳩寺(法隆寺)・中宮寺・法起寺・法輪寺など諸寺があった。

兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)
太子も鵤も、推古14年紀に「播磨国水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺」とあり、聖徳太子の講経を喜んだ推古天皇が聖徳太子に播磨国の水田100町を与え、斑鳩寺(法隆寺)に納められており、通説はこれを当地にあった中世鵤荘の起源としている。

三重県四日市市鵤、伊賀留我神社(伊勢国朝明郡式内社)。
地名、社名の由来は、古代法隆寺の寺領であったからともいわれているが不詳。

何鹿王
天武天皇の曾孫に何鹿王と言うのがあるが、此の頃皇族の名は地所の地名む名づけられる風が盛んであったので、おそらく何鹿郡に基づいて命名されたものであらう。
(『中上林村誌』)

天武の子の舎人親王は日本書紀の編集最高責任者、『万葉集』に和歌がある文化人、子に淳仁天皇がある。
何鹿王は舎人親王のマゴ、天武からはヒマゴにあたる。
『続日本紀』によれば、、
何鹿王は、 舎人親王の皇子守部王の子。宝字八、父が淳仁天皇の兄にあたるため、天皇廃立事件に連坐して、王籍を除かれ、姓三長真人を賜わって、丹後国に流されたところ、宝亀二・七光仁天皇により属籍を復され、同二・九従兄弟林王、三直王らと共に、改めて姓山辺真人を賜わった。同七・九にも、山辺真人何鹿、猪名の二人の属籍を復す、とある。

『続日本紀』に、
すでに死没している従四位上の守部王(舎人親王の子)の男子の笠王・何鹿王・為奈王、正三位の三原王(舎人親王の子、御原王とも書く)の男子の山口王・長津王、船王(舎人親王の子)の男子の葦田王および孫の他田王・津守王・豊浦王・宮子王は、去る天平宝字八年に三長真人の姓を賜い、丹後国に配流された。また従四位下の三嶋王(舎人親王の子)の女子河辺女王・葛女王は伊豆国に配流された。ここに至って、皆もと所属していた皇族の籍にもどった。

三嶋王の息子である林王、三使王(舎人親王の子)の息子、娘の三直王・庸取(鷹取か)王・三宅王・畝火女王・石部女王、また守部王の息子の笠王・何鹿王・猪名王に山辺真人の姓を賜わった。
とある。
すべて舎人親王の孫または曾孫であって、舎人親王の子の淳仁天皇の近親者である。仲麻呂の乱のあとに淳仁天皇は皇位をおり、淡路に配流されるが、その時これらの王・女王も皇族の籍を奪われたのであろう。とされる。
何鹿王の母系は不明だが、何鹿郡には私市があり、何か関係があるのかも… 。何鹿王の兄弟に笠王がいるが、これもあるいは加佐郡と関係があるのか。そうだとすれば天武の勢力下にあった地ということか。


何鹿郡の主な歴史記録


「丹波志」(寛政6年)は「按スルニ古へ此郡鵤多ク産栖ス、因テ号シ文字ヲ転セラレタルカ、播磨国二鵤郷アリ、大和国二斑鳩里アリ、例ナキニアラズ」

「丹波誌」(大正13)は「斑鳩ノ産地ナルヲ以テ古人ガ爾名ヅケタリト云フ(中略)万葉仮名ニテ如何流鹿ト書キ或ハ何如留鹿ナド書キタルヲ国名郡名ヲ二字ニ定メラレタル時コレヲ省キ今ノ二字ニシタルナリトカヤ」


『両丹地方史』(2002.6)
何鹿郡名考
 両丹考古研究学会 三好 博喜
一、はじめに
現在の京都府綾部市の市域(一部福知山市城を含む)は、かつて何鹿[いかるが]郡と呼ばれていた。何鹿は難読地名で、その由来もわかっていない。しかも、古代の文献に現れる時点から表記が変わっていないため、手がかりも少なく、確かな資料に基づく考察は、ほとんどされることがなかった。ここでは、資料的に限界のある文献からではなく、考古資料である木簡に記された地名表記から、「何鹿」表記の成立を考察する。

二、出土木簡一覧
何鹿郡に関係する木簡資料は現時点で九点が確認できる。
【平城宮四点】
①平城宮二一次六AACHR二七地区SD二七〇〇
 丹波国何鹿郡高津郷交易小麦五斗
②平城宮一七二次六AACJD二七地区SD二七〇〇
 丹波国何鹿郡拝師郷柏五戸秦→
③平城宮一七二次六AADEN二七地区SD二七〇〇
 ・丹波国何鹿部八田郷〈〉戸主秦→
 ・〇〇〇〇〇〇□〇〇〇□
④平城宮三九次六ALSGR四〇地区SD四九九九
 ・□口□口鹿郡八田里庸米六斗
 ・〇〇〇持□〈〉
【平城京二点】
⑤平城京左京一九三E次六AFITB一一地区SD四七五〇 左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸
 丹波国何鹿高津里○
〈〉交易月+昔贄一斗五升
持丁高津□[公力]石守=
⑥平城京左京一九三B次六AFIU〇一三地区SD五一〇〇左京三条二坊二条大路濠状遺構(南)
 ・丹波国何鹿部□□[拝師カ]郷〈〉
 ・〇〈〉
【兵庫県山垣遺跡一点】
⑦山垣遺跡SD一
 ・□□□[年カ]正月十一日秦人部新野□〈○〉
秦人部新野百□□□本田五百代○同里秦人部志□[津カ]十束
同部小林廿束賀墓口垣百代〇〇〇奏人部加□[津カ]十五束〇〇〇◇
伊干我郡島里秦人部安古十一束○竹田里春部若万呂十束=・
秦人部身十束
間人部須久奈十束

(○○)=〇台百九十□[二カ]口〈○〉〇二百□束○
別而代□□[物カ]□○□[束カ]□新□[野カ]伝給
半本□□[四カ]百□□[八十カ】束=〇〇〇〇〇〇〇◇
【藤原宮二点】
⑧藤原宮跡五八-一次六AJLDB六四地区SD一四〇〇
 ・伊着我評
 ・クサカンムリに弓窮八斤
⑨藤原宮跡五八-一次六AJLDA六四地区SD一四〇〇
 ・伊看我評
 ・当帰十一斤

三、地名表記の変遷
山垣遺跡一点を除き、紀年銘は確認できない。山垣遺跡では年号部分が判読しにくいが、(丙午カ)年正月十一日と読めるという。丙午は七〇六年である。
出土遺跡から藤原宮出土の⑧⑨と藤原宮期末に担当する山垣遺跡出土の⑦、平城宮・平城京出土の①②③③⑤⑥に分かれる。
藤原宮出土の二点はいずれも「伊看我評」と表記されている。評(こおり)は郡以前に使用された地方の行政制度である。七〇一年の大宝律令以降、郡を使用するようになる。藤原京は六九四年から七一〇年までの都である。こうしたことから木簡の年代は六九四年から七〇一年と想定される。
兵庫県山垣遺跡では「伊干我郡」と表記され、七〇一年以降の年代が想定される。「島里」と表記が続くことから、七一五年の郷里制施行以前である。しかも部名三字里名一字であることから、好き字二字で表す七一三年以前の可能性が高い。ここで注意される点は、和名類聚抄に記されている何鹿郡志麻郷の七一三年以前の表記として伊干我郡島里と書かれている可能性が高いことである。山垣遺跡は兵庫県氷上郡春日町にある官衛遺跡である。奈良時代前期という時期の限られた遺跡で、律令制度の地方組織としては最末端機関である里にかかわる遺跡として考えられている。山垣遺跡と何鹿部志麻郷とは、同じ由良川水系にある。由良川・土師川・竹田川というように水系で結ばれており、近い関係にあったのであろう。木簡の年代は七〇一年から七一三年の年代が想定でき、丙午(七〇六)年は妥当である。また、藤原宮木簡の伊看我と伊干我とは表記の仕方は異なるが、音は同一であって、同じ地名を表記していることは間違いない。
平城京出土木簡は、大きく二時期に分けることができる。「何鹿高津里」「□鹿郡八田里」と表記された木簡は、七一五年の郷里制施行以前の可能性が高い。平城京遷都は七一〇年であるが、郡名里名ともに二字表記であることから七一三年以降と考えられる。こうしたことから木簡の年代は七一三年~七一五年の年代が想定できる。
残る平城京出土の①②③⑥は何鹿郡○○郷とあることから郷里制施行後、七一五年以降の年代が想定できる。
以上、木簡の年代から地名表記の変化を確認しておくと、次のようになる。
七世紀 伊看我評 (伊看我 読み不明)
末葉  ↓
八世紀 伊干我郡島里 (伊干我 読み不明)
初頭  ↓
八世紀 何鹿高津里  (何鹿 読み不明)
前葉  □鹿郡八田里
     ↓
八世紀 何鹿郡高津郷 (何鹿 読み不明)
中葉  何鹿郡拝師郷
以降  何鹿郡八田郷
     ↓
一〇世紀 何鹿郡
前半   (伊加留加・イカルカ)

出土木簡から「何鹿」表記の成立した時期をみる。木簡に記された文字でみると、八世紀初頭までは三文字表記で、文字も統一されていない。平城京遷都以降に「何鹿」表記が確定したと予想できる。和銅六(七一三)年、郡・郷名を好き字二字に改正するように詔が出されたことが契機となってそれまで三字表記だった郡名を「何鹿」二文字に改めたとみることができる。

四、「何鹿」の読み方
木簡に記された文字だけでは何鹿の読み方はわからない。和名類聚鈔(九三一~九三七年成立)には伊加留加と訓じられ、延喜式の傍訓には「イカルカ」とある。したがって、平安時代前期にはIKARUKAと読まれていたことがわかる。しかし、それより前についてはどのように読まれていたかは不明である。地名の読み方については時代により変化することが多々あり、七世紀・八世紀の伊看我・伊干我・何鹿を「イカルカ」と読むのか検証が必要である。以下では「イカルカ」の音に近く、転訛の段階を追える古代の地名表記をみておく。
(一)駿河国駿河郡
駿河は和名類聚鈔・延喜式では須流加・スルカである。藤原宮出土木簡に□河評とあり、平城京出土木簡も駿河の表記である。万葉集には須流河と表現されており、駿河=スルカは転訛することなく現代に至っていると考えられる。駿河は漠字音ではSUN+KAであり、NをRUとしてSURUKAと読ませている。
(二)上野国群馬郡
群馬郡は和名類聚鈔・延喜式では久留末・クルマである。藤原宮出土木簡にも「車評」とある。元亨三(一三二三)年銘鉄灯篭にも車郡の表記があり、奈良時代以前から中世までは「くるま」と読まれていた。「ぐんま」に転訛するのはこれ以降のことである。好き字二字を選ぶに際して群馬の表記を選びKURUMAとしている。漠字音ではKUN+MAであり、NをRUとしてKURUMAと読ませている。
(三)越前国敦賀郡
敦賀郡は和名類聚鈔・延喜式では都留我・ツルカである。しかし、古事記・日本書紀には角鹿と表記され、都奴賀と読まれている。奈良時代を中心とする官衙遺跡である静岡県伊場遺跡でも「都奴我」と表記された木簡が出土している。したがって、奈良時代前後には「つぬか」であることがわかる。奈良時代から平安時代初期にかけて音が転訛している例である。敦賀郡は好き字二字を選ぶに際して敦+賀とした。漠字音でTUNの敦を選び、Uを補う二音仮名で読ませて、TUN(U)+KAとしたのである。ところが漢字音N+KAはRU+KAへ転訛しやすかったのか、あるいはN+KAはRU+KAと読む決まりがあったのか、平安時代初めごろにはTURUKAに落ち着いたのである。

五、「何鹿」表記の成立
三字表記された伊看我・伊干我の看・干は漢字音ではKANである。既述したように、N+KA(MA)をRU+KA(MA)と読ませていることから、伊看我・伊干我は、IKARUKAと読むことができる。七一三年、好き字二字に改めるのに際して、IKARU+KAすなわちIKAN+KAの二字とした。KAには鹿をあてたものの、漢字音にはIKANを表す一文字がないため、和語の「いかん=何」を用いたと考えられる。おそらくこの地域は伊看我=伊干我=何鹿と漢字表記を変えながらも、「いかるが」と読ませてきたのであろう。

六、「いかるが」の意味
現段階では、「いかるが」の意味は理解しがたい。野鳥に結びつけたり、類似地名に結びつけた解釈もあるが、いずれも説得力に欠ける。ここではやはり根拠に乏しいが、若干の可能性を指摘しておく。
三字表記の場合、伊看我・伊干我であり、中央の文字は「カン」の音であればよいことになる。看と干の違いはより画数の少ない文字が好まれたのかもしれない。そうすると、カンにはもともと『漢』の意味があったのかもしれない。イには接頭語で語調を整える意味、カには「隠れ処」や「宝の在り処」など場所を表す意味がある。したがって、『イカルカ』は『漢(渡来人)のいる場所』となる可能性もあるのではなかろうか。実際、前掲の木簡では島里・八田郷・拝師郷に秦人部もしくは秦の氏族名の表記が確認できる。この氏族は織物の生産などに携わった渡来系氏族で、何鹿郡内に広く居住していたことがわかる。新たな資料が出土することを期待したい。

七、伊看我評と青野南遺跡
何鹿郡に先行する伊看我評が七世紀後半に存在する事が木簡を通して明らかになった。この地域では青野南遺跡(註二)で七世紀後半に大規模な掘立柱建物群が成立する。青野南遺跡の建物群は、伊看我評に関係する建物群の可能性が高い。一方で、八世紀の遺物は極端に少なくなる。青野南遺跡を官衙遺跡とするならば、八世紀の官衙の中心地域は動いていると考えるべきであろう。青野南遺跡での七世紀と八世紀の様相の違いをどのように考えるべきなのか。評制度での評造は多く国造から選任されたが、大宝律令以後の郡領は国造でなくてもよくなっている。このようなこととも関連するのか、考古学的に検証していく必要がある。


註 本稿は【三好博喜「木簡に見る「何鹿」」(『太邇波考古』第一三号 両丹考古学会)一九九九】に加筆したものである。
註一 本文に用いた木簡の検索には、奈良国立文化財研究所のホーム・ページに掲載された木簡データ・ベースを利用した。
註二 中村孝行「青野南遺跡発掘調査概報」(「綾部市文化財調査報告」第九集 綾部市教育委員会)一九八二

参考文献
 『国史大辞典』吉川弘文館一九九三
 『古事類苑』吉川弘文館一九七六
 『和名類聚鈔』風間書房一九七〇
 『延書式』吉川弘文館一九八九
 『万葉集』小学館一九九五
 『日本書紀』小学館一九九八


『綾部市史』
平城宮出土の木簡 何鹿郡名の最も古い記録は、平城宮跡出土の木簡である。木簡は木片に墨で字をかいたもので、品物を輸送するときの荷札として使われ、また往復文書の代わりにも用いられたもので、平城宮跡からは、昭和四十七年までに約二万点の木簡が出土している。そのうちに丹波国に関するものが数点あって、何鹿郡から出したものが一点ある。これらによって、当時の郡・郷・里や貢納物のようすの一端がわかるので次に記しておく。
  A 丹波国何鹿郡高津郷交易小麦五斗   (口絵参照)
  B 丹波国船井郡出鹿郷曾尼里秦人吾□米
               (負か)
  C 表 丹波国氷上郡石□里笠取直子万呂一俵納
    裏 白米五斗 和銅□年四月廿三日
        (国か)(負か)(干か)(部か)
  D 表 丹波□□□□□□里□□□□牟一俵
              (七一〇)
    裏 納白米五斗 和銅三年四月廿三日
  E 表 氷上郡井原郷上里赤搗米五斗
    裏 上五戸語マ身
Aの何鹿郡の文字のある木簡は、昭和三十九年十二月十九日に平城宮東大溝から、和銅開称ほか銅銭・土器・木器などとともに出土したものである。寸法は長さ二四一、幅二八、厚さ五(単位ミリメートル)の板で、材質はわからない。
交易(きょうやく)というのは正税の稲をもって購入して貢納するもので、五斗は一俵である。この木簡は伴出したものからみて、天平末年から天平宝字へかけてのころ、すなわち七五〇~七六〇年ころのものと考えられている。(注1) この木簡から考えて、八世紀の中ごろには何鹿郡があり、また高津郷の名があるところから、おそらく『倭名抄』に記された十六郷は、このころにはできていたものと思われる。
郡名考 「何鹿」の読み方については、『倭名抄』に伊加留我と訓註しているから、イカルカと読んでいたことがわかる。イカルカの郡名のおこりについては、『丹波志』総国何鹿郡の条に、「按スルニ此郡鵤(イカルカ)多ク産栖ス 因テ号シ文字ヲ転セラレタルカ」また『丹波誌』何鹿郡の条に、「郡名の起因詳ナラズ 斑鳩(イカルカ)ノ産地ナルヲ以テ古人ガシカ名ヅケタリト言フ」とあるように、イカル(まめまわし)が群棲していたので那名になったのではないかとしている。昭和四十九年十一月、綾部市民憲章を制定したとき、市の花・木・鳥を選んだが、鳥には「イカル」が選ばれた。郡名をもとにして考えられたものである。
イカルガという郡名をどうして何鹿と書き表したかについても定説がない。
 『丹波誌』に、「万葉仮名ニテ如何流鹿ト書キ、或ハ如何留我ナド書キタルヲ、国名・部名ヲ二字ニ定メラレタル時、コレヲ省キ、今、二字ニシタルナリトカヤ。」と記しているのは注目すべき意見である。
 イカルカの表記は、伊柯?餓(日本書紀)・以可留我(上宮聖徳法王帝説)・伊可瑠賀(上宮厩戸豊聡耳皇太子伝)・伊加流我(万葉集十三)などの使用例がある。『万葉集』には何をカ・イカ、鹿をカとよんで用いている例もある。もと如何留鹿、あるいは以何留鹿、など表記していたものを、何と鹿を結んでイカルカと読ませたものと考えられる。
 和銅六年、国・郡・郷名を二字に制定し、つとめて佳い字を用いさせ、風土記を編さんさせたが、何鹿の文字もこの時に定めたものであろう。


『福知山市史』
いかるが考
ここで上代大和とこの地方との関係を推察する資料としてこの項を設ける。
「いかるが」という地名は全国的に多くはない。第一は奈良県の斑鳩町(元の法隆寺村付近)で法隆寺・法輪寺・法起寺等があり、推古時代仏法興隆の地として誰知らぬものもない所で「推古天皇九年春二月皇太子初興宮室于斑鳩」(日本書紀)とあり、中世は斑鳩荘といった。なお法隆寺のことを斑鳩寺・鵤大寺・鵤寺・伊河流我大寺などといい聖徳太子の造営された宮殿を斑鳩宮・鵤宮と称した。第二は兵庫県揖保郡にある町名で斑鳩町という。大和の法隆寺の別院である古刹斑鳩寺からこの名が起こったという。この古刹は聖徳太子が勝曼経を講説し、その布施として揖保郡佐西(佐勢)の地を賜った時に造営せられたというのであるから、おそらく寺名地名共に、直接大和の法隆寺に関連して名づけられたといえよう。第三は兵庫県加古郡に鳩里とかいて「いかるが」と呼ぶところがあったが今は加古川市に入っている。
第四が京都府の何鹿郡である。丹波誌には「此の郡に斑鳩殊に多し故に此の名起れるならん」と述べている。大和の斑鳩も、もとその地に斑鳩が多かったので名づけられたという。これまで大和と丹波の両「いかるが」は何等の相関もなしに、ただいかるが(いかる)の棲息地という意から命名されたものとされて来たが、この両者に密接なつながりのあることを述べたい。第一いかるというのは単にわが国だけでなく広くアジア大陸の東北部に棲むという渡り鳥である。このような鳥が群がりいるのを見てその地名としたという説には疑問がある。(記紀や風土記などの古い地名の起源の解説の中には必ずしも今の人の理性では納得出来ないものも多い。したがってこの郡名の起源も改めて正否を決すべきものでないかもしれぬ)
綾部市字延には東光院という真言宗の古刹があり、今は衰頽しているが平安時代には当地方有数の寺であったらしい。
この寺に残る古文書に大般若波羅密多経の写経があって、その巻四百七十二の巻末の奥書に「仁平二年八月十一日丹波国何鹿郷東中村奉書之僧興□」とあり、また巻四百九十四の末尾には「上志万法隆寺」とあり、巻五首七十の末尾には「丹波国志麻庄法隆寺」とある。ここに明らかに何鹿郡とある。上志万とか志麻庄とあるのは和名抄の志麻郷で今の綾部市字大島・延・岡・安場の地域であり、東光院のあるのはその上流地で上志方と呼ばれたものであろう。現在の東光院と法隆寺との関係については明言出来ないが、ここではこの何鹿郡志麻庄に法隆寺があったということを挙げておく。
次に栄華物語に長和大嘗祭の歌として何鹿郡の名所を詠まれたものに「天の下富緒川の末なれば、いづれの秋かうるはざるべき」というのがある。富緒川は旧物部村から旧佐賀村に流れ出る犀川であるという説(何鹿郡誌)と、前述安場から延へ流れる安場川であるという説がある。第三は前に荒木の神奈備山の項で触れたところであるが、千載集大嘗会主基方の神遊歌に「常磐なる神なび山のさかき葉をさしてぞ祈る万代のため」と歌われ、同じく千載集寿永の主基方神楽歌には、「みしまゆう肩に取掛神なびの山のさかきをかざしにぞする」と詠まれているが、この神なび山については何鹿郡旧口上林村に式内河牟奈備神社があり、その境内に、永久二年(一一一四)歳次甲午八月十四日という古碑金石文があって、平安時代に「かむなび」の固有名詞が存したことが明らかである。ところが「とみのおがわ」や「かむなびやま」は大和の法隆寺付近にもあって、古書には「富の小川」と記され、今は「富雄川」とかかれ、富雄村から法隆寺付近斑鳩の里を通って大和川に注いでいる。そのために「いかるがの(や)富の小川云々」とつづけられ、上宮聖徳法王帝説にも巨勢の三杖大夫の歌として「いかるがの止美能乎阿波乃絶えばこそ我が大君のみ会忘らえめ」というのがある。大和の郷土史家小島貞三氏は法隆寺の西五キロ余の立野付近かと述べている(大和巡礼)。そして「とみのおがわ」というのは、歌枕としては大和と丹波以外にないようであって、しかも双方共「いかるが」と密関する地名なのである。
以上を要約すればこの何鹿郡の郡名といい、その郡内に法隆寺のあったこと、あるいは「とみおがわ」「かむなび山」等大和の「いかるが」の里付近と全く同一の地名がかくも多く存在するのである。かくて何鹿郡のそれらの地名は大和のそれが移されたものと推考されるのである、栄枯盛衰は世の習、大和で政治的地位を失った人々が丹波へ流れて来るとかあるいは単に中央の人口増加によって辺境への移住を見たとか、あるいは殊更に武力をもって平定し、そこに屯田が営まれたか、いずれにせよ大和より丹波への人口移動はしばしば行われたのであろう。開化・崇神・垂仁紀等にあらわれる丹波と大和との密接な関係や、さきに述べた億計王・弘計王の丹波への逃避などの神話・古記・伝説はそれを裏がきして余りがある。人が新開地へ植民してその郷国の名をその地に付けるのは、古今東西を通じての人間の心理的傾向である。
他面何鹿郡は、機織をもって奉仕したという漢部すなわち泰氏の子孫がいたらしいところであり、旧物部村は大化の当時中央で勢力を失った物部氏にちなんだところであり、同郡旧佐賀村の私市は、雄略天皇の時に設けた私市部(皇后領の民)のいたところ、また旧奥上林村睦寄の小字名草賀部は、開化天皇の後裔日下部氏と関係があるらしく、旧豊里村の三宅は前項にも述べた通り皇室御領であったことを示し、大和朝廷ないし当時の中央の氏族や制度と密接な関係をもつものが非常に多い、とりわけ本項で取り扱った大和・丹波両地関係地名群はすこぶる相関的、一体的なものであること、一方蘇我氏が斑鳩宮を焼打して聖徳太子の子山背大兄王を滅ぼすなどのこともあったのであるから、その子孫なり一派は、あるいはこの地方に逃れて来たものではあるまいかとも思われるので、上記のような結論を得たわけである。
上代史を播いて大和朝廷の政策というか、それが積極的な面でも、また消極的な面でも、直接間接絶えずこの地方に深い影響を及ぼし、あるいは神社仏閣の建立となり、あるいは伝説の起源をなし、後世の民間行事にまで影響して来ていることが痛感される。
注、延喜式 延喜五年(九〇五)に藤原時平が勅令をうけて当時の学識者と共に選進したもので、禁中の儀式や百官の作法、その他諸国の恒例を詳記した書物である。
和名抄 倭名類聚抄の略で、延長年間(九二三-九三〇)源順が醍醐天皇の皇女の命をうけて選進したもので、漢語を天地・鬼神・人倫等に分類し、万薬仮名をもって仮名付したものである。
拾芥抄 慶長年間の刊行で洞院公賢の選、同実照が増補した有職書で、歳時・文学・風俗・諸芸・官位・典礼・国郡等に関した雑録である。
郡名考 青木敦書の著であるが稿年は詳でない。延喜式の民部省所載の郡と、著者存命当時の郡との異同を考え、六十八州の各郡について、和名抄によって傍訓を施し、それらの郷名に関する諸説を記載したものである。
 前述のように大化の改新により国都里を置き、国は郡を統べ、郡は里を統べたが、その後和銅・霊亀のころ、里を改めて郷とされてから、郷の下にまた里を置くようになり、その里は後世の村と同じ意味に用いられることとなったのである。そして郷には郷司(郷長)・頭領・了事・徴部等の職が置かれた。郷司は別に里長ともいい、里内の戸口を調査し、農桑の業を勧奨し、賦役を督し、また非行違犯の者を禁察するもので、いわば後世の名主・庄屋に相当するもので、頭領以下の役員はそれぞれの所管事項をつかさどったものであった。






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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