京都府綾部市神宮寺町
京都府何鹿郡綾部町神宮寺
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神宮寺町の概要
《神宮寺町の概要》
四尾山の北麓台地に立地。地名の由来は、地内中南部に井倉八幡宮の神宮寺である霊応山神宮寺千手院があることによる。
神宮寺村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。綾部組12村の1つ。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年綾部町の大字となる。村域全体が傾斜地にあって畑地が6割以上を占める。潅漑用水は寺前池・新地・溜池・八幡池などによる。
神宮寺は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ綾部町、昭和25年から綾部市の大字。同28年神宮寺町となる。
《神宮寺町の人口・世帯数》 1071・358
《主な社寺など》
加迫古墳群
「加迫古墳群発掘調査。現説資料」
加迫神社
綾部八幡の南側、急な斜面を登ると鎮守の森が残されている。
古墳の被葬者を祀る神社とも思われるが、カサという所(コ)で、古墳もある、古くからの聖地で、加佐郡のカサと与謝郡のヨサなどと同じ意味、四ッ尾山・クシフル聖地に鎮座する渡来系の人々の古墳時代にさかのぼる神社。元々は四ッ尾山頂にあったかも…
神殿というのか、そのホコラは元禄4年(1691)藩主九鬼氏の寄進という。境内の山林に円墳があった。
案内板
加迫神社 (綾部市西神宮寺町加迫に鎮座)
縁起
天地万有を育成せられた祖神「天御中主大神」を祭妃とし、綾部藩主九鬼公も深く崇敬され地方の守護神とし、事業繁栄、総ての災厄の免除、五穀豊饒、武運長久、家内健康闇然、心願成就の神(一説には勝負の神様)としてご加護給わり参詣者が多い。
加迫稲荷社
ご祭神「最上位径王大菩薩」その霊験は名高く、不思議なご利益を授けて下さる菩薩として、日々平安な生活、所願成就のための参詣者が多い。 |
神社銘刻
伽迫は、地名説により「迫(逧)は行ったり止つたりの小さい谷」が東西より八幡神楽池にて合流「伽(邂)は出合う」する処から、この地名がある。
また、宗教説によると「迦」の梵字の種子が、神仏習合(天地開闢の大神と妙見大菩薩)を洗わしている。平成十年十一月吉日
寄進者 塩見壽子 |
迦迫(かさこ)神社(神宮寺)
天御中主神が祀つてある。藩記に「妙見、小社、垣内十五間に十二間」とあるのがこれである。神殿に奉納された板札に「元禄四年、右当社為二九鬼大偶守武運長久一寄進也」とある。神宮寺部落最古の神社であろうと伝えられている。境内に接続する背後の山林に破壊された円墳数基が存在している。
(『綾部町誌』) |
四ッ尾山の南麓というか、藤山の南麓というか、麓の平らな所まではいかない、まだ山の斜面上にある山腹集落である。タイラな所がない。
四ッ尾山(287.5m)はヨツオヤマと呼んでいるが、シオ山であろうか、東に続く少し低くなっている峰を藤山(寺山)という。カサコ、シオ、フジはみな同じ、四ッ尾山はクシフル山であったと思われる。
山乃神神社
南が丘公園の東の谷に鎮座。寺山(藤山)の登山口でもあるよう。当社の東に溜池がある。案内板がある。
山の神神社の由来
山の神は神宮寺で一番湧水量の多い藤兵衛谷の水源に鎮座され、綾部で稲作が行なわれ始めた古代から農耕神として人々に崇められてきた。山の神池は一八〇七年に築かれたが、社殿は明治時代につくられた。農地が次第に宅地化した昭和時代に綾部市に移管され山の神池は防災用池に変身し、社殿も修築された。時は移り二〇〇七年に東神宮寺地域で大規模な上下水道工事が施工された際、排出した石材を使って町民の浄財で境内の整備が行なわれた。現在では、消防栓が完備し消防池の役割も軽くなり東神宮寺住民の「地元の守り神」として家内安全・交通安全・合格祈願・病気平癒・健康長寿・防災防火などの神様として人々に崇拝されている。
毎年十二月第一日曜日に大祭が行なわれる |
曹洞宗正法山玄功寺
玄功寺(神宮寺)
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟海人仏
正法山と号す。当寺の開山は福知山久昌寺の森覚明で、昭和七年初めてこの地に久昌寺の別院を設けたが、昭和十二年何鹿郡志賀郷村両河内の玄功寺の寺号を継ぎ、昭和十四年四月本堂を新築した。境内には桜樹多く、春は花見の客で願っている。
(『綾部町誌』) |
日蓮宗立正山妙法寺
妙法寺(神宮寺)
立正山と号す。昭和三年三月日蓮宗妙見教会所として発足、昭和二十三年十一月現在の地に移転し、妙法寺を弥するようになった。
(『綾部町誌』) |
本門仏立宗清現寺
妙法寺(神宮寺)
立正山と号す。昭和三年三月日蓮宗妙見教会所として発足、昭和二十三年十一月現在の地に移転し、妙法寺を弥するようになった。
(『綾部町誌』) |
高野山真言宗霊応山千手院
南が丘公園の東に、高野山真言宗の千手院がある。本尊薬師如来。天正19年(1591)10月の光明寺(睦寄町)結願供養に導師を当院の法印が勤めたことが光明寺文書に記されるという。当院はもと八幡宮(宮代町)の神宮寺で、地名もここに由来するといわれている。
観音堂と千手院
霊応山神宮寺千手院 真言宗高野山末
神宮寺村
本尊 薬師如来 本堂三間四面ナリ 鐘堂并行者堂鎮守有 当寺古へ青野村ニ有 往古綾部始ニ引 古跡字ニハ手ト云
(『丹波志』) |
千手院(神宮寺)
宗派 真言宗
本尊 薬師如来
霊応山神宮寺と号す。僧行基の開基と伝えられ、又元明天皇の御代藤原武智麻呂越前の気比大神の仏道帰依の意を託宣されたとし、こゝに大神の神宮寺を建てたとも伝えられている。然し数回の火災で諸記録を失ひ由緒は一切不明である。嘗ては寺門栄え、七堂伽藍を備えに頃があったらしく、附近に寺院趾や屋敷跡も残っている。
本堂薬師堂は元禄十五年の再建である。
(『綾部町誌』) |
当寺の境内なのかわからないが、立派な忠魂碑が建てられている。市街地の見晴らしがよい。
臨済宗妙心寺派瑞応山隆興寺
瑞王山隆興寺 禅宗京花園末 綾部 竹門ノ西
当領主九鬼公家往古開基ト云 寺領五十石 山林有
末六ケ寺 役者徳応山西福寺 山ト三十石地頭寄附ト云
(『丹波志』) |
隆興寺 綾部町字神宮寺にあり、瑞応山と号す。臨済宗にして、寛永年間九鬼隆季公の開基に係る。初め上野蔵屋敷にありしを正保四年今の地に移せしなり。九鬼氏の菩提寺なるも、藩主としては二代隆常、六代隆祺、七代隆郷、八代隆度の墓あるのみ。
(『何鹿郡誌』) |
隆興寺(神宮寺)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 白衣観音菩薩
瑞応山と号す。九鬼隆李が綾部に入部した寛永十一年、東源和尚を開基として上野の蔵屋敷(今の大本教附近)に創経したが、正保四年十月、今の地に移した。代々九鬼家の菩提寺として嘗ては数ケ寺の末寺を有し、寺門すこぶる隆盛を極めた。寺宝として九鬼氏系図一巻がある。
(『綾部町誌』) |
綾部藩主九鬼氏の菩提寺で、その系図や遺品が伝わっているそう、南北並んで興隆寺と西福院がある。
このあたりはお城の中の西南隅にあたり大手門があったところ、大手通りは今の府道709号になる。
幕末頃の地図にもそうあるが、傾斜地でこの向きでは大きな大手門など作れるような地形ではない、これらの寺院もその防衛の役割をいくらかになっていたのかも…
臨済宗妙心寺派徳応山西福院
西福院 綾部町神宮寺にあり、徳応山と号す。臨済宗にして、慶長八年の創立、文政六年の再建なり。寺背に兵学家山家素水、国学者大野広城の墓あり。
(『何鹿郡誌』) |
西福院(神宮寺)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼仏
徳応山と号す。慶長八年の創立と伝へられ、九鬼氏入部当時は山塚(今の児童公園)にあったが、後今の地に移された。藩記に、
徳応山西福院
山 一ヶ所 宝暦三酉年拝領
神宮寺藤兵衛谷より西は小倉谷の峠道下溝切麓道迄 以絵図改相渡す
郡奉行越賀三弥 代官加藤三郎右衛門 並山役岸市右衛門罷出相渡す
とあるから、宝磨年間に既に移転していたのではないかと思はれる。項在の建物は文政六年の再建である。
(『綾部町誌』) |
大野広城の墓
西福院の境内にある。広城は幕末国学者で、忍びの屋と云ひ、通称権之丞と呼び忍軒とも号した。幕府小十人組の旗本であったが、天保十一年より十二年へかけて密かに背表紙泰平年表、殿居袋を刊行し、幕府より罪を問はれ、綾部藩主九鬼隆都に預けられる身となり、天保十二年八月綾部に幽閉されていたが、同年九月十四日病死した。法名は浄界院忍誉広城閑睡居士、その辞世、
世の中に数まへられぬ我なれば
みのりの山にすみかきだめん
(『綾部町誌』) |
本興稲荷神社
本輿稲荷神社
藤山の麓、隆興寺の境外にある。元九鬼藩邸内に祀られていたが、維新後藩主が東京へ移住する際町の有志にゆだね、こゝに祀られたものである。
(『綾部町誌』) |
南が丘公園
南が丘公園
ここ南が丘公園は、綾部市街を一望できる四ツ尾山の山腹にあって、桜や紅葉など四季を通じて楽しめる観光名所の一つです。グンゼの社有地を活用した公園で、創業者「波多野鶴吉」の記念碑や銅像があり、昔から綾部市民やグンゼの構成員にとって大切な場所となっています。
【波多野鶴吉 記念碑】
創業者・波多野鶴吉は、何鹿郡(現在の綾部市)の蚕糸業の振興を志し、明治29年(1896年)に郡是製絲㈱(現在のグンゼ㈱)を設立しました。大正7年(1918年)に60歳で亡くなった後、大正11年(1922年)に生前の功績を讃えてこの記念碑が建てられました。碑の中には遺骨が分骨されており、正面の題字は、波多野が師と仰いだ教育部長・川合信水によるものです。
【波多野鶴吉 銅像】
昭和32年(1957年)、波多野鶴吉の生誕100年を記念して、この銅像が建てられました。製作は日本芸術院会員・吉田三郎氏によるもので、台座の裏には元首相・芦田均氏による撰文が記されています。
平成28年(2016年)、グンゼ創立120周年記念事業として、公園全体にわたる路面補修などの再整備を行いました。創業者・波多野鶴吉の地域振興への志を感じていただくとともに、多くの皆様の憩いの場として、これまで以上にご利用いただきたいと願っています。2016年2月 グンゼ株式会社 |
銅像の裏には、
「翁は安政五年綾部市に生る、蚕糸業の振興と人心の向上を任とし、大正七年二月永眠せられるまで、城丹蚕業講習所を創設して人材を育成し郡是製絲株式会社を創立して養蚕製糸の共栄を図る等、その使命達成に精魂を傾けられた。翁が基督者としての篤い信仰と業を愛し人を愛する至誠の人格とは、道徳と経済とを一致せしめ、広く大衆の間に薫化を及ぼし、大いに郷土の風教を高めたことはひとしく景仰するところである。
翁昇天せられて四十年、ここに有志相諮り多数の協賛を得、日本芸術院会員吉田三郎先生に嘱して翁の温容を永く留めんこととした。緑樹のもとに偉徳を懐い、その志を継がんとする人あらば、我等の歓びこれに過ぎるものはない。昭和三十二年五月 芦田均撰 波多野林一書」とある。
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
神宮寺町の主な歴史記録
伝説
神宮寺町の小字一覧
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