上八田(かみやた)
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京都府綾部市上八田町 京都府何鹿郡西八田村上八田 |
上八田の概要《上八田の概要》 関西電力新綾部変電所の東側の一帯、慈眼寺あたりまで、府道485(物部梅迫停車場線)が東西に走り、沿道に集落が立地する。平坦な沖積地と山すそのなだらかな台地からなる。 また寛正2年(1461)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)に記される「八田上村」にあたる地とされる。 江戸時代は西股村に含まれ、俗に上八田村と称された。「日本九峰修行日記」文化11年(1814)11月12日条に、「下八田村立辰ノ半刻、道々宅鉢諸々ニテヨハレ、上八田村ト云ニ行クル処夕陽故ニ磯右衛門ト云ニ宿ス。是モ朝暮ヨバレタリ」。 上八田村は、明治9~22年の何鹿郡の村。佐里(さざと)・福田・寺垣・勢期(請郷)(せいご)の4か村が合併して成立した。同22年西八田村の大字となる。 上八田は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ西八田村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年上八田町となる。 上八田町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。 《上八田の人口・世帯数》 217・99 《主な社寺など》 福太神社(式内社) 府道から北ヘ50メートルばかり入った山の張り出し部に鎮座。上八田村四ヵ村の氏神。式内社。
当社は八田郷開闢の秘密を知っていそうな社である。鎮座地が八田というのは、府道から当社へ入る参道のあたりを今でも小字「八田前」というから本当のよう。鎮座地は古来大きな変化がないよう。 八田は八田部とか秦氏とか従来からされているが、アヤシイ説のよう。 西舞鶴にも八田があったように、丹後海人系の地名のようである。福太は網野町の福田川の福田と同じ、八田は久美浜町海士の矢田神社の矢田と同じ、さらに竹野神社(齋神社)とも同じのようである。丹後海人が金属を採った地だと思われる。 臨済宗高柳山慈眼寺 府道ぶちにある。案内板があった。
《交通》 《産業》 《姓氏》 上八田の主な歴史記録伝説上八田の小字一覧上八田町 朽ノ木 桃ノ木 番田 猿谷 荒内 大迫 下菰池 上菰池 菜ケ戸 柘榴迫 六万坊 小谷 戸田 木白垣 亀ノ甲 荒崩口 荒崩奥 荒崩 庵ノ奥 仲田 堂前 佐里 西ノ谷 西ノ迫 仲ノ谷 奥ノ谷 高垣 大野 八重坂 定延 宮ノ腰 小畑奥 甲場 貝ケ戸 段 縄手下 橋ノ元 城ケ谷 八重坂谷 井矢谷 東中谷 大内山 薮ノ下 薬師前 影津戸 坪ノ内 菅鼻 西浦 永田 仲土井 桜迫 五反明 市場岡 泉ケ岡坂口 坪ノ下 西泉ケ岡 東泉ケ同 寺垣 家下 地生 仲根奥 仲根 ケンカイ ユリノ下 岩本 宮ノ下 八田前 八田奥 舘ノ前 延様 ヒシロ 迫ノ上 迫田 尺ケ鼻 流田 舘ノ下 館 ハトチ 胡マケ戸 高谷 湯舟 兵谷 仲坪 山ノ神 兵エ池 古戸 仲ノ下 石塚 鏡石 上ノ岡ノ下 上ノ岡 カジヤ迫 墓ノ下 木坂 通り畦 高柳 イ子口 木戸バ 甲山 千入田 細田 ユリノ上 京川 京川 城山 六万坊 城ケ谷 寺垣 小畑奥 桜迫 胡マケ戸 高谷 高垣 朽ノ木 兵谷 八重坊 猿谷 木坂 大内山 貝ケ戸 ヒシロ 菜ケ戸 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『何鹿郡誌』 『綾部市史』各巻 その他たくさん |
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