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丹波の

上原(かんばら)
京都府綾部市上原町


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京都府綾部市上原町

京都府何鹿郡山家村上原

上原の概要




《上原の概要》
山家駅の周辺。由良川南岸の台地上に位置する地域。川沿いにJR山陰本線と府道広野綾部線(450号)が貫通する。駅と由良川の対岸地域を結ぶため、広瀬町との間に釣橋が、鷹栖町との間に山家大橋が架けられている。
上原村は、江戸期~明治22年の村。山家藩領。山家村の枝村。村城の東部を下替地(下構内・下皆地)とよぶ。
山家藩陣屋の大手門下の河岸から当村へ舟渡しがあった。これが丹後田辺から京へ通じる街道の渡しで、当村から下ノ構内村を通り、船井郡大簾村を経て草尾峠を越えて檜山村へ出たという。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年山家村の大字となる。
上原は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年上原町・下替地町となる。
上原町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《上原の人口・世帯数》 129・54


《上原の主な社寺など》

立岩(たちいわ)
何鹿郡内の名勝とされる立岩(たちいわ)は当村の由良川河畔にあって、「丹波志」は「同村(上原)氏神ヨリ京道二丁半斗上リ左エ二町斗下ル川辺、八間岩トモ云、高サ八間廻り三十間斗 上ニ松木生シ有  続テ別ニ川中薄白クシテ磨タル岩也 此岩ノ段々ノ平ニ往古アフシト殿ノ産ノ跡ト云 産ノモタレ石 タキ石 着座ノ跡 子ノ寝跡 産タライ坪スリハチト云 其数多シ 諸見ル所ナリ」とする。


齋神社

京街道沿いに北面している。
斎大明神      上原村 産神
祭ル神        祭礼 九月六日
篭家 鳥居 森凡二十間四方 麻呂子親王ヲ祝神也卜云 下原ト同 古ハ斎神ハ今ハ吉田官ヨり大明神ナリ
(『丹波志』)

斎神社 四級社 祭神経津主命・武甕槌命 祭日旧九月九日 上県町才ノ谷    境内一、一一〇㎡
安永五年(一七七六)十月建替、享和二年(一八〇二)建替、昭和十年改築される。昭和六十年十月六日、石の大鳥居落成式を行い併せて大太鼓・子供神輿の新調披露入魂式を行う。
境内社 八坂神社 祭神素盞嗚尊    大神宮 祭神 天照大神
仝   一宮神社 〃 伊奘冉尊    天満宮 〃 菅原道真
仝   山王神社 〃 大山祇命       〃
(『山家史誌』)

その他の神社
○中ノ宮天王 祭神牛頭天王、素盞嗚尊  上原町西池
安永三年(一七七四)十一月建替、現在は天王社跡として小字名宮ノ上-宮ノ下を残すのみ。
○稲荷神社 祭神倉稲魂命 祭日二月初午   上原町稲荷山
創建は不明だが、明治十四年十二月再建され、養蚕の神として祀られる。昭和五十九年五月五日新築された社殿(約一一〇㎏)をヘリコプターで山上に運運搬、新しく伏見稲荷を勧請し祀った。
○秋葉神社 祭神火彦霊命   上原町上林
(『山家史誌』)


岩根山行者堂

ここから登るらしい。手前の府道広野綾部線(450号)から道がある。
岩根山の行者堂は安永6年(1777)勧請という。この行者堂は上原村から三郡(みこおり)ケ嶽を経て大原村(福知山市三和町)に越える尾根にあり、明治6年7月大原神社参詣に名をかり、ここに屯集した農民が徴兵反対などを訴え、郡の大半をまきこむ騒擾(明六一揆)に発展したことで知られる。
行者堂          上原村
山ノ上ニ在 参詣多シ 天明年中ニ吉野ヨリ勧請スト云
(『丹波志』)

岩根山行者堂 上原町惣谷
本尊 行者菩薩、役の小角尊像(二尺八寸) 厨子前五尺社付、上家弐間半に三間
谷家代々行者の尊心あつかったが、第七代谷衛秀公帰依探く、安永六年(一七七七)十月六日大和国吉野の角の坊住職権大僧都盛永法印にたのんで此の山を開き、貝留地蔵と共に建立した。神変行者菩薩像は、吉野の本覚本尊と同木を彫刻したもので、行基菩薩の作と伝えられていて是を安置している。安永八年(一七七九)五月建替三間半に四間の御堂にしたが、天明元年(一七八一)三月十八日火災により堂宇焼失した。幸にも本尊・鐘・宝物は持出し焼失を免れた。同月二十八日時の領主第八代鶴太郎衛量公が援助して再建した。明治三十九年二月十三日改築の許可を受け、虔寺院の広瀬町御山寺が維新で廃寺となったのでここも廃堂同然となっていたのを、谷量恒が発願者となって瓦葺きのお堂に改築した。昭和三十三年六月三日屋根・本尊厨子を改修した。春五月一旦戸開け、秋九月一日戸閉めの式を祭行している。領主御念持仏の不動尊が岩梶山山麓の免地の行屋に安置されていたが、損傷も甚しく修理して、行者尊の脇立に安置した。安政四年(一八五七)二月のことである。
(『山家史誌』)



正福寺廃寺
正福寺 上原町石ノ塔にあったが、天正年中明智光秀により、福知山城に寄進させられ廃寺となり、五輪石仏の数体が才ノ谷の林中に散乱しているだけといわれている。
(『山家史誌』)



《交通》
JR山陰本線山家駅


山陰本線といっても、このあたりは単線である、それでもけっこう電車が通り、通り過ぎると判断反対側からすぐにやってくるので電車を写すのには苦労はない。舞鶴線あたりなら時刻表を持って写しに行かないと1時間以上とか待ちぼうけもあるが、このあたりはそうしたことがない。
明治43年に山陰線山家駅が置かれた。同45年山家大橋が架設され、山家駅と山家町部ならびに上林地方を結んだ。以後山家駅は上林地方の交通の基点となり、木材をはじめ多くの物産がここから搬出された。山家駅から上林へは乗合馬車が通じ、大正9年から乗合自動車になったという。自動車交通がさかんになり、昭和46年に無人駅となった。

現在の山家駅前通り。この先に山家大橋がある。
山家駅 京都鉄道が買収していた敷地は現在の駅の位置から由良川を越えた向い側であったが、官設によって舞鶴線が敷設されたとき、綾部停車場の位置が味方の予定地から左岸の現在地に変更されたので、鉄橋架設の都合上山家停車場は由良川左岸の現在地に設けられることになった。元の城下町の人々にはすこぶる不便なため、早急に新設の停事場へ通ずる橋をかけることを要望した。しかし明治四十二年の府会では「調査終了せざりしため」という理由で、わずかに一千円の予算で渡船による方法がとられることになった。その後三〇〇円の追加予算で肥後橋の上手につり橋の仮工事をすることになり、四十五年には地元の熱心な陳情運動がみのり、工費二万五五〇〇円で現在地に山家大橋がかけられた。この橋は当時日本でも珍しい最新の技術を応用してつくられた日本最長の二八〇尺の最新式のアーチ型鉄橋で、仙台高等工業学校の大井上前雄教授の設計で大阪の横川橋梁製作所が架橋した。同年五月五日に大森知事が臨席し開通式を挙行した。
(『綾部市史』)


山家大橋↑
これができるまでは、広瀬・鷹栖方面からは渡船であった。今は上原橋があるが、この橋の下あたりを渡った。江戸時代と同じである。

山家大橋の少し上流に架かる吊り橋の上原橋↓青いのは肥後橋(国道27号)で、狭くて10トントラック同士ではすれ違えない。肥後橋の下を流れているのが上林川で、ここで由良川本流(和知川)と合流している。

上林川の上流からやってくる上林や田辺や本郷から京都方面を目指した旅人は、肥後橋(何代か前の橋)を渡る。そこは山家陣屋(右手の山にあった)の大手門になっていた、今もその道は残っていて、石段になっている、その下あたりから渡船に乗って対岸へ渡った。だからこの吊り橋の下あたりを渡ったと思われ、こちら側を船場、小字名で「舟戸」という。吊り橋の下へ下りる道がある、この道が京街道だったと思われる。

大手門側から見る上原橋、車は通れない。
今も何ともややこしい交通の難所であるし、過去はもっともっとそうであった。なお肥後橋の「肥後」の名は田辺藩主・細川忠興と関係があるとか。イザのために大事な要所は惜しまず絶えず手入れをする、忠興は見所のある男のようである。何もしもしないで口先だけで安全安心ですの闇然バカ男ばかりの今の世にもいて欲しい男である。


10年ほど前の写真↑山家大橋が見えにくい。陣屋に登る坂(肥後坂)は石段にまだなっていなかったようである。
山家三大橋
上林川と由良川の合流点を持つため三橋が架橋されていて絶景である。先ず肥後橋。
肥後橋と肥後の坂
古来「肥後橋(ひごのはし)」命名の由来は多年友交の厚かった田辺藩、細川藤高(幽斉)忠興(三斉)が関ケ原の功により九州転封の際、多くの家臣家財を伴っては通路に当たる山家の小橋を渡るを心配し、自費をもって架橋する旨を申し入れたところ、谷家では「忝なけれど貴意を煩わす程にあらず」と、かれこれ交渉中、細川家よりは早くも材斜の搬入あって工事たちまち成り、細川公一行は無事通過して移られたといわれている。以来遠く肥後に在る細川公をおもい、国名を取って肥後の橋といい、そこから大手門に到る坂道を肥後の坂というに至る(山家村史)とある。また古老の説によると、出水して橋流失のたびに肥後の細川家より工事費を分担されたと伝えるが、まさか遠隔の地からそのようなことはあり得ず、初代衛友の死後、ずっと安泰の谷家があるのも曽て細川親子の取りなしの賜物として、遠く細川公を偲び、肥後に移られてのち、その徳を記念し、肥後の橋と名付けたのが真に近いのではなかろうか、と山家遺事(明治四三年、もと藩士、村田於菟次郎)は述べている。
ちなみに後察すると、細川家が九州の豊前中津へ移封されたのは、関ケ原の戦のあった慶長五年(一六〇〇)の十二月である。それから三十二年後の寛永九年(一六三二)、細川忠利は肥後熊本に移封された。幽斉すでに没し忠興は老齢である。谷衛友も寛永四年に亡くなり二代衛政の頃である。忠利は寛永十八年に、忠輿は長く生きて正保二年(一六四五)に亡くなった。谷家がこれに瞑目し恩顧を謝して肥後の名を忘れじと、橋に名を冠したのかもしれないし、また寛文六年(一六六六)の大洪水には橋流失のあと、新たに架け替えのとき命名の機もあったように思われる。この頃は三代衛広の世になっている。
ともあれ、谷家と細川家の友誼の橋として、かつて主に田辺藩往来の橋として、肥後は寛永九年後に名づけられたものであろう。肥後の坂もまず同様の趣意である。
今肥後坂に立って三橋を一望する風景は又とない佳境である。山家大橋は山家駅が出来てそれに通ずる鉄橋で、福井本郷に連なる重要な橋であり、長さ一六三m、高さ二十七m半月形の橋桁は虹の橋として有名。明治四十五年五月に工費二七、五〇〇円で建設され、その寿命二百年と言われたが、昭和二十八年九月の十三号台風の大洪水はその橋脚を打ち流し流失、現在の橋は昭和二十九年十一月九日起工式、昭和三十一年四月二十五日渡橋式を行ったものである。
上原吊橋 明治四十三年山陰線山家駅開設(綾部園部間開通)と同時に山家駅に通ずる橋として架橋されたもので、大正三年、大正十一年、昭和二十一年と流失により架け換えられ、又々昭和二十八年の十三号台風の大洪水で流失、種々論議の末、九m高所の国道二十七号より直接上原に向って架橋に踏み切り、高さ十七mの吊橋が作られる事となり、昭和三十年五月二十四日に竣工、工費七八〇万円、地元負担一二四 千円で完成し、昭和五十二年四月二十二日永久橋にとの要請もあったが結局、現在の綱桁コンクリート吊橋に換えられて、現在に至っている。
この三橋夫々に持ち味があり人工と自然の美を呈している。
(『山家史誌』)


京街道
この渡しは京街道の要で、江戸後期の御蔭参の際には大繁盛した。諸般雑事(「菅沼謙蔵手控」木下家蔵)に、
 一、明和八卯年勢州大参詣也
 一、文政十三寅年三月同様也、明和こは上原村庄や
  より無体之舟賃取不申候様舟場へ札ヲ建候趣也、
  此度ハ渡守へ無理成賃ヲ取不申候様御沙汰ニ付手
  代へ申達
藩主の往還には船場・石ノ塔(いしのと)(いまは石ノ戸と書く)・下替地の御建場で大庄屋以下領内の諸役人が送迎した。御建場は藩境近くにあった本陣(幕末は小林家が勤めた)を最初の休息地として出立したところから称したものか。出立後に御建場の茶代銀一両が支給されたそうである。

◎京街道あれこれ
横峠を越えて塩谷-町-肥後橋-(渡し舟)-上原-下替地-草尾峠…京へとのぼるのが「京街道」で、米や魚など運搬に参観交代に賑わった昔を思うさえロマンにあふれた感に打たれる。上原のやどやまで着いた荷物は牛の背に乗せて一里塚-牛の養生場(ハリや注射をする所)-制札場-店(大原街道との分れ道にあって酒や駄菓子・ぞうりなどを売っていた)-本陣-境谷(ここに是ヨリ北山家藩支配所と書いた約二メートルほどの立札が立っていたらしい)-和知広野-草尾峠(峠の向こうに市場があったもよう)と運んだという。草尾峠付近には狼か何か出て牛がこわがるので牛方が袖で牛の顔を覆いながら行ったと伝えられている。
本陣は、写真の杉垣が手前まであり、その杉垣中央にある三段の石段を降りて左の方へ行き門をくぐって家へ上がったという。杉垣の左手は街道で、道を横切って馬つなぎ場が二、三か所あった模様、ドドーン、ドドーンという太鼓の音は「本陣太鼓」と伝えられる。殿様が脇息にもたれてのしばしの憩いを慰め、長途の旅の無事を祈って打ち鳴らしたものと伝えられている。
現在はなくなってしまったが、以前は谷藩主の写真や脇息などがあったという。上原の方からやってきた行商人や和知を通ってきた旅人が茶店で菓子を食べ茶をすすっていた姿、一里塚に足を留めた人、行列の前ぶれ……そんな昔の道が拡幅舗装成った府道のところどころにその姿を見せてくれる。
(『山家史誌』)


《産業》


《姓氏・人物》


上原の主な歴史記録


明六一揆
官側の資料が主だが、主導した綾部人側の資料がほとんどないそうである。
綾部人のエネルギーが爆発した七日間  ●明六一揆
誕生したばかりの明治政府は、国家の近代化を性急に進めるあまり、矢継ぼやに新しい政策を打出していった。
綾部では、まだ自給経済から抜け出しておらず、地租改正による重税の貨幣納や地元負担による小学校設置に苦しんだ。さらに農民の兵役義務や従来の風俗習慣を否定する開化政策などもあって、人びとの不満は高まり、後世「明六一揆」といわれる反政府運動へと発展していった。
明治六年(一八七三)七月二二日、謀議の不穏な空気あり、と区長より綾部出庁へ報告された。翌日、第一区(山家)九か村の二〇〇人が虫送りと称して大原神社へ参詣した後、上原行者堂に集合した。これが和知川河原へ移動した時分には各村より七~八〇〇人が集まっており、気勢をあげた。二四日には、第一〇区(西八田)・第二区(東八田)の村民が味方川河原へ進出している。翌二五日には、上八田及び渕垣にかけての第一〇区一七か村の約五〇〇人ほどが集合し、竹槍莚旗を立て気勢をあげ、味方川河原へ進出しようとした。さらに二六日の夜半にも、第三区(中筋)の延村で、大篝火を燃やし慈音寺の鐘を鳴らし続けて不穏な空気が漂った。二七日には、今度は第四区(吉美)七か村の村々から五~六〇〇人が里の馬場に集合し、一部は位田の河原へ進出、大篝火を焚き閧の声をあげ暴挙に及びそうな気配であった。
これらの騒動のいずれも、区長や菅沼通顕・吉住典事などの綾部出庁の役人らが出動し、旧綾部藩士を万一に備え待機させた上で必死の説得を繰り返したため、村民側も要望書を提出することにより解散し、大事には至っていない。
こうした一連の騒擾を重視した京都府知事は、逐次情報を受け大阪鎮台へ軍隊の派遣を要請した。二九日に一七八名の鎮台兵が園部に到着、一揆の情勢をみて待機した。この武力を背景に、同日綾部出庁は村々の責任者を呼んで吉住典事より要求項目の回答を伝えた。八月二日には首謀者二二名が逮捕され京都裁判所へ送られ、後に一一名が追加送検された。首謀者はそれぞれ懲役刑が課せられ、他は「叱り置く」ことで決着した。
こうして、主に旧山家藩領民二、〇〇〇名による、七日間にわたった騒擾が終わったのである。この騒擾の要求は各区によって異なるが、共通することは、徴兵免許や小学校設置反対で、これらが一揆の直接の原因と考えられる。その他、社倉米に関する問題や裸体の自由など新政府の施策に対する反発であった。しかし、大かたは「御国一般の事故聞き届け難し」とされ、裸体や断髪などの一部が斟酌された程度で、その主目的は達成されなかった。
この一揆に関しての記録は、官側のものが残されている程度で村には少ない。ただ、世の中が大きく変わろうとするこの時期に、純朴な綾部人が騒擾に注ぎ込んだエネルギ1は、やがて形を変えながら明治の綾部の発展に繋がっていくのである。  (山崎 巌)
(『福知山・綾部の歴史』)

明六一揆始末
蜂起
明治六年七月、新政府の布令あい次ぐなか一帯を震かんさせる大一揆が起こった。京都府下では唯一、何鹿郡にぼっ発した反政騒動で、世にこれを明六一揆(徴兵一揆)また何鹿騒動(七区騒動)ともいう。郡内村々中心部の地域と二千人を動員する大がかりなものであった。この年には全国各地で五十六件、七二五町村にも及ぶ、徴兵・学制反対を主眼とする同様一揆が発生している。
当時山家は何鹿郡第一区に編入され、前年五月まで京都府出張庁が置かれていたがそれも三ヵ月で第二区の綾部に移っていた。最初の狼煙の上がったのは七月二十三日のことである。この日、未明、第一区九ヵ村の人々 (下替地は上原に、町・裏番は鷹栖に含まれる)二、三百人、稲の虫送り祈願と称して川合村の大原神社に参り、帰途、上原の行者堂近傍を埋めて衆議をひらいた。のっぴきならぬ要求貫徹、後続や他地区の蜂起、目前の動向如何が覚悟をさだめて激越に話し交されたに相違ない。もとより不穏の気配を察知していた区長(高瀬源吾)の注進により、綾部出張庁では早速支庁詰、臆少属、大田為善と綾部より土肥吾繁を明方、山家町、若松屋に向かわせたが既に参加の人々は出立ずみであった。そこで区長戸長を行者山に派し、嘆願の筋あれば村々へ引きとって申し出るよう説諭したが、一同頑として聞き入れず、午後四時ごろ上原河原に移動するところとなり、なお遅参の村民を待つ様子で全く解散の気配を見せなかった。
そのうち急を聞いて本庁からは典事(今の警察署長)吉住一臣ほか四名があいついで駆けつけ鎮撫にあたった。河原に集まる村民もどんどん増え、遅れてきた者、第三区(中筋)第四区(吉美)からの加勢の人数も合わせて、およそ七、八百人となり大いに気勢を上げた。形勢容易ならずと見て府は大阪鎮台へ出兵を要請する腹を定めたのは二十四日と思われる。河原に集まった人々も篝火を焚き兵糧をとり朝を迎えたが参詣のままの平装であった、みんな鍬も竹槍も持っていなかったのが一つの特徴である。(美作の戦術にならったと思われる。)
  一 裸体免許     一 小学校入費出金方差別
  一 徴兵赦免     一 社倉籾昨年之分当秋迄備へ延引
以上四項目の要求を嘆願書の形で提出し、談判の会場となったのはけん官(高官)出張先の山家町、若松屋である。さきの綾部支庁詰、大田権少属、土肥十二等出仕と区長、鷹栖、町の雨戸長が出座、一揆側は代表五人を選んでいる。若松屋(菅生家)の古記録によると、「此時、京都府官吏、大田・土肥の両氏私宅へ出張、区長を呼び、又戸長鷹栖、町の二ヵ村を招き吐責の折柄、手に手に竹杭割木石などを携へ押寄せ来、それまでに申述に来る五人の者門内より入て戸をしめ、方防(捕亡のこと、今の巡査)と言う者二名警固し居たり、依て人質になりしとして当塀に登り、又は壁に穴をあけ居たりしも、大田氏の役談良により無難に終り、又酒屋(溝窯)へ強談に行く組も有りたり。此事府に達するや府より巡羅(巡査)三十名繰出し、我家に十日計り宿泊す。此時より番人を勤む当家中の若手七、八人、六尺棒を以て巡廻す。」とあり、この事件について緘口したり、故意に資料を残さなかった中にあっては貴重な記録である。
ここでものわかれとなったか、承服したかその場の事情は明らかではない。やりとり接渉の末、代表五人はもとの河原へかえってゆき、二十四日午後七時ごろようやく解散、騒じょうの第一波は過ぎていくこととなる。これに先立つ五時間程前、すなわち二十四日の午後二時頃、こんどは第十区(西八田)と第十一区(東八田)の村民が味方河原に集合するとの情報が入り、内偵したところ下八田の氏神境内に多数集まりあり、代表三名を呼んで懇論の結果、午後十時頃解散した。しかしこれで八田方面は平静になったわけでなく、翌二十五日午後四時ごろ第十区十七ヵ付の農民約五百人、上八田村と渕垣村に集まりそれより進んで味方河原に移集、支庁近くで閧の声をあげた。暴動を怖れた町家から酒樽など運んで饗応しようとしたが、激こうの人らはこれを川に投げ捨てたので、ために魚が酔うて浮きあがったという。支庁では元山家藩士、十二等出仕、菅沼通顕(のち初代山家村長)らをもって説得にあたったところ「徴兵断之事」以下八項目を提出、交渉の末、戸長と重立ちの者十五、六名を残して、二十六日午前七時ごろ解散する。この前夜午後八時には知事長谷信篤名で大阪鎮台、四候陸軍少将と同大佐、谷干城宛急信を発し、伏水(見)屯所と打合せ急速出兵を促す旨の府公式記録も残っている。
次いで四たび二十六日の夜半、今度は第三区(中筋)の村民ら多数が松明を掲げて廷村に集合、慈音寺の鐘が鳴りつづき大いに動揺した。役所側の説諭に二十七日明方ようよう沈静したが、羽室家縁組の日の避難騒ぎもこのときのことであったろう。つづいて二十七日午前十一時、第四区 (吉美・位田・白道路)の七ヵ村、第十一区の十ヵ村から六百余人、里村馬場、位田村御手槻神社に集まって盛んな勢となった。大部分の五百人ばかりは叫びを上げて位田河原に移行、手に手に竹槍や鍬を持ち、莚旗を立て、大篝火は炎々と夜空を焦がした。区長らを引き連れて急行した菅沼通顕もこのときは決死の覚悟であったという。暴動にも及びそうな不穏な中で説得は困難をきわめ、不満の旨を願書にし差出すよう求めても激論沸騰しておさまらず、やっと箇条書提訴の様子となったので、菅沼は吉住典事らの応接を得て、明朝なんらかの答示をすると言い渡すと里の馬場組の方はついに退場していった。位田河原組はまだまだ苦情を申し立て退くのに刻を要したが、二十八日午前一時を過ぎて不承無承ちりぢりに村へ引き帰った。
このときかねて手配の軍隊、大久保大尉ひきいる二ヵ小隊百八十名は午前六時、伏水屯所を発進、二十九日午前八時、園部に到着、待機する。
かくて山家に始まり、西八田・東八田・吉美・中筋・白道路・位田を席巻した六日間にわたる大騒動も、流血や打ちこわしを見ることなく、七月二十八日終えんをむかえることとなるが府官憲側の厳戒ぶりは尋常でなく、近隣の和知、十倉方面への伝播防止の手配を再三おこなっており、事実、才原から四、五人の参同もあった模様である。なお七月三十日夜半にも山家肥後橋附近へ四、五十人の屯集あった風聞も伝えている。
この一揆を総括するに最初の段階では武具などの用意はなかったが、その後は竹槍、鍬を数百本、むしろ旗も各村ごと三流ずつ、炊餐釜、食糧斑や割木を山積するなど、入念な準備がうかがえるものであった。間髪を入れぬ決起のさまなども、よく連絡と統制のとれたものである。しかし統一された指導性がなく、分散的自然発生的な要素をもっていたことも、それぞれの要求項目にみられるところである。なおまた鎮圧のため出兵した軍は銃火こそ吐かなかったが、園部-綾部間の連携しきりに威圧をつづけ、八月上旬まで村民側を制し駐とんした。
余じんくすぶる直後の七月二十九日、府は村々の主だった者二、三名ずつを綾部出庁に呼び寄せ、吉住典事をして強訴につきそれぞれ裁答を示した。第一区の訴願に対する回答は次の通りである。
   各区願項目及裁答(明治初年農民騒擾録・京都府)
 第一区九ヵ村土民強訴事項附当時説諭権宜措置
一、裸体免許
    裸体は病気を生候のみに無之野蛮の風にて国辱となるを以て制せらるることながら、市郡の違ひ時と
所とに因り差別有之ことは勿論の訳に付、山間等にて一時汗拭の為衣を解く類は黙許すべき旨。
一、小学校入費出金方差別
    府下小学校は他に先だち建設相成たれど今日にては御国一般の事、富強の基本を立て人才を生育する
   の急務たる訳を以建築相成る儀、さりながら実に出銭差支候ものは書付差出すべき旨。
一、徴兵赦免
   徴兵は兵制御変革にて凡そ兵役に充り候内にも二種の区別云々あり。是は御国一般の事故此願は京都 府限りに御沙汰相成難く候間、出張限りにでは何様切迫願立候とも聞届難、さりながら当所実に余儀なき切迫の儀有之事故は詳細に願書を認め差出候儀は勝手次第の旨。
一、社倉籾昨年之分当秋迄備へ延引
   社倉は自己救荒の備に付備後れの分は当秋新籾にて相備候て然るべし。
  右之外毎條天朝御仁恤の趣意等告諭了解せしむ。
他の区の訴願項目も多少の相違はあるが、小学校入用金、徴兵免許、社倉米積立を共通の中心事項としており、他に、地券印税免許、田畑上納の外諸税免許、火元罰金免許、断髪・牛馬索綱の免許、牛馬売買持主勝手、斃牛持主捌、酒値段先例之通上納値段の割、七ヵ条税金免許(清酒・絞油・生糸・印紙・博労税、受酒・大工職・石灰屋の冥加金)、本府本年第百七十七号布告古道具渡世以下九ヵ条税金免許、位田村野舟運上(税金のこと)廃止などの要求であった。裁答の結果は右の一区に示されたとおり、願日の殆んとは葬り去られ、細目のごく小部分の譲歩をかちとったにとどまる。例を示すと、「裸体免許」-時と場合によって、特に汗ふきの山間には黙許する。「社倉米」-今秋の新米まで待つ、積立て場所の遠いところは相談して所を選んで申し出よ、「その他の税金」-、受酒(酒屋)、大工職、石灰屋の冥加金(営業者が納める税金)のみ免ずる、その他は府本庁へ相談、伺をたてるというもので、以下の総目は御国一般(明治御一新)の方針に合わぬ故すべて拒否されてしまい、一揆の、人民の、どうにもならぬ願望は潰え去っていった
  受難
以上、この一件資料の採集は困難のうちに幾多の先進者たちの努力によって進められきたが、まだ相当の未解部分を残している。何故、府下でここだけに起きたか、という問題点もそうであろうが以下、悲惨な、かくされた結末と共に、山家の側に立ってこの史実を叙述することとする。決起者の人名もすべてあきらかであるが、いまは山家地区の全員とも言えるくらいで三・四代前の祖父や曽祖父母を思い出してもらえればよい、それほど身近な一揆だったわけである。村別の参加人員数を記しておく。
 第一区 廣瀬村四五名(内、士族八名) 釜輪村三九名
  西原村三〇名     上原村七一名 (内下替地七)
  戸奈南村三一名    鷹栖村八三名(鷹栖二九、町三五、裏番一九)
  下原村四八名      橋上村九名
  和木村七五名        計 四三一名
士族の多くと村の役付、老人、女世帯、新たに解放された家を除いては殆どで、下原・和木村・広瀬も士族を除いては全戸参加と言ってよい。判決文には「其方共儀白波瀬新蔵等社倉米債立並学校入費出金之儀ニ付区長ノ布達ヲ疑惑シ多衆申合七出願致ス 科名律五刑粂ニ依リ叱リ置ク」とあり、そのあとに名簿として列記されている。この他に先に捕えられた主立った者の氏名の抜けているところもあるので、実数はもっと多くなる筈である。府は後始末に八ヵ月半を要し、判決文を出したのは翌七年三月十五日であった。(第十区三百二十三名も同様判決)
もっとも検挙は速く八月二日に始まり、三区九ヵ村の首謀者格二十二名を捕縛、三日には園部裁判所へ送られ入牢となった。(西原一、鷹栖三、町一、裏番一、広瀬二、上原二、釜輪五、小呂二、下八田三、渕垣一、白道路一)。更に六日七日と逮捕がつづき、釜輸四名、広潮六名、小呂一名、干原一名の者が園部へ、そうして相次いで京都裁判所送り入牢となっている。
死刑者こそ無かったものの、一見さりげない「叱り置く」の出されるまでに加えられた拷問は苛烈で、中には言語を絶するものもあった。伝わるところによると、上原の野間角蔵は十六歳で参加、叱り置くに、名を連ねていたが、三五年間も子にさえ話さず、やっと戸長の林半左街門に聞いたからと言って『捕えられたもので五体満足で帰れた者はなかった。また、林竹次郎は若年(十八歳)だったため「叩き払い」という尻を青竹で打たれて済んだが、後年、「納税のほか武士の肩代りに兵役にとられるのは堪えられない、みんなの為に非道いめにあったのに人々は冷たいもんや」といつも言っていた』と、ずっと後に語ったそうである。(野間宇太郎談)それから白波瀬新蔵(当時五十二歳、大工職)と共に主導者格の中心であったと思われる大槻甚蔵(三十八歳、農)は、事件後、町に一家寄留となっており、その後、園部へ移ったという。家の跡は畠となって「甚蔵屋敷」という呼び名だけが今も土地の人々の記憶に残っている。京都府の記録はこの二人を首謀者らしくあげており、刑の内容は明らかではないが、おそらく二、三年の服役処分であったろうと推測される。
獄内の状況は想像に堪えかねるものがあったようで、事実若干の牢死者も出た模様である。広瀬の伊藤某は顔が青く腫れあがり足腰立たず駕籠に乗せられて帰ったというし、同じく四方某も息子が京都まで出向いて引きとっている。彼は士族(卒)で、もと牢番として取立てられ、角力とりにも負けぬ程の強力大兵の者であったが、集合の当座、区長に「辞めろッ」と大声で怒鳴っただけで罰を重くされ、ひどい責苦にあった故か、翌七年三月二十四日に死亡している。また同村、松原某の判決例をみると、
社食米積立並小学校入費出金之儀ニ付府庁ヨリノ布達ヲ区長私ノ取斗ヒト疑惑ヲ生シ白波瀬新蔵ノ発意ニ同シ多衆申合セ出願致ス科掲榜徒党ノ制禁ニ達フヲ以テ雑犯違令条例違制条ニ依リ懲役百日之処、従タルヲ以テ一等ヲ減ジ存命ナラバ懲役九十日可申付処病死致ス二付其旨存エ      差添人
とあって(八月三日入牢、九月十三日死亡)獄死は明らかと言わねばならない。また小林某も九月六日の死である。悲痛の様相はながく続いてまだまだ人民を苦しめる。当該者の家は、親類づきあいも疎外され添株扱いなどされて苦境の日々を送らねばならなかった。けれども後に妻子親族あい寄って立派に墓を建てたり甚蔵の場合も大正六年、親族協議して五円を寄せ追福に資している。人々の切なる心情と菩提をとむらう追善の心意気が歳月を越えて熱くつたわってくる。
新政府はこのように大弾圧の嵐を下したが、はじめて単一統一国家としての専制的中央集権化、皇民皇国的教化思想を打ち出すための無理無慈悲な仕打ちであった。文明開化の蔭にかくれて、朝令暮改の断髪断刀令、管轄区変動、太陽暦採用、諸税とりたては幕藩体制のままを基盤に置いて、租税現金とり立ても強行したのである。その上に学校制度の新設、校舎建築・維持費はすべてこれ村民の負担であった。そこへ徴兵令制定ときては、村民の労働力を三ヵ年にわたり奪い、働き手を根こそぎ無くするものであった。いくさに出てゆく考えは毛頭なかったし不平不満と裏切られた政策へのうらみは、或は酒の場で寄りあい場で、またはトコヤ(散髪所)で語り合わされ結合するものであったろう。徴兵告諭文の「血税云々……」は生き血を搾りとられるの誤解を生み、蜚語(根のないうわさ)と化し「徴兵懲役一字のちがい、腰にサーベル・鉄鎖」と唄われたりもした。金持ちには逃がれる術もあったが、一般貧民層にはその手だても持てなかった。反対運動を固めだしていったのは、始め行者堂の場であったが再三の会同を上原戸長が怪しみ憂い「これではお堂が取りこわされる」と言い出して、次からの密議は肥後橋を上がったところの坂町の或る民家ですすめられていった。
そこで前述の大一揆となって、明治(長州)政府は、府、綾部、園部をつなぐ官憲文書に、一徒を「無知頑民・土民・兇徒・百かい」などの罵言(悪口)をもって綴り、国賊扱いに仕上げてゆくわけである。ところで、一揆の反体制側、中立の立ち場を考えてみる考証も必要であろう。区長は別としても戸長は統制者として随分なやんだであろうことがうかがわれる。それは自己管理に置かれた村民たちの一挙であったし同情の気持がありありと示されるものを残している。吉美の干度(星原)区長は自ら参加し牢屋にも送られている。山家西原の戸長、吉左衛門も温情家で園部へ再々の差入れを、その日誌にしるしている。(府庁文書)
悲惨なのは西八田、岩王寺村戸長・諏訪長右衛門で中間の苦哀そのまま狂気となり竹薮で割腹自殺を遂げた。
このような事実はすべて闇に葬り去られ、その後の国威発揚・忠君美談に彩られて、国民も兵士も強いられる流れに押し流されていったのである。当時から臣民には人権はなく発言はなく、肉弾の安上がり軍隊としてて仕立てられ天皇制の枠組先端に置かれていくこととなる。
ただ一つ、この明六一揆の思想と根元はまだ謎に包まれている部分がある。それは何故、府下で何鹿部だけ起こったか、という研究者の行きつく考え方である。「暴動か革命か」の論議は戦後識者の間で取沙汰されたが、これは一揆を内面的に究明しようとする栓索で、つまるところは新政府の暴政に対する人民の大抗争であったろうと思われる。そこのところに「山家」からの誘引性が濃くなんらかの翳をおとしているようである。一つには、決起の地盤がすべてもと山家藩領であり、婚姻・地つづき・士族とのつきあいが重きをなして、士族の一部、商家をまきこんでいったと思われるし、現に訴えの文中に「徳川幕府体制にかえせ」との一章があったり、鎮圧に当たった菅沼通顕の大音声に『もと山家藩士云々』 の呼び声を生ぜしめたりしている。特に事件後の罪科に名をつらねるのは山家の人々ばかりである。ここに一揆への呼びかけの胎音と発生のひびきを聴くことができる。山家人の血脈はこうしてつながれてきており、太平洋戦争後よくやく再検討され始めたこの史実を、われわれは身をもって評価しなければなるまい。
(『山家史誌』)

明六一揆
王政が復古し維新政府が成立すると、新政府は東京へ遷都し、版籍奉還・廃藩置県と新施策を断行し、中央政府の基礎をかためていった。庶民の生活に直接影響をあたえる新しい施策として、神仏分離・身分制度の廃止・学制・徴兵制・田畑勝手作りの許可・散髪・廃刀令・太陽暦の採用・地租改正など、次々と打ち出していった。西洋風の近代化をめざして一挙に改革をおし進めようとしたものであった。しかし一般民衆にとっては、「御一新」のことばのように、前よりも暮しよい社会を期待したのに、全くそれを裏切られたと感じたものであった。布達される政策は開明的な近代化を志向するものであったが、農民の生活状況とは合わず、その開明的意義は理解されなくて、不満はつのるばかりであった。そのため、明治二年から各地に反政府の暴動が続発した。
明治二年から五年へかけての一揆は、租税の軽減を求めるものが中心であったが、五年の徴兵令・学制の発布にともない、六年には徴兵反対の一揆が続発した。明治六年三月、三重県神門村の一揆につづき、四月、福岡、五月、岡山県美作地方の数万人の参加する大一揆、六月には鳥取・広島・香川などに相ついで起こり、七月には何鹿部の村々騒動が起こったのである。
明治六年七月二十三日、何鹿郡第一区(広瀬・釜輪・橋上・戸奈瀬・鷹栖・上原・下原・西原・和木)の村民が稲の虫送り祈願と称して、天田郡川合村の大原神社に参詣し、謀議を行うという情報が二十二日の夜半、同区長より綾部出庁にもたらされた。二十三日、出庁の太田権少属が山家に急行し事情を探ったが、すでに村民の大半は参詣を終わって、およそ二〇〇名余りが上原の行者場に集合していた。そこで、出庁の十二等出仕・土肥吉繁が出張、歎願の筋があれば村々へ引き取って申し出るよう区長・戸長をもって説諭した。一同は同日午後四時ごろ山家河原まで移動したが、なお遅参の村民を待つようすで、退散するようにもみえないので、本庁より吉住・堀内・井上らの官吏が鎮撫方援助として急行、区長などを通じて説諭し、願いの筋を歎願させた。その趣意はつぎの四項目であった。
 一、裸体差免之事
 一、社倉米秋迄延引
 一、小学校入用出し方免除
 一、徴兵免除
これに対して出庁からは、徴兵免除を除いて他の三か条は本庁へ申達し、何らかの指令をすると申し渡したが、一向に承服するようすもなく、他区の者も追々集って七、八〇〇人にもおよんだ。しかし必死の説諭によって二十四日午後七時ごろ解散していった。
これよりさき、二十四日午後二時ごろ、十区・十一区(西八田・東八田地区)の村民が今夕味方河原へ押しよせるという情報が入ったので、出庁より属官を遣わしてさぐったところ、下八田の氏神に集合していた。そこで代表者を呼び寄せ説諭した結果、十時ごろ解散していった。
あけて二十五日午後四時ごろ、上八田および淵垣に約五〇〇人が集まり追々綾部に向かうという情報が入り、出庁では旧藩士二〇名を至急出頭させて万一に備え、本庁より応援にかけつけている官吏らと打ち合わせ中、農民は早くも味方河原に進出し、ときの声を上げて気勢をあげるようになった。そこで取りあえず出庁詰十二等出仕・菅沼通顕(旧山家藩士)、小属・太田為善の両名を派遣して説諭にあたらせたので、農民側からは九項目の願書を差し出した。菅沼らはそれについて一々説明に努めたので、ようやく二十六日になって退散していった。同日夜半今度は延村に、たいまつを掲げて多数の人々が乗合し、慈音寺の鍾が鳴りつづいて容易ならぬ形勢となった。
延村に集合した大衆に対しては、役所側より懇々と説諭した効果があらわれ、二十七日の暁にはすべて解散することとなった。こうしてようやく中筋方面はしずまったが、二十七日午前十一時ごろには、吉美方面(第四区)の村々から農民五、六〇〇人が、里の馬場に集結しつつあるという情報が入った。綾部支庁は、菅沼通顕を派遣して願いの筋を調べさせたところ、さきに要請した第一区・第十区の要求とはぼ同様のものであったので、その旨願書に認めて差し出すよう指示した。しかし農民側は議論沸騰して結論がでず、一部の者はときの声をあげて位田河原へ移動し、大かがりをたいて暴動にもおよびそうな勢いであった。
そのうち農民らは願いの箇条書を差し出したので、菅沼通顕は吉住典事の応援を得て、明朝何らかの指示を与えるから早々引き取るようにと申渡した。これに馬場組は承知して退散したが、位田河原組はなかなか退散せず、口々に苦情を申し立て、説得には困難をきわめた。ついに二十八日午前一時になってようやく承服し、解散のうえ帰村した。
これより前、この騒擾を重大視した知事は、すでに軍隊の派遣をこう手配を整えていたので、早速大阪鎮台に要請し、二十八日の午前六時、伏水屯集陸軍第十八大隊より大久保大尉の率いる一隊が園部に発進した。
この暴動が隣境へ波及することをおそれ、園部出庁は「山家境へハ不絶時々出張取締有之度」とし、宮津支庁は、「殊に上林辺何時蜂起不ヒ計光景申出候……別して接近之地自今御巡回村々戸長始説諭取締方尽力可有之」(府庁文書)と戸長あてに通達している。
翌二十九日、出庁において関係村々の主なものを二、三名ずつ呼び寄せ、吉住典事より願出について指示し、村々に伝達方を命じた。
各区の強訴事項と出張庁役人の説諭した内容を、「明治初年農民騒擾録」にはつぎのとおり記してある。
  各区願項目及裁答
  第一区九ケ村土民強訴事項附当時説諭権宣措置
一、裸体免許。
  裸体は病気を生候のみに無之野蛮の風にて国辱となるを以て制せらるることながら、市郡の違い時と所とに因り差別有之ことは勿論の訳に付、山間等にて一時汗拭の為衣を解く類は黙許すべき旨。
一、小学校入費出金方差別。
  府下小学校は他に先だち建設相成たれど今日にては御国一般の事、富強の基本を立て人才を生育するの急務たる訳を以建築相成る儀、さりながら出銭支候ものは書付差出すべき旨。
一、徴兵赦免。
  徴兵は兵制御変革にて凡そ兵役に充り候内にも二種の区別云々あり。是は御国一般の事故此願は京都府限りに御沙汰相成難く候間、出張限りにては何様切迫願立候とも聞届難、さりながら当所実に余儀なき切迫の儀有之事故は詳細に願書を認め差出候儀は勝手次第の旨。
一、社倉籾昨年之分当秋迄備へ延引。
  社倉は自己救荒の備に付備後れの分は当秋新籾にて相備候て然るべし。
 右之外毎条天朝御仁恤の趣意等告諭了解せしむ。
  第十区拾七ケ村同上
一、徴兵免許。
一、裸体免許。
一、小学校費出銭免許。
  以上三項は大約第一区に答諭する趣意に同じ。
一、社倉米其村々ニテ預置事。
  村々にても不都合に付区内に積置申すべし、又社倉懸隔の地にて不便利の村有之候は、区内熟談の上積立の場所相定め申出すべき事。
一、出火の節火元贖罪の儀免許。
一、牛馬索綱
  原記に以上は理解にて承伏すとのみあり
一、証券印税免許
  学校入費三十五銭を出し難き程の輩にて拾円以上の印紙は何ぞやと難じ候処、他より借入の儀は有之と言に付、然る時は則証券印紙は後来確乎たる大蔵省の証印なれば実に以有難きことならずやと云ひしにて承伏す
一、断髪
  勝手次第たるべし、然し乍ら半髪は虚飾にして実形ならず、断髪は便利なるべき旨。
一、七ヶ条税金免許願書
  糸屋 印紙 石灰屋 酒屋 池屋 受酒 大工職 馬喰労
  即日朱捗
  書面七ヶ条願立の内清酒絞油生糸印紙博労税の儀は本府へ伺上の上何分の沙汰に及ぶべく、受酒大工職石灰の冥加金は願の通り差免候事
   明治六年七月二十六日

  第四区七ケ村同上
一、学校入用金
  極難渋の者のみ差免候条名元取調申出すべき事。
一、徴兵免許
一、地券税金同上
一、田畑上納の外諸税同上
  並別段位田村の野舟運上同上
一、牛馬売買持主勝手の事
  並弊牛持主捌
一、新平民改穢多
一、酒値段先例之通上納値段之割の事
一、火元罰金免許
  徴兵以下七ヶ条は聞届難し、死牛取扱之儀は御規則の通り相守るべき事
   第一二ヶ条端書位田村野舟運上之儀は取調の上迫て差図に及ぶべく候事
   第十一区拾ケ村同上
一、本府本年第百七十七号布告古道具渡世以下九ヶ条税金免許
    免許は致さず、何鹿郡中へは評議の次第有之、百七十七号冥加金は差免候事
一、徴兵以下七ヶ条は大約第十区と同類
   説諭も又略前と同じ
訴願項目は区によって多少の相違はあるが、小学校入費・徴兵赦免・社倉米積立は各区共通の項目であり、他の項目は、村民たちがもっていた新政に対するもろもろの不満のあらわれである。
徴兵反対は全国的に起こった一揆の中心項目であって、一揆に加わり百たたきの刑をうけたという上原の林某はのちに、「国民に対して税金を納める義務だけでなく、武士の肩代わりとしての兵役の義務まで人民に押しつける新制度には耐えられなかったからだ。」と語っている。徴兵反対は、新政府の基幹となる軍事力形成に真向から反対するものであり、そのため「何様切迫願立候とも聞届難」と押えられているが、その後民衆の徴兵忌避の動きに連なっていくものである。
学校入用金差別は小学校建造費として軒別三五銭を拠出することに反対し、出しにくいものは免除してほしいということである。自給自足で貧しい生活をしていた農民にとって、学校教育の必要性は理解できず、かつ一率に三五銭の学校入用金を出すことに強い不満をもったものである。
社倉米は備荒貯蓄のための米で、江戸時代の末期から村々で貯えられてきたものであるが、明治期には制度化され、その運用は区長を中心に行われ、いろいろ問題があったようである。この一揆のあとの処分書によると、
 「其方儀白波瀬新蔵等社倉米積立並学校入費出金ノ義ニ付区長ノ布達ヲ疑惑シ多衆ヲ聚メ出願致ス科名例
 律五刑条ニ依リ叱リ置ク」
とあり、この二項目を中心とした一揆としている。
その他の項目はまとまりはないが、近代社会形成をめざす新政府による諸施策に反抗したものである。これらの政策について農民たちには、その意義や必要性が理解されず、違和感をもち、生活を不利にするものと受け止められたものである。特に「新平民改穢多」を訴えていることば、農民たちが貧しい境遇から解放されないままに、一段低いとしていた身分の者が同じ身分にされることに反発したものである。
府庁役人の報告には「右願方ハ徳川御法ニ成下サレ候様ノ願ニ相聞候」とある。現実の不満な生活から解放する道を、長年なれてきた過去の幕藩時代に求めたものである。しかし小さい地方的に処理できる問題の外は「御国一般の事故……何様切迫願立候とも聞届難」と答えて諭している。
こうして京都府を震憾させた何鹿郡の一揆も七日目には鎮静した。指導者と目された二二名は捕縛されて京都裁判所送りとなり、後から捕えられ京都送りとなった者は一一名と記されている。刑は、
 「科掲榜徒党ノ制禁ニ違フヲ以テ雑犯違令条例違制条ニ依リ懲役百日之処従タルヲ以テ一等ヲ減ジ存命ナ
 ラバ懲役九十日可申付処病死致スニ付其旨存エ」
とあるから、主謀者懲役一〇〇日、従たる者九〇日の刑を科せられたものである。
この一揆は参加者二千人といわれる大一揆であり、参加の村々は戸長を除いた村共同体あげての行動であった。一揆の中心になったのは第一区の広瀬村で、首謀者は白波瀬新蔵・大槻甚蔵と官庁文書に記されている。二人はともに中流の農民である。広瀬村は山家藩谷氏の陣屋下であり、農民たちは家中とよばれる武家屋敷へ出入し、土地の耕作や雑用などで収入を得ていた。廃藩による武士の没落は農民たちにも打撃となり、新政にたいする大きい不満となり、一揆の発火点となったものと思われる。広瀬村からのよびかけに応じたのが旧山家藩領の村々であったことは、長い藩政下につちかわれた共同体意識によるものであろう。
この一揆は行動がはげしかったにもかかわらず、闘争がおわると、村はもとの共同体にかえってしまった。一揆の資料はほとんど残されず、口碑さえもまことに少なくて、意識的に抹消した感じさえする。しかしこの一揆の「世なおし」的発想は、その後明治二十五年に開教された大本教の「立てかえ立てなおし」の思想の形成につながりがあるように思われる。
(『綾部市史』)


上原の伝説


行者山と雷
上原の岩根山行者堂は安永のころ創建された。大峯講の尊信篤く、毎年の祈願例祭が村びとの手でおこなわれ、各地から参拝も多く有名である。言い伝えによると麓の上原村には、昔からたった一度も落雷がないという。「行者山が皆かみなり様を受けてくださるのだ」といよいよ有難いお山になっている。その証拠に御堂附近の古木樹林はあちこちで折れ、裂け、倒伏し、大きな手水石まで無慚に割れている。

長者ケ成
三郡嶽は和知町大字広野小字大成にある高い山で、船井・何鹿・天田の三郡に跨っているので、三部峠と呼ばれている。その西にあたって長者ケ成という高原がひろがっているが、峠にはむかし長者が住んでいたという屋敷跡が遺っていて、黄金の鶏が節分の晩に鳴くと伝えられている。


「ヌーへ行く気で」
むかし、下原・上原の山林境界争いは絶えることがなかった。ケリがつかないでそれぞれ二人の代表が、ときの城主に訴えでた。
城方「申し立ての証拠はあるか」
双方「ございます」
城方「ならば それを出せ」
上原「実はございません」
下原「あります。この命が証拠でございます。」
城方「然らばその首を証とし、下原の両名を打首とする」と、いうので二人は上原川原(今の大橋下あたり)で暫首された。ヌーとは沼のことで、その頃岩場の辺に水が溜っており、吊橋付近まで水嵩浅く、川原も広かった。被害者の子孫は、今でも大事のとき、「ヌーへ行く気でやるー」というくらいの由。
(『山家史誌』)





上原の小字一覧


上原町
百町 矢筈 平野 筈ケ成 的谷 蔦谷 柿ノ戸 石ノ戸 庵ノ前 小野 □瀬梅迫 才ノ谷 横畑 舟戸 後替地 風呂ノ木 大道脇 上ノ山 宮ノ下 岡田 池尾 上林 松尾 井根奥 惣谷 戸尻 定重 岡ノ下 仲西 木トラ 段ノ迫 宮ノ上 丸尾ノ下 庵田 室ノ木田 柵田 樋ノ谷 樋ノ谷 矢筈 平野 才ノ谷 的谷 松尾 コカ尾 惣谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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