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丹波の

金河内(かねごち)
京都府綾部市金河内町


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京都府綾部市金河内町

京都府何鹿郡志賀郷村金河内

金河内の概要




《金河内の概要》
犀川上流域の一番奥。村の入口の上を京都縦貫道が横切る。中央を府道物部西舞鶴線(490号)が東西に貫通し、集落はその北に、耕地はその南に立地する。北は山を隔てて加佐郡に接し、490号はそのまま行けば舞鶴市の城屋に通じている(車の通行は不可能)。
金河内村は、江戸期~明治9年の村。はじめ山家藩領、寛永5年から山家藩の分知により旗本十倉谷氏知行地。貞享元年、当村を含む十倉領9か村が江戸に滞納免除・年貢免除などの代表越訴を行った。一揆後の処罰で追放や牢死者を出したという。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同9年両河内村の一部となる。
金河内町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市両河内の一部。

両河内(りょうかわうち)村は、明治9~22年の村。金河内・坊河内両村が合併して成立した。同22年志賀郷村の大字となる。
両河内は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。同年合併前の旧2か村に分かれて、金河内町・坊口町となった。

《金河内の人口・世帯数》 85・41


《主な社寺など》

阿須須岐神社(式内社たぶん)

府道物部西舞鶴線(480号線)から北ヘ少し入った所に鎮座。町民会館の向かいで、参道は車でも入れるが狭い、5、6台くらいは駐められる駐車場がある。参道入口に案内板がある。

志賀の七不思議と「茗荷さん」の縁起
その縁起
今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
その奇瑞 阿須須伎神社=金宮大明神の「茗荷子さん」
毎年、旧暦の正月三日になるとや日の出より八時までの間に、清水流れる「お宝田」から、茗荷が三本出るのです。これを神前に供え、その茗荷の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)、中稲(ナカテ)、晩稲(オクテ)の吉・凶を占い、また、その年の作物の出来具合い、風水害、かんばつまでも占います。
この神事は、今も、新暦の二月三日に「茗荷祭 祈願祭」として行われ、地元の人からは、〝ミョウガさん〟として親しまれています。
参拝者には、この占いの写し(お宝付の写し)と、魔除けの矢、甘酒、お餅などがふるまわれます。是非、一度、お詣りください。     志賀郷公民館


「茗荷さん」で殊に有名であるが、その七不思議よりももっと興味引かれる、さらに古い歴史がありそうである。


阿須々伎(あすすぎ)神社
祭神 天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 道主尊命
本社は吾雀宮(あすすぎのみや)又は金宮(かねのみや)大明神といわれ、明治十二年式内社にある阿須々伎神社の社号を認可された。志賀の七不思議の一つで、節会の日「茗荷」占をして、稲作の豊凶を神意に問う神事が伝わっている。昔は丹後方面からも沢山参拝者があった。又、十月十七日の大祭には氏子中より選ばれた射手による金的を撃つ弓の行事や、太刀振り、風流踊り、狂言などの郷土芸能が奉納される。
本社の後背の高い山は金ケ峯と呼び、古代郷土人の信仰した霊山で、阿須々伎神社と共に原始信仰の古い形を伝えている。



延喜式の阿須須伎神社、和名抄の吾雀郷の郷名ともなっている社と見られる。これらの記録よりも古く「三代実録」元慶3年(879)11月9日条に「丹波国言上、慶雲見菅何鹿郡阿須々岐神社」とみえる社とされる。
アススキとかアササキとか呼ばれたのであろう。背後の金カ峰に鎮座して金ノ宮と呼ばれていたそうだから、錫という金属があるが、アは接頭語、スス、ササは金(カネ)のこと、キは村であろうか。このキは重要かも、物部に式内社の物部須波伎神社がある。
志賀郷(吾雀郷)の総社であり、祭神はここで産出した鉄とは限らないが何か金属類(たぶん銅)、祀ったのが地元鍜冶豪族の大将であった、「金丸親王」「金里宰相」あるいは「(丹波)道主貴命」であろう。丹後のにおいは否定できない社である。金河内は「金打ち」か?

背後の慶雲たなびいたであろう金ケ峯、当社の元の鎮座地、それほど高い山でもない。この山の向こう側は由良川筋の舞鶴市桑飼上の小原の大呂という所である。
当社の摂社に大川神社がある、摂社というのは親社、本社と見てよいような該社成立上、極めて重要な役割をはたしたであろう社で、この大川社は加佐郡名神大社の大川社と思われる、天一ともいわれる社であり、当社祭日は10月17日(今は10日)とあるのは月遅れの天目一箇神の祭日であろうか。丹後大川社勢力の開発になる当社であり吾雀郷なのかも知れない、と推測される。
摂社・大川神社         ↓


阿須須伎神社
所在 綾部市金河内町東谷
祭神 天御中主神・高産霊神・神産霊神
「渡会氏神名帳考証」は、上代では阿遅須伎高彦根命かとしている。『何鹿郡誌』は三神のほかに道主貴神(みちぬしのむち)を加え、「志賀郷村誌」では市杵比売命とまちまちである。
由緒 創建は不明であるが、和銅6年(七一三)改祭し、社殿は享禄元年(一五二八)再建したと棟札にある。旧社跡は坊口町との堺で、南面した丘陵上にあったという。江戸時代には金宮大明神と唱えるようになったが、中世までは吾雀宮と称していた。
明治二年久美浜県庁より式内社の指定をうけたが、のち明治12年篠田神社と式内争いとなり、阿須須伎の神社名を使用することのみ許され、式内社指定の取り消しとなって現在に至っている。
秋の大祭には氏子四村より奉納する能舞・大刀振・風流おどりなどが古式によって行われ、また金的を射る儀式や、節分に行われる茗荷占いなど、有名な神事を伝えている。

『志賀郷村誌』171(阿須々伎神社
金河内村の北方に鎮座、祭神は「市杵比売命」を祝り祀る。明治初年久美浜県庁より「式内阿須々伎神社」と認められたが、其後京都府庁より式内疑義の故に社号阿須々伎のみを認められることになったが郷社として崇めまつるに変りなし。毎年正月三日の御茗荷さまは篠田の筍さんと共に広く人口に膾炙されている。其の秋祭りに奉納する「花の踊」、「雨の踊」、「露の踊」、「御所の踊」は頗る古式な風雅なもので平安朝に始るとゆうからお宮の古ぶりも想われ、その社域広大にして壱千参拾六坪、老杉巨桧参々鬱々金ケ岳の山麓を埋めている。
(『綾部市史』)

阿須須伎神社 金河内村の金宮大明神と遅岫村篠田大明神との争となりしかば指定なし。

志賀郷村字両河内小字東谷鎮座。郷社にして天御中主之神、高産霊神、神産霊神、道主貴神を祭神とす。氏子二二〇戸、内久井、両河内の二区及池、屋河内之に属す。此の地は旧幕時代十倉領にして吾雀宮と唱へしを、明和の前後金宮大明神(本地弥勒)と改め、明治二年久美浜県より延喜式阿須須伎神社に相違なき旨の御達あり。明治六年郷社に列格、同十二年四月京都府より式内阿須須伎神社を取消され、同年七月阿須須伎神社の称号のみ認可せらる。例祭十月十七日。
 何鹿郡之中にては前々より、大社と唱へ来り、三間に二間半之社有り来り候ところ、幣帛等御座なきに付き明和六年氏子村々より、吉田殿へ相願ひ、幣帛等相調へられ、金宮大明神と申す告文申うけ候。(十倉陣屋記録)  (『何鹿郡誌』)

金ノ宮大明神    金河内村
祭ル神 金丸親王志賀五社明神ノ社同所ニ在  祭礼八月三日
拝殿 舞堂 一二ノ鳥居 社地凡五十間二町 氏子金河内村 内久井村 坊河内 池村 志賀五ケノ惣社 宮本金河内村 八月三日立合祭三年ニ一度宛子リ込 正月三日朝茗荷出 七不思議ノ事名所ノ部ニ出ス 人皇三十三代崇峻天皇ノ御願心神成ルト吉田ノ社家云ト云 金ノ宮氏子五ケ古ハ坊河内ト云 千石ノ所也 城カ越ト云小坂ヨリ内ヲ城カ越ヘ五ケト云惣名也 城カ越ノ上ニ屋敷跡アリ  (『丹波志』)

慶雲たなびく阿須須岐神社
●古代の村と社
元慶三年(八七九)一一月九日、慶雲を何鹿郡の阿須須岐神社(古書は須に?(サンズイに頁)をあてる)に見たと、丹波国から朝廷に言上されている。慶雲の出現はさまざまな瑞祥のなかでも大瑞とされ、改元やそれにともなう叙位・免賦など褒賞の契機となった。瑞祥の出現には政治的意味合いもあるが、慶雲発生の記録は丹波国の式内社ではただ一つである。阿須須岐神社は古代の吾雀(あすすき)郷、いまの志賀郷の金河内町東谷に鎮座する式内社である。社伝にもとは西北の金カ峰の中腹に鎮座していたが、和銅六年(七一三)に現在地に遷座したという。金カ峰の名称には先の慶雲とのつながりが考えられる。…
(『福知山・綾部の歴史』)


当社は、志賀の里七不思議の1つ、茗荷の神事が行われる。これは節分の日の早朝、瑞垣の中の池に生じる茗荷を刈り、稲作の豊凶を占うもの。
阿須須伎神社 茗荷神事
この神事ももとは氏子のお籠りがあったが、近年は行われなくなっている。節分の朝、神主が瑞垣の覆をとりはずし、氏子の見守る中に垣の内へ入り、小さい流れの中に生えた茗荷を三本刈り、三宝にのせて神前に供えるものである。筍神事と同じように近村から、大川筋の村々、丹後若狭から多数の参詣者があり、明治のころまでは前夜から農家に泊りこんでこの神事を拝んだという。柳田国男氏によれば、日本の祭の本質はお籠りにあるという。おこもりをして年占いをする神事が伝えられていることは珍重すべきことである。  (『綾部市史』)
与謝野町の須代神社でも茗荷祭(2月11日)が行われているが、これは当社の神事から学んだものだという。

また大祭には大弓神事や花の踊りや太刀振りが奉納される。


阿須須伎神社大弓神事
大弓神事は阿須須伎神社大祭で奉納祭礼のうち最も主要なものとして、遠く室町時代の後半から行われたと伝えられる。
毎年の大祭(十月十日)の早朝に氏子の中から選ばれた射手十二人が神事服を着用して神事舎に着座し、素襖装束の師範とともに射礼を行いその矢通し終れば射手三人づつ交互に四度立射し、十五間へだてたアヅチにかかる尺二的に百射を行う。
続いて四寸の金的に奉射し、射手全員正殿に正対して礼拝を行う中で師範は大弓神事完了の賀詞を奏上する。
奉射は往時の典礼により端正優雅な動作をもって終始し専ら自責内証心・技・体一致の全人格を傾注し唯々神明の照覧に応えることを心に念じて奉射される。
社頭の清浄の気ただよう中に進められる厳粛な、古来変らぬ伝統のあるこの神事を参拝者は襟を正して見守り、神威高揚あまねく輝き渡る思がする。
大弓神事が終れば、始めて大祭儀執行する慣例は古来から今に伝承されるもので、大弓神事の終るのを待ち構えていた氏人は供揃いして四百米の練込みをし、神殿の儀、続いて振り物・能・能狂言・花の踊り等の芸能が少年や青年たちによって奉納される。
このように多彩な祭礼、殊に大弓神事が奉納される神社は他にその例がほとんどなく、極めて貴重な伝統のある祭礼として今後一層の振興につとめたい。



阿須々伎神社に奉納される芸能
阿須々伎神社は綾部市金河内町に鎮座する社で、天御中主之神・高産霊神・神産霊神・道主貴神を祭神としている。明和のころ、金宮大明神と改め明治十二年阿須々伎神社の称号だけ認可された。この社は志賀の七不思議の一つ「茗荷」の神事が行われるところである。
氏子は内久井・金河内・坊口・仁和の四か町で、例祭は十月十七日であったが、今は十月十日に行なっている。
この祭礼に百射の神事がある。各村より三名ずつ選ばれた一二人の射手が朝早くから集まり、矢場において約二五メートル離れた的を射る(はじめは八寸の大的で練習し次に五寸、いよいよ一寸の金的を射る)。一人二矢で三人ずつ並んで順に射る。金的にあたれば祭礼の行列が動き、社前へ繰り込むのである。金的に命中しないと祭礼がはじまらないことになっている。
この祭礼の行事として芸能が各村より奉納され、舞堂で次のように演じられていた。
祭式の順序(明治二十五年六月の記録)
第一番 露    屋河内
 二  振小太刀 内久井
 三  小太刀  屋河内
 四  御太刀  金河内
 五  同     池
 六 大太刀   内久井
 七 花ノ躍   坊河内
 八 御年貢   金河内
 九 御能    坊河内
 一〇上ニ太鼓  坊河内
 一一下ニ太鼓  金河内
この形で三年ごとの祭年に全氏子村からそろって奉納していたが、祭年でない年は何もないのは淋しいというので、三十年程前から一村ずつ順に、毎年奉納することになって現在に至っている。
狂言
狂言 御年貢(みねぐ)は台本に「古典儀式祭礼御年貢奉納言葉」とある。小学生の男子三人で演じるものである。内容のあらすじは津の国住吉の百姓が松を、同国片山家の百姓が楪(ゆずりは)を、都の禁中様へ御年貢として持って参上する。ところがどちらも正月に使うべきものを、「とやかくと仕る間に年改まってはござれども持って参ろうかと存じます」と持参する。ところが殿より延引したことを責められると、何とかかとかうまく言い逃れて、歌をよみ、首尾よく納めて帰るというものである。
この御年貢と同じ筋立、詞章の狂言は、大蔵・鷺・和泉の狂言三流のどの台本にもないが、大蔵流の「松楪」に骨子だけはよく似ている。狂言研究家の小山弘志氏によれば、「おそらく大蔵流の祖型がもとになっているか、またはある程度すでにできていたものに大蔵流のものを若干取り入れたか、どちらかで、その時代は基本的には室町末期ないし江戸初期と思われる」とのことである。おそらく一六~一七世紀のころ、この地に伝えられた狂言が神事として行われ、後世に多少の変化をしながらも、ほとんど原型のまま伝承して来たものと思われる。これは次に述べる「花の踊」と同じような経過をたどったもので、興味深いところである。
花の踊
花の踊は坊口町に伝承保存されている。シンボチ(新発意)とよばれる子供二人が左手に笹の枝を、右手に軍配をもって二人とも同じ形の動作をして踊る。歌は三人の大人がうたい、大太鼓がリズムをとる。
現在残されている踊は、花のおどり・雨のおどり・御所櫓の三番だけで、つゆのおどり・清水おどりの二番は歌詞が台本に残されているだけで踊らない。
どの踊りもはじめに「シンボチ」が、
とうざい とうざい とうざい こんどうは姫子たち花の踊りでござるぞよ 花のおどり 花のおどり 花のおどりのおんどうを とりやといもうす なかにてしんぼちが はやしもうす 太鼓のかしら しっぽらていと いれさっしゃれ
と口上を述べ、ハーイ ヤァーイ ハイ とはやす。それにつれて歌い手が太鼓のリズムに合わせてうたい出し、二人のシンボチが笹の柄を軍配で打ちながら、わずかに左右へ動き踊るものである。
昔は「踊子」がついたと伝えられ、これが大きな輪をかく風流踊であったことがわかる。
次に今行われている踊の歌詞を記す。
花のおどり
一、さて正月にはびわの花 りんりんつぼみで花が咲く花のおどりはおもしろや
二、さて二(にん)月には梅の花(以下おなじ)
三、さて三月はさくら花(以下おなじ)
四、さて四月にはつつじ花(以下おなじ)

雨のおどり
一、笹葉に雨の降る音は さらりさらさらさらさらと うれしや君の心でや
二、ぎぼしに雨の降る音は(以下同じ)三、芭蕉葉に雨の降る音は(以下同じ)四、板屋に雨の降る音は(以下同じ)

御所櫓
一、御所やぐらに鐘かけて 撞木なけれど鳴る鐘の音 どうどうしゆめて寝たる夜もあるが 今はよそ心
二、後生ねがえば親おがめ 親にましたる後生はない どうどうしゆめて寝たる夜もあるが 今はよそ心
三、扇骨なし紙ばかり ゆうべの言葉が要かや どうどうしゆめて寝たる夜もあるが 今はよそ心
四、思いすちょやれ 忘れちょやれやれ そはぬ昔がありたもの どうどうしゆめて寝たる夜もあるが 今はよそ心
明治二十五年の台本によれば、「どうどうしゆめて寝たる夜もあるが」のところは、「共に戸ヲ締メテ寝タル夜モアルガ」となっている。次の二番は現在行われず曲も失われている。
露おどり・清水おどり
「風流踊」は中世末期から江戸初期に流行した踊で、坊口町でも昔は「ふる踊」とよんだという。丹波一ノ宮(亀岡市出雲大神宮)の古文書に「雨悦風流事……」と長禄三年(一四五九)の記録がある。念仏踊の系統をひいているようで、新発意という役名が共通しており、曲調も仏教音楽の系統のものと考えられる。雨乞いや、雨悦びの神事として行われたものが、また五穀豊穣を祝う神事となり、現在まで伝承されたものである。
能舞
能舞は「難波」を演じる。伝承するのはこの一曲だけで、ワキ・天女・ツレはすべて地謡が分担し、舞うのは裃姿のシテ一人である。面はつけないが、演能のときには翁面と女面を面箱にのせ舞堂の正面におくならわしがある。桃山以前と思われる二、三の面が残されており、翁舞もふくむ本式の能があったように思われる。
この能舞は金河内町の狂言と対応するものであり、能狂言をあわせ伝えるのは珍しいこととされている。
太刀振
太刀振は、二人一組の青少年が笛・太鼓はやしに乗って、「やーイ ヤートヤー」など掛声も勇ましく切り合うものである。おおむね畳一帖の舞台で、大きく動きまわることはないが、真剣を用いる大太刀などは緊張感にあふれ、舞堂を圧するものがある。
(『綾部市史』)


-平成30年(2018)の秋の祭礼の様子-(2018.10.8)


秋季例大祭は「体育の日」に行われる。
氏子の4集落が順番に当番となり、それぞれ持ち物の芸能などを奉納する。
今回は金河内が当番であった。

台風で木がこけて本殿の覆屋を壊したそうだが、もうキレイに修復されていた。





狂言・御年貢(みねぐ)


御太刀(みたち)


後の方の暗い所で演じていると私の安物動画カメラでは顔の表情まではとらえられない。いずれも実際の半分ほどだけの記録です。

餅まき



《交通》


《産業》


《姓氏》


金河内の主な歴史記録


阿須須伎神社の神宮寺弥勒院
◇神宮寺弥勒院
神宮寺の名は明治初年廃仏毀釈令により堅き法度で其名を禁止された。現在本郡で綾部に其地名を遺し又高津八幡宮の神主清水氏の宅は神宮寺であった。その他にも存在したであろうが皆抹殺されたが金河内村のそれも仝じ運命にあり、現在その存在した故実すら知るものがないのであるが、古金宮の別当寺であって金ケ岳の「ドウナル」の地に建てられていたもので、現在その地に寺屋敷がのこつておる。
「ドウナル」とは漢字に宛てると堂鳴であつて、古此地に仏堂があって其屋根が藤原氏時代に流行した擬宝子造り即ち寄棟の建物であったから、四隅の棟瑞に銅鐸がつるされていたのである。此銅鐸が風に揺られて「カランコロン」「カランコロン」と鳴るところから世人は「ドウナル」堂鳴と呼んだから後に地名となったのであろう。
延宝九年に弥勒院別当が社寺順検に届けた古文書の控に「後冷泉天皇康平年間一〇五八年、一〇六四年に金宮造築云云」とあるから、其頃に弥勒院も金ケ岳のドウナルから山麓に移転したのであろうが、古文書によると慶長の兵火に焼失しておる。(慶長の兵火とは田辺細川氏と福知山領主小野木氏との交戦をいうのであろう)そして弥勒院の薬師(現在大迫の薬師堂 丹波七仏薬師の一)は大迫の地に受難した。これが弥勒院薬師である。
願成寺月牌記に、「戒譽法印元禄五酉年五月七日寂金河内村別当弥勒院志賀興隆寺に永住し其後」とある。興隆寺の記録には「元禄六年酉五月七日快譽阿闍梨当寺末寺金河内村神宮寺弥軌院隠居」とある。この二つの記録を比べて見ると金河内村の別当は神宮寺弥勒院であること興隆寺の末寺であること、興隆寺住持の隠居が戒誉阿闍梨であることが知れる。且つ元禄の酉は六年であるから興隆寺の記が正しいのである。
金宮大明神本地弥勒菩薩であったことは斎宮氏も何鹿郡誌に報告それているのであるから、別当寺に弥勒院の存在することも肯かれる次第である。
金宮別当神宮寺弥勒院は慶長の兵火にあって焼亡し、本尊の薬師は寛永年中に長松寺二世大超智仙和尚勧進により大迫の地に薬師堂として再建されておる。別当社坦は大破のまゝに廷宝年間に及び戒誉阿闍梨が其容子を寺社順検に届けている。元禄以後此別当は本寺にあたる志賀興隆寺の兼務によって勤仕され斎宮氏に及んでいる。  (『志賀郷村誌』)



伝説


丹波峠の勝負相撲
 大呂から丹波へ越える丹波、丹後の境の通称丹波峠は標高三~四○○メートルもあろうか、丹後側からは比較的なだらかな径が続いていて、頂上には不思議な位の平地がある。
 むかしこの場所は丹後の力自慢の由良ケ獄と、丹波の怪力夜嵐が角力勝負を争ったところと云う。
 さて勝負の軍配は、丹後、丹波から集った見物人の前で、アッケなく丹波の夜嵐の方に揚がったのであった。負けた由良ケ獄にとっては勝敗の結果よりも、むしろ相手に致命傷を与えたと云う自負心をもって峠を下っていった。想えば三年前、彼を勝負相手とえらんだ時、この丹波峠を越えて彼の力量を探りに出かけていった。頂度そのとき夜嵐は八丁畷で牛耕の作業をしていたが、何くわぬ顔で道を訪ねた由良ケ獄にソラそつちだ! 鋤諸とも方角を示したその先には、牛がぶら下がる格好でいたと云う。肝を冷したは由良ケ獄は這うぼうの体でその場を立去ったが、道すがらこの男に勝つ為には最早や頭突きしか通用しないだろうと考えていた。以来彼は山中に入って恰好の松の木を相手として激しい頭突き修業に明け暮れたが、三年後、さしもの松の大木の枯れそめるを見て、頃よしと念願の夜嵐に力相撲を挑んでのであった。この対決で夜嵐は惜しみない賞讃と、この界隈での強さを不動のものにしたが、不覚にも由良ケ獄の頭突きによって肋骨三本を折っていた。それが致命傷となって二年後にははかなく世を去ったと言われている。  (『郷土誌・岡田上』)





金河内の小字一覧


金河内町
久保 三通田 八幡 松竹 岡鼻 岡 鳥井ノ奥 中坪 杉谷 川原 宮ノ奥 中地 下地 奥地 筋海 迫搗 エゲ 胡桃ノ木 柏在 大阪谷 ナラノキ 崩 泉田 辻道 榎ケ坪 四戸 福安 大迫 彦在 東谷 宮ノ奥 彦在 ナラノ木 大坂谷 大迫 柏在 迫搗 東谷 エゲ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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