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丹波の

旧・吉見村(きみ)
京都府綾部市里町・有岡町・星原町・小呂町・多田町・高倉町


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京都府綾部市里町・有岡町・星原町・小呂町・多田町・高倉町

京都府何鹿郡吉見村

吉見村(旧村)の概要




《旧・吉見の概要》

キミは吉見、幾見、貴美などとも書く。舞鶴若狭自動車道の綾部インター(有岡町)から降りて来たところ一帯を呼ぶ。八田川領域の小盆地に位置し、聖塚・菖蒲塚の中期古墳や久田山古墳群・田坂野古墳群など全域に古墳が多く、古くからさかえた所としのばれる。郷の中心は今の里町にあった。

古代の吉美郷で、「和名抄」丹波国何鹿郡十六郷の1つ。郷域は旧吉美村、現在の綾部市里町・有岡町・多田町・高倉町・小呂町・星原町一帯に比定される。
『何鹿郡誌』は、「吉見の里」は名所とされていたという。
原撰時代不詳なるも、此の時代(平安時代)の著といわれる主基所風土記何鹿郡の名所に吉見の里、富緒川、長宮山、藤浪社、篠杜、若槻等の名あり。
吉見の里 今の吉見村字里ならん。幾見村を里村と呼ぶに至りしは享和の頃なり。


そこには「三代実録」貞観5年(863)6月3日条に「以丹波国何鹿郡仏南寺、為真言宗、即付国司検校」とある仏南寺もある。

中世は吉美荘で、鎌倉期~室町期に見える荘園。永仁6年(1298)の西大寺田圃目録に「丹波国吉美荘 年貢番五斗本五石也」とあるのが所見という。
すっと下って「丹波史年表」にも応永6年8月西大寺領とある。同年表文応元年(1260)4月1日には「吉美荘に強盗あり、右近将監荻野朝光に執達す」と載せ、「総合地方史年表」荻野文書の文応元年2月22日には「幕府荻野朝光の訴により丹波吉美荘を処分せしむ」。「蔭涼軒目録」文明17年(1485)9月19日条に「常徳院領丹波貴美庄々主職事」と見え、京都相国寺の塔頭常徳院領となっており、将軍義尚が承□を当荘の荘主職に再任しようとしている。また同書文明18年正月19日条では「吉美東西荘主職」と東西に分かれていたことがわかり、寛正2年(1461)9月10日の何鹿郡所領注文にも「吉美東西」とあり、安国寺の再建に際し棟別銭が課せられている。
一柳文書によれば天正10年(1582)一柳市助が吉美郷1900石を宛行われている。当時この地域が豊臣氏の蔵入地であったことをうかがわせるという。

江戸期の幾見村。はじめ山家藩領、寛永5年からは旗本十倉谷氏との相給となる。村高は「天保郷帳」で2、162石余、のち枝郷の有岡・多田・高倉・小呂・干原(のち星原)の計5か村が分村独立。以後幾見村は里村と改称した。

近代の吉美村。明治22年~昭和25年の何鹿郡の自治体。有岡・里・高倉・小呂・星原・多田の6か村が合併して成立。旧村名を継承した6大字を編成した。村役場は有岡地区の樋之本に設置。
昭和25年綾部市の一部となる。村制時の6大字は綾部市の大字に継承された。


有岡とか古曾戸とか渡来系の古い古い地名や神社があり、弥生からの古い地なので、キミというのもその時代の言葉で、だいたい「君が代」の「君」の意味ではなかろうか。
「君」と書いたり「公」と書いたりするが、君主の意味である。各地の豪族の大将のことで、それらの一番上にいたのを大君という、大王(おおきみ)とも書いて天皇のことである。それに比べればその下のほうが君で、これはいっぱいた。中央にも地方にもいるし渡来人もこの姓をもらっていたりして大小由来はいろいろあり、キミといえば天皇とは限らない。だいたい有力な豪族の後のカバネのようなものである。
当地のキミはどうした者かはまったく不明である。地名になるほどだから、近隣を支配していた有力大豪族の拠点地だったかと推測される。

「国歌・君が代」など呼ぶので、キミは何か日本語のように思い込んでいるかも知れないが、古い新羅語にも記録がある。
よくあげられる例としては、『三国遺事』新羅王歴に、
赫居世から六代王は「祇磨尼叱今一作祇味」とある。「尼叱今」(ニシキン)は新羅の王の尊称で、ニム・キミのことのよう、ニムは任那のニムで君主の意味、そうすると「祇磨(祇味)尼叱今」はキミ・ニム・キミ(君主・君主・君主)のことか、三個も同じ意味の言葉を重ねたありがたい人のよう。彼の国でも王や神をキマとかキミと呼んだようだとわかる。
日本の君主の君のことと同じ、キミとカミ(コム・神)は、元々は同根同義の言葉と言われる。キミは神様、神様に近い人であった。
柿本人麻呂
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも

人麻呂でなくとも、天皇は神様とほんの70年ほど前まではどこかのメデタイ国では固く信じていた、信じていない人でも、あたかもそう信じているフリをしなければならなかった。当の本人が人間宣言をするまでそうしたスンバラシイ、はるかに古代の認識をそのまま引きづった国際常識には超遅れたアホな国であったし、今もその残滓をまとった国である。神の国で何で、ゼッタイ安全で電気料金が安くなる原発が3基も爆発するのか、あほくさい。こうした子供でも笑う大ウソをヌケヌケとこかれていてもまだわからない。ミズラ人よりまだ幼稚なようである。
チョンマゲの国ではなく、今も多くはミズラの国である。近代政治の認識や意識はなきに等しいスンバラシイアホ、そうしたミズラ人が超最先端の科学技術を繰る、それで豊かな先進国のつもりだが、政治面に信じられないような遅れがめだち、これが足をひっぱる、さらに憲法を変えてでもさらに遅らせようとする、これらを克服しなければ、この国にはとてもではないが本当の未来はなかろう。スンバラシイ国に残された大きな大きな課題であるが、乗り越えられるだろうか、それともその遅れゆえに亡びていくのだろうか。

遺称としては、吉見小学校などがある。



《交通》


《産業》


《姓氏》


旧・吉見村の主な歴史記録


君 キミ
カバネの一種にして、又公と通じ用ひらる。
1 原始的姓としての君 神代紀の天邑君猿女君、崇神妃に伊勢麻績君、景行紀に諸縣君泉媛、応神紀に諸縣君牛諸井等の如く、地名又は職業名に附する称号より起り、彦、梟帥等と同じく、其の地、又は其の団体の首長を表はす語なり。後允恭朝にカバネ制度の確定してよりは、開化以後の皇胤に賜ふ事となりしも、猶ほ原始的カバネの名残は、阿蘇、火、大分、壹師、飯高等の地方豪族に存し、又カバネ以外、尊称の語として、地の姓と重ねて使用されたり。社会組織の研究第一編一章七節、及び第四編六章参照。
2 制定的カバネとしての君 君姓に関しても、古来他のカバネと同じく種々の説ありしも採るに足らず。余は凡べての公姓の氏を索め、其の出自を調査し、其れより機能して、君姓は開化帝以後の皇裔なる諸氏の称する姓にして、孝元帝以前の皇別姓なる臣と相対する事、恰も天武朝制定の眞人(応神帝以後の皇裔)朝臣(仲哀帝以前の皇裔)二姓に相当すと云へ。其の説・社会組織の研究、第四編第六章にあり。
(『姓氏家系大辞典』)


吉見 ヨシミ
和泉に吉見菟田庄、近江に吉見庄あり、吉身庄に同じ。又武蔵に吉見郡、横見郡の事也。郡内に吉見庄ありて岩殿山の縁起に見ゆ。その他、丹波、長門等に此の地名存す。猶ほ前各條参照。

10 丹波 第一項の族にて、市島城(市島村)に拠る。吉見家系に「範頼の次男吉見三郎資重・丹波国鹿集郷に移り、其の裔孫式部少輔則重・天正十年、明智の兵に破滅せらる」と。又丹波志に「吉見庄上垣城は吉見氏の居域也。古へ兄弟八人あり、吉見八属と云ふ。関東にては岩戸吉見、吉見岩戸と云ふ所に住居せり、丹波に移り住す。吉見八属と云ひ、八人兄弟来る。次男吉見守重・是れ吉見の城主となる、守重は助太夫と云へり」と。
又氷上郡条に「修験・子孫下竹田村奥前木戸。伊勢の国より来る、子孫孫兵衛・近年縁によりて、吉見氏を名乗る」と。
又「吉見氏・子孫吉見庄上へ垣村。古城主、古へ兄弟八人有り、吉見八属と云ふ、云々」(前に引けり)と。又「吉見肋太夫守重・子孫吉見庄上へ垣村。古城主也、古城の部に出ず。七代以前落城、助太夫は同郡市原村杉谷に墓所有り」と。
又「吉見氏・子孫上へ垣村倉部。吉見佐兵衛・井上家と古の争論有り、其の故は此所の吉見氏、明智光秀に従ふに付、井上氏・忿り、吉見が家を住する處、吉見・帰りて、其の次第を聞く。井上の曰ふ、吉見は明智氏に随ひ、二心有るに付、元の宅に入れずと。之に依りて吉見は何鹿郡志賀辺に暫く浪人なり。其の後、井上家に降参し、末世に至るとも、兄弟の親を成すべしと約し、血判盃を取りかはし帰参す」と。又「吉見氏源太夫・子孫吉見庄上田村。助太夫の家なり。源太夫の墓、岩戸村今寺と云ふ所に石堂、足れ也。源太夫・夫より代々村の北脇に居る」と。又天田郡条に「吉見氏・子孫田野村楽々葉」など見ゆ。
(『姓氏家系大辞典』)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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