丹後の地名プラス

丹波の

私市(きさいち)
京都府綾部市私市町


私市円山古墳(市のパンフより)

お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府綾部市私市町

京都府何鹿郡佐賀村私市

私市の概要




《私市の概要》
私市円山古墳の麓の集落。昭和30年何鹿郡内の旧村の綾部市合併にあたって佐賀村だけはまとまらなかったが、翌31年に分村合併が決定され、西部の山野口・印内・報恩寺・下私市は福知山市へ、東部の上私市、小貝、石原は綾部市に編入された。私市は村の真ん中で二分して東部は綾部市に編入された。今は上私市よりも私市東町とか呼ばれている。上の航空写真に写っている集落がそれである。
舞鶴若狭道が南北に通り、府道舞鶴綾部福知山線(74号)が中央を東西に貫通する。最新の高速道路インフラと古代の古墳は意外とよく調和する。この道路建設の事前調査によって発見された。それまでは古墳があることは知られていなかった。
円墳としては府下では群を抜いて最大、方形の造り出し部があって、前方後円墳のようにも見える。

古代は私部郷、中世は私市庄に属する、詳しくは「福知山市私市」参照。
江戸中期以後は内藤・杉浦・武田・川窪など大名・旗本の入組支配(4給)地であった。
私市は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐賀村、昭和31年から東部が綾部市に編入され、大字私市となり、次いで同32年私市町となる。
私市町は、昭和32年~現在の綾部市の町名。


《私市の人口・世帯数》 221・84


《主な社寺など》

私市円山古墳




ドデカイド立派な古墳で、近づくと全体像が見えない。遠く下から見上げて見るように作られたものであろうか。
これだけのものを築いた古墳人に驚かされる。それをまた現代に復元した現代人もまたエライと思う。

こんなもんがあるわけないと思っていた所に、とんでもない巨大古墳があった。発見当時の興奮が伝わる現説の資料。
私市円山古墳
現地説明会資料-抜萃-
所在地 京都府綾部市私市町
調査主体 ㈲京都府埋蔵文化財調査研究センター
調査担当 調査第二課調査第二係長 水谷寿克
         調査員 鍋田 勇・竹原一彦
調査期間 昭和六十二年十一月九日~継続中
調査面積 約一、六○○平万米

はじめに
 今回の発掘調査は、日本道路公団の計画する近畿自動車道舞鶴線の予定路線内に円山城館跡が存在するために、当調査研究センターが、調査を行ったものです。円山城館跡は、京都府綾部市私市町の丘陵上に位置している遺跡ですが、今回の調査では城館に伴う遺構・遺物は確認できませんでした。しかし、新たにこの丘陵上に大規模な古墳(私市円山古墳)の築造されていること、および鎌倉時代の経塚(私市円山経塚)の営まれていることが明らかになりました。
これらの遺跡の存在する丘陵は、綾部から福知山へかけて広がる由良川中流域のうち、由良川北岸のほぼ中央部に位置しています。また、この丘陵頂部は標高九四メートルで、ふもとの平地部との標高差は約六○メートルを測ります。そのため、この丘陵頂部からのながめはすばらしく、眼下にはゆるやかに流れる由良川を臨み、綾部・福知山の両市街地を含む由良川中流域に広がる平野を見下ろすことができます。反対に、平野部からは、かなり遠くからでも古墳を望むことができます。このように、古墳・経塚とも、とてもよい場所を選んで造られているといえます。

一、墳丘の調査 
私市円山古墳は、造り出しをもつ大型の円墳です。墳丘の大きさは、主丘(円の部分)の直経七一メートル、高さ一○メートルを測り、造り出しを含めると全長八一メートルになります。主丘には二段の平担面があり、そこには、それぞれ墳丘をとりまくように円筒埴輪や、朝顔形埴輪が立て並べられていました。埴輪には赤い色をした土師質のものと、青灰色をした須恵質のものがあります。埴丘の斜面には由良川から運ばれた、河原石がほぼ全面に葺かれていました。
造り出しは、主丘の東南に造られた、長さ約一○メートル、幅約一八メートルを測る方形の区画です。造り出しのまわりには、円筒埴輪が並べられ、中には家形・盾形・短甲形などの形象埴輪が立てられていました。また、ここからは、祭祀に使われた壷や、高杯など
の土師器が出土しています。

二、主体部の調査
(1)第一主体部
第一主体部は、長方形の穴(墓壙)の中に、木の板を組み合わせて作った組合式木棺が安置されていました。この棺の横と上は小石を混ぜた粘土で覆われていました。一般に、棺全体を粘土でくるんだものを粘土槨といいます。第一主体部は普通のものとは異なり、底には粘土が敷かれていませんでしたが、粘土槨の一種であると考えられます。粘土の上には、葬式の際に用いられた土師器の破片がばらまかれていました。棺の中には、多くの副葬品が納められていました。副葬品の大部分は、棺の西側に置かれていました。ここからは、胃(かぶと)、頚甲(あかくよろい・・首・胸を守る鎧)、肩甲(かたよろい・・肩を守る鎧)、短甲(たんこう・・胴体を守る鎧)のセット、金で飾られた胡ロク竹冠に録(ころく』・矢を入れて腰から下げる入れ物)、胡ロクに納められていた鉄鏃(てつぞく・・やじり)、鏡、装飾品である玉類、櫛などが出土しました。遺体は、東に頭を向けて葬られていたのではないかと考えられます。
(2)第二主体部
第二主体部は、墳頂部の中央部よりやや北寄りに造られています、墓壙の中には第一主体部と同じく、組合式木棺が安置されでいました。木棺の側面と両端(木口)付近の上部は粘土で覆われていました。第二主体部も第一主体部と同じく、粘土槨の一種であると考えられます。副葬品は、棺内から、冑綴(金偏)(しころ・・後頭部・首を守る鎧)、短甲、鏡、鉄刀、鉄鏃、農工具類、玉類、櫛などが出土しました。胃・綴は、短甲の中に納められていました。鏡は、捩文鏡(ねじりもんきょう)と呼ばれるもので、棺内の東側に置かれていました。また、その鏡周辺の棺底には朱の痕跡が認められました。農工具類は、西側の木口付近にまとめて置かれていました。いずれも実用品ではなく、祭祀用と考えられるミニチュアのものばかりです。遺体は、第一主体部と同じく、東側に頭を向けて葬られていたのではないかと考えられます。
(3)第三主体部
第三主体部は、南北に長い長方形に掘りこまれていたもので、その中からは、農工具類や、鉄鏃などが出土しました。農工具類は北側にまとめて置かれていました。鉄鏃は南側に二つの束に分けて置かれていました。この主体部では棺の痕跡は確認できておらず、どのような棺であったか明らかにすることはできませんでした。第三主体部は、第一・第二主体部と比べると、規模が小さく、簡単な構造をもつものです。そのため、第一・第二主体部に従属する主体部であると考えられます。


三、おわりに
私市円山古墳は、全長八一メートルの造り出しつきの京都府下最大規模の円墳であり、埴輪・葺石・段築を有するなど、由良川流域にあってきわめて卓越した様相を呈しています。古墳時代中期中葉、五世紀中頃にこの地方に君臨した大首長の墓と考えられます。
(『両丹地方史48』(88.11))

私市円山古墳の概要と被葬者像
京都府埋蔵文化財調査研究センター 鍋田 勇

一、はじめに
(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターでは、近畿自動車舞鶴線の建設に先立ち、計画路線内に位置する遺跡の発掘調査を実施している。私市円山古墳は、昭和六十二~六十三年摩に調査を行い、当初の予想を上回る成果を挙げた。以下にその概要を示す。
二、古墳の位置と立地
私市円山古墳は、京都府綾部市私市町円山に所在する。由良川中流域の中央部に位置し綾部・福知山盆地を眼下に見降す丘陵上に立地している。この立地条件の良さは、当古墳を理解するうえで、重要な点を考えられる。
三、古墳の墳形と規模
当古墳は、造り出しを有する大型円墳である。墳丘の規模は、造り出しを含めた全長で八十一メートに 高さ十メートルを測る。京都府下では、最大規模の円墳であり、由良川流域においては、前方後円墳を含めても、最大の墳丘規模を誇る。墳丘は、三段築成で構築され、二列の埴輪列を巡らすとともに、由良川から運んだ河原石を葺石として墳丘斜面に敷きつめている。また、造り出しは、葺石にて方形に区画され、その内・外両側をやはり方形に埴輪を樹立したものと考えられる。造り出しの内部では、形象埴輪(家形・短甲形等)や土師器が出土しており、造り出しにて古墳祭祀が行なわれたことを物語っている。当古墳は、墳丘規模の大きさに加え、外表施設に埴輪・葺石を有するなど、墳丘の築造にあたって、莫大な労働力が費やされていることが理解できる。このことは、とりもなおさず、被葬者の強大な政治的権力を如実に表すものといえよう。
四、埋葬主体部
当古墳では、墳頂部にて、三基の埋葬主体部を検出した。初葬と考えられる主体部は、墳頂部のほぼ中央に位置する第二主体部である。この主体部は、二段の墓壙内に組合式木棺を安置し、棺の木口・棺側及び棺上の一部に粘土を使用した構造をもつ。主体部の長軸は、東西方向である。棺内から、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・綴(金偏)・鉄刀・鉄鏃・玉類(勾玉・管玉・小玉・臼玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土した。副葬品の配置等から、被葬者は、東に頭位を向け、埋葬されたものと考えられる。第二主体部の埋葬に伴ない、南北に長軸をとる小さな第三主体部が造られている。ここからは、鉄鏃・農工具が出土している。その後、弱干の時間を経て、第二主体部の北側に、第一主体部が造られる。
第一主体部は、中心主体である第二主体部と比肩する規模と内容をもつ。棺は、第二主体部同様、長軸を東西にとる二段墓壙内に組合式木棺を安置し、棺側・棺上を粘土で被覆する構造をもつ。棺内から、短甲(三角板革綴)・冑(三角板革綴衝角付)・頚甲・肩甲・草摺・胡ロク・鉄鏃・鉄剣・鏡・玉類(勾玉・管玉・小玉・棗玉)・竪櫛等が出土している。やはり、副葬品の配置等から、被葬者は、東に頭位を向け、埋葬された可能性が強い。
第二主体部と第一主体部では、埋葬の方法や副葬品の配置に共通する点が多いが、詳しくみれば、副葬品の中でも、鏡や玉といった祭祀的色彩の強い遺物の埋納位置が変化していることや、第一主体部では、農工具類が副葬されていないことなど、軍事的・祭祀的にバランスのとれた第二主体部から、より軍事的色彩の強い第一主体部へと、被葬者の性格が変化していることが窺える。
古墳の築造時期は、これらの副葬品や埴輪から、古墳時代中期中頃(五世紀中頃)と考えられる。
五、おわりに
由良川中流域において、私市円山古墳の規模・内容は、極めて卓越しており、当古墳を綾部・福知山地域における首長墓とみることに疑いの余地はないであろう。
由良川中流域の古墳は、弥生時代の系譜をひく方墳から定形化した方墳へ、そして、前方後円墳・群集墳へと変遷していく。私市円山古墳の築造された古墳時代中期は、方墳から前方後円墳の時代へと移行する過渡期にあたる。あるいは、私市円山古墳の築造を契機として、当地域に前方後円墳の時代が訪れたという解釈も可能であろう。当古墳から出土した豊富な副葬品も、被葬者の政治的地位の高さを明確に表している。中でも、第一主体部から出土した胡ロク金具は国内でも初期段階の製品と考えられ、同タイプの胡ロク金具を出土した古墳が、それぞれの地域にて、首長墓クラスの墓であることは興味深い。しかし、当古墳の墳形が前方後円でないことは、一方でこの古墳の限界を示すものかもしれない。当古墳の第一・第二主体部の頭位が明らかに東を意識していると考えられることを在地的な要素とするならば、私市円山古墳の被葬者は、畿内政権と密接に結びつき、政治的・軍事的に強大な権力を築きあげて、当地域を支配した在地の大首長と考えることができよう。
(『中丹地方史49』(89.4))


最新のもの
コロクというのは腰に下げる矢を入れる袋で、靫(ユキ)は同じように矢を入れる物だが、これは肩にかける。
コロクはこの当時の最新式の朝鮮渡来の金ピカの武具だそう。矢は鏃を下方に向けて収め、右腰に垂下したもので、元々は騎馬民族のものであろう。元冦の図などに見える。


また900基ばかりの墳丘をとりまく大量の埴輪も当時の先端技術で製作されている。古い古墳の埴輪は弥生土器とおなじ野焼法だが、5世紀から須恵器とおなじ穴窯で焼く技術が始まり、これは古い埴輪よりも硬質でしかも多量生産に適していた。円山古墳の埴輪は穴窯生産のものとしては最古の部類に属し、先進地の技術がいち早く丹波に波及したことを物語るのだそう。
渡来の技術なので、これを焼いた所は不明だが、そこは渡来人工人の村であったろう。今のようにマニュアル本とか手引書とかあるはずもなく、技術だけがやってくるということは考えにくい、新技術を持った人の集団がやってくることなしには新しい技術が伝わることは考えにくい。日本と朝鮮との間には情報網が張り巡らされていて、人がよく動いていたように思われる。ソフトもハードも現在から想像する以上のものがあったと思われる。
誰が作った埴輪かを見分けるためにか、印がついている物もあるそう。焼物もこのころからプロ集団が作るものへと発展していったようである。私市円山古墳はほぼ同時代の周辺の古墳とはツクリが違う古墳で当時の当地社会のあり方や被葬者が問題になってくる。まだまだ研究が求められるものであろう。

←郷土資料館展示の円筒埴輪。どこの出土とも書かれていないが、当墳出土の甲冑の横にあるので、当墳のものと思われる。
規格化されているようで、しかも色が須恵器っぽい、土師器のように酸化して赤くない、穴の中で還元炎で焼かれた色なのか。しかしこの色は館内の照明によるものかどうかわからない。





当墳を復元してよみがえらせていくのがまた物語である。この古墳はラッキーな古墳のように思う。ハードは幸運にもよみがえったが、ソフト面の研究はこれからというものか。
現代の古墳づくり
綾部史談会 塩見 勝洋

はじめに
私市円山古墳は、古代から歴史の源であった由良川の中流域、綾部市の西部、福知山市との市境近くに位置する小高い丘の端部に築かれている。古墳の墳頂部は標高九五メートル、眼下にゆるやかに流れる由良川を臨んで、西に福知山、東に綾部を見渡す絶好の眺望を有している。古墳は、千五百年の眠りから覚めて平成五年五月「私市円山古墳公園」としてよみがえった。この公園整備事業は、昭和六三年の古墳発見以来、綾部市が、史跡の保存と活用を目的として取り組んできた事業である。
ここでは、その発見から保存・整備について紹介したい。

千五百年後の目覚め
私市円山古墳は、舞鶴自動車道の建設に伴う事前発掘調査によって発見されたものである。発掘を開始するまでは私市円山城館、すなわち中世の山城と考えられていたが、調査を開始してすぐに、埴輪や葺石が見つかり、この遺跡が古墳、それもかなり大型の古墳であることが判明したのである。この調査は、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターによって昭和六二年~六三年度に実施された(第一次調査)。調査の対象は自動車道の建設予定地、墳頂部の全面を含む、墳丘の造り出し側約半面であった。調査の結果、古墳の形状は、造り出し付きの円墳で、全長八○メートル(円丘部直径七○メートル、造り出し部一○メートル)。墳丘の高さは一○メートル、三段に築成され、葺石・埴輪を有することが判明した。墳頂には、三基の主体部が確認され、うち二基は、二段墓壙内に組合式木棺を置き、粘土で被覆する構造を持つ。他の一基は、小規模なものである。いずれも未盗掘で遣存状況は、極めて良好であった。棺内からは、数多くの副葬品が出土したが、甲胃・鉄刀・鉄剣・鉄鏃・胡ロクなどの武具類が豊富である。他に鏡・玉類・鉄製農工具類などがある。(これらの出土品は、綾部市資料館で展示)

保存への道
昭和六三年八月、「未盗掘の巨大古墳発見」のニュースが発表されるや大きな反響を呼び、九月の現地説明会には約千名の参加者があった。立地・墳丘規模・副葬品などどれをとっても、私市円山古墳が由良川中流域の中期古墳を代表するものであることはまちがい無く、また古墳時代における地域社会のありかたを考える上でも、私市円山古墳の持つ意義は、極めて大きいものがある。このようなことから、現状保存への熱い声がおこり、京都府教育委員会及び日本道路公団など関係機関における保存への協議が積み重ねられたのである。
当初、調査完了後オープンカット工法によって道路建設が始められる計画であった。しかし、保存への熱意がついにトンネル工法へと変更させ、古墳の現状保存へと新しい歴史の道を開いたのである。

市民参加の道
私市円山古墳の発見から保存へと進む中、市民の古墳への関心は高まる一方であったが、そのなか、市民主体の自主的な活動が起こった。平成元年三月、綾部史談会及び綾部の文化財を守る会主催による「シンポジウム私市円山古墳」が開催された。著名な考古学者も加えて市民レベルで古墳の歴史的意義を検討する試みであった。
翌平成二年三月には、綾部史談会によって市民向けの図録「私市円山古墳」が発行され、PR活動も積極的に展開された。整備基本構想が市から発表されると、これを市民参加の事業として推進するため、平成三年三月、綾部市文化協会がシンポジウム「まち・やま・みち-まちづくりと風土-」を開催した。これは、パネラーに都市計画の専門家や市内の商業・観光関係の代表も加え、私市円山古墳を例に史跡の整備と活用をさぐるものであった。
これを契機に、同年七月、「私市円山古墳整備促進協議会」が多くの市民の参加を得て結成され、現代の古墳づくりの支援が始められる。平成四年には、地元五自治会で「私市円山古墳を守る会」が発足された。史跡の活用を具体的に実践するため公園開園後も週末に売店を運営し来園者に好評を博している。

整備への道
平成元年一月現状保存が決定されてから整備を検討してきた綾部市は、二年六月、環境整備基本構想を発表、実施設計に着手した。整備に際しての基本方針は、①歴史的・学術的・文化的価値を保全し②古代の歴史学習の場として活用し③レクレーションの場としての環境を整え④まちのシンボルとして活用するというものである。
この基本方針の基、古墳を築造当時の姿に復元し、その周辺を市民の憩いの場として公園化する計画が具体化したのである。
この事業は、保存運動から市民が主体になり進められてきた経過を反映し、市民参加の古墳づくりとして進められた。前述の各市民団体が一堂に会した「私市円山古墳整備促進協議会」に市民が結集し、復元に使用する葺石用河原石の一割強約六五○○個、埴輪の設置などのための一千万円近い浄財が寄付され有効に活用された。由良川の王ともいうべき一人の人物の死によって始まった古墳づくりは、一五○○年経た現代、多くの市民の参加により再びその道を歩み始めたのである。

現代の古墳づくり
遺跡を遺跡になる前の状態に復することができるならば、保存された遺跡を訪ねる人々に豊かなイメージを与えることはまちがいない。このため復元整備は、調査結果に忠実に進めた。墳丘未調査部分の確認調査(第二次調査)も実施し、その成果を設計に反映させた。整備工事は平成三年八月に着手した。墳丘復元工事に際しては、古墳本体の保護を優先し人力により施工した。墳丘の表土をはぎ取った後、石灰と粘性土を一対三の比率で攪拌した二和土を版築状に五○センチ以上盛り、古墳本体の保護と復元する葺石の安定を図った。重機の使用を制限し、また丘の上の工事であったため、現代の古墳づくりは困難を極め、試験施工を繰り返す試行錯誤の毎日であった。約六万個の河原石を使用した葺石は、古墳時代、由良川から人手により運ばれたのとは違い、墳丘のすぐ下までダンプカーで運ばれたが、葺石の施工は古代のそれと同じく人力に頼らざるを得なかった。ベルトコンベアに盛土材や石材の搬入を頼ったが、丸く磨滅した河原石は、斜面に設置したコンベア上を転落したのでやむなく手渡しにより搬入しなければならなかった。
磁器製の埴輪レプリカは有田焼の工場で製作した。一二○○度以上の温度で焼成された埴輪は通常の衝撃には十分耐えうるが、人頭大の葺石施工中は破損の危険を伴うため、葺石施工後の設置とせざるを得なかった。その結果、埴輪の搬入は人肩に頼らなければならなかった。
現代の復元工事は、調査結果に忠実に光波測距儀をもちいるなど先端技術を駆使したものの、基本的な外表施設の復元は、古代の手法と同様人海戦術によった。墳丘の土の部分は、三段目斜面に張り芝を、墳頂・段築のテラス・造り出し上を真砂土を母材とする透水性の土舗装を施工した。全国各地で進められている史跡整備や公園整備で試行錯誤が繰り返されているが、この土舗装は、洗掘にする耐久性の問題を持っている。二ヶ年の古墳づくりは、平成五年三月に周辺整備工事も含め完了した。

史跡整備への道
近年史跡整備は、全国各地で実施されている。人工的な形での遺跡復元に異論を唱える人も少なくないが、遺跡の活用(史跡整備)に対し予算が確保され推進されている現状を考慮すれば、今後もこうした取り組みは増加するものと思われる。
遺跡の保存と活用の両立ともいうべき史跡整備は、歴史の上に立ち、新しい歴史を築いていくことである。
「史跡を持たない都市は、記憶を持たない都市である。」と言われるが、古代から人々の生活があった都市は、長い歴史の上に立ち、私市円山古墳の整備という新しい歴史を創り、新しい記憶をしっかりと刻んでいかねばならない。そして、次の世代にその記憶を伝えなければならない。
私市円山古墳を破壊から守り、次世代にその事実を伝えるために復元整備は不可欠であった。そして、復元整備が完成した今、振り返れば現代のハイウェーが、私たちの進むべき道の一つを示したのであろう。

おわりに
私市円山古墳公園は、開園以来五二、○○○人(八月末現在)の来園者をむかえ、この公園整備事業の意図した歴史遺産の継承やまちづくりへの活用は、順調に進んでいる。
開発と文化財の調和を目指し、市民参加の事業として推進された古墳整備が、未来へと歩む一つのモデルプランとして評価を受けるためには今後の一層の活用が必要であり、いかに多くの人々に育てられ愛されていくかにかかっている。
多くの市民の参加を得て実現した一五○○年後の古墳づくりは、古墳の完成を経て、いよいよ総仕上げの段階に入っている。未来への道を切り開いていくのもこれからの一人一人の力であろう。

公園の概要
 公園面積  二五、○○○平方メートル
 古墳部分面積 四、二○○平方メートル
 新たに葺いた葺石  六○、○○○個
 埴輪レプリカ     八九七基
 駐車場兼イベント広場四、五○○平方メートル
 公園施設
  墳頂の埋葬施設 磁器プレートで出土状況
          を写真標示。
  休憩案内施設  あずまや・解説板
   * この公園の特徴ある設備として、ライトアップ設備があり、週末の夜空に古墳を浮かび上がらせている。
(『中丹地方史58』(93.10))


ぜひ訪れてみて下さい。


浄土真宗本願寺派光魏山安楽寺

安楽寺(真宗西本願寺末寺)
所在地 佐賀村大字私市小字上野
本尊  阿弥陀如来
創立  文化八年辛未正月
(『佐賀村誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


私市の主な歴史記録


由良川の私市わたし
福知山市・佐賀小三年尾松さわ子
わたしは、おじいちゃんとおばあちゃんとお父ちゃんに昔の「由良川の私市わたし」のことを、聞きました。私市のわたし船は、今、六五才のおじいちゃんの子どものころからあったそうです。わたし船は、あやべ市私市の大島きくぞうさんが、由良川のどての上に家を建てて、川の魚を取りながら、わたし船の船頭さんをしておられました。そして、私市区からたのまれて、雨の日も風の日もまい日川をわたりたい人があれば、私市のていぼうから川むこうのおき村の川原まで、わたしてあげていました。わたし船は、両方の岸に太い強いはり金がはってあって、そのはり金に船をつないで、手ではり金をつたわりながら、流れをよこぎって、むこう岸までひっぱっていくのです。夜になると、おき村の川原から、ちょうちんを大きくまるく何べんもふって、きくぞうさんに合図をおくり船をたのんだと、お寺のおしょうさんが話してくださいました。わたしちんは、二銭や五銭わたしておったといわれました。昭和二八年九月、十三号台風で由良川は大こう水になりました。その時、私市のていぼうがきれて、きくぞうさんの家も、いっしょに流されてしまいました。その年の由良川の近くは大水害だったそうです。それでとうとうわたし船はなくなりました。私市わたしの上流には、小貝のわたしもあったそうで、今はそこに木の橋がかかっています。おばあちゃんもお母ちゃんも、昔たびたび私市わたしを、船でわたられたそうです。わたしは「一度、わたし船に乗ってみたいなあ。どんな感じかな。たぶん大ぜい乗れるやろなあ」と思って、そのことをお父ちゃんに聞くと、「船は大きいで、二十人ほど乗れたなあ」と、言われました。どうして、わたし船に乗ったかというと橋がないからぐんと大まわりをしないと行けません。私市わたしを船でわたると、半分ぐらいの道のりで、すんだそうです。そして、おじいちゃんが、「元気な、船わたしのおじいさんもなくなられたし、川のていぼうに行っても船に乗る時通った道も、水に流れてしもて、今はないよ」と、言われました。わたし船がなくなっても、わたしは、船のことも由良川の私市わたしのことも、よくわかりました。でも一ぺん乗ってみたかったと思います。
(『由良川子ども風土記』)


伝説





私市の小字一覧


私市町
一盃水 堂ケ谷 クゴ 合 大馬場 田中賀 山田 北京 上野 扇山 正月ケ谷 敷谷 岩ケ端 堂ケ谷 城山 池尻 岩ケ鼻 上野 西ノ段 桜谷 地畠 皆木 麦原 上深田 上一本木 長内 新土畑 平田 ヌタリ 小貝 出溝横提ノ内 上提ノ内 下提ノ内 大町 細田 上麻 竹ケ下 中村段 左古 猿田 提外 嘉門田 岩ケ端 大将軍 池尻 正月ケ谷 敷谷 横提下 乗四文字山 西四文字山 円山 柳谷 西林ノ谷 東林ノ谷 中山 間ノ山 西谷 坊ケ谷 北京 一盃水 桜谷

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ



資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2017 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved