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丹波の

小西(こにし)
京都府綾部市小西町


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京都府綾部市小西町

京都府何鹿郡豊里村小西

小西の概要




《小西の概要》

由良川支流犀川右岸、高速を北ヘ越えた所の農業地域。東部に耕地、西部に集落がある。府道小西西坂線(489号)が東部から北部を横断。昭和30年代以降、中央部の台地を開拓して茶園を造成し、茶の生産額が多い。
小西村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年小畑村の大字となる。
小西は、明治22年~昭和30年の大字。はじめ小畑村、昭和24年豊里村、同30年からは綾部市の大字。同年11月小西町となる。
小西町は、昭和30年~現在の綾部市の町。


《小西の人口・世帯数》 235・71


《主な社寺など》

成山古墳群(中丹最古の古墳群)

成山というのはこの山↑。山というか丘陵というか、半分以上が茶畑になっている。この上に三つの中丹最古、卑弥呼古墳の時代(墳丘墓か、その堺目の時代)がある。高速の私市トンネルを舞鶴側へ出たところから北側によく見える山。

坂根正喜氏の航空写真↑(上の地べたからの写真(南東から)の反対側(西側)上空から)この茶畑の上の方にあるが、わからない。
成山三号墳↓と出土品(いずれも『宝蔵山古墳と成山古墳』より)


昭和40年(1965)に、茶園を作る農地開発に先立ち、10日間ほどで2基の緊急発掘調査が行われた。最も高い所の一号墳はそのままに残している。二号墳(一辺18m・高さ2.5mの方墳。割竹形木棺5m直葬)も高い所にあり、舶載の飛禽文鏡1面(9.5㎝)、青色ガラス小玉数十個が出土。築造年代は3世紀の終わり頃と推定さけている。
その少し低い所にある三号墳(一辺20m・高さ1.5mの方墳)は木棺直葬墓(第一主体)であるが(?)、その棺底より約20センチ下に「第一主体部」とは別個の施設(第二主体)が発見された。この遺構からは壷形土器6個が出土したが、いずれも弥生式土器に近いもので、当墳の築造時期は3世紀の中頃、中丹地方最古の埋葬施設であるとされている。箸墓古墳の頃で、赤坂今井墳丘墓よりほんの少しあとになる、卑弥呼の墓かも知れない時代のものになる。

最古の古墳
由良川水系で最古の古墳と認められるものは、図115に示したとおり成山3号項である。第2主体部から出土した二重口緑壷4点は、いずれも底部穿孔を伴うもので、土器蓋土坑墓という特殊な主体部の蓋に転用されているものの、本来は古墳の墳丘上に立て並べることを目的として焼成された儀器である。このような底部穿孔の二重口縁壷を伴出する古墳は、奈良県の箸墓古墳や桜井茶臼山古墳などのように、古墳前期でも古く位置づけることができる。成山3号項の場合、二重口緑壷に伴って日常容器の壷と甕各1点が出土しており、古墳の築造年代を詳しく知ることができる。突出気味の小平底をもつもので、弥生土器の様相をとどめる最古の土師器と評価される。編年図の最上段に並ぶ赤坂今井墳墓、内場山墳墓、園部黒田古墳(墳墓)の3基の弥生時代末期とされる墳墓遺跡出土の土器と先後関係を認めがたい土器だが、底部穿孔二重口緑壷を伴うことのみを根拠に由良川水系最古の古墳と認定したものである。
二重口縁壷4個体のうち3個体が長胴で下ぶくれの体部をもつ平底の土器で、ナスビ形土器と呼ばれる東海系の土器である。東海地方からの人・物の移動を物語る。大風呂南1号墓出土の鋼釧と同タイプの鋼釧が名古屋市三王山遺跡から出土し、赤坂今井墳墓からは東海系の土器が複数出土している。尾張の勢力と結び、由良川加古川の道-氷上回廊の掌握をめざした初期タカノ王権の動向を物語る考古資料である。
ところで、前項でも少しふれたが概報に提示された図を見る限り、成山3号項の第2主体部は下層遺構で、墳頂部中央の下層に古墳本来の被葬者を納めた中心的埋葬施設が埋もれているはずである。つまり、項項部中央の埋葬施設は、上下二層構造となっていた可能性がある。第2主体部の小児埋葬は、その中心的埋葬施設に付随する陪葬遺構とみられる。こうみることによって、第2主体部の資料価値を正しく評価できると思われる。茶園と化してしまった現在、下層の中心主体を確認するのは不可能に近い。未調査のまま消滅したかも知れない。だが、下層の中心主体が、赤坂今井墳墓や大風呂南1号墓のように地下深く掘られていたならば、茶園の地下に今なお、ひっそりと生きながらえている可能性がある。
(『宝蔵山古墳と成山古墳』)

三号墳の「第一主体」と呼んでいるものは、主体ではなく、本来の主体はその下にあって、それが陥没した際にできたヘコミを誤ってそのように認識したのでなかろうか、というのである。第一主体は見落とされて発掘されずに残っているかも知れないということのようである。土師器ばかりだから古いことは間違いはなく、時期は卑弥呼直後の時代とされる、当古墳群も何か女性的でここも女王墓かも知れない。


三宮神社

成山古墳の少し北側の山の中に鎮座。

三ノ宮熊野大権現   小西村 黒田ニ 産神
祭ル神        祭礼 九月十六日
社六尺ニ一間半 三社作辰己向也 二間ニ四間舞堂
鳥居有 境内凡廿間ニ五十間  (『丹波志』)

三の宮神社
所在 豊里村字小西小字中山
祭神 事解男之神、伊邪那岐神、速玉男之神。
由緒 口碑に云う「往古は同村小西小字古宮に鎮座ありしが、何れの時代にか現在の地に移遷せり。」と。又元禄十三年社堂改帳によれば、「此神社者昔小畑庄に熊野表三山奉遷三社其一座と申伝候」とあり。再建貞享三年、改修昭和三年。
末社
・稲荷神社
所在 字小西小字宮の前 祭紳 倉稲魂神
由緒 創立不詳、享和三年再建
・八坂神社
所在 字小西小字荒神下、祭神 健速須佐之男命。由緒 不詳 俗称小西神社又祇園神社
・秋葉神社
所在 字小西小字宮の前、祭神 迦具土神
・大川神社
所在 三の宮境内、祭神 風火金水土神
由緒 不祥、口碑には往古山頂に祀る後、森ケ下に奉遷、天明二年社殿再建、明治六年現地に移遷とあり。
(『豊里村誌』)

荒れてるなの感じがあるが、三の宮神社は、元禄13年(1700)の記録(「何鹿郡町村誌」所収)は同社について、「此の神社は昔小畑の庄に熊野表三山を奉遷せし三社中の其の一座と申伝候」とあり、鍛冶屋町の一の宮神社、小畑町の熊野神社(旧二の宮神社)と合わせて、かつて小幡庄に熊野三山が勧請されたことがうかがえるという。三社いっしょの祭礼を「小畑祭」と称し、戦前は神輿屋台の行列・大名行列など盛大に行われていたという。


高野山真言宗今田山惣持院

案内板がある。

今田山 総持院
当山は、高野山真言宗 今田山総持院と称す。開基は弘法大師御弟子真如法親王と伝えられる。本尊は聖如意輪観世音菩薩である。寺伝によると承和年間(八三四~八四七)左大臣藤原冬嗣が藤原氏繁栄を願い、南都(奈良)南圓堂本尊と一木同体の如意軸観音を この地に安置し七堂伽藍を建て 下寺共十七坊を有し東の八幡宮を鎮守とし、当地方の信仰の中心地となった。
 それより約百年度 承平年間(九三一~九三七)醍醐天皇の第二王子といわれる 光勝空也上人当地方を巡錫の砌、当山に参詣なし 本尊有るも山内荒廃するを嘆き、広く浄財を募りて 伽藍を再建中興開山の組となる。
 それより一千有余年、当山は再三雷火によって その大部分が焼失したが 本尊は残らせ給い、今日尚 諸病平癒、厄難消滅、殊に安産の守り本尊として広く信仰を集めている。現在の本堂は、明治四十五年第十九世寛澄上人によって建立せられ、昭和四十九年四月、檀中を始め信心の大衆の浄財を以って、はじめて屋根葺き替え等の大工事と、空也上人一千年御遠忌を記念して大法要を奉修した。平成十五年新たに本堂葺き替え大事業を完成した。第二十一世 裕寛謹誌

今田山如意輪寺惣持院 真言宗高野山末
            小西村 今田境ニ
空也上人開基 方丈庫裡 別ニ観音堂三間四面郡二十番ノ札所 本尊観音弘法大師作 境外ニ鎮守八幡宮当村栗村立合持也 当寺古ハ一段下ニ有之 今ノ所ハ本堂屋敷也 往古大寺寺領六千石 是ヨリ八丁南ニ当リ石原境ニ大門古跡有リ 往古寺場十一箇所古跡 字ニ惣門立石五重ノ塔屋敷古跡十王堂アリ
(『丹波志』)

総持院 小畑村字小西にあり、普明山如意輪寺と号す。真言宗にして古くは今田山総持寺と称せしを貞享二年住持祐雄阿闍梨の時改称したり。
 総持寺は下寺共に十七坊。伽藍繁栄の地なり。往時雷火にて悉く焼失したるを、貞享二乙丑の年住持祐雄阿闍梨普明山如意輪寺と改め候。煙焼の節は本尊焼け給はずして、昔の古仏なり、懐妊産出之守護尊仏として徳あらたにて、今に諸人崇敬仕り候。繁昌の時の堂跡に礎の石有り、鎮守は八幡の宮殿と申して結構の古跡あり、尤も破損に及候。(元禄十三年の記録)
(『何鹿郡誌』)

総持院(普明山如意輪寺)
所在 豊里村字小西小字中小路
本山 高野山宝城院末寺
宗派 真言宗 本尊 如意輪観世音菩薩
縁起
真如親王の開創、往古の本堂は七間四面唐様の作.下寺共に十七坊あり。今田山総持寺と称し。七堂伽藍を備えた宗教の一大中心地。本尊は南都南円堂の観世音と一木同体、弘法大師の作。其の後百余年を経て、空也上人大破の伽藍を再建、爾後上人を開基と申伝。後年次第に衰退。永正十年住持覚雄の時仏体に彩色、後年更に衰微し草堂仮屋に安置するも霊験顕かなりと、寛永十五年祐慶阿闍梨来って再建、貞享二年阿闍梨祐雄更に修復し寺号を普明山如意輪寺と改称、正徳年中隆海阿闍梨本尊を修理し、享保年間本堂と造営して中興の開基となる。(享保二年の縁起書)
 現在本堂は明治四十五年の建立。
…懐妊産生の守護尊、仏徳あらたにして、今に諸人崇敬致仕候…(元禄十三年社堂改帳)
什物
・若沖や鶏墨絵、屏風一双、滞在中に残す。
・額面、世のつねは長き春日にながながと 咲きて下るる庭の藤花
広庭に巨藤があつて名物となっている。これは弘法大師が藤原氏繁栄のため手づから植えられたという。
・仏像 仏画多数あり。
・大師堂 本尊大師尊像は高野山宝城院より。
・庚申堂 本尊大青面金剛、創立不詳
・地蔵堂 本尊地蔵菩薩、享保三年再建
・弁天堂 本尊弁天尊、文化十年再建
(『豊里村誌』)


鎮守・八幡宮社

当寺の隣にある、案内板は豊里村誌とだいたい同じのため略す。


八幡宮社
所在 豊里村字今田小字長源名
祭神 応神天皇 仲哀天皇 仁徳天皇 神功皇后 武内宿祢
由緒 不祥、本社は惣持院の鎮守、小西、今田立合の宮、往昔は結構の宮なりしも、今は大破して昔日の面影を止めずと。
資料 元禄十三年社堂改帳に曰、「八幡宮、普明山如意輪観音鎮守也。(中略)右神社は小西村今田村立合の宮にて則境内も両村入組ニ侯」と。
伝説口碑
昔、本社に左甚五郎の作と伝える蝉錠あり。時ならぬ季節に蝉の鳴声を発す。人々不思議がり稀代の奇宝として珍重せしが、慶長五年九月、福知山城主小野木縫殿介、丹後国田辺城主(現舞鶴)細川幽斎を攻めんとして出陣の途次、鍛治屋村の敵を攻撃し、その残卒女当社に潜伏せずやと疑い、扉の外より刀を以て五度突通し、不図金櫃の蝉を刺衝し、その際よりとの蝉錠も鳴き止めりと。
刀痕は今に歴然と残っている。(一説に三坂女郎物語と関連せる伝承あり。)(別項参照)
境内末社
・水神宮 創立不詳、明治二四、五、二五再建
(『豊里村誌』)


小西城
小西城跡


《交通》


《産業》


《姓氏》


小西の主な歴史記録


成山古墳
成山古墳群は、館町弥生遺跡の西方約一キロメートル、綾部市小西町中山にあって、平地からの高さ約三〇メートルの丘陵上にある三基の古墳群である。一号墳は現状保存、二、三号墳の二基は昭和四十年五月に、府教委文化財保護課によって発掘調査が行われた。
二号墳は直径二〇メートル、高さ二・五メートルの円墳で、南側には幅四メートル、深さ〇・三メートルの周濠の痕跡がみられた。主体部は表面下約七〇センチメートルのところにある土壙墓で、割竹形の木棺が埋蔵されており、棺中央から鏡一面と、青色ガラス小玉が数十個発見された。鏡は直径九・五センチメートルの白銅鏡で、舶載鏡とみられ、わが国でも出土例が数個しかない飛禽文鏡である。
三号墳は一辺約二〇メートルの方墳である。高さ約一・五メートルで各辺は方位線と一致している。主体部は主軸をほぼ東西にもつ土壙墓で、長さ四メートル・幅〇・六メートルの組み合わせ式木棺が使用されていたと推定されている、副葬品は棺底部に土師器の細片が検出されたのみであった。
この主体部の調査を終えて棺の東西にトレンチを拡げたところ、棺の西側に接して、棺底より約二〇センチメートル下の部分に土師器の破片が発見された。土師器の周辺に灰白色粘土で固められた礫層があり、さきに発見された三号墳主体部とは別個の施設であると思われた。
調査の結果、東西一・五メートル、南北一・四メートルの土壙の中央に、砂利を厚さ一〇センチメートル前後にわたって敷きつめ、大型の壷形土器四個を置き、周囲を灰白色の粘土で固めた後、壷の破片で上部を覆い、さらに礫と灰白色粘土で周囲を固めた遺構であった。この四個の大型壷形土器は次の二形式に分けられる。
(一)高さ六〇、口縁直径三〇、胴径四一(単位センチメートル)
口縁部がいちじるしく外反し、外側に竹管文があり、底部には焼成前に孔があけられていて、平底である。
(二)高さ四九、口縁直径三五、胴径四二(単位センチメートル)
胴部が球形であるほかは(一)と同じである。
この成山三号墳下部遺構から出土した壷形土器は、その外観や特徴において弥生式土器の製作技術が器面にあふれていることを感じさせる。これとほぼ同形式の壷形土器が、桜井市茶臼山古墳(四世紀)から出土しているが、ともに底部に焼成前より穿孔されていることは、壷としての役割を否定したものであり、埴輪円筒の祖形と考える説もある。こうしたことから考えると、この成山三号墳下部遺構は四世紀には築造されていたものと思われる。
このことは、中丹地方で現在発見されている古墳の遺構としては最も古いものであり、この地方における弥生時代から古墳時代への、過渡的な埋葬方法をしめすものと考えることができよう。
(『綾部市史』)


伝説







小西の小字一覧


小西町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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