故屋岡(こやおか)
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京都府綾部市故屋岡町古和木・八代・小中・川原 京都府何鹿郡奥上林村故屋岡 |
故屋岡の概要《故屋岡の概要》 上林川と支流古和木川の合流点付近一帯に位置する。上林川沿いと府道小浜綾部線(府道1・若狭街道)、古和木川沿いに府道名田庄綾部線(府道771)が走る。東端の古和木川の水源にあたる頭巾山(871m)を隔てて北桑田郡美山町、北は福井県遠敷郡名田庄村に隣接。農林業を主とし、八代最寄の早稲谷では大規模な造林が行われている。また近年アマゴが放流されている。川原最寄は旧奥上林村の中心地で、奥上林郵便局・診療所などがある。 故屋岡村は、明治7~22年の何鹿郡の村。古和木・八代・小中・川原の4か村が合併して成立。村名は合併各村の頭音を合成したもの。。同22年奥上林村の大字となる。 故屋岡は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ奥上林村、昭和30年からは綾部市の大字。同年故屋岡町となる。 故屋岡町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。 古和木(こわぎ・小和木・強木 ) 上林川の支流古和木川流域に位置する。東は尼来(あまき)峠を経て遠敷郡名田庄村に、尼公(にご)峠を経て大飯郡川上に至る。 中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「強木」とみえるのが初見。元禄一三年(一七〇〇)の知行所村高付帳でも「強木村」とする。旗本城下藤懸氏領。 宝永元年(1704)の反別帳(入江家文書)に 庄畑二七人中と申祖あり、其祖之心付定成地之内ヲ 御宮田と定、尤我等おやの代迄ハ右田七人発と申□ 之支配年かわりに作りたし、其年ニ当り人上座あと 先之人左右に座をつくり候由(中略)、但七人衆と申ハ 万所家、次ニ大下・大江・大前・上むかい・下むか い・おちや右七人也 とあるそうで、草分け百姓による宮座があったことをうかがわせる。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年八代・小中・川原の三ヵ村と合併して故屋岡村となった。 八代(やじろ) 上林川上流域の左岸、支流古和木川・早稲谷川との合流点に位置する。東は古和木村、西北は小中村・川原村。南方の支谷は早稲谷(わさたに)とよぶ技村。旗本城下藤懸氏領。 中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「八重代」とみえるのが初見。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年川原村・小中村・小和木村と合併して故屋岡村となった。 「丹波負笈録」は
『丹波志』に、
小中(小仲) 上林川右岸の山麓、若狭街道沿いに位置する。村の西南方で支流古和木川が合流。上流は技村の神塚(こうづか)を経て光野、西は川原。 中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「小中 山本方」とみえるのが初見。山家藩領。 明治4年山家県を経て京都府に所属。同7年川原村・八代村・小和木村と合併し故屋岡村となった。 川原 有安村の一つ上流、上林川両岸の山麓にある。村内を東西に若狭街道が通る。 中世は上林庄の地。村名は天文年間の勧進奉加帳に「川原 兵街」「川原 婆」などとみえるのが初見。はじめ旗本城下藤懸氏知行地、元禄2年から旗本小山藤懸氏知行地。 明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年川原村・八代村・小中村・小和木村が合併して故屋岡村となった。 当地が奥上林村の中心地であった。 《故屋岡の人口・世帯数》 191・91 《故屋岡の主な社寺など》 白鬚神社(黒土大明神)(故屋岡町八代) 集落の少し高台に鎮座。案内板がある。 白髭神社 祭神 仲哀天皇(黒土大明神と呼称) 旧記は焼失したとあるが棟札の写しと思われ貴重な文献があり(志馬愛之助氏所蔵)それによれば次の様な旧い由緒を持っている。 本社建立 建治二丙乙年(1275年) 当社造替 暦応三庚辰年(1340年) 檀那 沙弥信収 沙弥尭 沙弥道 清原仲継 藤原高継 同郷鶴丸 番匠三百三十人 当社造替 享保元辛酉年(1801年) 氏子 栃谷 大唐地 小唐地 当社造営 文化貮乙丑年(1805年) これが現在のもので享和年中のものは焼失 昭和五十八年七月 綾部観光協会
白髭は滋賀県高島郡の琵琶湖の中に鳥居がある神社が本社。白髭神は裏山の比良神と言われる。ヒラはシラで新羅のことという。あのあたりからやって来た人達が祀ると思われる。 頭巾山(ときんざん) こんな案内板もあるが、麓からは見えない山である。 頭巾山 頭巾山は、綾部市と南丹市にまたがり、北は福井県大飯郡おおい町に接する標高871mの非火山性孤峰です。 言い伝えによると、弘法大師の雨ごいの祈とうが行われた場所とされており、古くから水の守り神として、山麓の集落から尊崇を集めています。 山中には府内有数のブナ林が見られ、シヤクナゲの古木が生育しているとともに、ニホンカモシカ等の大型は乳類も生息するなど貴重な自然が残されています。 君尾山光明寺の参道、稜線から望む。↑ここまで登ってもよくは見えない、たぶん一番右(南)のピーク、そうでなければその左のピーク、かと思われる。綾部市の最高峰(871M)だが、綾部市民でこの山を見た人は何人いることだろう、まして登った人はどれほどあることだろう。山頂が山伏の頭巾のような形状であるため名付けられたともいうが、そうではなく時権現が祀られているのでこの名があると思われる。 石楠花の自生地として知られる。山頂に許波伎(こわぎ)神社が鎮座。「若狭国遠敷郡式内社の「許波伎(コハキ)神社」に比定される。地元では強木(こわぎ)権現とよばれた。現在も三方の山麓集落(故屋岡町古和木・美山町山森・名田庄村納田終)が共同で祭礼を行っていて、祠の鍵は古和木で預かっている。 女人禁制の山で、破れぱ洪水があるという。山麓で小石を拾い山頂に積むという積石信仰の風習がある。
山口神社(故屋岡町古和木) 古和木川の本流と支流の合流点にある低地で、府道771号が通る小さな堤防で隔てられている、大洪水にはひとたまりもないようなところ。 下流を向いて写す。道路は府道771号、右手から流れ込むのが古和木川の本流。さかのぼると佐分利谷へ出る。道路右手か鎮守の森。川の水が美しい。アマゴが獲れるとか。カメラのある方をさかのぼると遠敷郡の奥や北桑へ出る。
古和木という当地の地名からしても、若狭国遠敷郡式内社「許波伎神社」と関係がないはずはない。許波伎神社とは古和木神社のことでおそらく本来は当地の神社であったものと思われる。 本当は桑田(小和田か)と徳木(とき)神社の2社だという。コワタトキがコワギとなったのかも知れない。 『遠敷郡誌』には記載がないが、『大飯郡誌』に、(図も)
トキとは 頭巾山のトキと思われるが、明智光秀の祖は岐阜県土岐郡(岐阜県土岐市)の土岐氏だそうだが、都祁とも書いてツゲとも読んでいる。 トキは古代新羅語の「日の出」の意味かと思われる、下流に白髭社があるので、新羅系の人々の開発になる地であったのではなかろうか。 「日ノ出」を祀る頭巾山とは日ノ出山のことだろうから、当地側から祀るのでないとおかしい、遠敷や北桑側からでは「日ノ暮」の位置になる。げんに鍵取は当村にいるという。 トキの言葉は大昔に忘れ去られていて誰も知るまい。岩波の『古語辞典』にもこの意味はない。 暁(あきつき)はアカトキだという、今の日本語に残るトキという言葉ではなかろうか。トキという鳥は羽の下がトキ色をしている。トキ色はアカトキの空の色の意味であろう。鶏がトキを告げる、のトキもこの日ノ出の意味であろう。 「頭巾山」「頭巾山」「頭巾山」 天神社 神塚(こうづか)のバス停の川を挟んだ向かいのこんもりした鎮守の森にある。
塚というのか、そうした感じの自然地形なのか、本当に人工の塚があるのか、わからない、当地のそれを神塚と呼んできたものか。やがてそこへ降臨する天の神様を祀る祠が作られ、天神社と呼ぶようになったものか。菅原道真などは何も関係なかろう。 臨済宗妙心寺派示現山無量寺(故屋岡町小仲) 今は小中公民館となっているよう。
臨済宗南禅寺派松本山渓徳院(故屋岡町古和木)
《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 故屋岡の主な歴史記録故屋岡の伝説『何鹿の伝承』 頭巾山と龍神 奥上林村故屋岡小和木区と、北桑田郡山森との山境に、何鹿の最高峯「頭巾山」というのがあります。山の頂には小さい祠があって、雨の神、青葉権現とも、強木権現ともいっています。「延喜式内社の許波伎神社なるべし」と『何鹿郡誌』には書いてあるが、かかる山頂に、しかも雨の神としての神社をお祭りしてあることは、興味ふかいものがあります。 霊泉や雨乞の傳説は、全国的に弘法大師の功徳と結びつけたものが、非常に多いのでありますが、頭巾山にもつぎの傳説がのこっています。 平安朝の天長元年(八二七年)の夏は非常な旱天がつゞき、天下の民は大いに困窮いたしました。朝庭は僧都守敏の乞をいれて、雨乞の祈祷を許しました。すると、七日にいたらずして降雨がありましたが、しかし、それは京都地方だけにしか降らなかったので、地方のものは相変らず大いになげき悲しみました。 朝庭では、こんど、弘法大師に雨乞を命じました。弘法大師は、有名な神泉苑で(いま、東寺に属し、平安京造営のとき、つくった大内裏の禁苑であって、いま、当時のものが、のこっているのは、ここばかりである。京都市上京お池通大宮西入ル)大祈祷をしましたが、なかなか効果がありません。大師は、これは、ひょっとすると、わが法敵である守敏が、呪力で諸龍をしばって瓶中に、封じこめているから、龍神がでられないのだ。と、思って、今度は法をかえ、天竺無念池の善女龍に請じて、祈りはじめますと、こんどは、瓶中から、猛然と諸龍がとび出し、雷声すさまじく、雨をふらしつゝ四方にとびました。そのうちの一つが、西北の空にとび、丹波の頭巾山に姿をかくしたと伝られています。 また、一説に、あるみすぼらしいお坊さんが、麓の北桑田鶴岡村字山森から、頭巾山にのぼるうとして、この村を通りかかりました。山森の民家のひとりの女が、そのお坊さんの白衣が汚れているので、洗って進めると、お坊さんは大変喜こんで山に登りましたが、そのまま、帰って参りません。山森の人々は、雨がなくて困っていたが、それから、雨がほしいようになると、頭巾山に雲がかかって、いいあんばいに雨が降ってくるので、このお坊さんこそ、雨の神の化身とあがめ、お祀りしました。青葉権現というのが、それだともいい傳えられています。それから、山森以外の女が登山しようとすれば、祟りがあるというので、もし、乞雨祈祷のため登山しようとするときは、山森村に一宿して、一たん山森の女となり、登山すると、後難がなく、霊験もあらたかであった。と、傳えられています。 頭巾山には、かつて若狭の遠敷郡、桑田郡、船井、わが何鹿はもちろん、遠く播州方面からもお参りしたといわれますが、いまは、すっかり廃れています。 引用文献 「何鹿教育」 第三八号 昭和四年六月 『京都丹波・丹後の伝説』 頭巾山 北桑田郡美山町山森 美山町鶴ヶ岡、堀越峠のテレビ塔近くから西北方を望むとはるかな山なみの中にひときわ高く見えるのが頭巾山。この頂上には雨ごいの神さまとして広く知られている青葉権現の小さなほこらがあり、鶴ヶ岡校児童たちのよい遠足の場となっている。 昔、身なりのみすぼらしい、どこからきたとも知れぬ一人のお坊さんがふもとの山森地区からこの頭巾山に登ろうとした。ところが、この坊さんの着ている白い法衣が、ひどく汚れているのを見かねた地元の娘さんが、親切にこの法衣を山森川の谷水できれいに洗たくしてさしあげた。 坊さんは大変喜んで山に登ったが、そのままいつになっても下山しなかった。山森の人たちから〝あの坊さんは何かの化身であったに違いない〝 とのうわさが広がり、これをおまつりしたのがこの青葉権現という。このことがあってからは、この山森川の流域以外の女性が、この山に登ろうとすると、たちまち何かのたたりをうけるとされ、雨ごいの女たちは、一たんこの山森の地で一泊して土地の人になりすまし、登山すると後難がなかったという。 また、この権現に参る人たちはふもとから小さい石ころをいくつか拾って山頂まで持ち運び、お堂の周りに積みおくならわしがある。これとは逆に、山上の石ころをたとえ一個でも持ち帰ると、たちまち神罰をうけてその土地は洪水に遭ったといい、安政年間、この禁をおかしたものがあって村は大洪水で大弱り、庄屋にわび状を入れてあやまった。このわび状がいまも鶴ヶ岡のある旧家に残っているともいう。 このごろでは、干ばつ、日照りが続くと、近くの船井郡や綾部市のほか遠く大阪や兵庫あたりの農家の人たちが雨ごい祈願のため権現さまに参る。 〔しるべ〕 頭巾山は山森地区の国鉄バス京鶴線の鶴ヶ岡終点から約四キロ、ここから約一キロ坂道を登ると遠くに日本海を望む山頂に達する。標高八百七十一メートル 美山町で七番目に高い山である。 故屋岡の小字一覧故屋岡町 上前 西川原 下川原 大道 幸ノ神 三反田 上遊里 上前 西川原 大道 西ノ谷 寺谷 砂ケ谷 白尾 上ノ台 千田 下千田 神塚 神塚下 小中 小中下 小中谷向町 宮ノ越 小山 遊里ノ下 上河原 桂谷 追越 畑竹 神子谷下 坂本 神子谷 白尾 上ノ台 千田 千田上 神塚 神塚ノ上 畑竹 小中屋 小中奥 神子谷上 上ノ台上 遊里ノ上 有安谷ノ上 桂谷 坂本上 戸矢谷 小中尻 下遊里 八代下 仲通 在中 馬場 在安谷 檜谷 木戸 鯛ケ谷 高良 初前 裸 方町 土野 大井苅口 堂ノ下 立合 八代谷 足谷 御用谷 井根ケ谷 大内 真奥 細谷 黒土 八代下 仲通 在中 馬場 在安谷 檜谷 木戸 鯛ケ谷 高良 初前裸 清水 大井苅口 シモカ谷 八代谷 足谷 御用谷 井根ケ谷 大内 真奥 黒土 藤田 懸登 谷ノ下 菅谷 桑架 平田 平垣 庄畑 口小和木谷 奥小和木谷 岩村 行谷 大コモ 石ケ谷 仲村 朝根 尼公 上ケ谷 アゲ谷 藤田 懸登 谷ノ下 菅谷 桑架 平田 平垣 庄畑 口小和木谷 シユリ 岩村 行谷 大コモ 庄畑上 石ケ谷 平垣上 上ケ谷 岩村上 三ノ谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『何鹿郡誌』 『綾部市史』各巻 その他たくさん |
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