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故屋岡(こやおか)
京都府綾部市故屋岡町古和木・八代・小中・川原


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京都府綾部市故屋岡町古和木・八代・小中・川原

京都府何鹿郡奥上林村故屋岡

故屋岡の概要




《故屋岡の概要》
上林川と支流古和木川の合流点付近一帯に位置する。上林川沿いと府道小浜綾部線(府道1・若狭街道)、古和木川沿いに府道名田庄綾部線(府道771)が走る。東端の古和木川の水源にあたる頭巾山(871m)を隔てて北桑田郡美山町、北は福井県遠敷郡名田庄村に隣接。農林業を主とし、八代最寄の早稲谷では大規模な造林が行われている。また近年アマゴが放流されている。川原最寄は旧奥上林村の中心地で、奥上林郵便局・診療所などがある。
故屋岡村は、明治7~22年の何鹿郡の村。古和木・八代・小中・川原の4か村が合併して成立。村名は合併各村の頭音を合成したもの。。同22年奥上林村の大字となる。
故屋岡は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ奥上林村、昭和30年からは綾部市の大字。同年故屋岡町となる。
故屋岡町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


古和木(こわぎ・小和木・強木 )
上林川の支流古和木川流域に位置する。東は尼来(あまき)峠を経て遠敷郡名田庄村に、尼公(にご)峠を経て大飯郡川上に至る。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「強木」とみえるのが初見。元禄一三年(一七〇〇)の知行所村高付帳でも「強木村」とする。旗本城下藤懸氏領。
宝永元年(1704)の反別帳(入江家文書)に
  庄畑二七人中と申祖あり、其祖之心付定成地之内ヲ
  御宮田と定、尤我等おやの代迄ハ右田七人発と申□
  之支配年かわりに作りたし、其年ニ当り人上座あと
  先之人左右に座をつくり候由(中略)、但七人衆と申ハ
  万所家、次ニ大下・大江・大前・上むかい・下むか
  い・おちや右七人也
とあるそうで、草分け百姓による宮座があったことをうかがわせる。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年八代・小中・川原の三ヵ村と合併して故屋岡村となった。


八代(やじろ)
上林川上流域の左岸、支流古和木川・早稲谷川との合流点に位置する。東は古和木村、西北は小中村・川原村。南方の支谷は早稲谷(わさたに)とよぶ技村。旗本城下藤懸氏領。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「八重代」とみえるのが初見。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年川原村・小中村・小和木村と合併して故屋岡村となった。
「丹波負笈録」は
八代村 民戸三十五軒  藤懸領
支川原 家数二十軒 当谷小山領
八代奥小和木道八丁奥 左ハ小和木 右早苗谷道 村より二十町許 同村の内古由緒の家十軒 今ハ六軒 山中ナリ
奥八端滝と云 布八端はえへる如き名高滝あり

『丹波志』に、
八端滝    八代村
布八端ノ丈威 名高滝ト云


小中(小仲)
上林川右岸の山麓、若狭街道沿いに位置する。村の西南方で支流古和木川が合流。上流は技村の神塚(こうづか)を経て光野、西は川原。
中世は上林庄の地。地名は天文年間の勧進奉加帳に「小中 山本方」とみえるのが初見。山家藩領。
明治4年山家県を経て京都府に所属。同7年川原村・八代村・小和木村と合併し故屋岡村となった。


川原
有安村の一つ上流、上林川両岸の山麓にある。村内を東西に若狭街道が通る。
中世は上林庄の地。村名は天文年間の勧進奉加帳に「川原 兵街」「川原 婆」などとみえるのが初見。はじめ旗本城下藤懸氏知行地、元禄2年から旗本小山藤懸氏知行地。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年川原村・八代村・小中村・小和木村が合併して故屋岡村となった。
当地が奥上林村の中心地であった。


《故屋岡の人口・世帯数》 191・91


《故屋岡の主な社寺など》

白鬚神社(黒土大明神)(故屋岡町八代)

集落の少し高台に鎮座。案内板がある。
白髭神社
祭神 仲哀天皇(黒土大明神と呼称)
旧記は焼失したとあるが棟札の写しと思われ貴重な文献があり(志馬愛之助氏所蔵)それによれば次の様な旧い由緒を持っている。
本社建立 建治二丙乙年(1275年)
当社造替 暦応三庚辰年(1340年)
檀那  沙弥信収 沙弥尭 沙弥道
    清原仲継 藤原高継 同郷鶴丸
    番匠三百三十人
当社造替 享保元辛酉年(1801年)
氏子   栃谷 大唐地 小唐地
当社造営 文化貮乙丑年(1805年)
これが現在のもので享和年中のものは焼失
   昭和五十八年七月  綾部観光協会


白髭神社 奥上林村字故屋岡小字黒土鎮座。村社にして仲哀天皇を祭る。現在氏子九六戸、川原、小仲、八代之に属す。例祭は秋の彼岸の中日とす。
 くろ土大明神は城下領八代村にあり。大唐内村、市茅野村、栃村、小中村の氏神なり。(山家藩記録)
(『何鹿郡誌』)

白鬚神社 八代
祭神は 仲哀天皇(黒土大明神と呼称)
旧記は焼失したとあるが棟札の写しと思はれ貴重な文献があり、(志馬愛之助氏所蔵)それによれば次の様な旧い由緒を持っている。
本社造立  建治二丙乙年(一二七五年)
当社造替  暦応三庚辰年(一三四〇年)
檀那    沙弥信収。 〃堯。    〃道。
      清原伸継  藤原高継   同郷鶴丸  番匠三百三十人
当社造替  享和元年酉年(一八〇一年)
  栃谷、大唐地、小唐内が氏子となる。
当社造営  文化弐乙丑年(一八〇五年)
  これが現在のもの、享和年中のものは焼失。
賢治、暦応の由緒を調査すれば地方開化の重要な手がかりが得られると思われたが、残念乍ら後日に譲ることゝした。)
『丹波志』16(黒土(クロツチ)大明神    八代村産神
祭ル神 白鬚明神ト云 祭礼 六月十三日
拝殿 舞殿 鳥居 森凡三十間ニ一町 八代 川原 小中村 栃村 市茅村五ケノ氏神 上ニ天王社 是ハ参詣多シ 元天王山也 黒土トハ地名 本社白鬚明神ト云
(『奥上林村誌』)

白髭は滋賀県高島郡の琵琶湖の中に鳥居がある神社が本社。白髭神は裏山の比良神と言われる。ヒラはシラで新羅のことという。あのあたりからやって来た人達が祀ると思われる。

頭巾山(ときんざん)
こんな案内板もあるが、麓からは見えない山である。

頭巾山
頭巾山は、綾部市と南丹市にまたがり、北は福井県大飯郡おおい町に接する標高871mの非火山性孤峰です。
言い伝えによると、弘法大師の雨ごいの祈とうが行われた場所とされており、古くから水の守り神として、山麓の集落から尊崇を集めています。
山中には府内有数のブナ林が見られ、シヤクナゲの古木が生育しているとともに、ニホンカモシカ等の大型は乳類も生息するなど貴重な自然が残されています。


君尾山光明寺の参道、稜線から望む。↑ここまで登ってもよくは見えない、たぶん一番右(南)のピーク、そうでなければその左のピーク、かと思われる。綾部市の最高峰(871M)だが、綾部市民でこの山を見た人は何人いることだろう、まして登った人はどれほどあることだろう。山頂が山伏の頭巾のような形状であるため名付けられたともいうが、そうではなく時権現が祀られているのでこの名があると思われる。
石楠花の自生地として知られる。山頂に許波伎(こわぎ)神社が鎮座。「若狭国遠敷郡式内社の「許波伎(コハキ)神社」に比定される。地元では強木(こわぎ)権現とよばれた。現在も三方の山麓集落(故屋岡町古和木・美山町山森・名田庄村納田終)が共同で祭礼を行っていて、祠の鍵は古和木で預かっている。
女人禁制の山で、破れぱ洪水があるという。山麓で小石を拾い山頂に積むという積石信仰の風習がある。

頭巾山の青葉権現
山森頭巾山頂には一小祠ありて雨神なる青葉権現をまつる。傳へ曰ふ。淳和天皇の天長元年天下大に旱し民大に困みし時、守敏僧都奏して雨を祈らんことを請ふ。朝廷之を聴して雨を祈らしめ給ふに、七日に至らずして降雨あり。されど京師を潤したるのみにて洛外に及ばず、朝廷よりて命を弘法大師に下し、神泉苑に於て祈誓せしめたまひしに、其の効更に見はれず、大師惟へらくこれ守敏僧都の呪力を以て諸龍を瓶中に封ぜしに由るなるべしと、法を変じて復び祈る所ありしに、大雨沛然として佳雨あるに至れり。この時その一龍は来りて此の頭巾山に入りしといふ。又一説には或る僧この山麓なる山森に来りて頭巾山に登らんとするに、其の白衣の汚染せるを見て、山森の士民某の女之を溪川に洗ひて進めけり。僧大に喜びて山に登りしが終に下山せず。時人之を祀りしもの即ち青葉権現なりと。是より山森川流域以外に住する女は登山すれば祟を受くとて敢て之を犯さず、若し祈雨の爲に登山せんとする女子は、先づ山森に一宿して一旦土民の伽くになり、然る後登山すれば後難なかりしといふ。又参詣者は麓の小石を拾ひて山上に運び祠辺に之を積むの習あり。若し山上の石塊を一箇たりとも他に持ち去らんか、必ず神罰を祟りて地方は洪水の厄に達ふべしと傳へたり。現今なほ船井郡何鹿郡並に遠く播州方面よりも参拝祈祷す。祠の鍵今は何鹿郡上林村某氏の手に在り、同地方民当社の例祭を行ふ。
(『北桑田郡誌』)

頭巾山と権現さん
古和木の行谷がつきつめられた所、福井県に境し北桑との分岐の頂上となつて、そびえているのが我が頭巾山である。
標高は八九一米。京都府屈指の高山である。
北方は小浜若狭の海岸線に音も聞えんばかりに銀波がきらめき、はるかに越山併せ得た能洲の景にまで及んでいる。東南は北桑の峰々越しに愛宕、比叡が紫色に煙り、眼を転じると、弥仙青葉は呼べば答える指呼の間にあり、其の他大江、養老等丹波、丹後の名峰首座を一眸の中に収めることが出来る。天然杉やブナナの原始林がそここゝに立ち、石楠花がアルプスの這ひ松のような婆で丈余になつて地表を覆ふている所もある。この頂上に雨の神古和木権現をまつっている。
神祇志料とは、「延喜式若狭国遠敷郡許波伎神社今丹波国に在り。」と記されている。この許波伎神社が今の古和木権現だろうとの推察さされるが、別の反証もあり、而も明治初年の神祇再調査の機会には惜しくも調査洩れとなって残念乍ら確実な裏書きを持っていない。現場の境内は古和木に属し、本殿は北桑に面して建立、参道は福井県名田村、北桑鶴が岡と三方面に通じている。
この頭巾山と権現さんには古くから二つの言ひ伝えがある。則ち清和天皇の天長元年天下旱して万民が難渋したとき、守敏僧都に命じて雨を祈らしめられた所、七日目に降雨があつしかしこれは京都潤はしただけで洛外には及ばなかつたので、朝廷は今度は弘法大師に命を下された。大師は神泉苑で大いに祈願したが、終に?の験が現われず、これは先の守敏僧都が呪力を以て諸龍を瓶中に封じた為だろうと呪法を変えて再び祈願した所沛然として佳雨があつた。このとき其の一龍が来て当頭巾山には入つたと云ふ。
又一説には、一僧が鶴岡村の山森より頭巾山に登ろうとした。其の白衣が見るからし長道の疲れ現して汚染していたので、山森の土民某の女が之を渓流に洗つて進めた。僧大いに喜んで山に登つたが終に下山しなかつた。土民相集つてこれを祀つたのが即ち古和木権現であると。この故で本来女人禁制の本山も山森在の女子たけは除外?があり、若し祈雨の為に女子が登山するときは、山森村に一泊して一旦其の住民となつて登るのを慣はしとした。昔の参詣者は麓の小石を拾つて山上に運び、祠辺に積む習はしを固く守った。
(『奥上林村誌』)


山口神社(故屋岡町古和木)

古和木川の本流と支流の合流点にある低地で、府道771号が通る小さな堤防で隔てられている、大洪水にはひとたまりもないようなところ。

下流を向いて写す。道路は府道771号、右手から流れ込むのが古和木川の本流。さかのぼると佐分利谷へ出る。道路右手か鎮守の森。川の水が美しい。アマゴが獲れるとか。カメラのある方をさかのぼると遠敷郡の奥や北桑へ出る。
山口神社  古和木
祭神  大山祇神
旧記不明で由緒を明かにすることの出来ない残念である。若狭某神社の分身との説をなすものもあり、これは強木谷を通じて彼地との交渉の多かった事から生れた俗説かも知れない。
往時より水禍に見舞われることが度々であったらしく、十三号台風も亦其の例に洩れず、水魔の跳梁するのに委したが、社殿は幸いにもゆるぎなく安泰であった。
文政年中の「手洗石」(自然石のもの)が、復興途上の川線敷から発掘されて、(寛政二年又は明治三年の大水害か)百年振りに境内に安置されている。
(『奥上林村誌』)

二社ノ明神    古和木村
祭ル神      祭礼
舞堂二間六間 森少シ 氏子奥口ト分テ奥ハ桑田明神ト云 口ノ人ハ徳木明神ト云 此論不分明 君尾山由?
(『丹波志』)

古和木という当地の地名からしても、若狭国遠敷郡式内社「許波伎神社」と関係がないはずはない。許波伎神社とは古和木神社のことでおそらく本来は当地の神社であったものと思われる。
本当は桑田(小和田か)と徳木(とき)神社の2社だという。コワタトキがコワギとなったのかも知れない。
『遠敷郡誌』には記載がないが、『大飯郡誌』に、(図も)
許波伎神社
〔信友全集〕此神社はやくより詳ならす(〔郡縣志〕未知其處)年ごろ心にかゝりてことに尋わびたりつるに此ごろ證し得奉れりそは(上掲)寛文四年に記せるゆゑづきたるとそれに添へたる注文に こはぎ といふ處の見えたるに心づきたるなり…里人に尋あはせて考ふるに川上村…川上山の西南に許波伎谷と山谷あり、其處に字を山神谷と呼ぶ所ありて小萩(コハキ)の杜と云ふもあり…其西南の嶺上を丹波へ越る山路あり其處より二十町(丹波へ)下りて強木(コハキ)(言便に許和芸)といふ小なる山里ありて其わたりをなべで強木とも強木谷とも呼べり…さて川上村の老人のいへるは…強木村もとは川上里の部にて山の谷に在けるが遠きむかし…此里ここに遷りたりと語り伝へたりと然れば許波伎は旧今の川上わりたの大名にて山をもすべて然称ひより分れてかたるが今は谷の名にのみ遺り此方の大名は山の彼方に称ひ継で強木と云ふ里も出来しなり、然れば許波伎は今の…川上村わたりの地…許波伎神社は其地名を負せたる社号なる事疑なし今…寛文の図にあまぎ峠とあるあたりに山の神なりとて権現といふ小社ありこれぞこの許波伎神社なるべき(丹波の神社又名とき権現古当国の許波伎より今の強木に民強木山居を移せる時其神社をも遷し祭来れるにぞあるべき)…国帳に(遠敷)郡の式社十六座中…此一座の載せざるも其頃(地の僻と遷坐)のため既く衰へ給へる故なるべし。




強木権現
奥上林村故屋岡古和木区と、北桑田郡山森との堺なる頭巾(ヅキン)山の頂上に一小祠ありて雨の神なる青葉権現をまつる。無格社なり。これ延喜式許波伎神社なるべし。伝へいふ。淳和天皇の天長元年天下大いに旱し、民大に困みし時守敏僧都奏して、雨を祈らんことを請ふ。朝廷之を許して雨を祈らしめ給ふに七日に至らずして降雨あり。されど京都を潤したるのみにて洛外に及ばず。朝廷よって、命を弘法大師な下し、神泉苑に於て祈誓せしめ給ひしに、其の効更に現れず。大師惟へらく、これ守敏僧都の呪力を以て、諸龍を瓶中に封ぜしによるなるべしと。仍て法を変じて、再び祈りしに大雨沛然として佳雨あるに至れり。此の時其の一龍は来りて此の頭巾山に入りしといふ。又一説には或る僧、この山麓なる北桑田郡鶴岡村字山森に来りて頭巾山に登らんとするに、其の白衣の汚染せるを見て山森の土民某の女之を渓川に洗ひて進めけり。僧大に喜びて山に登りしが終に下山せず。時人之を祀れり、即ち青葉権現なりと。是れより山森川以外に住する女は、登山すれば祟をうくとて敢て之を犯さず。若し祈雨の為に登山せんとする女子は、先ず山森村に一宿して一旦土民の如くなり、然る後登山すれば後難なしといふ。又参詣者は麓の小石を拾ひて山上に運び、祠辺に積むの習あり。若し山上の石塊を一箇たりとも他に持ち去らんか、必ず神罰を蒙りて地方洪水の厄に遇ふべしと伝へたり。現今、若狭遠敷郡、桑田郡、本郡より参拝する者多く、船井郡は勿論遠く播州方面よりも参拝祈祷す。当社の例祭は山麓の地方民によりて行はる。其の賽物特異なり。
(『何鹿郡誌』)

時権現ノ社    小和木村 奥山若狭境ノ山ノ上ニ
祭ル神   祭礼 三月廿三日 六月廿三日 九月廿三日 篭堂有 崇シキ山ト云 村ヨリ麓へ三十町 奥ハ上り尾ト云 深山難所也 年ニ三度御戸開 鎚取村ニ有 若狭境ノ方ニ鳥居建 往古修験多住シ由 山伏ハトキント云字ヲ書ト云 年ニ三度参詣諸方ヨリ参詣多シ 山伏屋敷ト云所ヨリハ女人ヲ禁ス
(『丹波志』)


トキとは
頭巾山のトキと思われるが、明智光秀の祖は岐阜県土岐郡(岐阜県土岐市)の土岐氏だそうだが、都祁とも書いてツゲとも読んでいる。
トキは古代新羅語の「日の出」の意味かと思われる、下流に白髭社があるので、新羅系の人々の開発になる地であったのではなかろうか。
「日ノ出」を祀る頭巾山とは日ノ出山のことだろうから、当地側から祀るのでないとおかしい、遠敷や北桑側からでは「日ノ暮」の位置になる。げんに鍵取は当村にいるという。
トキの言葉は大昔に忘れ去られていて誰も知るまい。岩波の『古語辞典』にもこの意味はない。
暁(あきつき)はアカトキだという、今の日本語に残るトキという言葉ではなかろうか。トキという鳥は羽の下がトキ色をしている。トキ色はアカトキの空の色の意味であろう。鶏がトキを告げる、のトキもこの日ノ出の意味であろう。

頭巾山」「頭巾山」「頭巾山


天神社

神塚(こうづか)のバス停の川を挟んだ向かいのこんもりした鎮守の森にある。
神塚の天神さん (戸矢天神)
神塚と云ふ地名と古い塚の形をした天神さんを結びつけて、誰もが由緒の手がかりとしようとする。而も其の天神さんには、いつの日にか北野より迎へ奉ったらしいとの口伝と、天明三年(紀元一七八三年)以降の営繕記録があるのみで、残念乍ら目ぼしい古文書は一つもない。
塚と祠に不離な因果関係があるのか、塚を景勝の地として後人が祠堂の鎮座所としたのか、今の所はつきりした裏付はない。併し昭治維新前には彼の地に丈余の欅があり、昼尚暗い程に枝々が繁茂し周囲の田畑に其の雫をたらしたと云はれ ている。この欅が天然木の性質上塚が出来て程を経て生長したものと考へるとき、其の発祥の源は相当の年代をさかのぼらなければならない。斯うして推理の糸をたぐつて行くと、祠以前に塚は既に幽遠の相を示していたとも想われる。郷土史の貴重な資料としても、天神さんの由来記よりはむしろ塚其のものゝ解明に大きな興味と期待が持たれる所以でもある。
天神さんは昔から小仲全域を氏子としていたが、大正十二年故あって神塚に譲渡しと云ふ珍らしいケースを辿っている。毎年七月の例祭には氏子は十一戸乍ら其の長い通路を曲折して奉燈が点燈し古くからの伝統を物語っている。子供達の天神講も一時の流行や思ひ付きではなく、昔からの慣習が既に不文律となり、知恵の守り神としての尊信が幼な心から強く培われている。
(『奥上林村誌』)


塚というのか、そうした感じの自然地形なのか、本当に人工の塚があるのか、わからない、当地のそれを神塚と呼んできたものか。やがてそこへ降臨する天の神様を祀る祠が作られ、天神社と呼ぶようになったものか。菅原道真などは何も関係なかろう。



臨済宗妙心寺派示現山無量寺(故屋岡町小仲)

今は小中公民館となっているよう。
示現山無量寺 禅宗山家覚王寺末 小中村
本尊 弥陀如来 薬師堂アリ 古ハ村中ニ有 四間四方ナリ 近年引 本尊ハ行基ノ作 小寺ナリ
(『丹波志』)

無量寺 臨済宗 元和元年(一六一五年)の創立、現在は無住、檀徒は小中
(『奥上林村誌』)


臨済宗南禅寺派松本山渓徳院(故屋岡町古和木)

松本山渓徳寺 臨済宗南禅寺末 小和木村
本尊 釈伽文殊 別ニ三十三躰観音堂アリ
(『丹波志』)

渓徳院 臨済完 寛政年中(一七八〇年)の創立、古和木一円を檀徒とし、往時は地域の文教機関の中心となったが 現在は無住。
(『奥上林村誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


故屋岡の主な歴史記録




故屋岡の伝説



『何鹿の伝承』
頭巾山と龍神
 奥上林村故屋岡小和木区と、北桑田郡山森との山境に、何鹿の最高峯「頭巾山」というのがあります。山の頂には小さい祠があって、雨の神、青葉権現とも、強木権現ともいっています。「延喜式内社の許波伎神社なるべし」と『何鹿郡誌』には書いてあるが、かかる山頂に、しかも雨の神としての神社をお祭りしてあることは、興味ふかいものがあります。
 霊泉や雨乞の傳説は、全国的に弘法大師の功徳と結びつけたものが、非常に多いのでありますが、頭巾山にもつぎの傳説がのこっています。
 平安朝の天長元年(八二七年)の夏は非常な旱天がつゞき、天下の民は大いに困窮いたしました。朝庭は僧都守敏の乞をいれて、雨乞の祈祷を許しました。すると、七日にいたらずして降雨がありましたが、しかし、それは京都地方だけにしか降らなかったので、地方のものは相変らず大いになげき悲しみました。
 朝庭では、こんど、弘法大師に雨乞を命じました。弘法大師は、有名な神泉苑で(いま、東寺に属し、平安京造営のとき、つくった大内裏の禁苑であって、いま、当時のものが、のこっているのは、ここばかりである。京都市上京お池通大宮西入ル)大祈祷をしましたが、なかなか効果がありません。大師は、これは、ひょっとすると、わが法敵である守敏が、呪力で諸龍をしばって瓶中に、封じこめているから、龍神がでられないのだ。と、思って、今度は法をかえ、天竺無念池の善女龍に請じて、祈りはじめますと、こんどは、瓶中から、猛然と諸龍がとび出し、雷声すさまじく、雨をふらしつゝ四方にとびました。そのうちの一つが、西北の空にとび、丹波の頭巾山に姿をかくしたと伝られています。
 また、一説に、あるみすぼらしいお坊さんが、麓の北桑田鶴岡村字山森から、頭巾山にのぼるうとして、この村を通りかかりました。山森の民家のひとりの女が、そのお坊さんの白衣が汚れているので、洗って進めると、お坊さんは大変喜こんで山に登りましたが、そのまま、帰って参りません。山森の人々は、雨がなくて困っていたが、それから、雨がほしいようになると、頭巾山に雲がかかって、いいあんばいに雨が降ってくるので、このお坊さんこそ、雨の神の化身とあがめ、お祀りしました。青葉権現というのが、それだともいい傳えられています。それから、山森以外の女が登山しようとすれば、祟りがあるというので、もし、乞雨祈祷のため登山しようとするときは、山森村に一宿して、一たん山森の女となり、登山すると、後難がなく、霊験もあらたかであった。と、傳えられています。
 頭巾山には、かつて若狭の遠敷郡、桑田郡、船井、わが何鹿はもちろん、遠く播州方面からもお参りしたといわれますが、いまは、すっかり廃れています。
       引用文献 「何鹿教育」 第三八号 昭和四年六月


『京都丹波・丹後の伝説』
頭巾山     北桑田郡美山町山森
 美山町鶴ヶ岡、堀越峠のテレビ塔近くから西北方を望むとはるかな山なみの中にひときわ高く見えるのが頭巾山。この頂上には雨ごいの神さまとして広く知られている青葉権現の小さなほこらがあり、鶴ヶ岡校児童たちのよい遠足の場となっている。
 昔、身なりのみすぼらしい、どこからきたとも知れぬ一人のお坊さんがふもとの山森地区からこの頭巾山に登ろうとした。ところが、この坊さんの着ている白い法衣が、ひどく汚れているのを見かねた地元の娘さんが、親切にこの法衣を山森川の谷水できれいに洗たくしてさしあげた。
 坊さんは大変喜んで山に登ったが、そのままいつになっても下山しなかった。山森の人たちから〝あの坊さんは何かの化身であったに違いない〝 とのうわさが広がり、これをおまつりしたのがこの青葉権現という。このことがあってからは、この山森川の流域以外の女性が、この山に登ろうとすると、たちまち何かのたたりをうけるとされ、雨ごいの女たちは、一たんこの山森の地で一泊して土地の人になりすまし、登山すると後難がなかったという。
 また、この権現に参る人たちはふもとから小さい石ころをいくつか拾って山頂まで持ち運び、お堂の周りに積みおくならわしがある。これとは逆に、山上の石ころをたとえ一個でも持ち帰ると、たちまち神罰をうけてその土地は洪水に遭ったといい、安政年間、この禁をおかしたものがあって村は大洪水で大弱り、庄屋にわび状を入れてあやまった。このわび状がいまも鶴ヶ岡のある旧家に残っているともいう。
 このごろでは、干ばつ、日照りが続くと、近くの船井郡や綾部市のほか遠く大阪や兵庫あたりの農家の人たちが雨ごい祈願のため権現さまに参る。

〔しるべ〕 頭巾山は山森地区の国鉄バス京鶴線の鶴ヶ岡終点から約四キロ、ここから約一キロ坂道を登ると遠くに日本海を望む山頂に達する。標高八百七十一メートル  美山町で七番目に高い山である。







故屋岡の小字一覧


故屋岡町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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