丹後の地名プラス

丹波の

栗(くり)
京都府綾部市栗町


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京都府綾部市栗町

京都府何鹿郡豊里村栗

栗の概要




《栗の概要》
由良川の北岸、犀川側が合流する平坦な広い耕地、市内では最も広い沖積地と言われる。栗上・栗橋・栗町・栗場の集落が散在し、豊里地区の中心地になっている。北部は比高70~100mの洪積台地以久田野で、前方後円墳を含む古墳200余基がある。台地上は第2次大戦後開拓されて広い茶園となる。南の平野部は水田地帯で、位田町にある栗井堰の用水で潅漑を行う。

古代の栗村郷で、「和名抄」丹波国何鹿郡十六郷の1つ。郷域は現在の綾部市栗町を中心とした地域に比定される。中世の栗村荘は当郷名を継承したものであろうという。
中世は栗村荘で、平安末期~戦国期に見える荘園。寿永3年(1184)8月26日の後白河法皇院宣に「丹波国栗村東西」とあるのが初見。東・西に分かれていたことが知られる。
嘉元4年(1306)6月12日の昭慶門院御領目録に「一、室町院御領 丹波新院御分 栗村庄〈東方 光輔朝臣後室 御年貢五千疋 西方 新中納言局 御年貢二千五百疋〉」とあるという。
建武4年(1337)6月日の片山高親軍忠状によれば5月26日に「栗村河原」て北朝方仁木頼章の軍が南朝と戦って、同年7月25日には当荘内の楞厳寺が戦火のため焼失した。
室町期に入って応永6年(1399)12月23日付の大報恩寺寺領目録に「丹波国栗村庄内〈寺方〉」、同18年5月2日付大報恩寺寺領目録案にも「丹波国栗村圧〈寺方〉」と見え、当荘内に大報恩寺領があったことがわかる。
寛正2年(1461)9月10日の何鹿郡所領注文にも「栗村東西」とあり、安国寺再建の際棟別銭が課されている。
「丹波史年表」には応永32年(1425)の栗村荘栗村道安譲状が見え、また戦国期には大槻氏が当荘に勢力をもっていたと伝え、同氏の居城であったという一尾城址がある。
「丹波負笈録」には「栗村郷、東西に分て免状ハ一本也、(中略)東栗村字に上村・古市場・川表・中嶋・沢・町・中田勝・中田・平田・田野村・殿垣内と云、新(原注・親カ)郷ハ上村、(中略)館・長砂・大畠・小貝・今田是を栗村五箇と云、新郷ハ館也」と述べる。ちなみに明治26年写の「町村沿革取調書・栗村郷」には東西を次のように分けているという。
 栗村、往古ヨリ東栗村ト云、小貝村・石原村・長砂村・三宅村・福垣村・館村・今田村・大畠村此八ケ村ヲ西栗村ト云フ、東西九ケ村合セテ栗村郷ト云フ、維新以来東西ノ称ヲ廃ス
 東栗村は現在の栗町で、地域内に栗上・栗町・栗揚(くりあげ)・栗橋などの集落(最寄という)がある。「丹波負笈録」は「往古ハ上司中司下司と云て三軒の地侍の者より始所也と云、今に上中下と云参宮下迎酒迎ハ上中下と三所へ待受る古礼也」。
西栗村は現在の館町・豊里町・大畠町・今田町・小貝町・石原町である。江戸時代には館・小貝・大畠・今田および長砂(ながすな)に庄屋を置き、石原は小貝庄屋兼務とし、福垣(ふくがき)・三宅は年寄のみを置き長砂の庄屋の指揮下にあり、小崎新田は無戸で長妙庄屋が兼務したという。
栗村では江戸時代に4度強訴が起こっている。延宝7年(1679)には小畑組・栗村組5ヵ村の庄屋が京都奉行所に貢租高を直訴し、元禄8年(1695)には東栗村の農民79人の強訴、元文元年(1736)に栗村吉次郎強訴、宝暦2年(1752)の綾部宝暦強訴にも栗村組から参加したという。

栗村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。栗村組9村の1村。。枝村に小貝・石原・福垣・長砂・三宅・今田・館・大畠・上・平田・殿貝の計11か村がある。うち上・平田・殿貝の3か村を除く8か村は、のち分村独立。枝村3か村からなる栗村は、東栗村とも称した。
明智光秀が築造したと伝える位田村の栗村井堰の用水の恵みを得て多くの水田を潅漑した。栗村井堰の維持管理は当村と私市村が行った。
明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年以久田村の大字となる。
栗は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ以久田村、昭和24年豊里村、昭和30年からは綾部市の大字。市制町村制の施行による以久田村の成立後、当地に小学校・役場が置かれ村の中心地となった。昭和30年栗町となる。
栗町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


クリ地名の意味
「丹波負笈録」は、
栗村館に往古大木の栗あり 今田地の用水溝筋二丁許の間根置ニ成て茶色になるをへき取る帰る人多し 此所謂によつて栗村郷と云となり

♪ 大きな栗の木の下で あなたとわたし … とか童謡があるが、そういうことではあるまい。現代人はいうまでもなく、江戸人もすっかり忘れてしまっているのかも知れない。漢字を見て過去を考えるという愚がやまないスンバラシイ国の歴史学?
肥前国松浦郡久利郷(唐津市久里)。
兵庫県神崎郡大河内町栗。
宮津市栗田(式内社・久理陀神社)とか渡来人多い近江には栗太郡。
クリは呉(くれ)とも書かれて、魏蜀呉の中国の王朝と間違われていることが多いが、高句麗のクリであろう。高は美称、語根はクリ。栗村郷と「村」が付いているのでムラの意味が本来あったと思われ、高句麗のクリもそうだが、クフル(大村)のフが脱落したものか。何鹿郡(イカルガのコホリ)の郡も同じで元々はコフル(大村)の意味。元々は渡来語の「大きな村」の意味と推測する。
漢氏系図に、その枝氏族の一つに「栗村忌寸」があげられている。
どこを本拠としたとも不明だが、あるいは当地かも分からない。近くに文井郷、漢部郷がある。漢氏は秦氏と並ぶ巨大渡来氏族、彼らがいないはずはなく、どこかで見落としているのだろうと思われる。
隣の下位田に檜前という所がある、ふれあい牧場や農業大学がある一帯、ヒノキマエとか今は呼んでいるかも。こんな所にある古代地名ならヒノクマと読むと思われる、これは明日香村の檜前(日前・檜隈とも)と同じで(大和国高市郡桧前郷)、漢氏(東漢氏)の拠点中の拠点地。『綾部市史』は、この下位田檜前の辺りが文井郷かも、としている。スルドイ。もう一つスルドイなと思うのは、式内社・佐陀神社の祭神を「渡会氏神名帳考証」は阿智使主としているところか。シビレルが、しかしいずれも確証があるとかいうハナシではない。
檜前は日前とも書かれるが、日の当たる明るい土地という意味か、ar地名の日本語訳版か。
漢氏は後漢の霊帝の曾孫にあたる阿智王の後裔と自称している。そうしたことで「漢」という漢字を当てているが、本当は加耶諸国の一国「安耶」国から出ているからとも言われる。
漢氏の後裔の坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)の上奏文が残されている。『続日本紀』宝亀3年4月
正四位下・近衛員外中将兼安芸守で勲二等の坂上大忌寸苅田麻呂らが〔次のように〕言上した。
  檜前忌寸〔の一族〕をもって大和国高市郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、先祖の阿知使主が、軽嶋豊明宮に天下を治められた〔応神〕天皇の御世に、〔朝鮮から〕十七県の人民を率いて帰化し、〔天皇の〕詔があって高市郡檜前村〔の地〕を頂き、居を定めた〔ことによります〕。およそ高市郡内には、檜前忌寸〔の一族〕と十七県の人民が全土に限なく居住し、他姓の者は十中の一、二〔の割合〕でしかありません。


檜前忌寸は漢氏の中心氏族で、古代日本国家の心臓・飛鳥、その心臓中の心臓地(高市郡)は、実はすべて漢氏一族ばかりだ、ほかの者は1、2割程度だといっている。これは別に日本の心臓ばかりでもなく、日本全土のどこでもその心臓部はほぼそうした渡来氏ばかりであったと推測しておいても大きな間違いはなさそうに思われる。これが実はスンバラシイ国が隠してきた本当の所であった。誰が何のために隠してきたのか、それは支配者が彼らの支配に都合悪い過去であったからであろう。
何じゃい、オマエらもあっちから来たモンかい。いや、ワシらは天から降りてきた神の子孫のエライ人だ、神だ。。とかにしておきたいのであろう。サルも笑うハナシでしかない、もしかしてもそうしたことはあり得ないが、ほんの少し前までは信じていなければならなかったのである。


《栗の人口・世帯数》 1116・390


《主な社寺など》

以久田野台地

楞厳寺の向かいの丘陵、土取りした崖があり、↑地層が見える。このあたりでは一番高いが、湖底に堆積したと思われる層が見える。
以久田野と呼ばれる台地は、由良川の北岸、犀川との合流点付近から八田川西岸にかけて広がる台地で、東西・南北それぞれ2.5km、ほぼ方形で、標高75mのほぼ平坦な地形。長田野台地と同時代に形成され福知山盆地に発達する高位段丘の1つという。
「以久田野」地名は、明治22年市制町村制施行の際、現在の位田町・栗町・館町の頭文字をとって命名したものといい、意味はない。
由良川沿いに発達する河岸段丘に起源をもち、台地の構成層は最大層厚35mに達する砂礫層(綾部層)からなる。上部に湖成堆積物、泥炭層をはさむ。古くから利用され、一帯は府下屈指の群集墳が存在する。

旧石器
昭和四十七年夏、綾部市の以久田野で形の変わった一個の石片が発見された。それは、うす青色をした小さなチャート質のもので、よく見ると、自然に割れてできたものではなく、明らかに人間の手によって作られたものであった。その石の細部をみると、一辺には細かな規則的な加工がほどこされ、他の一辺には、鋭利な切り出しナイフのような刃を認めることができた。この小さな石片はただの石片ではなく、石を割ったときにできた鋭い刃を使う石器であると思われた。その後、この小さな石器は、「ナイフ形石器」と呼ばれる旧石器時代の人々が用いた代表的な石器であることがわかった。それは、綾部市内において初めて発見された旧石器の明確な資料であり、また、京都府北部で発見された最初のナイフ形石器でもあった。)、498(丹波焼)、564(以久田野出土の石器
この石器は、栗町人谷、以久田野台地の南端近くにある小さな谷に面した丘陵端部の畑地において発見されたものである。付近には以久田野古墳群があり、須恵器の破片が散乱し、また、縄文時代のものと思われる掻器等も発見されている。
石器は、現存の長さ二センチメートルのナイフ形石器であり、横長の剥片を使用したものである。先端部は鋭く、切り出しナイフ状の刃部を造り出している。刃部には刃こぼれが見られ、鋭さを欠いている。基部を欠いているが、背にあたる部分は裏面から四度にわたる調整が加えられ、その後細かい調整がなされている。石質はチャートである。
(『綾部市史』)


縄文~弥生遺跡
以久田野遺跡
ナイフ形石器が発見された地点とほぼ同じところであり、縄文時代の遺物として削器一点・掻器一点・石錘二点・チャート片数点が採集されている。削器はチャートの縦はぎの剥片を用い、内湾する刃を付けたものである。掻器は横長の剥片を用い、外湾する半月形の刃をつけている。細部加工は入念に行われているが、刃部は表裏両面からの調整によって波状を呈している。石質はチャートである。石錘は薄い楕円形の自然礫を用い、両端部にひもかけを作っており石質は砂岩である。計測値は次の通りである。
 長さ 幅  厚さ 重さ
A七六 五〇 一二 八ニグラム
B六七 六一 一三 八〇グラム  (単位ミリメートル)
(『綾部市史』)


以久田野古墳群など  京都府遺跡地図より↓


以久田野古墳群
面積凡そ二・五平方粁に及ぶ以久田野には、大小百余の古墳が累々として存在している。野の周辺や一部は植林せられた松林があるために、その全景を一望に収めることは困難であるが、地方の一偉観たるを失わない。
嘗てこの古墳群は、永禄年中若州高浜の城主辺見駿河守、時の栗村郷一尾ケ城主大槻佐渡守を来り攻め、城士の奮戦により逆に敗退し、その際遺棄した死屍・武具多数ありこれ等を葬った所と伝えていたが、これは全くの誤りであろう。(別項城山軍記参照)
これを考古学的に研究考察すると、この古墳群は、往古由良川が現在よりももつと広大な範囲に流れていた頃、この河畔に居を構えていた人々の墳墓であると思われる。墓地を村落を離れた高地に設けたのは、尊霊的意味から朝暾落日の形勝の地を選ぶことと、農耕の適地を避けるという意味からであろう。
これ等の古墳の築造年代は明らかではないが、凡そ千数百年前、古墳時代の末期であろうと推定せられる。大きい古墳の周囲には円筒埴輪が作られてあった。
なお、殿山の瓢塚は、四道将軍丹波道主命又その父日子坐王の墓とも伝えているが、近年(昭和二十八年)の発掘調査によってその頂上は経塚であることが判り、経塚築造の年代から考慮して鎌倉時代のものと推定される。ここから出土したのは経筒(長さ十七糎、経 九・五糎)一個、和鏡(経十五糎)その他土器の破片、鏡のつまみ等である。
(『豊里村誌』)

以久田野古墳群
綾部駅西北約四キロの低平な丘陵地にある由良川流域最大の古墳群である。北方志賀郷の渓谷から発し、南下して由良川にそそぐ犀川の流域には、適当な広さの平地があり、地形的にも稲作農耕の可能な場所であることがわかる。この付近はもと以久田村に属していたために、以久田野古墳群とよばれ、早くからその存在が知られていた。
犀川の東岸に館集落があるが、この集落は以久田野から西方の平野に向って台地状に突出している。集落の東端にある赤国神社は延喜式内社であり、その社名の由来は、丹波国を「丹国」と書くことから、丹国すなわち、赤国神社であるというものである。
この赤国神社境内地、およびその周辺は、古くから弥生時代の集落跡として知られ、弥生式士器をはじめ、石斧、石鏃などが多数発見されているが、残念なことにまだ一度も学術的発堀調査がおこなわれていないので、集落の規模は明らかにされていない。
赤国神社東南方の丘陵地一帯が以久田野古墳群である。なだらかな起伏の丘陵で、現在はおもに茶畑である。もと前方後円墳五基を含む一○○基以上の古墳が群集していたことが、京都府史蹟勝地調査会報告の第二冊に報告されているが、これらの古墳の大部分は、昭和27、28年頃の農地改善事業でほとんど調査もおこなわれず破壊された。現在、茶畑のあちこちがぽこぽこふくらんで見える部分があるが、これらは古墳の名残りである。
沢神社裏山に現存する殿山古墳は、全長三二メートルの前方後円墳であり、愛宕神社西北方平地にある三環鈴の出土した沢三号墳は、全長四○メートル前方後円墳である。古墳群中の前方後円墳はいずれも全長四○メートル前後の比較的小規模のものである。
低平な丘陵地に密集して築かれた小円墳の中には、七世紀以降の横穴式石室を内部主体とする、いわゆる群集墳も含まれているが、昭和32年(一九五七)に発掘調査され、鹿角装の鉄剣をはじめ鉄製武器、農工具が多数検出された以久田野三○号墳のように五世紀代にさかのぼるものもある。一○○基以上の古墳は、五世紀中頃から七世紀にかけて、営々と築かれた丹波地方最大の古墳群であると同時に、赤国神社付近の弥生時代の集落跡とあわせて、すくなくとも、付近の地理的環境を含めて一見の価値がある。以久田野古墳をはじめとして、綾部市内の遺跡から出土した遺物は、京都大学、京都府等に分散保存されているものもある。最近綾部市教育委員会、綾部市談会などが綾部市の古代史を広く住民に理解してもらうことを目的として、綾部市民センター資料室に一括保存されているので、この地方をたずねる場合は事前に連絡をとり、資料室の遺物を一瞥することも忘れてはならない。
さらに、あるいは考古学散歩の目的からやや逸脱するかもしれないが、重要民俗資料に指定されている丹波焼の豊富なコレクションは、古丹波焼の素朴な味はもとより、土器の歴史を知るためにも、ぜひ参観に値するものといえよう。
(『京都考古学散歩』)

以久田野古墳群
昭和三十一年、綾部市の事業として以久田野が開発されることになった。豊里郷土史研究会は、当地方最大の古墳群であり、古代史解明の鍵であるこの古墳群を残すため、関係方面に働きかけ、その結果、一〇基程度を採草地として残し、他はすべて取りつぶすことになった。この耕地化の作業の中で、土器や鉄器が出土し、発見者や中学生が拾い集めたものがまとめられ、『豊里地域出土品目録』として整理された。この出土品は一部を豊里中学校に残し、他は市民センター内資料室に保管している。
以久田野四九号境は、大師堂前古墳群の一つである。直径約一〇メートル、平均高一メートルの横穴式石室を有する円墳であった。天井石はなく、葺石、埴輪等も発見されなかった。石室の方向はほぼ南北方向で、長さ五・八、幅一・一、高さ一・一(単位メートル)で、小さな割石で側壁をつみ上げ、奥壁は大きな石を使用しており、床面は拳大の河原石が一面に敷かれて、その上に埋葬が行われていた。
出土遺物は、
(一)頭骨三体分(男女の別不明)
(二)鉄器・鉄釘(角)・鎹・やりがんな・鉄のみと鉄刀大小三口(青銅製の輪金や柄の飾金具、方頭部を残している)・鐔一
(三)馬具類・小札形鋲・兵庫鎖など
(四)玉類・勾玉一・ガラス製丸玉 三
(五)金環 四
(六)土器類 須恵器台付長頸壷 一・土師器片若干である。
この古墳は、出土品からみて後期の古墳で、ほぼ七世紀に築造されたものと推定され、複数体の遺体が埋葬されていることは家族墓または同族墓的な感じがつよい。
四五号墳と同じ地域にある。
大師堂前の古墳群はほぼこの時期の築造であろう。
以久田野一七号墳は、京都府農業指導所内にあって、直径二五メートル、高さは約二・五メートルの円墳であった。昭和三十二年、工事の際に遺物が発見されたもので、石室は発見されなかった。出土遺物は、鉄刀一・馬具提瓶一・高林七・土師器坩一・馬形埴輪一・円筒埴輪片等である。
以久田野三〇号境は昭和三十二年、京都大学考古学教室によって発掘調査された。位置は大野古墳群のほぼ中央部にあり、直径一二メートル・高さ二メートルの円墳であり、周囲に周濠のあとがある。
主体部は東西方向に主軸をもつ粘土床で、副葬品はほぼ完全な形で残されていた。
床面は一面に塗朱されており、木棺が納められていた。副葬品は写真に見るように土師器高杯・壷・各二、鉄剣二・鉄斧・鋤・鏃・槍などが出土している。
この古墳の特徴は、副葬品に須恵器がないこと、槍が柄部と共に発見されたこと、鉄剣のみであることなどであり、古墳の築造年代は、五世紀末と考えられる。
(『綾部市史』)


沢神社

北部にトーヨーゴムの工場がある、その北側の沢という所に鎮座。今は拝殿の工事中であった。裏山は殿山古墳群で、殿山1号墳は47mの前方後円墳。四道将軍丹波道主命又その父日子坐王の墳墓とも伝えている。当社末社に国造神社があり、丹波国造家と関係がある社かもと思われる。
トーヨーゴムを挟んで向かい側(南東)の山は沢古墳群で、沢3号墳は46mの前方後方墳。その間の先には以久田野78・16・15号、さらに上村17、瀨戸18号と40m前後の前方後円墳が続いている。国造氏代々の奥津城であろうか。右手の道路が続いている東北側は以久田野古墳群である。
「茶臼山古墳内容確認調査報告」より↓

12の所の紫○は当社 17の所の紫○は大川神社
11:沢3号墳46m
12:殿山1号墳47m
13:以久田野78号墳38mm
14:以久田野16号墳43.2m
15:以久田野15号墳41m
16:
17:上村7号墳36m
18:瀨戸18号墳40m
いずれも中期後~後期前の築造とされている。私市円山古墳と同時期から少し後のもの。発掘調査はなされていない。

沢は谷のことだが、当地あたりでは谷は谷で沢とは言わない、恐らく物部あたりに多い諏訪神社のスハ・スワと同じで、本来はソフル神社のことかと思われる。
ずいぶんと古く知られていない歴史がぎょうさんあるところは現代人の感覚で知ったかぶりして簡単に決めてしまうのはよくなかろう。

沢ノ宮     同村 産神
 祭ル神 国トコタチノ尊 豊クニスノ尊 国サツチノ尊三神ナリト云
祭礼  正月五日三月十八日九月九日
 尊氏公ノ比奥州エ引ト云 中興 栗村ノ社家ヨリ吉田エ宮号ヲ願ヒ 沢ノ宮大神宮ト改ム 社家村上右ヱ門 吉田官篭家 鳥居 山六十三間 七十間
(『丹波志』)

沢神社
所在 豊里村字栗、沢
祭神 事代主命、国常主命、埴安命
由緒及伝記 元亀以前兵火にかかり神庫まで焼失の為、往古不詳となるも、口碑によれば延暦五丙寅年の創立という。
佐陀神社の呼称
古より沢の宮と唱え来る事何れの世よりか相知れず、沢は和訓佐陀と耆老の口碑に御座候。且又栗村の荘名地名にサダと唱ふること曾て無之候也。佐陀と沢と唱ふる義委細別紙に記載差上申候。
佐陀を沢と唱ふる源委細別紙
佐陀神社の義は古来サワ神社と唱へ来り侯。右杜はサワ山の鎮座にて往昔其麓の辺りに大なる沢有之、中古開拓して田となれ共今に沢田多し。其辺りの山野、田地、宅地等迄字沢の称名あるも此義に因れり。中古約して沢宮又は沢神宮とも書を用ひ候。
即ち佐陀の真名にして、道晃の歌にも、
「煙立思此遠富士乃佐陀耳燃天蛍也空耳為見」又万葉集にも佐陀飛蛍と右何れも此の真名にして訓し候由聞伝へ申候。全く佐陀神社は沢ノ社に紛れ無之尤もサハと申塩所東西凡そ五町半り南北三町許りも有之隣村迄も能く知れる地名にて、従前検地帳当今御地券証にも判然と書載も有之候也…
(後略)……明治八年八月
以上栗村大川神社と沢神社との紛争の絶えない所であった。(大川神社参照)
○例祭(古来より祭礼の式)
五十年以前までは佐陀神社大川大朝神より五社(大畠大明神、武大神、沢神社、助太郎神社、大川大明神)共御旅所へ御幸氏子栗村一統御とも人、前日より当中川左右(大川神社神官)宅に一夜こもり致佐陀神社与御旅所へ御とも致候。
 御座席 赤国神社、佐陀神社、大島大明神(右三社御輿)
 並ニ  武大神(御鉾)、沢神社(柴輿)
右の通り御祭札に御座候。例祭日 九月十日
境内末社
・金刀此羅神社、祭神 宇賀魂命 大物主命 由緒不群
・国造神社 祭神 大己貴命 少彦名命   〃
・八坂神社 祭神 須佐之男命       〃
資料 当社の後の山頂に殿山の車塚と称する前方後円塚あり。(第九章参照)
・元禄十三年の社堂改帳
一、大嶋大明神
一、沢宮大明神 是は大嶋大明神境内
右は殿貝村、田之村、中田村・平田村、町沢村之内、大畠村之内の氏神也。
(『豊里村誌』)



大川神社


大河大明神     上村
 代々社家 福林伝右衛門
ま『丹波志』か

大川神社
所在 豊里村字栗小字上村
祭神 大山祇命
由緒 「由盡」しとして左記の文書を蔵する。
所謂前丹州何鹿郡
 式内治弐社之内栗邑鎮座佐陀神社大山祇命大川大明神申者、往古天長弐乙人皇五拾四代(註五十三代)淳和天皇之御時九月九日未明頃大川ト清白雲示擁天下賜ル大山祇命其国八十八山八十八川之尾先佐陀野ト申処示大川大神ト奉勧請実日神力之厚名也。事不浅常示第一風気病難猶退散守護賜也。其餘不審也事之可多故世上萬人之知処也。
 寛永十四丁丑春 神官、橘馬之輔源有次。
資料 当社は昔より縁起式内社佐陀神社と唱えたが、沢神社との紛議により社号と称えることを得ない。
大川神社 元式内佐陀神社
 右ハ古来佐陀神社大川大明神ト称エ来リ、明治六年神社調査ノ際ニモ延書式内佐陀神社ト認定セラレ別紙ノ如ク祠掌ヲモ任命セラレ居候処…(社祠掌として赤国神社祠官が任命されたが遠距離不便の為沢神社祠掌に仰付られる様氏子総代の請願書)
其ノ後同字沢神社ヨリ請願仕候為メ両者間ニ論争ヲ生ジ(……近来当村の内上村と申所に大川明神を其社守り氏子の者佐陀神社は大川社の由称出し…‥)明治十年七月ニ至リ終ニ社号ヲ唱ウルコト能ハザルノ御命令ヲ蒙ル…(大正二年復称許可願に拠る)
・古幡 当社に緞子の古幡あり、天明弐年寅九月佐陀神社大河大明神の文字と記す。
境内神社(末社)
・稲荷神社 祭神 宇費能美多摩命 由緒不詳
・八坂神社 祭神 須佐之男命 由緒不詳
・二宮神社 祭神 伊奘諾命・伊奘冊命 仝
・秋葉神社 祭神 軻偶突智命
(『豊里村誌』)


何鹿郡式内社16社の内、佐陀神社
沢神社、大川神社と鍜冶屋町の一宮が名乗りでている。

佐陀神社
現在佐陀を神名とする神社はない。
栗町佐陀尾にある大川神社から昔から佐陀神社大川神社ととなえ、式内社であると伝えてきたので、明治6年大川神社を式内佐陀神社と指定された。その後、同町沢神社側より沢は佐陀よりきた名称で、沢神社が式内佐陀神社であると主張したので、明治十年式内指定を取り消されたままである。大川神社蔵、寛永14年1637に認められた神官橘有次の「大川神社由緒書」には、「前何鹿郡式内社十二社之内栗邑鎮座佐陀神社」に大川大明神を勧請してまつるようになったのは天長二年825で、「世上万人の知るところなり」とある。
こうした由緒からきたものであろうが、天明二年1782の古いのぼりに、「佐陀神社大河大明神」と書いたものが残っている。『地理志料』・『神祇志料』・『神社かん録』などはみな大川神社を式内社佐陀神社に当てている。
祭神については諸説があって、阿智使主(渡会氏神名帳考証)・伊奘册尊(神社かん録)・大山祗命(明細帳)・佐太大神か(特選神名牒)などまちまちである。
(『綾部市史』)

佐陀神社
栗村の大川大明神(上村、古市村氏神)と、同村の沢宮大明神(沢村、川面村、中島村氏神)との争となりし故指定なし。
(『何鹿郡誌』)


「任那」に「娑陀県」があり、百済に割譲したという(継体紀)。娑陀国(沙陀国)は百済国と近く、安羅国とも近い、この国から来た人達の神社かも。。

『日本書紀(中)』(教育社)より↑
漢の帯方郡は↑の地図では、一番上でここでは見えない、今のソフルのあたりとする。204~313年まであった、中国の漢の半植民地とされ、高い中国文化がもたらされたとも言われる。高句麗が平壌にあった楽浪郡を313年に滅ぼし、帯方郡は母国との通路を失いそのころに亡びたと言われる。百済は高句麗系と漢系の文化が強い、日本の古代国家もその文化や移民難民を積極的に取り入れたことはよく知られている。娑陀や安羅もその流れにあった国とされる。
彼らを「帰化人」と皇国史観では呼んできた、現在でも外国からの移住者を帰化者とか呼ぶそうである。
『古事記』では、天日矛が来たことを「天乃日矛 参(まゐ)渡り来つ」と記し、『播磨風土記』は「天日槍命が韓国から渡り来て」と記されている。「渡り来る」のほうが、より本来の呼び名を残していると思われるわけで、王化思想のような中華思想日本版も確立していない古墳時代やまして弥生時代などに朝鮮などから多く来た人たちを、「帰化人」などと政治的思想的潤色ふんぷんな 呼び方をするのは適切でない、というよりは完全なヤシである、「渡来人」とするのが学問的に適切とされ、今では「渡来人」、政治宗教思想などとは関係なく単に「渡って来た人」とだいたいは呼ばれるようになっている。
日本は島国だから、国民の全員が「渡り来た人」の末裔である。遅いか早いか、出発点が少し違うくらいしかない。そうした者同士が混血し今の日本人となったもので、「純粋な元々の大和民族」とかは存在しない。天から降って来た神の子孫とか自称してきた人も含めてである。

綾部市は織物の町として知られる、漢は忘れないかも知れないが、クリも忘れてはなるまい。渡来人も忘れてはなるまい。
雄略14年紀に、
十四年の春正月の丙寅の朔にして戊寅に、身狭村主青等、呉国使と共に、呉の献れる手末の才伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)と衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊つ。
是の月に、呉客の道を為りて、磯歯津路に通して呉坂と名く。
三月に、臣・連に命せて、呉使を迎へしめ、即ち呉人を檜隈野に安置らしめたまふ。因りて呉原と名く。衣縫の兄媛を以ちて大三輪神に奉り、弟媛を以ちて漢衣縫部とす。漢織・呉織・衣縫は、是飛鳥衣縫部・伊勢衣縫らが先なり。

日本の高級織物の祖が漢織・呉織にあることを伝えているが、この「漢」は安耶国であり、「呉」は高句麗国である。
字は同じだが、中国の漢や呉のことではない。


曹洞宗明鏡山高台寺


高台寺
所在 豊里村字栗小字上村
寺号 永平寺末寺久昌寺下寺、明鏡山高台寺
宗派 曹洞宗、本尊 釈迦牟尼仏
縁起並伝説
本尊の両側には道元禅師関山と称する南渓存越禅師を祭る。「夫レ当寺ハ往古ハ不分明、文禄ノ頃本寺(註 久昌寺…福知山)二代南渓存越和尚ヲ請シテ開闢初祖トシ、以来相続仕当明治十六年ニ至テ百六拾弐年経タリ。」寺院明細帳)創立当時(慶長年間)は寺として整わず、庵寺の形で庵主が守つたという。過去帳は宝永九年に始まる。
・英霊供養塔 昭和二十三年建立(遺族会の項参照)
・境外堂宇 地蔵堂、栗小字土居之内、 本尊 地蔵菩薩
什物 特記すべきものなし。
(『豊里村誌』)



境内に「学童疎開之碑  日彰疎開教職員児童一同」がある。
裏面の碑文
第二次世界大戦末期戦火を避けるため京都市立日彰国民学校の教職員十三名児童約百三十名は昭和二十年(一九四五)三月三十日より同年十月十七日まで高台寺 浄泉寺 瑠璃寺に集団疎開を命じられ以久田学へ通学した。極端な耐乏生活の中で互いに助け合い、励まし合っての二百日であった。この間お寺を中心として全村挙げて物心両面に温かいご援助、ご協力を賜ったことを銘記する。
私達は今、心新たに平和の尊さを知り、この碑を刻す。
昭和五十九年六月 中田勇次郎書

以久田小学校は、すぐ下に見える今の豊里小学校。日彰小学校は中京区にあった小学校で、児童数減少で統合されて今はないとか。
隣の浄泉寺(位田)にも同じ碑がある。瑠璃寺(大畠)にもあったのか、うかつ者には見当たらなかった。
丁寧なことである、学童疎開があったのは府下では京都市とあとは舞鶴市だけだが、どこかのマチの人たちが建てたこうした碑は見たこともない。すべて忘れてしまい、とうとう戦争大賛美のマチに成り下がり果てたのであろうか。過去を忘れる者は未来も忘れるもので、忘れたことすら忘れたような、己の根を忘れた枝葉のような、今こうして茂っておれるのは、戦争さまのオカゲです、とかド恥ずかしいを通り越した、智恵ある人と呼ぶようなものでもない。


一尾城
高台寺の裏山の山頂に一尾(いちお)城と呼ぶ山城跡があり、大槻氏の居城跡という。山麓はその時の町並とされていて、今もずいぶんと狭い道である(失礼)。
城主は民部丞あるいは佐渡守といい、「東栗村城山軍記」には永禄3年(1560)に若狭高浜の逸見駿河守の攻撃を撃退した話が伝えられている。
城山
栗村の上村にある城山城址については、戦国時代大槻佐渡守の居城と伝え、今になお当時の城山軍記なるものが伝承しているが、大部であるから今その一部を録する。
 栗村城山軍記 (抜萃)
永禄四年三月上旬若狭高濱の城主逸見駿河之守は丹波の国を従へんと軍勢千余騎を率い丹波の国上杉を越へ十倉及山家城を降伏せしめ綾部より鳥ケ坪を経て付ケ瀨を渡る栗村一尾ケ城遠見張の者此の大軍は唯事ならぬと三の丸非常大鼓を打つ城の内外上を下への大騒動して本の丸へと詰めかけた其の内若狭勢は小貝村より館と越へ沢野が原へ押寄せ使者を以て次の文書を差出したり。
「今度当国へ入込み十倉山家の城主共降参人質等差出申候当城も同段に候哉若し異議に及べば槍先にて従へ申候へば返答承り度」                           逸見駿河之守
      大槻佐渡之守殿
城主是を見て「返答槍先にて申さん」と云ひ返され直ちに大手の大将嫡子大槻民部大輔からめ手の大将大槻山城の守待大将大槻馬之丞を始め其勢五百余騎沢野が原に出陣し互に火花を散らして戦いたり此時村上蜂之助五人張強弓に三つふせ飛鳥の矢を取かえ引かえ放つ間に三人五人と射斃す内に敵の四天王彼和見三郎を射斃したれば敵陣俄に敗走す蜂之助之を追討ち寄手の大将逸見駿河之守を射斃したり此の戦に於て其の褒美として土地ゆるず坪を給いしなり。
(『豊里村誌』)

一尾城跡


栗村井堰

下位田の位田橋の少し下に、綾バスの「井堰前」バス停がある、そこで由良川より取水し↑、栗・長砂・小貝・私市の4地区330町歩の潅漑用水となっている。
「丹波負笈録」は
 下位田ニ大堰凡二百間、位田井と云、位(田脱カ)へは水不掛、
 栗村三千四百石余下私市村迄水掛る、天正年中福知山明智侯より始むと云、溝代無
当井堰は綾部井堰の約4キロ下流にあり、干天の年には取水を巡って綾部井堰と紛争を生じることもあったという。


栗村井堰については、明治以前のまとまった記録はほとんどない。湯長谷藩領であった私市村庄屋文書に、井堰割の負担についての記録がわずかにあるくらいである。この井堰は、明智光秀が治政の一つとして築いたものと伝えており、元禄六年(一六九三)の絵地図にはこの堰が記されている。
栗村井堰は位田に築かれて、その水は位田村を通り栗村・長砂・小貝・私市の四か村の田を養い、受益面積は三三〇町歩と伝えられている。管理は栗村大庄屋を中心にして右四か村で行われ、位田村は通水させるために、一定の規制のもとに水路からその水を利用することが認められていた。
位田村に設けられた栗村井堰は、上流にある綾部井堰の揚水との関係があり、嘉永六年六月、綾部堰懸り村へ次のような申し入れをしたことが、大庄尾羽室荘治日記に記されている。
  一 廿二日朝栗村九郎左衛門参り 位田井堰より水上り兼 栗村大ニ水払底ニテ下方難渋仕侯ニ付
   今朝御上エ御願上 綾部井堰江先達テ土俵御入成され侯趣ニ御座候間 何卒土俵を両三日の間御取下
   され候儀 御頼申上義申参り候
とあり、綾部井堰が水上がりをよくするため堰に土俵を入れたから、栗村堰で受ける水量が少なくなり水が不足して困るので、二、三日土俵を取り下げてほしいというのである。これに対して綾部堰では、下郷井組村へ相談をかけたところ、「嘉右衛門方へ三村罷出 相談も仕候処 御尤之義ニ候へ共 水末々ニ相成候
テハ一向払底ニ御座候間 御断申上下され候義申参り候」
と、綾部井堰では水末の村の要求によってこれを断わっている。このような井堰間の水についての紛争は他の年にもあったものであろう。
栗村井堰は、慶応二年の大洪水で堰体が壊され、藩主の援助で復旧している。
(『綾部市史』)

命の水をめぐる争い  由良川の井堰
丹波山地の峡谷を縫って流れる由良川が初めての盆地で緩やかな流れとなるところに、古くから綾部井堰・栗村井堰・天田井堰と三つの井堰が相接して造られて、この地方の生活を支えて来た。
ところがこの三井堰がいつ頃造られたものかとなるといまのところ定説がない。古くは平安末期の平氏時代、平重盛による綾部盆地開発説から江戸時代初頭とするものまである。「丹波負笈録」は三井堰について「明智氏の始と云」と記している。その技術や受益地域の広がりから見ても、明智光秀から小野木・有馬両氏の福知山領時代とするのが最も妥当で、天田井堰については元和二年に普請が行なわれたことを示す古文書がある。
 上流の綾部用水は並松に井堰を設けて取水し、青野の由良川旧河床から井倉にかけて流れを盆地の微高地に導き、岡村一帯の沃田を潤していた。さらに一部は安場川を鳥ケ坪の「水橋」で越し、大嶋村にまで導いた。そのため烏ケ坪は延村地内であるけれども、水橋の普請は大嶋村が負担した。水路沿いはすべて綾部藩領であった。
 まんなかの栗村用水は位田村で取水して栗村の沃野を潤し、あまり水は犀川に落とされた。しかしこの水はそのすぐ下流に井堰を設けて再度取水し、小貝から私市村にまで導いて利用した。そのため私市村も井郷(井堰組合)に加わり、栗村井堰と用水路の負担を受けた。ここでは藩領が錯綜し、しかも取水地の位田村は井堰のため常に田畑浸水の不安があり、井堰の補修をめぐり村々の紛争は絶えることがなかった。
 最も紛争の激しかったのは天田用水である。大嶋村で取水し、何鹿郡西部から天田郡東部にまで及ぶ水路網により水田面積が飛躍的に拡大したことは言うまでもない。しかし日照りともなれば、たちまち激しい水争いが生じた。ここも藩領が錯綜するため、井郷内の「公事」(訴訟)が何回も京都奉行所に持ち込まれ、奉行所でも有名であったという。上流地域との公事のなかで下流の諸村(下郷)は井郷からの脱退・再加入を繰り返している。公事の最大の原因は井堰の構築法と多大な費用負担にあった。天田井堰は河床を二列の杭で仕切り、そこに石を詰めて取水する杭木洗堰である。下郷は登り堰とするよう求めたが、大嶋村が譲らなかった。増水のさい、たちまち河岸が決壊する恐れがあるからである。そこでより効率的な取水のため井堰をさらに上流に移し、そのための敷地代も下郷が負担したが、根本的な解決には至らなかった。
この長年の懸案を解決したのが綾部藩士で地方巧者として聞こえた近藤勝由であった。慶応三年(一八六七)、近藤は前年の洪水で大破した天田井堰の復旧にあたり、綾部用水を天田用水につなぐことを献策し、大庄屋羽室嘉右衛門の協力をえて、延村から大嶋村まで約九〇〇㍍の新溝を突貫工事で完成させた。
(『図説・福知山・綾部の歴史』)

栗村井堰
この井堰は、丹波領主明智光秀の時代に施工されたもので、慶応2、3年の大水害により、綾部藩主九鬼氏の援助を受けて復旧し廃藩置県と同時に関係地域に移管され以後栗村、長砂、小貝、私市の4地区で管理していた。
 現在の粟村井堰は、由良川距離標河口から48.6㎞附近にあり綾部井堰の約3.8㎞下流にあたり、それより下流右岸のかんがいに使用され、ピーク時約1.9m3/sの取水を行なっている。かんがい面積は当初(水利権届出昭和42年)330haであったが、その後農地転用により3.3ha減少したが、土地改良事業によるかんがい区域の拡張が67.6haに及び、昭和49年現在のかんがい面積は37.63haと当初より増加している。なお、この井堰で取水された水は、途中右支川の犀川と合流するところでいったん犀川に落して、可動井堰にて犀川の水とともに堰上げた後、再度取水しているので、それより下流の約70haは正確には由良川のみの水利権ではないといえる。
 沿革は綾部井堰と同様であり、藩政時代から使用されていたという記録がある(栗村井堰災害復旧調書表-6、又平面図及び構造図は図7~10を参照)。
(『由良川改修史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


栗の主な歴史記録


皇室の対立に巻き込まれた荘園 ●栗村荘の変遷
犀川が由良川に合流するあたり、綾部ではもっとも広大な沖積地に栗村荘があった。古代の栗村郷に立てられた荘園である。平安末期には崇徳院領であり、領家は後白河法皇の近臣藤原光能であった。光能は蔵人頭から参議に上ったが、治承三年(一一七九)官を解かれ(平家追討の院宣を書いたためという)、のちに還任したが、源平争乱さなかの寿永二年(一一八三)五二歳で死亡した。
文治二年(一一八六)二月、光能の後室比丘尼阿光は使者を関東に送り、相伝の家領栗村荘が武士のため押妨されたと訴えた。前年に源頼朝が兵粮米徴収の権限を獲得したことにより公家側から頻発した苦情のひとつであろう。幕府からは元のごとく領家進止に従うべしとの下文がだされている(『吾妻鏡』)。承久の乱(一二二一)の発端となった城南宮での仏事の警護に加わった武士のなかに「栗村左衛門尉」の名がみえる。おそらく栗村荘から駆けつけた武士であろう。これらの武士は所領を奪われたから、このとき栗村荘にも新補地頭が設置されたものと思われる。
その後、この荘園は安嘉門院(後堀河天皇の姉邦子)から亀山上皇、昭慶門院(亀山天皇皇女)へと伝領された。さらに嘉元四・徳治元年(一三〇六)には後伏見天皇領となったが、その時の「室町院御領目録」には次のように記されている。
 丹波新院御分栗村荘
 東方 光輔朝臣後室御年貢五千疋
 西方 新中納言  御年貢二千五百疋
荘が東西に分割され、東方の領家は先の藤原光能の曾孫光輔に受け継がれているが、西方は新中納言(吉田定房)となっている。その頃、在地の支配に当たった武士の名が、西方(後の西栗村か)の中央部に祀られている赤国神社の「文の鳥」に「正和三(一三一四)甲寅九八日 下司源光高」と記されている。
さて、荘の伝領の経過をみると、その背景に当時の皇室領をめぐる激しい対立関係が浮かびあがる。いわゆる大覚寺統対持明院統、さらには持明院統内の対立である。後伏見天皇は持明院統、領家のひとり吉田定房は大覚寺統の後醍醐天皇の側近である。定房は、北畠親房らとともに「後の三房」と謳われ、徳治元年の皇統問題では特使として鎌倉に下向した人物である。しかし、元弘の変(一三三一)は是房の密告で始まったといわれ、建武政権分裂後は北朝に出仕した。定房は建武四年(一三三七)七月に突如出奔、吉野宮へ入った。所領はむろん尊氏方に接収されたであろう。
その年、丹波・丹後では尊氏派と南朝方の合戦が随所で起こっていた。その主なものは栗村・土師・加悦・岡田・和久などである。和知荘の片山一族は、前年来京都・越前などに出陣していたが、五月の栗村河原の合戦では若党や旗差が負傷し、土師河原では一人が討死している(片山家文書)。
中央政界と在地武士の動きは直結しないが、密接な繋がりを持つことも確かである。
(『図説 福知山綾部の歴史』)


伝説





栗の小字一覧


栗町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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