黒谷(くろたに)
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京都府綾部市黒谷町 京都府何鹿郡東八田村黒谷 |
黒谷の概要《黒谷の概要》 黒谷和紙で有名な所。桂離宮にも使われている和紙だから、まちがいなく日本一の和紙が当地で作られている。国道27号線沿いで、鉄道(JR舞鶴線)も走っていて、誰でも知っていて、どこにあるかなどの説明などは不要かも知れない。伊佐津川の上流で、舞鶴市真倉の一つ上流の集落になる、伊佐津川支流の黒谷川が八代(奥黒谷)から流れ集落の中を流れている。周囲は嶮しい山地で、そのわずかな谷間沿岸に集落が立地する。集落の中は黒谷川添いのこの↓小路(市道)しかない、小さい車一台でイッパイ、すれ違いはまったくムリ、対向車がこないことを祈りながら進む。緊急車両の進入もムリかも… 耕地は少ない、というよりもナシなのに、家屋は川沿いにビッシリ、これは山地の楮、黒谷川の水を利用して、古くから紙すき業が盛んであるからであろう。クォリティー高い黒谷和紙として知られ、桂離宮をはじめ日本の伝統建造物のふすま・障子に用いられるほか、海外にも輸出されている。以前はあちこちに紙が干してあるのが見られたが、このごろはあの風景を見ない、現在は紙漉をしている家は数軒のみとか… 伝説によれば、鎌倉時代に平家の落武者16人によって開村されたといい、あるいは江州の落武者が隠れ住んだのが始まりとかいう。 黒谷村は、江戸期~明治22年の村。江戸初頭は山家藩領、寛永5年(1628)旗本梅迫谷氏領となる。のち枝村の奥黒谷が分離した。耕地は少なく、近隣の上杉村・高槻村へ山を越えて出作をしたといい、両村との間にたびたび争論が起きている。古くから、自生の楮を原料に、黒谷川の水を利用して、紙を生産していた。寛政頃から紙漉の改良を図り、京都への販売をめざした。安政6年には京都の業者の技術指導をうけ、また、技術保存のため株仲間を形成している。領主へは、紙運上を上納した。幕末には紙の藩専売が図られ、反対する農民によって騒動が起きていた(梅迫騒動)。 明治元年久美浜県、豊岡県を経て京都府に所属。同22年東八田村の大字となる。 黒谷は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。紙漉は主業として一層盛んになり、男が材料を整え、女が抄紙を行った。市場の確保と製品の品質向上のため、明治41年に黒谷製紙組合が結成された。昭和28年黒谷町となる。 黒谷町は、和28年~現在の町名。昭和30年代、洋紙の増加から各地の和紙産地が廃業するなかで、指導者の努力によって生産を維持し、黒谷和紙と呼ばれて民芸品としての評価が高まっている。 《黒谷の人口・世帯数》 117・56 《主な社寺など》 熊野神社 集落の一番奥に鎮座。案内板があった。 どこが立てたものかは不明だが、同様の様式の案内板は、自分らが勝手に興味をもった所のみに立てられている様子、何もないよりはマシか。 モミジが美しい境内で、11月には、もみじ祭が行われている。
祭神は紀州の熊野三社のものではなく、平家も江州も関係がないよう、国産みの夫婦神を祀ったもののように見える、ムラ発祥以来のウブスナ神でなかろうか。 臨済宗東福寺派徴妙山門徳寺 和紙会館の裏山の頂上にある。27号線からも見える、山のテッペンにあるのが当寺である。鉄道敷設でここに移転したという。鎌倉期と推定される五輪塔があるという。参道の登り口に毘沙門堂がある。
《交通》 《産業》 和紙 集落へ入った所に黒谷和紙会館↑がある。手前の川(黒谷川)の水で楮が洗われ、手前右手下に写っているように和紙の原料になる。手前の方ヘ歩いてくると紙漉きの作業場↓がある。(どちらも誰もいない様子) 『綾部市史』 黒谷和紙 すぐれた民芸品として全国的に名声を博している黒谷和紙が、いつごろから抄(す)かれはじめたかは明らかでない。伝承によると、川上姓を名のる弓の名人と、そのほか平家の落武者ら一六人がこの地に住みついたといわれ、鎌倉時代のものと思われる五輪塔も残っている。応永年間(一四〇〇ころ)安国寺第五世によって黒谷の門徳寺が開山されているから、そのころにはかなりの集落ができていたと思われる。紙すきについての記録はないが、山峡の地で耕地が少なく、増加する人口を養うことができないため、食料を得る収入の道として紙すきを行ったのであろう。もともと封建領主は、山間の村から紙を小物成の一部として上納させていた。藤懸領では「立紙」という名で、上林の領内村ごとに銀何匁かを出させているがその説明に、 「以前村毎に紙すき出せし其運上なり ゆへに小村に多く出すあり 高割にてはなし」(諸事古例之写) とあって、もとは各村で紙を抄かしていたことを記している。於与岐村には「紙漉船運上」の小物成があり、野田村でも紙をすいていた。しかしながら立地条件のととのわないところは、江戸時代初期に紙の小物成が銀納化して廃業するが、黒谷村は自然条件を生かして紙すき業を継続したのである。 和紙製造には大量の良質の水が得られることが立地の基本的条件である。『和漢三才図会』に「凡漉紙以二谷川水一為レ佳」とあるように、原料晒・草洗い・抄造の各工程に大量の谷水を要し、黒谷は伊佐津川上流の二つの谷川のきれいな水を利用できる好条件をもっていた。また原料である楮が山野に自生していたことも有利な条件であった。 こういう好条件がととのっていても、江戸時代の黒谷村の主業は農業であって、耕地不足を上杉村や高槻村への出作で補っていた。嘉永七年(一八五四)の訴訟文書に、「出作の儀は 谷間 日陰の場所にて年々作毛熟さず 納方無納の年柄多く 年来山稼 紙漉などの余職をもって御上納仕来候程の村方故」とあり、出作地も収量が思うようになく、山仕事や紙すきなどの余職で上納して来たことを記している。 余職とされながらも、紙の商品価値を高めるために新技術の導入を行っている。「黒谷区有文書」によると寛政二年に、「京都越後屋庄助殿江引合に及び 安政六年まで紙少ゝ宛さし登し」ていたが、京都不向の紙でさばけず値段も引きあわなかった。そこで技術指導のため、越後屋の別家「善七殿友三郎殿 当所江未年(安政六年)三月十六日御下りなされ 漉方工夫御伝授に預り」京出しの紙が漉けたとしている。これにより「年来の願成就仕むら方の悦び有難き事に候」と非常に喜んだことを記している。さらに「伝授漉方を相守り申すべく候 我儘勝手に漉方仕間敷候」と誓約し、「心得違の者は寄合の節 一同相談の上 其者相除け申すべく候」と定めている。このようにして紙を京都にだすため技術を改善し、同業組合の組織で技術水準を維持しようとした。このころから紙すき業が本格的に行われるようになったものと思われる。紙が商品として価値を高めるようになると、領主は特産物としてその生産に保護を加え、また製品の販売にも介入していった。文久二年の文書に、 「去ル未年(安政六年) 紙方産物入用ノ為 手当銀札弐拾貫相下ゲ右を以紙産物取続 猶此上共漉方の儀 精々相励候様申渡置候」 と、運営資金を貸し与えさらに、 「黒谷村之義 前々より難渋の場合ニテ 郷高弐拾五石之処 人別之儀ハ格別多人数ニモ有之候事故かせぎ別而紙漉方かせぎ 油断無く相励申すへき処」とし、 「漉方元入等は地頭より助力致し永代紙産物之相続候様致度」 と領主が援助するから永く紙すきがつづくよう庄屋に申し渡している。この文書は梅迫騒動とよばれる一揆のときに、領主谷帯刀よりだしたものである。 文久以前には代官十倉治右衛門が親子二代二〇余年にわたって領政を行い、黒谷の紙の販売について大庄屋高雄氏とともに関係しており、さらにこれを専売しようとしたため、農民が反発したのがこの梅迫騒動であったと思われる。騒動の結果代官十倉氏は追放になるが、領主谷氏としては漉方元入をしても領内特産として育成しようとしていることがわかる。こうして黒谷の紙すきは農家の副業として生産をつづけ、明治以後多くの紙すき地が廃業に追い込まれた後も、その立地条件を生かし、経営に創意を加えて今日におよんでいるものである。 『福知山・綾部の歴史』 母子相伝の技術が息づく紙漉きの里 ●黒谷和紙 綾部市黒谷町で行なわれている抄紙(しょうし)は今日、民芸品「黒谷和紙」として著名である。 黒谷村は綾部と舞鶴の市境にあって、舞鶴湾へ流れる伊佐津川と支流黒谷川の合流する狭間に展開する山村である。平家の落人が隠れ住んで紙漉きを始めたという伝承があり、鎌倉期と思われる五輪塔も存在する。文禄四年(一五九五)の文書が当地最古のものである。 黒谷村はじめ丹波・丹後の山間村では抄紙業が見られるが、耕地がほとんどなく、零細な農業経営であり、黒谷村も近隣の高槻村や上杉村への出作りを行なっていた。やがて梅迫領(旗本谷氏)下の一村として、伊佐津川と黒谷川の豊富で良質な水を活かして、山稼ぎと紙漉き専業の村となったのである。 紙漉きは村内の楮(カゴ)を原料として、障子紙・傘紙を作り、近隣の需要に応えた。その技術は女子の専門であり、長い修練が必要であって、母子相伝の技術として大切にされた。 寛政(一七八九~一八〇一)頃、京都越後屋と取引を始め、呉服の札紙も生産したという。天保(一八三〇~四四)頃には、梅迫領代官十倉治右衛門により領内特産物として生産が保護され、製品の販売を奨励した。安政六年(一八五九)、越後屋により京都から漉き方指導の紙工が入り、京都向きの製品ができるようになった。またこの頃から、抄紙技術を守る掟が定められ、品質管理を徹底し、同業組合を作って本格的な紙漉きと販売を行なうようになった。 梅迫領では幕末に知行所改革として、代官十倉氏の追放と大庄屋高雄太郎左衛門・善兵衛の退役謹慎、村役人の追放を行なった。同時に黒谷和紙の統制(専売)を行なおうとして領民の反対を受け、「梅迫騒動」が起きている。江戸時代末期から明治にかけては、黒谷村は、障子紙・傘紙・キズキ半紙・書道紙などの製造を行なっていた。しかし綾部が養蚕製糸の西日本の中心になると、黒谷村でも養蚕を行ない、繭貯蔵用袋の製造も一手に引き受けるようになった。一方抄紙の技術は、福井県や高知県の「土佐漉き」の技術を導入して改良に努めた。水口半次郎は土佐漉きの技術と組合法による製紙を提唱し、実現している。 昭和初年、民芸運動が盛んになると、黒谷和紙は民芸品としての転換を図り、製品化していった。(木下禮次) 『由良川子ども風土記』 黒谷村と黒谷和紙 綾部市・東八田小 五年 堀江直美 福田尚弘 六年 石角義孝 堀江照美 堀江弥寿樹 渡辺美幸 梅垣勝幸 水口栄子 工藤 信 石角則子 福田昌代 先生から 「黒谷の和紙について本にのせたいという話があるけど、黒谷の人たちでやってみませんか」というお話がありました。 そこで黒谷の五・六年生が集まり、黒谷の歴史と、黒谷和紙について調べることになりました。編集の人にも何回も来てもらったり取材にいったりしてまとめました。 黒谷はいつごろから人が住み始めたかというと、今から八〇〇年ぐらい前の鎌倉時代からだといわれています。 そのころ、源氏とのいくさに負けた平家の落人と、川上姓を名のる弓の名人が、中国地方をさまよいながら、安住の地を求めてこの黒谷にやってきたということです。 これは『綾部市史』の中に書いてあるそうですが、本当かどうかははっきりしません。 それから、鎌倉時代に作られたという門徳寺と五輪の塔があるので、そのころには村ができていたということがわかります。 黒谷村は、四方を山に囲まれた山奥の村で、きれいな谷川が流れており、平家の落人たちが敵に見つからずに生活していける所だったと思います。 黒谷で和紙が作られるようになったのがいつごろかははっきりしません。 なぜ、黒谷で和紙を作るようになったのかというと、山村でせまい田んぼのため、米が余り多くとれなかったためです。 先生から江戸時代の年貢の表を見せてもらいましたが、それによると梅迫谷帯刀領十ケ村一五〇〇石のうち、梅迫村と安国寺の二村で全体の六割をしめ、黒谷村は一番少なく二五石しかありません。 このように貧しい村だったので、米を作るほかに何か副業をしなくてはということで紙づくりを始めたのだと思います。 紙づくりには何が必要かというと、まず「きれいな水」だと思いました。黒谷には昔からきれいな谷川が流れているからです。けれどきれいな水だけでは紙はできません。 紙のもとになる「コウゾ」という木が、山にはえていることが必要です。 この辺の山にはコウゾが自生しており、きれいな水もあるので、米があまりとれない山村では、紙づくりが大事な副業になりました。江戸時代のはじめ頃までは、多くの村で紙づくりがされていたそうです。 ところが最後まで紙づくりが残ったのは黒谷だけだったそうですが、そのわけは、越後屋善七と友三郎という商人が、紙づくりの進んだ地方の新しいよい技術を黒谷の人たちに教えて、良質の紙がつくれるようになったこと。それと、黒谷の人たちが 「悪い紙は売らないようにしよう」 と申し合わせをして、よい紙だけを売ることにしたため、信用されていったということです。 それから領主の方でも、米のかわりに紙を年貢として収めさせ、紙づくりを保護育成したということもありました。 こうして、黒谷の和紙はだんだん有名になり、発展していったということです。 次に梅迫騒動というのがありました。 これは江戸時代に、谷帯刀という領主の時、十倉治右衛門という代官が、紙を自由に売ってはならない、専売にしてもうけようとしたため、農民たちが一揆をおこしたものです。 そしてその結果、十倉治右衛門という代官は追放されてしまいました。 はかの一揆などはたいてい農民の方が負けることが多いのですが、なぜ黒谷では農民が勝って代官が追放されたのかというと、紙は当時貴重な品物で、領主も紙づくりをなくしたくなかったため、農民たちのいうことを聞き入れたからだと思います。 『綾部市史』には、領主の谷帯刀という人が、庄屋に、援助するからながく紙すきが続くように申し渡したと書いてあるそうです。 明治時代になって、よその村がだんだん紙すきをやめていってからも、黒谷ではずっと紙づくりを続けていきました。 昭和になって不景気になると、紙が全然売れないので、村中借金だらけになったといいます。その時は、黒谷の組合長さんが、山や畑などを売ったそうです。 戦争中や、戦争のおわったあとは、食べるものがあまりなかったので、いもや麦、豆、あわ、ずりきび、のうらくなどを食べたり、よもぎやじょうぶという木の芽などを食べていたそうです。 紙すきも、原料のコウゾがへってしまい、「ミツマタ」を兵庫県あたりまでトラックで買い入れに行き、コウゾの代わりにカサ紙などに使ったという事もあったそうです。 昭和三〇年ごろになると、それまで障子紙など手ですいていたのが、機械化がすすみ、機械すきが広がってコウゾの値段が安くなったそうです。昭和三八年には、コウゾの値下がりがひどいため、秋になってもコウゾを切らない者もでたり、翌年は芽が出たら切りとって牛の飼料にしてしまう家も出たくらいで、コウゾの生産者は急に減ってしまいました。 昭和四〇年をすぎると、和紙をつくっているところが次々とつぶれて、一時は和紙が全国的に全滅に近くなっていったそうです。 黒谷和紙の組合長さんは当時のことを次のように話してくれました。 「黒谷が和紙づくりをやめなかったのは、ほかに仕事がなくて、必死にしがみついてきたからです。そのうちに和紙のよさが見直されてきたので、みんなで知恵を出し合って、便せんや封筒、版画などを作ってここまできたんですね」 紙すきを長くしておられる人に聞いても、死ぬまできれいな紙を作りたいという願いが感じられました。 春のあたたかな日に、紙干しをしている風景は、黒谷の名物です。ところどころに残っている雪と、和紙の白さが遠くからもよく目立ちます。 ぼくたちは、黒谷と、黒谷和紙の歴史を調べて、黒谷和紙が現在あるのも、長い間たくさんの人の苦労があったからだということがわかりました。そしてこれからも黒谷和紙が作られ続けていってほしいと思いました。 黒谷和紙について 私は黒谷和紙について調べてみました。紙の作り方は次のようにします。 ① かど切り コウゾという紙の材料になる木を切ります。黒谷ではコウゾのことを「かど」と呼んでいますが、コウゾは鎌倉時代から黒谷村にはあちこちどこにでもはえていたそうです。 ② かど小切り 長いコウゾを短く一定の長さに切ります。それを直径四〇センチぐらいのたばにして七たばぐらいづつ、むしおけに入れ三時間はどむします。 ③ かどへき むしたコウゾを一本づつ皮をむいて、たばねて川に約半日ほどつけておきます。 ④ かどもみ 川にはいって足でおに皮をもみおとします。冬などは水が冷たいのでたいへん苦労だということです。 ⑤ かどそろい おに皮をきれいにもみおとしたコウゾを小さい包丁で、表皮をとり白皮にします。 ⑥ かどゆすぎ きれいになった自皮を川にもっていき、きれいにごみをとります。それを竹のさおに並べて立てかけ、それを約一日ぐらいほしておきます。 ⑦ かごかき ほして乾いたコウゾの皮を大きなカマで二時間ぐらいたきます。たく時に、ソーダ灰というくすりをカマの中に入れます。 ⑧ かごみだし 川の流れで、コウゾのあくをぬき、ゴミをとります。 ⑨ 紙たたき 作業場にもっていき、コウゾの皮を四角のわくに入れ、ジャッキで水分をとり、どうずきという機械の中に入れて、細かくするために約一時間ぐらいたたきます。この機械は歯車のしくみで、自由に回るようになっています。そのあとビーダーという機械でコウゾのせんいをもっと細かくするために、水といっしょにして約一時間半ぐらい回します。 ⑥ 水ぬき ビーダーにかけて細かくなったせんいを今度は大きなタンクに入れて水ぬきをします。 ① 紙すき 水ぬきのできたコウゾのせんい (黒谷ではこれを紙もちといいます)を家にもち帰り、大きな木の長方形のわくに水をいっぱい入れ、「あおいとろろ」を入れてよくかきまぜ、それがよくまざったら、すき桁に「す」という竹のあみをのせてすきあげます。一枚一枚つみ重ねて三日ぐらいですきます。 ⑫ 紙つけ ジャッキで水分をとってから、障子一枚分ぐらいの板にはりつけ、天気がよい日は三時間ぐらい、雲った日で四時間ぐらい日光にあて、干しておきます。 干して乾くと紙ができ上がりです。 私は紙ができるまでのことを一人のおばあちゃんに聞きました。 かどそろいは、いっしょうけんめいやっても一日、二・三たばほどしかできないということです。紙すきは、大きな厚い紙で一日百枚ぐらい、紙のすき方は昔も今もあまり変わらないそうです。紙ができるまでに一五〇回ぐらい手をかけるということでした。 おばちゃんは 「冬は水が冷たいので、あかぎれができてこまった。きれいで強い紙がすけた時が一番うれしいけど、何年かかってもきれいで強い紙はなかなかすけない」 と話してくれました。 次に和紙組合長さんに聞きにいきました。現在紙をすいている人は、男子で一四人、女子で三六人ということです。作業場には、どうずき機が四台、ビーダーが一台あるそうです。明治時代の方がよい紙ができたという話や、昭和三〇年ごろに紙が売れなくなって苦労したということを聞いて、紙を作るのは大変なことだけど紙すさやかごそろいをしている人たちはよくがんばっているなと思いました。 私は、次に、製品ができるまでのことを調べようと思い、加工場といって、製品を作っている人たちの所にいって調べてみました。 製品を作っている人たちは、九人います。作っているものは、ネクタイ・びんせん・ふうとう・きもの・クッション・ハンドバック・ざぶとん・たんざく・ぼうし・色紙・めいし入れ・メモちょう・ふすま紙・しぶふだ用紙・がぜん紙・はんが紙・はん紙・てずきはう所・ぶんこ紙・はがき・さいふ・といろいろな製品があります。 私は、紙すきや、かどそろいをしている人も苦労するけれど、製品を作っている人も、肩がこったり、ゆびがつかれたり、たくさんの製品を一日に作ったりするので、苦労すると思いました。 あとのほうでわかったことですが、製品を作っている人と、かみすきや、かどそろいをしている人を、全部あわせると、八十人もいるそうです。でも、あまりわかい人はいなくて、だいたいが四十才をすぎた人ばかりだそうです。 どこかのおばちゃんの紙すきをじっと見ていると、私もやりたくなってきます。私は、黒谷に生まれていてよかったなと思います。もし黒谷に生まれていなかったら、和紙を見ることもできないと思います。もし私が、大きくなったら、紙すきか、製品を作る方に行きたいです。 そして、いつまでも、黒谷和紙が残ってほしいと思います。. 『京都新聞』(2015.1.12) *黒谷和紙(綾部市)* *静かな里に届く軍の拠出命令* *「二度と兵器にしない」* 白い和紙が、山の斜面に並んでいる。 綾部市北部の山あいにたたずむ和紙の里、黒谷町の冬景色。いまは紙すきに最も適した時期で、「寒ずき」と呼ばれる。冷たい水は不純物が少なく、良質な紙ができるという。作業場で職人が紙をすき、冷気の中で天日干しにする。 そんな静かな里も、戦争に巻き込まれた。「和紙を拠出せよ」と、軍の命令が届いたのだ。 当時の記録はないが、「舞鶴の海軍火薬敵に納めたと聞いた」と黒谷和紙振興会長などを務めた中村元さん(94)。黒谷和紙協同組合理事長などを務めた福田清さん(86)は「軍事機密だったためか、用途は伝えられなかったようだ」。 中村さんと福田さんは海軍におり、終戦後に帰郷し、軍に黒谷和紙が納入されたことを知ったという。 黒谷和紙は、平家の落ち武者が始めたとされ、800年の歴史を誇る。明治以降、機械化で大量生産と省力化を図る産地が増える中、手すきなど伝統技法を守り続けている。二条城の障子紙や桂離宮、京都御所のふすま紙にも使われ、日本の文化を支えている。 繊維を縦横に絡める熟練の技は、破れにくい丈夫な和紙を生み出す。グンゼが原料を運ぶ繭袋に採用するなど、新たな用途でも使われてきた。そんな黒谷和紙に、軍が目を付けた。 当時、病で地元にいた堀江啓二さん(86)=元黒谷和紙協同組合専務理事=は「くりぬかれた和紙が火薬廠から返され、職人はそれを再び溶かして使っていた。火薬廠に勤めていた人は『弾薬の火薬を包むために使った跡や』と話していた」と証言する。 働き盛りの男性は出征した。残された女性が和紙の生産を担い、夜遅くまで作業していたという。 「軍国主義の時代。黒谷でも『お国のため』と信じ、和紙を作り続けた」と福田さん。 自身は海軍で、上官の「命は預かった」の言葉とともに大浦突撃隊の特攻隊員を命ぜられ、特殊潜行艇で敵艦突入の訓練を繰り返した。そんな時に米軍機の機銃掃射を受け、足元近くに着弾した。命の重みを感じた、という。 太平洋をまたぐ敵地まで燃料を使わずに爆弾を飛ばそうと和紙を使い、国民には竹やり訓練を課す。 「そんなことまでしてまで、やらなくてはいけない戦争とは、何だったのか。兵器として使われることが二度とあってはいけない。それが和紙に携わる職人全員の思いです」(長尾康行) =おわり 和紙と戦争 防衛省戦史研究センター(東京)によると、和紙は風船爆弾や海図、地図、火薬や武器の包装などに使われた。風船爆弾の気球に使われた和紙は、岐阜、福岡など7県の産地で生産された。他の用途に使われた和紙については、産地を示す記録は見つかっていない、という。 《姓氏》 黒谷の主な歴史記録
伝説黒谷の小字一覧黒谷町 ガンビシロ 石井根 堂根津 立ノベ フゴ田 笹ケ尾 市之瀬 ヲド原 宮ノ越 森 新堀 堂屋敷 押ケ成 神沢田 砥石谷 新ケ尾 ナガレ 中丸山 東谷 西谷 小谷 蓮花寺 ヲデガ尾 尾成 滝ノ尻 右ケ滝 樋ノ口 スリゲ谷 松尾谷 宮ヶ谷 ヌケ谷 向イ山 ソコ谷 ナガレ 宮ノ越 西ノ谷 小谷 滝ノ尻 滝ケ谷 樋ノ口 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『何鹿郡誌』 『綾部市史』各巻 その他たくさん |
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