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丹波の

味方(みかた)
京都府綾部市味方町


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京都府綾部市味方町

京都府何鹿郡綾部町味方

味方の概要




《味方の概要》
国道27号線添いの由良川の東岸側に位置する。東側から綾部市街地に入るなら、その由良川の手前の所。右岸の低地と東方の洪積台地味方平に位置する。

古代の三方郷で、「和名抄」丹波国何鹿郡16郷の1つ。

三方郷 味方町がその遺称である。古代の三方郷は味方と下八田・西原を含んでいたと思われるが、『寛知集』に、味方 西原 野田 和木 下原ノ諸邑ニ亘ル」と記すように、野田は別としても和木・下原を含んでいたかも知れない。
三方は御県(みあがた)で、大和朝廷の治下にくみ入れられた地域からきた名であるとする説があるが、どうであろうか。しかし西原から味方・下八田の久田山へかけて数十基の古墳があり、さらに味方から西原へかけての河岸段丘からは縄文時代の遺物が発見されているから、最も古くから開けた地域であることは確かである。
(『綾部市史』)
三方郷という所は当地近くあちこちに見られる、この地名は全国的にはこのあたりだけしかない特有のもの。綾部には四方サンがたくさんおられるが、三方は何のことだかサッパリ不明である。
若狭国三方郡三方郷
但馬国気多郡三方郷
但馬国養父郡三方郷
京丹後市久美浜町油池にかつて三方村
播磨国宍粟郡三方郷

養父郡の三方氏は日下部氏の流れという、日子坐王-丹波道主系、浦島太郎系のようである。
「播磨国風土記」は、これらの郷名の由来を取り上げている。
宍禾郡御方(みかた)の里 土は下の上なり。御形(みかた)と號くる所以は、葦原志許乎命、天日槍命と、黒土の志爾嵩(生野銀山のこと)に到りまし、各、黒蔦三條(みかた)を以ちて、足に着けて投げたまひき。その時、葦原志許乎命の黒葛は、一條(ひとかた)は但馬の気多の郡に落ち、一條(ひとかた)は夜夫(やぶ)の郡に落ち、一條は此の村に落ちき。故、三條(みかた)といふ。天日槍命の黒蔦は、皆、但馬の国に落ちき。故、但馬の伊都志の地を占めて在しき。一ひといへらく、大神、形見と為て、御杖を此の村に植てたまひき。故、御形(みかた)といふ。
大内川・小内川・金内川 大きなるは大内と称ひ、小さきは中内と称ひ、鉄錘を生すは金内と称ふ。其の山に、ヒノキ・杉・黒葛等生ふ。狼・熊住めり。

『日本書紀』の一書に曰く
天照大神をどうしてイワヤから引き出すかの神々の相談の場面である。
「彼の神の象(みかた)を図し造りて、招祷ら」として、石凝姥を以て冶工(たくみ)として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿(まなか)の皮を全剥(うつはぎ)にはぎて、天羽鞴(あまのはぶき)に作る。此を用て造り奉る神(みかた)は、是即ち紀伊国に所坐す日前神(ひのくまのかみ)なり。

こうした伝えから考えれば、ミカタは御方で、神様かそうしたエライ方のことで、そうした方のお住まいがあった村、あるいは神の象で鏡のこと。葦原色許乎男命のミカタのことか、天日槍は渡来系の新来者だが、葦原色許乎は従来からの在地勢力の大将ということのようだが、そうすれば但馬なら日子坐王系日下部氏系か。こちらも金属の加工生産と関係がありそう。日子坐王-丹波道主命系の金属集団が青銅鏡か鏡を作っていた過去がある地なのかも。。


味方村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。綾部組12村の1つ。はじめ綾部村の枝村、のち分村独立。
笠原神社下手より対岸新宮村へかけて綾部井堰が設けられ、登り堰のため当村の河岸は洪水のたびに削られている。
当村は山家・上林および八田と綾部城下を結ぶ街道筋にあたり、由良川で隔てられた城下との間は船渡で連絡されていた。渡し守は当村に居住。渡し賃は1人2文、牛馬は1匹6文で延宝5年から文政年間にかけて同額であった。
また嘉永4年(1851)3月にはこの渡で大原神社参詣帰りの乗客27人が溺死する事故があった。このため水難地蔵尊が現在も味方の共同墓地に安置されている。この渡しの上流に綾部橋が架けられたのは明治27年である。
村内には筏改場が設けられ、由良川上流からの筏流しについて運上を徴収した。そのほか川運上として鮭運上・持綱運上・鮎運上などがあり銀納している。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年綾部町の大字となる。
味方は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年9月、台風13号の洪水の際には、住宅の約半数が浸水、流失1軒、田畑は冠水して大被害を受けた。昭和28年味方町となる。
味方町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。昭和52年由良川の護岸堤防工事が完了した。


《味方の人口・世帯数》 1073・450


《主な社寺など》

味方遺跡
綾部の縄文遺跡  丹波山地の谷間を流れる由良川が、綾部盆地へ出ようとして右折する地点の右岸味方町に、笠原神社の小さな森がある。この付近の畑地こそ、綾部で最初に縄文時代の遺物が発見されたところである。そこで三個の石鏃が発見されるまで、綾部において縄文時代の遺物はまったく知られていなかった。この発見をみた昭和四十六年は、綾部の歴史に新しい一ページを書き加える記念すべき年となった。味方町に引き続き、石原町においても石鏃やサヌカイトの破片が発見され、また以久田野においても、動物の皮をはぐのに用いた大型のスクレーパーが発見された。その後も遣物の発見例は増加し、小貝町・青野町・寺町・館町と市内のいたるところに、縄文遺跡のあることがわかってきたのである。
(『綾部市史』)
   笠原神社の森↓ (対岸の正暦寺下より。新綾部大橋の少し下流にある)
堤防の向こう側に鳥居が見える、肉眼では見えるが、この写真ではうまく見えない。
鳥居がある↓森の下流側の堤防の向こう側。



上流から直進してきた由良川は、ここで右ヘ90度曲がる。そのカーブの内側にあたる所にある。
味方遺跡
綾部市街地の南東方、由良川が大きく右折する地点の右岸にあり、二か所にわたり遺物の散布が見られる。遺物は石鏃三点と、チャートおよびサヌカイトの剥片が十数点採集され、その他に時代は不明であるが土錘三個・古墳時代の土師器・須恵器等も発見されている。
石鏃はいずれも長さ二センチメートル程度の小型のもので、そのうち一点はチャート製、先端部を欠損するやや不成形のものである。他の二点はサヌカイト製であって、凹基無茎式である。
(『綾部市史』)


笠原神社


笠原大明神     同村
祭ル神      祭礼 八月十五日
社地凡三十間ニ四十間
村ノ北ニ斎大明神 境内凡三十間二一町
氏神之斎明神ハ麻呂子親王由緒ト云
(『丹波志』)

笠原神社(味方)
祭神 大名持命
昔からせつよう(できもの)に霊験ありとして遠方よりも参拝するもの多く、満願の際笠を奉納する習俗が今も続いている。思うに祭神が医薬の神であることと、笠がかさ(できもの)に通じ、笠原はかさを払ふ意味から生れた信仰であろう。
(『綾部町誌』)

カサハラは瘡払でなく、橿原などと同じ意味と思われるが、そうした古代の記憶は早く失われているよう。本殿の背後は錫杖ケ嶽だが、この山をクシフル岳として拝んでいるようなカッコウに見える。葦原色許乎ならその葦原のことか。

齋神社

国道27号の脇。参道が国道に断ち切られたようで、鳥居は国道の反対側50メートルくらいの場所に立っている。境内に古墳が完存と書いてはあるが、今は国道や宅地になっていて、それらしき物は見当たらない。

本殿前から、 鳥居はここに見える↓

古墳はどこだ、わからない。古墳時代にさかのぼる神社と思われる。
村ノ北ニ斎大明神 境内凡三十間ニ一町
氏神之斎明神ハ麻呂子親王由緒ト云
(『丹波志』)

斎神社(味方)
祭神 経津主命
社殿の後の味方平には、今も完全な円墳数基が残っている。
(『綾部町誌』)

旧綾部町の古墳は、青野大塚のほかは味方と野田に集中している。味方には紫水が丘古墳をはじめとして味方平・斎神社境内・平林・下の墓地付近に多くの古墳があったことが伝えられており、斎神社境内のものは完存している。野田古墳群はもと一三基あったと伝えられているが、現在では一基が残されているのみである。神宮寺町の加迫神社付近にも石室のあった円墳六基がある。総体的にみて七世紀前後のものと思われる。
(『綾部市史』)

今は祭神は経津主命となっているが、当社も竹野神社の分社ではなかろうか。
麻呂子親王が鬼退治した地とする歴史があるのでは。鬼が祀っていたのは笠原神社で、当社は麻呂子側が祀ったものか。あるいはもっと古いかも知れない、陸耳御笠の笠かも知れない、三方とは御笠のことかも。。


臨済宗妙心寺派羅漢山宝住寺

国道27号線の脇、173号線との交差点の近くにある。元々はここには真言宗の井上寺があったという、その後身の寺院という。「きゅうり封じ」薬師で知られる。薬師なら真言宗以前にすでにあったように思われる、ひょっとすると麻呂子親王の七仏薬師のようなものかも。。対岸の正暦寺と往復する盆踊りが有名であったという。案内板がある。
羅漢山宝住寺の由緒
当山はかつて当地にあった井上寺が濫觴で明智光秀の丹波平定のころ教山至道禅師寂年の永正十五年(一五一八)を開創とし釈迦如来を本尊とする。綾部藩主九鬼氏菩提寺の末寺であったが明治二十一年(一八八八)大本山妙心寺の直末となる。堂宇は元禄十二年(一六九九)火災で消失したが恒雲和尚が再営。さらに寛政二年(一七九〇)観法和尚が再建立した。
義海和尚は裏庭に十八羅漢を祀り大心字庭とし平成十六年(ニ〇〇四)本堂等再建の平成大改築を行った。薬師堂の薬師如来(綾部市重文)はきゅうり封じ薬師大祭で知られる。弟子義方の代に駐車場を整備し山門を再建。景観を一新した。
観音堂は文政六年(一八二三)穆洲和尚が再建し恵心僧都作とされる聖観世音菩薩を祀る。向拝の龍の彫刻は徳川家康に重用された中井正清一統の権次正貞の作である。天下安穏 万民和楽
十七世 義方謹誌


羅渓(漢)山宝住寺 禅宗綾部隆興寺(末) 味方村
本尊 釈伽 行基作 別ニ観音堂 何鹿郡四番札所
(『丹波志』)

宝住寺(味方)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 釈迦牟尼仏
羅漢山と号す。永正年間の創立、開基は教道和尚と伝えられ、寛政二年の再建である。
境内の観音堂は昔から正暦寺及び志賀郷村の向田の観音堂と共に盆踊で有名で、近郷一帯より踊子が集り、夜を徹して踊ったものである。又郡西国四番の札所となっている。
  尋ね来て里名をとへば味方村
    一方ならぬ法の寺かな
薬師堂
宝住寺の境外仏として薬師如来が祀られている。本尊は貞観時代のものと云はれ、恐らく丹波仏師の作と推定され、郷土美術史上重要なものとして注目されている。この薬師像については昔から霊験あらたかで、堂前を牛をつれて通ると荒れ狂ふとか、嘗て騎馬で通った武士が、急に馬が霊威に打たれてあばれたので落馬して死んだとか色々の伝説がある。
又附近の泉池は昔温泉がわいていたが、薬師の霊威を恐れて木像に彩色を施してから、普通の水となったとも伝へている。
明治初年辻堂廃止の命に接し、一時宝住寺に祀っていたが、その後元の地に再建、昭和二十五年一部増築して現在に及んでいる。
(『綾部町誌』)



お寺の裏に十八羅漢や薬師堂がある。

宝住寺薬師堂
羅漢山宝住寺は臨済宗妙心寺派に属し、永正年間(1504~20)の創立で開山は教山至道禅師と伝えられ。本尊は釈迦如来である。
境内に薬師堂がある本尊薬師如来座像は古代この地に所在していたといわれる井上寺のもので藤原時代の作といわれるが量感に溢れた一本造りで貞観仏の精神を汲んだ地方仏と思われる。
昔から霊験顕著な仏として多くの伝説が伝えられ綾部市の文化財に指定されている。
所在地の味方町は古代三方郷とよばれた所で域内に古墳が多く市内で最も早く開けた地方の一つである。綾部市観光協会




綾部踊は盆踊として、江戸時代中期頃より完成されたものの様である。一般に盂蘭盆会が仏教行事として盛に催されるようになったのは、室町時代からで、その行事として盆躍が初めて記録に見えたのは、後柏原天皇の永正十七年(一五二〇)のことである。
盆踊の源流は空也上人の鉢叩念仏から発生した念仏踊的なもののみではなく、古代から農民の間に行はれた田楽、或は猿楽、神楽等の踊りが、盂蘭盆会が民衆の年中行事として固定化されるに及んで、精霊祭が原始借仰の先祖祀りの風俗と習合して、慰霊と慰安の行事として発達したものと思われる。従って盆踊は古くは墓場、神社、寺院の境内等で行われたのである。殊に現在の盆踊は伊勢神宮を中心として発達した伊勢踊から出たものが多く、慶長年間凶作を除き豊作を祈る農民の大神宮信仰から、全国的に狂えるものの様に波及したのが、この伊勢踊である。勿論伊勢踊の原形がそのまま地方に伝ったのではなく、その地方に古来より踊り伝えられた手ぶりの上に、大きな影響を与えつつ、郷土色ある地方踊りとなったものである。慶長十九年の群集的参宮を発端として発生した江戸時代のお蔭参りの狂信的伊勢参りが、江戸時代を通じて、伊勢音頭、伊勢踊の普及地方化に寄与したことは論を待たない。
綾部踊は古来松坂踊のくづしであると言い伝えられている。松坂は伊勢の国にあって参宮の要路に当っている。この松坂踊も、伊勢踊の「松坂越えて云々」が国々に伝えられたもので、今も各地に残り、近くには宮津、松坂、豊岡辺の松坂ぶしなど、何れも伊勢踊の流を汲んだものと云われている。所で綾部にどうして松坂踊が入ったかと云うと、それは志摩国鳥羽から、九鬼隆季が寛永十年綾部藩主として入部したことによって伝えられたのである。鳥羽は伊勢の隣接地でもあり、九鬼氏の領地は伊勢にもまたがっていた。
九鬼氏が盆踊を奨めたことは、既に隆季の祖父嘉隆が織田信長に従って各地を転戦し、天下ようやく平穏になって鳥羽に帰還した時、
 諸士共夫々に住しければ、会の踊などに催しをどらせ候云々             (九鬼侯故事記)
とあるように、既に盆踊が盛に行われていたことが推察出来る。隆季の弟久隆は同時に大阪府の三田の藩主として鳥羽から移ったが、矢張り綾部踊と同系統の盆踊が伝えられていると云うから、九鬼氏の入部によって松坂くずしとしての綾部踊が成立したと云うことが出来る。
綾部踊の音頭は口説(くどき)と甚句の二つになっているが、特に郷土色のある歌詞はない。口説は江戸時代中期に出来た鈴木主水や八百屋お七などの物語を歌うもので、他の地方のものと変りがない。甚句も同様、歌詞に特長がない。この二つの音頭は共に現在まで歌われているが、踊りの手振と踊子の囃に多少の違いがあるだけで、大体踊方は同じである。昔から音頭取はからかさをさして高い台の上に立ち、調子のよい節廻しと声のよさがその伝統である。三味線、太鼓等の鳴物を使わず、音頭一つで大踊が展開すると云うことは、口説踊特有の腰を落し、身体をややねぢつて右廻りに進む素朴にして闊達な踊と共に、綾部踊の特色である。殊に踊子のトンとふむ強い足音の調子がこの踊を引き立てているのは盆踊に珍らしいと云われている。これは嘗て舞踊家の藤間勘五郎氏が来綾の節、綾部踊を調査して、独特のよさを持っていると激賞したものである。
昔盆踊の行われたのは北西町の了円寺を中心として、北西町の通りにまで延びることもあり、又部落の寺や広場、辻所によっては庄屋の邸などで盛に踊られたが、七月十五日の観音祭には味方の宝住寺と並松の正暦寺の観音堂の境内で行われた踊が最もよくはずんだ。踊子は笠原神社下の渡しを渡って往復したと云う。この夜正暦寺と宝住寺で踊りあげて、深夜から吉美を経て志賀郷村の向田の観音堂の大踊に参加し、翌朝帰村して直に山へ緑肥刈に出動したと云う当時の若衆連中のたくましい話が残っている。
又綾部踊の生命は音頭にあると云ってもよいが、昔から代々名音頭取りが輩出している。幕末から明治初年へかけて、寺村の直助、及び美代さんと呼ばれた旧藩士など、今も古老の語り草となっている。
(『綾部町誌』)


紫水が丘公園
味方平には紫水が丘公園がある。一部は住宅地になっている。



紫水ケ丘公園(味方町 開設面積三ヘクタール)
昭和二十五年から年々整備されてきた公園で、市制記念碑・平和塔・村上国吉翁像のほかいろいろな施設が園内に完備されている。由良川の清流を眼下に市街を一望のもとにながめられ、家族そろってのいこいの場に最適で、綾部市の年中行事の一つになっていた菊人形とともに、市民はもとより他市町村のいこいの地にしようと三十一年から大量のツツジ苗を植えてきた結果、現在ではツツジの名所となっている。山頂部面積約二ヘクタールは多種の目的をもったゾーニングをし、八区分に整備する事業認可を五十二年度にうけ、そのうちの一区画に運動公園(トリムコース、一二ポイント)を完成し、五十三年五月にオープンした。今後計画的に幼児公園・芝生自由広場など、拡張整備をはかる予定である。
(『綾部市史』)

紫水が丘古墳
『綾部市史』
紫水が丘古墳
綾部市味方町にあった紫水が丘古墳は、詳細な調査がなされないまま破壊されたため、出土品や遺構のデータは不十分であるが、組み合わせ式の箱式石棺を埋納し、小型の勾玉や銅鏃が出土したと伝えられており、築造年代は四世紀後半と推定できる。上図は発見者による見取図である。(『綾部市史』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


味方の主な歴史記録


由良川水難
由良川の水難
嘉永四年(一八五一)三月廿三日、味方の由良川の渡船場に於て、乗客二十八名が一挙に溺死しに大事件が起きた。当時の記録によると、
 御蔵米直段附
 嘉永四亥年
  此年三月廿三日大船かへり、其死人二十九人也 四月 十五日大せがき
 珍事箒集記
  味方川渡し船大変
  水溺三十人斗死
嘉永四年辛亥三月廿三日、大原会の日、此日大水にて渡し船無理体乗入、船人其他切差留不聞入、むりのりして五十六十人のり、すでに川真中にで船沈み半分余水におぼれ死、八田郷梅迫郷およぎの人、此外旅人等也、此の内に四人程、およぎ村二人上杉者清福寺村に一人志賀遅岫村一人、此四人卯月中ころ今に死骸しれず有所、いろいろして相尋るに今に不相別、誠に希代の大変、こゝに書記しぬ
この事件は当時の社会に大きな衝撃を与えたものと見え.九鬼氏系図にも隆都の代に、「綾部味方川出水渡船くつかえり溺死二十八人有之」と明記している。又民間に流布された文句に「八田郷の者が皆死んだ大原参りの下向の道」と云うのがある。今その供養に建てた石地蔵が味方の共同墓地に安置してあるが、常に六地蔵と共に香華が捧げられている。
(『綾部町誌』)

味方と対岸の綾部市街地を結ぶ立派な橋が今は三つ架かっている。景観のよい綾部市に架けるならみめうるわしい橋が似合う、桁橋はアイソなく、人の心に残らない、かも、ワタシの勝手な感想。

綾部大橋


丹波大橋


新綾部大橋



菊人形展
昭和二十九年の十三号台風で大きな被害が出て、それ以降赤字が続くようになったという。ワタシもいつの頃か見に連れていってもらった記憶がある。今はない。
菊人形の開催
綾部の商店街は、郡是・神栄などの製糸工場や養蚕農家によってささえられ発展してきたが、戦後これらの産業が斜陽化するにともない、観光による外客誘致をしなければ福知山・舞鶴の商業圏にはさまれた綾部の商業の発展はむずかしくなった。終戦直後には稲木がたつかといわれるほどさびれた綾部の街に、なんとか活気をとりもどそうと、二十二年四月、綾部町長に就任した長岡誠は、町発展のひとつの方策として観光事業をとりあげることになった。町当局・商工会議所・観光協会などが相より集まって考えたすえ、町長が最終案として考えだしたのが菊人形展だった。二十三年ごろは敗戦後の混乱がまだおさまらず人心の安定を欠いていたので、健全娯楽と文化施設にめぐまれない山陰地方の人々にこれを提供しようと、文化施設の地方分散をめざして菊人形展を開催することになった。
会場敷地として、戦時中疎開して作業をつづけていた帝国精機の味方工場が終戦によって閉鎖されたので、この土地三千坪(紫水園地)と建物五五〇坪を、二十三年四月に町が、一五〇万円というきわめて安価でゆずりうけた。そうして、先進地ひらかた菊人形の製作者大西助太郎をまねいて二十三年秋、第一回の幕あけをしたのが「あやべ菊人形」のはじまりであった。開設にあたっては巨額の経費が必要なことから市民の間には反対の声もあがり、血税を一部の商工業者の利益をはかるために使用することはまかりならぬと反対するものもあったので、町長や商工会役員など数人が私費を投じて資金をねん出するなど、数多くの苦心談が秘められている。…
(『綾部市史』)
ビンボー市民のためにはならないの反対で、公金が使えず、市長などの推進派のポケットマネーなどで資金を捻出したというのなら、まだ彼らはそれなりに懸命になるから、事業はある程度の成功が見込める。
催しものや会場内の各施設も貧弱そのものだったが、予想外の盛況で会場も増設した。第三回からは商工会議所が主催し、市民の挙市態勢で、年年新しい構想と奇抜な計画をもって会場の整備・新築や場内各催しものの改善につとめたかいがあって人気が人気をよび、その名声はひろく近畿一帯に広まり、ついに山陰の秋路にふさわしい行楽のパラダイスとして、ふかみゆく秋の一か月間に十数万の外来客をさそうようになった。菊人形の開催によって、さびれていた商店街は活気をとりもどし、秋のもっとも閑散とした時期に観客をさそうことで市街地の活況はいちじるしく、十月中句から十一月中旬にかけての市内の人出は近隣都市のせん望の的となって、市内の商店街はその恩恵を大きくうけた。そしてこの継続をのぞむ声は年とともに高まってきた。

ところが誰も自分のマネーを出さないような観光化推進、最初から税金ですべてまかなう観光開発。「一番キタナイやり方ですがな」などとどこかのマチでも揶揄されているが、ビンボー市民の生活苦などはどこ吹く風、鼻で笑っているだけのクソ役人どものノーテンキ観光化。これは最初から失敗に決まっている。自分の町の人間ですらヨコ向くようなアホクサイ観光、成功などがあったらオカシイだろ。。
観光成功の秘訣。どんな観光センモンカも、ゼニだけ取っていくヤシ助言者連中もエエカゲンなことで、ゼッタイに言わないが、当地の歴史が教えてくれる。


伝説





味方の小字一覧


味方町
宮ノ上 薬師前 鴨ノ堂 久保勝 石風呂 舟ノ上 宮ノ前 三反畑 北勝 畔田 竜仏 井上寺 雨宮 中ノ坪 アミダジ 五反田 平林 薬師谷 中車田 下車田 奥ノ谷 寺山 鷲谷 薬師谷 倉谷 竜仏 光谷 奥ノ谷 寺山 アミダジ 大谷 鷲谷

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福井県三方郡美浜町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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