丹後の地名プラス

丹波の

物部(ものべ)
京都府綾部市物部町



(物部下市の一帯2007年撮影)

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京都府綾部市物部町

京都府何鹿郡物部村物部

物部の概要




《物部の概要》

犀川中流域の小盆地に位置する。西部は上市・下市の町並み、東部は須波岐・岸田の農業集落である。犀川は岸田集落を東から西へ貫流し、上市の北で南折して上市・下市の東部を南へ流れる。中央を縦貫する主要地方道綾部大江宮津線(府道9号)は、丹後と丹波をつなぐ道路。上市の変則5叉路(最近整備され4叉路)で府道物部西舞鶴線(490号)が東北へ、府道物部梅迫停車場線(485)が東へ分岐する。下市は旧物部村の中心街。

古代の物部郷の地で、「和名抄」丹波国何鹿郡16郷の1つ。郷域は現在の綾部市物部町あたりに比定される。「三代実録」貞観11年(869)12月8日条に「授丹波国正六位上物部簀掃神社従五位下」とある、この年は三陸大津波があった、この前の3.11以上とかいわれる、このほか大地震、大津波が日本各地頻発した時代で、あるいはその関係の叙位かも。あんな大きな津波が来るとは「想定外」などは言い訳にもならない。原発を稼働させようとする者ならそれくらいの知識は当然にも要求される、最悪を想定しておくのが想定というものだろう、そんなことすら知らないのかトボケたか、ドアホどもが原発は安全ですなどとぬかす。オマエらドアホにそんなことがわかるほどのアタマがあるのか。。

中世も物部郷で、 寛正2年(1461)9月10日の何鹿郡所領注文に「物部郷」とある(安国寺文書)。郷内物部城(荒山)を居城として勢力を張った地頭上原氏は建久年間(1190~99)信濃国から入部したと伝える(物部古城記)。故地から諏訪神社を勧請し何鹿郡西部を支配したという。同氏は文明・明応の頃、賢家・元秀父子が丹波守護代となって京都でも勢威をふるったという。永禄11年(1568)上原右衛門少輔は織田信長から丹波の本知ならびに丹後有路郷の所領安堵状を受けた。中世末期には居城の南北に上市・下市の町が起こり、このあたりの商業中心地となった。

近世の物部村は、 江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、寛文9年からは幕府領京都代官支配地、役付のない4人の大名・旗本の加増地となり、領主交代の繁雑な支配となる。
当村では溜池による水田潅漑に努め、近世初期に13か所の溜池が築造された。下市は郡西部と由良川筋の商工業地として栄えた。幕末は旗本柴田七九郎氏知行地・綾部藩領・半原藩領・柏原藩領。旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、藩領は同4年綾部県、半原県、柏原県を経ていずれも京都府に所属。同22年市制町村制施行により成立した物部村の大字となる。
近代の物部村は、明治22年~昭和30年の何鹿郡の自治体。物部・西坂・新庄・白道路の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。物部は物部村の中心地で、地内の下市に村役場・物部郵便局などが設置された。昭和30年綾部市に合併。物部村の4大字は綾部市の大字に継承された。
物部は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ物部村、昭和30年からは綾部市の大字。昭和30年地内の石隅・太が鼻の各一部が新庄町となり、残余が物部町となる。
物部町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


《物部の人口・世帯数》 808・303


《主な社寺など》

古墳
須波伎部神社東方の丘陵地には知坂(7基)・多和田(5基)・石塚(38基)の古墳群がある。また上市の岫山(くきやま)一号墳は前方後円墳(47.4m)、三号墳(前方後円墳・35m)でほぼ完形である。


須波岐部神社(式内社)

須波伎という集落の裏山麓の少し高い所に北向きに社殿が建っている。案内板がある。
式内社 須波伎部神社
祭神 大日霊貴尊(天照大神)
平城天皇の大同二年(八〇七)須波伎山に建立されたと伝えている。三代実録貞観十一年(八六九)十二月八日の条に「授丹波国正六位上物部簀掃神従五位下」とあり、位階を有する丹波における古大社である。恐らく古代須波伎物部氏の氏神であろう。境内の薬師堂は神宮寺であった中谷山天慈院のもので、堂内には室町時代中期を下らないと思われる薬師如来坐像が安置してある。
綾部市観光協会
綾部の文化財を守る会

以前にはこんな案内板があったが、今は見当たらない。
須波伎部神社
祭神 大日霊貴尊(天照大神)
 須波伎部神社は延喜五年(905)醍醐天皇の命により編集に着手、延長五年に完成した延喜式神名帳にその名を記されている式内社で、旧何鹿郡内にあった十二座中の一である。
 伝承によると、第五十一代平城天皇の大同二年(807)須波伎山に創建されたといい、三代実録によると、貞観十一年(869)十二月八日の条に「授丹波国正六位上物部簀掃神従五位下」とあり、古代から階位を有した神社であったものと思われる。
 恐らく古代において、この地に勢力をもった簀掃物部氏の氏神であったと思われる。
 元和九年(1623)再建、元文四年(1739)に改築されたが、大工は大阪刻物屋 草加嘉兵衛、同平四郎の作である。
 尚華表の扁額は山階宮晃親王の染筆にかかる。当社の神宮寺であったと思われる中谷山天慈院が境内に接して建立されていたが、現在は薬師堂だけが残って、等身大の本尊薬師如来坐像が安置されている。本尊は室町時代中期を下らない仏像といわれている。参道鳥居脇には樹齢数百年の?がある。
  平成元年十一月 綾部の文化財を守る会

延喜式には「須波伎部神社」とあり、今もその名で呼んでいるが、これは本当は「須波伎物部神社」なのでないのかと思われる。上の案内板や吉田東伍もそうした意見を述べている。
「須波伎」は当社鎮座地の村の名前で、『丹波負笈録』は諏訪木、『何鹿郡誌』は「諏訪岐」と書いているが、「須波伎」とは簀掃ではなく、諏訪神社のある村(キ)、諏訪村の意味か、むしろ須波村(スハキ)であろうか。スハとは本当は諏訪ではなく、ソホ、ソフルのことではなかろうか。
現在の須波伎部神社がある所は須波伎の中の中谷という集落のすぐ西隣で、その中谷には「元諏訪」と呼ばれる諏訪神社がある。(あるのかあったのか、わかりかねる、広い所ではないので、探してみたが見当たらなかった、誰も人がいなく、尋ねられなかった)。『丹波志』『物部史誌』が書いているので本当だと思われる。中谷に須波神社神社があるから須波伎であろうし、またこの周辺一帯にも勧請され今もあちこちに諏訪神社があるのであろう。須波は恐らく諏訪ではなく、もっと古い渡来の地名と思われ、それは延喜式に記録されているのだから、上原氏や志賀氏がやってくる以前の今に伝わらない当地の古代の社であろう。
この須波伎や諏訪神社を拠点とする一族が物部を名乗るようになり、須波伎物部氏と呼ばれるようになったと推測される。但し記録には何もない、簀掃部などといった部も知られていない、もっとも記録以前の時代のことであった。この氏の拠点社であったのだろう、何鹿と郡名にもなるような地名はこの氏にちなむものかも知れない、私市円山古墳も関係ありそうな、金属精錬にたけたかなり強力な氏族であったと思われる。

須波伎部神社参道↑。須波伎部神社は須波伎の横椽(よこえん)という所に鎮座、向かって左側の集落は「中谷」という、そのすぐ左隣は「寺谷」で、地名から考えれば神宮寺(天慈院)はここにあったものか、『丹波志』『物部史誌』によれば中谷には諏訪神社があり、それは元諏訪とも呼ばれるそう。
当社の西側(向かって右側)に須波伎東古墳(前方後円墳・35.3m・完存)、東側は小さな古墳だらけ。京都府遺跡地図より↓


日光大明神 式内神名 古須波岐可成 麓字にスハキト云 物部村 中ノ谷 産神
中谷天慈院 天台宗中興開山天田部天寧寺龍岩和尚 永禄六酉十一月[   ]
本尊薬師如来 居仏二尺余恵心作 今ハ俗神宮寺ト云 明神境内六十間七十間御除地 当社古へハ社領三百石有ト云 水帳ニ日光田多シ 一町半斗西ノ田ノ中ニハリノ木二本アリ 中ノ鳥居古跡ナリ 十三町斗西ニ石熊ト云所ニ一ノ鳥居古跡石場アリ 同馬場アリ  (『丹波志』)

延喜式須波伎部神社は、三代実録に貞観十一年物部簀掃神授位の事見ゆ、今物部の簀掃山に其祠存す、簀掃は本来地名にや、又簀掃と云ふ一の部曲の号にや、延喜式に須波伎部とあるに拠れば、部曲の名と思はる、或は伎の下に物字を脱したるかと思はる。  (『大日本地名辞書』)

須波伎部神社。物部村諏訪岐の日光大明神を指定されたり。現今、物部村字物部小字諏訪岐に鎮座。

物部村字物部小字須波伎に鎮座。明治六年郷社と公定。天照大日澧尊を祭神とす。氏子七八戸、天野、須波伎、中谷、石ノ隅、岸田之に属す。物部の地は、旧幕時代数多の領主に分領せられ、加ふるに領主の交替頻々たりしを以て、かかる名神も社領の見るべきものなかりき。現今の華表の扁額は故山階宮晃親王殿下の御染筆筆にかかる。
簀掃 延喜式須波伎部神社は、三代実録に貞観十一年物部簀掃神授位の事見ゆ。今物部の簀掃山に其の祠存す。簀掃は本来地名にや、又掃部といふ一の部曲の号にや。延喜式に須波伎部とあるに據れば部曲の名を思はる。或は伎の下に物字を脱したるかとも思はる。(吉田博士)   (『何鹿郡誌』)

物部『倭名抄』に物部郷とあるのがこれに当る。物部は、軍事刑罰をつかさどった物部氏の部民として全国各地におかれたもので、大和には物部大連がおり、地方の物部連や首などが部民を率いてその地域の軍事刑罰をつかさどっていたものであろう。丹波にも物部首がいたことは一〇世紀の半ばに、「丹波国擬大領右近物部首惟範云々」(東大寺文書)とあるのでわかる。太田亮『姓氏家系辞書』には、「物部(丹波)職業的部何鹿郡に物部郷船井郡に物部神社ありこの部民の住居せし地也」とある。何鹿郡物部に式内社須波伎部神社があるが、これは物部の氏神であったと考えられる。貞観十一年(八六九)「授丹波国正六位上物すはき部箸掃神社従五位下」(三代実録)とあるのは、箸掃物部氏が由緒と実力を持った有力な氏族であったからと思われる。現在須波伎部神社付近から白道路町へかけて四、五〇基の古墳が群集している中に前方後円墳があることも、物部氏と関係して考えられる。

物部簀掃神 貞観十一年(八六九)授丹波国正六位上物部箸掃神従五位下とあり、物部の須波伎部神社が正六位上から、従五位下に昇位したことを記している。氏の氏神であったものと思われ、正六位上を授位されたのはいつのことかわからない。

須波伎神社
祭神=天照大神 「渡会氏神名帳考証」には弥都波能神、水稚姫とある。
由緒=いまは須波伎部神社としている。大同二年807須波伎山に創建、元和九年1623の再建という。(竹冠に青)掃すはき明神・日光大明神などとよんでいるが、須波伎物部の物を省き神社名となったものかといわれている。物部氏との関係からか、前に記したように貞観十一年従五位下の神位を授けられた有力な神社である。
なお、当社神宮寺の中谷山天慈院は境内に接してあったが、現在は薬師堂だけが残っており、等身大の本尊薬師如来坐像がある。室町時代中期を下らないものといわれている。(府報告書)
(『綾部市史』)

須波伎部神社(式内元郷社)
 村内大字物部小字須波伎に鎮座、祭神は大日霊貴尊(天照大神)であって第五十代桓武天皇の延暦八年(一一六六前)に創建、第五十一代平城天皇の大同二年(一一四八前)に須波伎山に再建、元文四年(二一六前)に改築した。大坂の刻物屋草花加兵衛、同平四郎両人の作である。
○註( )内の何年前は昭和三十年より起算する。
  本村に宛てた指令は次の通りである。
              何鹿郡第三区物部村
 其村鎮座須波伎部神社延書式内に相違無之段今般詮議決定候条此旨相違候事
   明治十年六月            京都府
 同社に関する古記録の写は次の通りである。(地名辞書も加へる)
(一)日光大明神は人皇第五十一代平城天皇大同二年九月に須波伎山に御鎮座也氏の神大日霊尊と申し奉る。
(二)三代実録云、貞観十一年(一〇八六前)十二月十八日辛卯授丹波国正六位上物部簀掃神に従五位下
(三)吉田東伍著大日本地名辞書第二冊の上に、丹波国何鹿郡物部に曰く、「物部郷」和名抄(書物の名)中の何鹿郡物部郷は今の物部村是なり、小幡郷(小畑)の北にして、吾雀郷(志賀)と相連り一山谷をなす。延書式須波伎部神社は三代実録に貞観十一年物部簀掃神に授位の事見ゆ。今簀掃山に其の祠存す。簀掃は本来地名にや、又掃部といふ一の部曲の号にや、延喜式に須波伎部とあるに拠れば部曲の名とも思はる。或は伎の下に「物」の字を脱したるとも思はる。現今の華表の扁額は故山階宮晃親王殿下の染筆にかゝる。  (『物部村誌』)

須波岐部神社(旧式内郷社) (物部町須波伎横縁四八番地に鎮座)
鎮座の地は須波伎山の北麓、和名抄の丹波国何鹿郡物部郷内に当る。社名については、吉田家本(古書籍)には、「須波岐部」と訓をつけている。近世以降は、通称「簀掃(すはき)明神」「日光大明神」などと呼ばれていたが現在は、「スハギベジンジャ」と呼ばれている。
ご祭神 大日?(雨冠に妾)貴命(おおひるめのむちのみこと) (天照大神・天照大日?(雨冠に妾)尊)
創祀・鎮座の次第、社伝によると大同二年(八〇七年)に須波伎山に創祀、この前年に恒武天皇が病没され、この年の一〇月に、国司交替の年限を六年と改めており、律令の地方制度が改められた年である。何鹿郡内の式内杜十二社の中で、叙位に与ったのは当社だけであり、当時如何に勢力をもち、朝廷の崇敬も厚かったかが伺える。須波岐部神社をまつっていた氏子達は、古代の有力豪族・物部氏の部民 須波伎物部氏で、都に出て簀掃部寮のご用に仕えたであろうと考えられる。また当社は式内郷社にふさわしく境内地は広く、森も深い。表参道の入口には石の大鳥居があり、現在の神殿(本社)は元文四年(一七三九年)に再建されたと記されている立派な社殿である。
須波岐部神社の森は二抱えも三抱えもあった杉や槍の古木に囲まれていたが昭和三四年の伊勢湾台風でほとんど倒されてしまった。幸い社殿は助かった。残った木々は悉く伐採されてしまい、その後には桜や紅葉が植えられている。また大鳥居の傍には樹令四〇〇年~五〇〇年にも及んだ欅の巨木(神木)があったが、さすがの年月に樹勢を弱めたため平成五年末に倒木されて樹令を閉じた。
須波岐部神社の祭礼について、神社秋祭りの祭礼は毎年一〇月一七日に行われ、昭和三~四年頃まで立派な練込みが行われていたが、廃止になって以来その名残りを屋台蔵に眠る古い屋台に見ることができる。以来秋祭りがきても太鼓の音一つきけない淋しい祭りであったが一〇年前ごろより、若い氏子の人々により今一度練込みの復活をと、的場会・若人会の方々の発案と肝入りで実現し、子供神輿が威勢よくにぎやかに村中を練り歩くようになり、太鼓の音と共に祭気分を味わうことができるようになった。
当社には綾部市内唯一の姿を止める神宮寺、中谷山天慈院があり、中世以後境内に祀られていた。ところが明治維新の廃仏棄釈運動によって、今の所に離れて祀られ、現在では薬師堂が一つ残っている。これも社殿と同じく貴重な社堂で堂内には室町中期以前の製作ではないかと言われる本尊薬師如来像一体が安置されている。その社堂の保存が望まれている。次に各最寄の氏子集落の中に祀られている社として次の四社がある。
◎岸田の福成稲荷大明神 岸田の氏神さんとして祀られている。また出世稲荷さんとしても有名である。昭和六二 年に、当地出身の一崇敬者の献納を基に社殿上屋の改築がされた。例祭日は四月三日の卯の日祭とされている。一 〇月の秋祭の日、須波岐部神社の神輿のお旅所ともなっている。
◎中谷の諏訪神社(元諏訪) 由緒等は明らかでないが、地区内の諏訪神社の元という口伝えもある。例祭日の七月二八日は、中谷最寄で境内の清掃をしてお祭をする。往時は祭の日のぼりを建て、太鼓をならし、清掃後酒食の寄進があった。
◎天野の薬王子(やこうじ)神社 建立は、奉殿内の札に(開眼高屋山密蔵院現住祐海代・奉建立牛頭天王本地楽王寺冨貫繁昌?・願主-当村氏子中)(時天明六丙午四月廿七日 大工 - 藤原平右衛門)とあるように、天明時代(二百年ほど前)に建立されたものと思われる、この薬王子神社(やこうじ)は須波伎の天野地区にあって、当時丹波・丹後(加佐・大江)の大地主の農家の人々が篤志を募って、また出資してこの地を選んで建立したものと思われる。
建立以来奉殿は茅葺で三年毎に最寄り各戸から麦藁等を持ち寄って葺替え出役をしていたが、老化して材料も不足してきたので、昭和三九年四月奉殿の屋根を鉄板に、拝殿は瓦に改修した。
御神体は(素孟鳴命)であり、毎年七月の土用の丑の日が祭日と定められ、現在では天野最寄りの人が輪番で神主をつとめ供えものをし参拝者を接待している。この宮は、古くから牛の神様として、牛が農家の宝であり、家族同様に飼育していた関係から、牛の安産の神として祭られ、昭和初期までは地元の人々はもとより、特に大江の加佐地区・西八田・東八田地区の各畜産農家の人々の参詣が多くあり、拝殿南側の広場で湯茶の接待していたが、時代とともに農業経営も機械化され、参拝も少なくなったが、参拝者には(薬王子神社御札)が置かれ、自由に持ち帰られるように置かれてあり、今でも祭日には近郷の飼育農家の参拝がある。
◎石ノ隈の八代荒神 創祀年月、次第等不詳であるが、今は八代荒神さんと呼んでいる。前は初代荒神と呼んだらしい。石ノ隈の地に先祖が住みついて以来この土地の守護神また農耕神として祀られてきたが記録もなく惜しまれる。須波岐部神社の氏子である当地では、須波岐部神社の例祭には須波岐部神社の大幟を建てる。以前は最寄の中に建てていたが、現在は荒神さんの境内に建てるようになった。
八代荒神の例祭は一〇月二七日で当日は全戸が軒先に八代荒神の幟を建て、八代荒神のご神号掛軸を年毎に回る宿当番の家に廻し、全戸が参拝し心経を唱え祈願をしている。
(『物部史誌』)


諏訪神社(須波伎中谷)
諏訪大明神     物部村 中谷ニ
祭ル神        祭礼
是ハ大破シテ諏訪ノ段ト云 近代改諏訪明神ト号 物部産神ト同日祭 当社ハ建久年中上原氏信州ヨリ勧請其以前ヨリ諏訪明神ト云伝 但社無シ 屋敷六間ニ十五間御除地 建久ヨリ安永丸迄五百九十一年ト云  (『丹波志』)


諏訪神社(高屋)(下市)
下市の城山の諏訪神社は高屋(こうおく)寺境内の諏訪神社とともに上原氏が故郷の信州より勧請したと、一般にはいう。しかし本当かどうかは疑ってみるべきだろう。祭神がムチャクチャである。祭神もまだよく定まらない遠い古代に勧請されたものかも知れないし、高屋寺は上原氏よりも古いが、この寺院は元々は当社の神宮寺として開基されたものかも知れない。

高屋寺廃寺は今はこれだけしかない、↑諏訪神社はない。(鳥居は秋葉神社)。自得寺のほうにあるかと探してみたがないよう。。

下市の城山の麓の(物部小学校の前)諏訪神社

案内板がある。
諏訪神社由来
  物部城址 上原氏の居城
源頼朝は平氏を滅すや国々に守護地頭を任じて幕府の支配下に置いたが、建久四年(一一九三)物部郷の地頭をして、頼朝の家来信濃諏訪党の上原成政(上原氏由緒書では右ェ門丞景正)が来て、初め高屋山に城を築いたが、後にここに築城し、鎌倉時代以来の在地豪族として、戦国時代丹波の守護代となって、威を振った。元亀二年(一五七〇)上原右ェ門少輔の時、氷上郡黒井の城主赤井直政に攻められて落城した。城山の南麓の諏訪神社は上原氏が故郷諏訪から勧請した氏神である。 諏訪神社


諏訪大明神    物部村 下市城山ノ根 惣産神内社無シ
祭ル神       祭礼 七月廿九日
二間四方舞堂 鳥居有 境内二十間十五間御除地 祭神建久年中当所城主上原成政勧請 内諏訪外諏訪ト号ニ所ニ祭ル 外諏訪ハ谷川東当高屋寺ノ境内ニアリ 往古ヨリ今ニ立合祭礼金幣御旗馬二疋子リ込祭礼 但シ雨乞ノセツハ大太刀小太刀取合雨ノヲトリ祭礼アリ 両諏訪別当高屋寺 真言宗寺院ノ郡ニ出ス
(『丹波志』)

諏訪神社  天鈿女命  建久年中 安永八年再建  大字物部小字城山  (『物部村誌』)

諏訪神社(物部町荒山四番地の一に鎮座)
創祀年月日は不詳であるが、建久年中に創祀されたと考えられる。安永八(一七七九)己寅年に再建。
信州上田の城主上原右ヱ門丞景正がその一族を率いて丹波何鹿郡六万石の領地を与えられ、建久四年(一一九三)物部の地に入った。上原氏は物部に入るとまずほぼ中央の小高い山、高屋山を居城と定め、密蔵院高屋寺の裏山一体を陣屋とした。斯くして、地頭として物部に入った上原氏は丹波の経営に着手したが、まず何よりも守護神として故郷の信州一の宮諏訪大明神を勧請し、須波伎仙人隠れの山麓に祀った。こうして、この地帯を由良川に向けて南流する川を“犀川”と名付けたと言われている。
その後、文明年間(一四六九室町時代)この陣屋は高屋山の西方五町の物部盆地中央に当る荒山(城山)に移され、守護神諏訪神社もその南麓に移し祀られて今日に及んでいる。
当社には貴重な古文書として、上原氏一族の上原神六が病気平癒の顧かけをし、それが奇しくも大神の神徳により著しく叶えられた事を喜び感謝して神社に納めた次の一文の写しが残っている。『上原神六、永正十六己卯年(一五一〇)に当社筆頭氏子となり諏訪神社の神威神徳をお讃えしていたが日ごろは心ならずも氏神へのお参りも怠ることもある日々であった。ところが思いかけず病気にかかってしまい毎日悩み苦しむこととなった。そこで諏訪神社の御前に参詣し願をかけた。それは(願いをお叶えいただく時は、お礼のため臨時のお祭りをもち今日のように尾頭つきの魚、猿楽その他色々と神事に必要なものをお供えいたします。どうか施主の儀式に応えて下さって、病患を始め一切の枉事災難を祓い除け給わんことを)と一途にお祈り申し上げたところ、大神のご威光の尊さは全く計るべくもなく、願を読み終わらぬうちに卯の年天文廿二年(一五四三)病気たちまち快方に向い、息災延命、更に家業繁栄家運隆昌することとなった。このことへのお礼と感謝の気持ちを込めて翌年に願済ましのお祭りを営んだ。そこでそのしるしにと、願文と祭旨を書き止める。天文廿三甲辰年二月二十日 上原神六拝』とある。願文は長いため特に前半部を省いた。
(例祭日)
一〇月一六・一七日(現在はこの日に近い土曜日に営まれる。)宵宮一〇月一六日、夕刻社頭で宵宮の祭典を執行、終わって宮川町のお旅所まで宮遷しを奉仕、お旅所祭を執行後本宮発輿地点まで巡行、翌一七日の本祭当日は早朝本社で宮司が例祭の式典を執行後、祭礼組、供奉の人達が練込みの発輿地点まで行列をする。この行列の囃子が「川渡り」という軽快な囃子である。屋台は前夜のうちにここに運ばれお旅所として鎮座されている。愈々棟込み開始の柝が打たれると先ず傘鉾が先頭を行き、次いで剣鉾、秋葉神社、御旗、古槍と続いて立道具となる。これは江戸時代の参勤交替の様を模したもので、先ず挟箱が二人、次に立傘台傘、大鳥毛、中烏毛と続き奴姿の若衆が「エッエッ」と毛槍を振り廻しながら進み最後は屋台である。提燈、見送りに飾られた屋台の後は囃子方で、締め太鼓、鉦四人笛八~一〇人が続く。曲は京都祇園祭りの囃子を模したもので、幽雅な曲が屋台の留まる要所毎に奏される。またこの曲とは別に軽快なリズムの「しぐるま」という曲があり、これは余興的に途中の休憩場所等で囃される。こうして練込みは三時間程を要して下市の町を練り諏訪神社へ遷幸されて御神楽は終わる。午後は獅子舞いが氏子の各戸を廻る。
上原氏によって勧請された諏訪神社であったが、今は下市の総氏神として住民の篤い尊崇を集め、こうして祭礼が行われる様になったが、戦中戦後の一時期は取り止めとなり、祭礼の形も忘れられようとしていたのを、再び盛時のように復活できたのは住民の厚い崇敬の念と伝統保持の熱意によるものである。
(境内末社)
◎天満宮 御祭神 右大臣菅原道真公 学問の神 諸道芸能の神 文学詩歌の神として崇敬篤い。七月二四日の例祭日には、町を挙げての神賑行事が催され、近郷近在の子供連れの人々が夏の夜祭りに参詣し夜店も多くたち大勢の人で賑わう。
◎厄善神社 厄除の霊験あらたかであり、一月一八日の例祭日には古くから近郷近在の人々の参詣で賑わう。特に 早朝参りにはお蔭が厚いと言われ早暁からの参拝が多い。また当日は講中の人達の奉仕によって甘酒の接待がある。
◎稲荷神社 厄善神社社殿に合祀されていたが平成七年一二月新に社殿を造り、分祀して祀ることとなった。
(『物部史誌』)

諏訪は諏訪大社のことかも知れないし、例えば周防(周芳)国もスハであり、古くは周芳裟麼浦とか紀に記される重要な所だが、スハはサバもこれらは金沢庄三郎はソフルのことだとしている。(魚の鯖がたくさん獲れたからとかサンマが獲れたからとかいうことでなく、鯖も秋刀魚も同じことでイッパイいる魚の意味かと思われるが、古い地名ならソフルの意味のよう)諏訪のスは阿須須伎神社のスでもあって、ハがフルの転であるなら金村の意味ともとれる。越前国今立郡式内社に須波阿須疑神社(三座)があるが、阿須須伎神社と須波伎神社を一緒にしたような社名で、両社は近い関係の社のように思われる。当地一帯で諏訪神社とあるから、固有の社名のように考えて信州の諏訪大社と決めてよいかと言えば、諏訪大社とはまったく別の、もっと一般的なソフル系のあるいは金村系の社名の神社であったのをこのような漢字でたまたま表記したということかも知れず、諏訪大社と本当に関係があるのかどうかは、もう少し考えてみた方がよいのかも知れない。


八幡神社


八幡宮          物部村 上市二
祭ル神       祭礼 八月十五日
社五尺四方南向 二間ニ四間舞堂 鳥居有 境内ノ山十五間ニ三十間御除地  (『丹波志』)

八幡神社  誉田別天皇  不詳 延享五年再建  大字物部小字西ノ宮  (『物部村誌』)

八幡宮社(物部町大渕三七番地の一に鎮座)
 創祖の年月日由緒等は不詳であるが、天明三(一七八三)葵卯八月一三日に再建竣工された記録が残っている。
八幡宮御社殿御再建ノ記録(古文書の写し)『八幡宮御本社并御上屋御再建 発起 安永九(一七八〇)子之九月同十歳之春ヨリ御財木寄七 同歳 従 九月御普請ニ取掛リ天明三(一七八三)葵卯之七月廿六日御棟上 同歳八月十三日夜に御遷宮発願主 御普請惣元〆 人見安左衛門 谷口権助 人見六郎右衛門 同世話人 松下市良兵衛 谷口十右衛門 人見清左衛門 市村又兵衛 坂口喜兵衛 谷口新右衛門 大工棟梁 花倉村 今井萬右衛門 同 脇棟梁 同村 今井八右衛門 彫物師 柏原 中井権治 屋根師 二箇村 新井文右衛門 御普請惣渡 銀高壱貫六百五拾文目 米高 拾壱石 御普請請職人工数 八百三拾工 内百工ハ彫物師代三百匁 四拾五工 屋根師代 百拾匁 残り六百八拾五工 番匠井木挽共 代残リ壱貫弐百四拾匁 一工 壱匁八分壱厘』
以上は坂根篤二家に伝わる古文書による。
 祭神は誉田別天皇(応神天皇)なお、当社の裏山には古墳一五基程あり、古墳時代後期の古墳と思われる。
 (例祭日)
一〇月一〇日 往時は屋台も引出し奴振りの練込みがあったが、今は、途絶えており何とか復活が望まれるところである。宵宮には夕方六時頃から氏子全員が参拝し、宮司が例祭の式典を厳修しその後、神輿への神霊遷が執り行われる。また式典の中では子供太鼓が(昭五二年から)威勢よく打たれ奉納される。式典が終って後は、石段下の庭で子供全員による奉納太鼓が賑やかに繰り広げられる。翌祭の当日は、早朝から氏子全員が参拝しその後神輿の渡御が行われ、樽神輿、子供太鼓に供奉し上市町内を巡行する。
 (境内杜)
◎高倉神社 祭神 高皇霊日並命 創祀年月日不祥 元禄七甲戌年当村西ノ奥字高倉に鎮座 移転再建
◎稲荷神社 祭神 倉稲魂神 創祀由緒等不詳 綾部藩社寺要記に「稲荷大名神 小社ニテ上リ屋四尺ニ五尺也 外ニ舞堂二間ニ五間」とあり
◎大川神社 (小祠)本社の左側高倉社との間 八月一日の大川祭には朝早く組順の当番の者が旧岡田下村大川神社へ代参し大川神社のご神札を受け祠に年中お祀りをする。当日は町内全戸からお参りし、家内安全五穀豊穣町内の平安興隆を祈顧する。
◎天満宮 (稲荷神社と合祀)八月一日の天神祭には朝早くから子供衆により境内を清掃し天神さまをお祀りする。午後は大川祭の後三時頃より自治会婦人会と合同し総がかりでいろいろと神賑いの準備をし、夕方からみんなのお参りを待つ。夜は金魚すくい、ヨーヨー、西瓜割り、いか、なんば、かき氷などの催し物があり町中が一日を楽しく過す。
◎秋葉神社 祭神 火之迦具土神(火産霊神)「綾部藩社寺要記」の頁一二に「秋葉山 松下山凡十間四方 大谷ニ立ツ是ハ先年ヨリ遥拝之場所ニ御座候処 当時二間四面之篭リ堂有リ」と記されており、古くから秋葉山の本宮の遥拝所に祀られた社であり、古来防火の神として広く厚く深い崇仰が寄せられている。七月二三日には例祭が営まれる。(平成二年からは宮司が祭典をご奉仕している。)この秋葉祭の日は、朝から当番地区の人達が参道や境内の清掃をして参拝する、また上市の人は、組順の当番で午後幟を立て山に登り参拝し社頭で宮司が例祭を厳修執行しその後、願串焚上祭を執行する。願串(護摩木)は社頭でも分与し願い事と氏名を記入したものを宮司が奉上して大庭燎に投入れ焚上げられる。焚上祭が終った後は、引続き当番の人々によって、大庭燎が焚かれ太鼓を打ち宮篭りをして宵宮を奉仕する。朝迄火の番をしつつ太鼓を打つ。当番の者は、供え物を始め諸祭具・水・食事等々重い荷を背負って夏の山を登り、宵宮の篭りでは蚊と戦いながら朝迄の寝ずの奉仕が行われるのである。  (『物部史誌』)


高野山真言宗高屋山密蔵院高屋寺
「高屋の観音さん」としてあつく信仰されてきたが、現在廃寺で、特には何もない。奥側の大きな建物は自得寺本堂で、その北側にある。元々は自得寺の所に高屋寺があったという。


当寺の石仏石碑類が集めてあるものか↑地蔵堂。
そこに小さな宝篋印塔があるが、これは綾部市内では最古のものという。
綾部市内で最も古い宝篋印塔は、物部町の高屋寺観音堂境内にある。この塔は花崗岩製で、後補の相輪を除いてはほぼ完形品で鎌倉時代の作と推定される。基礎は背が低く安定感があり、塔身には金剛界四仏の梵字が月輪内一杯に刻まれている。隅飾は直立し比較的大きく、どっしりとした感じを見せている。
(『綾部市史』)

案内がある。
この地、古刹 高屋寺観音堂跡
手足の観音さんとして数百年の間、近郷近在から多くの信仰者に馴れ親しまれてきた高屋寺観音堂(真言宗高野山、高屋山高屋寺)も風説に耐えかね、往時の面影は全くなくった。
一時期は夜店も出店し、盆踊り等も盛大に催された時期もあった。しかし平成二十二年(西暦二〇一〇)荒廃した観音堂もついに撤去され、ご本尊千手観音立像は、福知山市台頭の寺に遷座された。
その後跡地一帯はひどく荒廃し、この状態を大いに憂いた自得寺閑栖秀山和庄(敏彦)は住職歴五十年(仏南寺と併せて)の記念として一念発起しこの地を整備した。また観音サマの跡地に因んで十一面法苦離観音尊像の建立(法力によって諸人の苦しみを救い給うの意)更に地蔵堂の改修移転、そして、秋葉神社遷座をも考慮し基礎の石積み等を施すとともに、付近の環境整備等にも注力し今日の景観を成す。
今後はこの地が地域の人々の信仰とやすらぎの場となり、、物部の人々の平安安穏ならんことを切に念ずるものである。
尚、この土地は、高屋寺から物部地区連合会に寄贈されたものであり、連合会管理となっている。
隣地に建築された秋葉神社(秋葉大権現)は字物部自治会で建設委員会を設立し、自治会ごと相応の負担によって立派に建築されたものである。境内の桜、梅の木の植樹は、当寺の自治会役員、物部花の町推進委員会の人達、そして地域の皆さんの協力によりここに一応の完成を期に後毘に残すべき一文を記しておく。合掌


高屋山高屋寺 真言無本寺且家無シ 物部村高屋ニ
空也上人開基 密蔵院 鎮守ハ諏訪明神 建久年中頼朝公ノ時 上原氏信濃国ヨリ移之 鳥居有 並ニ観音堂三間四面 三十三番札所 弁天アリ 観音屋敷九間ニ十五間余 諏訪境内二間ニ四間御除地  堂寺石下ノ平地ニ在 大寺ナリ 今屋敷ハ経堂屋敷跡南ニ 自得寺屋敷ハ 本堂ノ屋敷跡 北ハ護摩堂屋敷跡 古跡字ニ堂屋敷ト云 大門惣門 但シ 諏訪ノ一ノ鳥居跡 ボダイ寺ノ池 アカノ池跡ハ寺ノ呑水ナリ 往古七ケ寺 今ハ中ノ坊一ケ寺也 前ニ 大道ハ諏訪明神馬場也 本尊千手観音 弘法大師ノ作 当山ハ村上天皇ノ御宇 天暦年中開基 諏訪大明神 安置由来 建久年中 当所ノ城主 上原成政 勧上并 旗ヲ納 縁記アリ 建久年中ヨリ今 安永九子年迄五百九十一年也ト云
(『丹波志』)

高屋寺 物部村物部にあり、高屋山密藏院と号す。真言宗にして、本尊は千手観音なり。郡内の人「高屋の観音様」と称して、尊信す。明治三十四年一月七日焼失、後十数年を経て再建せり。
(『何鹿郡誌』)

高屋山密蔵院高屋寺(字物部)
 所属宗派 真言宗高野派金剛峰寺  本尊 千手千眼観世音菩薩
沿革に就ては第十六章名所古蹟に掲載してあるから省略する(同章参照)現住職は欠員

高屋寺
人皇第六十二代村上天皇の御宇天歴元年に山号を高屋山、院号を密歳院、寺号を高屋寺と称し地領総高百石を賜って何鹿郡十ニケ寺の本坊となり別院勅願所であったと伝へられてゐる。大門、山門、本堂、大師堂、薬師堂、茶室、弁天堂、通夜堂、閻魔堂、十五堂、鐘楼堂、宝倉、方丈、庫裡、納屋、土蔵等が建てられてゐたといふ。後大永五年に至り火災に罹って全焼した。当時物部城主上原政忠の尽力によって直ちに堂宇は再建せられたが元亀天正の時代に氷上郡黒井の赤井悪右ヱ門が進攻の際、寺坊は又もや兵燹にかゝり寺領も没収せられてしまったと同時に無住となった為め、檀徒も悉く他門に転宗をしたといふ。其の後宝暦十年に権大僧都義正が住職となって再建して以来、明治時代を迎へた。不幸にも明治三十四年一月又々火災に罹って全焼したが幸ひにも仏像は無事であった。明治四十一年現在の堂宇が建てられて今日に及んでゐる。本尊の千手千願観世音菩薩は手足の病に霊験あらたかなるものがあるといって遠く奥丹後辺から参拝するものが常に絶へない。殊に陰暦七月十七日の夜は十七夜と称して近郷近在から参拝する善男善女は盛に盆踊を催し向田の観世音と並び称せられて北丹地方の名刹である。(第十三章社寺宗教 第二節寺院の部参照)  (『物部村誌』)

高屋山密蔵院高屋寺(物部町下市)
 所属宗派 高屋山金剛峯寺
 本 尊  千手千眼観世音菩薩
 開 基  不詳
 開 山  天歴元年(九四七)
 無 住
高屋山 高屋寺の縁起について
人皇第六二代、村上天皇の御宇天歴二年(九四七年、平安時代初期の終り頃)山号を高屋山、院号を密蔵院、寺号を高屋寺と称し、地領総高、百石を勝って、何鹿郡一二ケ寺の本坊となり、別院勅願所であったと伝えられている。
大門、山門、本堂、大師堂、弁天堂(この堂のみ現存)閻魔堂、一五堂、鐘楼堂等、全部で実に一六の建造物があったと伝えられている。
大永五年(一五二五年室町時代末)に至り、火災に罹って全焼、当時、物部城主上原政忠の尽力によって直ちに堂宇は再建せられたが、元亀、天正の時代(一五七〇~一五七三年桃山時代初期)に氷上郡黒井の赤井悪右ヱ門が進攻の際、寺坊がまたもや兵火に合い、この時、寺領ことごとく没収、のち無住時代が続くが、宝歴一〇年(一七六〇年江戸時代)に権大僧都義正が住職となり再建するが、明治三四年一月、不幸にも、またまた火災に罹って全焼、幸いにも仏像は無事であり、明治四一年現在の堂宇が建てられ今日に及んでいる。(福知山市半田、明光寺の堂をこの地に移したものといわれている。)御本尊千手千限観世音菩薩は、手足の病に霊験あらたかなるものがあると云われ、昔より近郷近在より参拝者がある。毎年八月一七日は一七夜と称して祭りを営んでいる。また今日綾部西国三三ヶ所の内一八番の霊場となっている。(因に御詠歌は、「老の身も若きも後を願うべし、物の部なる世に生まれ来てし)
この高屋寺は無住で、祀り事等は自得寺が行い、寺の運営維持は、字物部の人々によって行われ、また、老人会によって掃除等も行われ憩いの場となっている。  (『物部史誌』)


臨済宗妙心寺派如意山自得寺



如意山自徳寺 禅臨済宗天寧寺末 物部村高屋ニ
天田郡大呂村天寧寺開山 弟子一呂大和尚開基 本尊阿弥陀如来 恵心ノ作 鍵守八幡在同村 古城主上原氏墓所 法経印塔多 鐘楼堂有 屋敷ハ高屋寺除地ノ内也 上原氏墓陵墓ノ部ニ出ス
(『丹波志』)

如意山 自得寺 (字物部)
所属宗派 臨済宗妙心寺 本尊 阿弥陀如来  作者不明 鎌倉時代作
外に釈迦如来
   脇立 文珠菩薩 普賢菩薩 三体共厨司入 作者不明 鎌倉初期作
応永十八年五月天寧寺(天田郡上川口村大呂)開山大通禅師の高弟一笑禅慶は之の地に来り一の草庵を建て「如意庵」と名づけ、居ること数年にして他に転じた。随つて之の如意庵も亦衰頽して遂に廃絶するに至った。其の後天正五年五月に一僧が訪づれ(名不詳)前の如意庵の跡に一寺を建立し如意山自得寺と称した。前の一笑禅慶の遺徳を追慕して当山の開基とした。それより二百余年を経過したが天明年間に到り再び衰運に向ひ堂宇は甚だしく破損した。時の住職楊洲全圭は大いに嘆いて百方勧進に努め寛政二年には遂に之を再建し再び寺運を挽回した。依て同師を当寺の中興として崇めて居るのである。爾来法燈相承けて現在に及んで居る。現住職は渡辺憲雄(寺伝に依る)
 尚当寺の什物の重なものは次の通り。
   遂翁和尚  寒山画
   古月和向  横物書
梵鐘は元禄三年春峰和尚の時鋳造せられたが昭和十七年太平洋戦争が方に酣なるの時供出を命ぜられた。終戦後三年を経て住職渡辺憲雄は日夜勧進に努め浄財を集めて再び焚鐘を鋳造し昭和二十三年臘月八日をトして鐘供養を行ふた。憲雄雲崖和尚の法縁深き霊亀山天龍寺の管長関巍宗老師は次の銘を作った。
  銘曰  撃砕迷夢  哮破無明  洪音無盡

(『物部村誌』)

如意山 自得寺(物部町下市)
 所属宗派 臨済宗妙心寺派
 本 尊  阿弥陀如来
 開 基  一笑禅慶
 開 山  応永一八年(一四一一)
 現 住  渡辺秀山(弟一五世)

如意山 自得寺の略歴
応永一八年辛卯五月(一四一一年、室町時代のごく初期)現福知山市大呂、天寧寺の開山(天寧寺を開いた人)、大通禅師の高弟に、一笑禅慶和尚(後に天寧開山大通禅師の法を継ぐ)により、禅風布教の地を、この高屋の聖地に求めて、一草庵を建て如意庵と名づけられた。その後、天寧寺の高弟を相ついでこの庵に住まわし、布教に務められたという。しかし、この庵も幾星霜のうちに廃絶するに到る。
その後、天正一五年丁未五月(一五八一年桃山時代)に一僧(名不詳)が庵墟の地を訪れ発願し、一寺を創立し如意山自得寺と名づけた。
その由来は、山号は草庵の名が如意庵であったので、その名をつけ、寺号は修證義第四章 発願利生のうち「菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に、一切衆生を度さんと発願し営むなり…早く自未得度先度佗の心を発すべし」…と菩提心を高揚し、人々の心のあり方を説いた経典から自得と名づけたようである。
その後、約二〇〇年を経過するが、天明年代(一七八一年~一七八八年の間)に再び衰運に向い、堂宇大いに破壊、しかし当山七世楊洲全圭和尚、是を大いに憂い、勇奮努力し、遂に寛政二年(一七九〇年 江戸時代)に到り再建を果した。故に全圭和尚を中興の祖としてその業績をたたえる。現在の堂宇のほとんどが、その和尚の時に造営されたものである。しかし、これらの建造物も約二〇〇年を経過したものばかりで老朽化が甚だしく、現住職一五世秀山和尚は、この有様を大いに憂い、檀中と一致協力し諸堂の改築、新築に着手して、古刹としての面目を保つ努力をしている。
因みに、昭和四一年、隠寮新築、同四二年、本堂屋根改修、同五二年、位牌堂新築、同五六年、書院新築、同六三年、庫裡改築、平成五年、隠寮改築を行った。
また、境内には、大銀杏の他老大木があり、また、さつきの庭園としては、この地方に類を見ないものもあり、古寺としての歴史を物語っている。なお、長野の善光寺の本堂阿弥陀如来の分身が安置されている。
行事としては、正月の修正会、二月檀中各家の家内安全を祈祷する大般若会、八月御先祖の供養を営む施餓鬼会、水子供養を営む地蔵盆、一二月の達磨忌、その他、除夜の鐘等の行事を通して信仰の参拝者も多く地元の人々と極めて密接な関係を保ちつつ今日に到っている。
なお、梵鐘は元禄三年春峰和尚の時鋳造せられたが、昭和一七年供出を命ぜられた。終戦後三年を経て先住は日夜勧進に努め浄財を集め、再び梵鐘を鋳造し昭和二三年臘月八日をトして鐘供養を行ったのである。  (『物部史誌』)


日蓮宗正慶山常福寺

諏訪神社の手前にある。案内板

正慶山 常福寺
所在地 綾部市物部町西町筋二三
(通称)物部の法華寺(ホッケデラ)
宗派 日蓮宗
本尊 久遠の本師澤迦牟尼佛
開基 蓮乗院日集聖人
開山 慶長一六年 (一六一一)
開基壇越について二説あり、当時境内の地続きとして今尚城山と称するものあり(当寺の所在地なり)物部城主上原豊後守将監殿築城深く法華経を信仰厚きをもって居城の麓に堂宇を建立した。
慶安元年(一六四八)に至りて福知山城主松平主殿領地の節境内除地となる。松平主殿忠房(福知山城主)深く法華経に帰依し、御父御菩堤の為当寺を創立したと伝えられる。現に当寺の仏殿に忠房の父忠利の御位牌が安置されている。

惟ソウ寛永九壬申
?舘寿松院殿五品尚舎超山源越大居士 神祇
六月五日

縦二尺七寸横六寸程の右の位牌には「松平主殿頭御父君」八字を書いた紙片が貼附してある。
その後延宝五年(一六七六)上原浅右工門は官へ申し出て当地の敷地を御朱印とし、明治維新の際、官有地第四種に編入させたる後土地なし、さらに払い下げを願い民有地となる。
宝暦九年(一七五九)火災に罹り、堂宇尽く焼失す。
安永元年(一七七二)に二五世(中興)英隆院日善上人頗る力を尽し、之を再建爾来変遷なり今時に至る。
城山中腹に妙見大士を安置せる妙見宮があり、山門横には、清正公並びに三十番神を安置せる清正公堂がある。
日蓮大聖人御降誕八百年記念して本堂、清正公堂全面修復、境内地を整備して寺観を一新した。
平成二四年(二〇一二)一二月永代供養塔建立安穏廟(宗旨宗派にとらわれず、当寺が各家施主様に代わって半永久的に故人様の納骨、ご供養と護持管理を執り行う永代供養墓)
平成二八年八月
為 浄徳院供養
施主 四方哲也
     第三九世 水野信道代


正慶山常福寺    物部村下市ニ
慶長年中 蓮成院開基 法華宗本国寺末 番神望門有 屋敷二十七間十二間 一反廿七歩 御除地ナリ  (『丹波志』)

正慶山 常福寺 (字物部)
所属宗派 日蓮宗身延山久遠寺  本尊 日蓮上人尊定の大曼荼羅
一説によると物部城主上原豊後守は日蓮宗を深く信仰した為め居城の麓に堂宇を建立した之が当寺の開基であると伝へられて居る。(豊後守の後裔は現に舞鶴市の南田辺に住しているといふ。)
又一説には松平主殿頭忠房(福知山城主)も深く日蓮宗に帰依したので当寺と建立したと伝へられて居る。現に当寺の仏殿に忠房の父忠利の位牌が安置せられてゐる。
  惟貶寛永九壬申
 捐館寿松院殿五品尚舎超山源越大居士
   六 月 五 日
縦二尺七寸横六寸程の右の位牌には「松平主殿守御父君」との八字を書いた紙片が貼附してある。
更に当寺の過去帳には「元和元年四月八日当寺開延」とある。元和の次が寛永であるから彼此参照して考察すると全く松平氏の開基とも思はれ特に霊牌の安置してあるを見ると極めて深い関係があつたと思はる。(寺伝)
◎参考  松平忠房は慶安二年三河国刈谷城主から丹波福知山四万五千九百石に転封せられた。本郡内にも八ケ村の領地があり、本村にては物部、新庄の二ケ村が領土であった。而して寛文九年肥前島原に移されるまで治世二十年其の間神を崇め仏を尊び賢才を表し、産業に意を用ひて仁政と布いた。本村領内の溜池は之の時に多く竣工した。(有馬侯の時竣工したのもある。)其嫡男が孝子として国定教科書にも出た有名な松平好房である。当寺開山は蓮成院日集聖人で現住職は三十八世の水野貞良である。
(『物部村誌』)

正慶山 常福寺(物部町下市)
 所属宗派 日蓮宗身延山久遠寺
 本 尊  日蓮上人尊定の大曼荼羅
 開 基  蓮成院日集聖人
 開 山  元和元年(一六一五)
 現 住  水野貞良(第三八世)

当寺境内の地続きとして、今尚城山と称するものあり(当寺の所有地なり)物部城主上原豊後守将監殿築城深く法華宗を信仰厚きをもって居城の麓に堂宇を建立した。寛永二年一一月二〇日(一六二五年)、これが当時の開基であると伝えられ、号して正慶山常福寺と称する。
また一説には、松平主殿頭忠房(福知山城主)深く法華宗に帰依し、御父御菩提の為当寺を創立したと伝えられる。現に当寺の仏殿に忠房の父忠利の御位牌が安置されている。

縦二尺七寸横六寸程の右の位牌には「松平主殿御父君」殿八字を書いた紙片が貼附してある。
さらに当寺の過去帳には「元和元年(一六一五年)四月八日当寺開廷」とある。元和の次が寛永であるから、これを参照して考察すると、全く松平氏の開基とも思われ、特に霊牌の安置してあるのを見ると極めて深い関係があったと思われる。(寺伝)
上原浅右五円は官へ申し出て当地の敷地を御朱印とし、明治維新の際官有地第四種に編入させられたる後土地なし、さらに払い下げを願い民有地となる。
 所蔵品
一 日像聖人の真筆御曼荼羅 一幅
  日像聖人は御醍醐天皇の時代、京都、北陸、山陽に法華経を弘通せられたる日蓮聖人の弟子九老僧なれば宗門において貴重なり。
一 鬼子母神画像 一幅
◎参考
松平忠房は、慶安二年三河国刈谷城主から丹波福知山四万五千九百石に転封せられた。本郡内にも八ケ村の領地があり、物部村にては物部、新庄の二ケ村が領土であった。寛文九年肥前島原に移されるまで治世二〇年、その間神を崇め、仏を尊び賢才を表し産業に意を用いて仁政を布いた。本村領内の溜め池はこの時代に多く竣工した。(有馬候の時、竣工したのもある。)その嫡男が孝子として国定教科書にも出た有名な松平好房である。
城山中腹に妙見大士を安置せる妙見宮があり、山門横には、清正公並びに三十荒神を安置せる清正公堂がある。
(『物部史誌』)


浄土真宗本願寺派曇華山正念寺


曇華山 正念寺(字物部)
所属宗派 浄土真宗本派本願寺  本尊 阿弥陀如来
 脇立 見真大師親鸞聖人並に慧燈大師蓮如上人、聖徳太子
 当寺の寺伝に就ては境内に建てられた、碑文に詳しい。漢文であるかち之を要訳すると、幾百年の音二人の浪士が丹波氷上郡の前木戸といふ所に一宇を建立して正念寺と名づけ真言宗に属したのを開基とする。後数代を経た時本部小畑庄へ移転した。其の後法嗣教念の代に真宗に改宗した。宝歴八年法嗣正慶の代に再び現在の北岸田に移転したのである。爾後相伝へて正達に至る。此の間凡そ開基から八百年を経過してゐるといふ。それから一時寺運は衰頽して無住となり貴重な記録や什物などは悉く逸散したので二浪士の消息や縁起並に法嗣調等は一切不明である。氷上郡出身の丹宮といふ勝井知固の二男(文化六年出生)が十歳で得度し、十六歳の時廃絶してゐた当正念寺を承けるや信徒と糾合して財用を整へ、文化九年には唐門を再建し、天保五年には経蔵を造るなど大いに其の復興に努めた。同八年には法を嗣いだ。之れ即ち当山中興の正俊法師である。次で嘉永五年には梵鐘を鋳造し、鐘楼を建てた。万延元年二月病を以て示寂した。行年五十二、生家勝井氏は赤井氏十世の祖悪右ヱ門直正から出てをり氷上郡黒井の保月城主であった。其の遠祖は有名な秦河勝で聖徳太子に仕へた山城の豪族である。(碑文要訳)
梵鐘は明治天皇の御誕辰を記念し、幕府の免許を得て鋳造したものである。大東亜戦に供出の準備をして居たが知事から供出除外の命があつたから現存してゐるのである。物部村開田由良八治郎の斡旋により京都市釜座住御所詰和田信濃大椽の冶工により嘉永五年八月下旬同郡落的場に於て鋳造せられた。
  銀曰   現仏本願力  値无空遇音
       能令速満足  功徳大宝海
        現住職は  宮川正康
(『物部村誌』)

曇華山 正念寺(物部町岸田)
 所属宗派 浄土真宗本派本願寺
 本 尊  阿弥陀如来(脇立あり)
 開 基  不詳
 開 山  不詳(中興、正俊法師)
 脇 立  見真大師親鸞聖人並に慧燈大師蓮如上人、聖徳太子
 現 住  宮川叡明
当時の寺伝については、境内に建てられた碑文によって経緯が伝えられているが、漢文であるので原文を写すと次の通りである。
中興正俊法師之碑
是為当山中興正俊法師之碑按口碑始ニ浪士某達一宇於丹波国氷上郡前木戸称正念寺属真言宗経数代移転干何鹿郡小畑庄其後法嗣教念改属真宗宝暦八年法嗣正慶又移干此地相伝至於正達凡八百年再来無住廃絶書類什物悉散失ニ浪士縁起並法嗣不可考法師幼名丹宮勝井知周ニ男以文化六年生十歳為僧十六歳承廃絶之後糾合信徒調理財用此歳文政九年八月再建唐門天保五年十月造経蔵同八年十一月十二日嗣法嘉永五年鋳梵鐘建鐘楼万延元年二月念一日病卒行年五十二按系譜勝井氏出赤井氏十世祖悪右衛門丞直正為黒井保月城主其遠祖乃秦河勝仕干 聖徳太子鳴呼法師中興抑亦有
 故哉銘日
   興廃継絶 有孚干衆 匪夷所思 以伝無窮
  明治四十二年十二月二日 嗣不省   釈 正恵建之
        篆額 従三位伯爵    宗 重望題之
                    松園忠貫撰之
                    谷 弘書之
(横面)  丹後河守町 彫刻師  岩間繁造
これを要訳し少し補足すると、正念寺は開基から八百余年を経過し、一時寺運は衰頽して無住廃絶となり、貴重な記録や什物など悉く散逸した。その後、文政のはじめに再興して現在に至っている。即ち、平安時代中期寛仁年間(一〇一七から一〇二〇)の頃に、二人の浪人が、丹波氷上郡前木戸というところに一寺を建立して、正念寺と名付け真言宗に属したのを開基としている。その後数代を経て寛永三年(一六二六)小畑庄へ移転した。後の法嗣教念の代に真宗に改宗、宝暦八年(一七五八)岸田の現在地に移転し再興されたのである。その後再び無住となり衰頽廃寺となったので、二浪士の消息や縁起、法嗣など一切不明である。
その後、当山の中興の祖となる「正俊法師」氷上郡出身の丹宮という勝井知周の二男(文化六年出生)が一〇才で得度し、一六才の時廃絶していた当正念寺を承継すると、信徒を糾合して財政をととのえ、文政九年(一八二六)には唐門を再建し、天保五年(一八三四)には経蔵を造るなど、大いにその復興に努めたのである。
次いで嘉永五年(一八五二)には梵鐘を鋳造し鐘楼を建てた。師は万延元年(一八六〇)二月病により歿した。行年五二才であった。生家の勝井家は、氷上郡黒井の保月城主赤井氏一〇世の祖、悪右ヱ門直正から出ており、その遠祖は有名な秦河勝で聖徳太子に仕えた山城の豪族である。(秦河勝は、今の京都の太秦のあたりを占めていた帰化人系の豪族で、推古天皇の一一年(六〇三)に皇太子から仏像をうけて、蜂岡寺、現在の広隆寺を造った名望家であった)
梵鐘は、明治天皇の御生誕を記念し、幕府の許しを得て鋳造したものである。大東亜戟争に供出する準備をしていたが、幸い知事から供出除外の特別の命があったので供出を免れて現存しているごしの梵鐘は旧物部村の飛地開田(現新庄町開田)の由良八治郎の斡旋により京都市釜座住御所詰和田信濃大掾の冶工により嘉永五年(一八五二)八月下旬この地の的場において鋳造せられたものである。
  銘曰  現仏本願力 値无空遇者
      能令速満足 功徳大宝海
「丹波志 何鹿郡之部」によると、由良八治郎の祖について「由良氏 子孫  物部村 飛地 小畑郷新庄村在中 田ノ中ニ 百姓高持 先祖氷上郡鴨庄小多利村浪人也
子孫三軒 嘉右衛門持高六百石 柏原大庄屋 右先祖 初テ野ヲ開発シテ字ニ開田ト云フ」と記されている。
(『物部史誌』)


高屋城

今の自得寺の裏山である。上原氏はまずこの山に居城を構えたという。
信州上田の城主上原右ヱ門丞景正がその一族を率いて丹波何鹿郡六万石の領地を与えられ、建久四年(一一九三)物部の地に入った。上原氏は物部に入るとまずほぼ中央の小高い山、高屋山を居城と定め、密蔵院高屋寺の裏山一体を陣屋とした。斯くして、地頭として物部に入った上原氏は丹波の経営に着手したが、まず何よりも守護神として故郷の信州一の宮諏訪大明神を勧請し、須波伎仙人隠れの山麓に祀った。こうして、この地帯を由良川に向けて南流する川を“犀川”と名付けたと言われている。
その後、文明年間(一四六九室町時代)この陣屋は高屋山の西方五町の物部盆地中央に当る荒山(城山)に移され、守護神諏訪神社もその南麓に移し祀られて今日に及んでいる。
(『物部史誌』)

高屋城跡

物部城

上が平に削平されたよう、下市の城山(荒山)↑(高屋寺より)。
その後の上原氏の居城で、慶長年間成立の「物部古城記」には「建久四年信州上田城主上原右衛門丞景正、源頼朝に従い丹波何鹿郡を賜い物部に居城す」とある。また「上原氏由来」(「物部村神社寺院調」所引)には、入部の際に地侍が物部の「ふとがはな」で抵抗しようとしたと述べられている。上原氏の地元での活動については確たる史料に欠けるが、室町時代になると京都での活躍がみられる。ことに15世紀後半の上原賢家・元秀父子の時代が全盛期で、丹波守護代に任ぜられている。

上原氏と物部城址(物部町 下市・上市)
上原氏については、第二章に述べた通りであるが、丹波志(何鹿郡)「古跡陵墓の部」に次のように記されている。
物部郷 上原氏古城 物部村
 上市下市ノ間未申表郭多シ 上リ三十間斗西ノ麓家中屋敷〔  〕斗カキ上ケノ土手有 古城ヨリ三丁斗未申山ト戌亥ノ山ト八丁ト 家〔 〕南ノ山端三所出張ノ屋敷跡カキ上ケ土手有 城主上原氏頼朝公富士ノ巻狩ニ鹿ノ料理好賜 則不宜シテ上原氏ノ料理宜シク褒美鹿書国ヲ賜ト有リ
 則丹波何鹿郡六万石賜居城ス 波(彼)ノ上原氏ハ建久年中信州飯山ヨリ来備後守日向守左衛門杯ト云政忠迄十五代伝フ(略)信濃ヨリ諏訪明神ヲ引移ス 今ニ同村白得寺境内ニ城主ノ墓アリ 陵墓ノ部ニ出ス
一家老中野氏ト云 系図天田郡石原村有ト云フ
物部城は、下市集落の中央を流れる犀川流域の丘陵にあり、綾部・東西八田方面からは登尾峠・枯木峠・尾藤峠などを越えて、丹後に通ずる要衝の地であった。
この城は、周囲およそ六〇〇メートルの丘陵を削平して城郭としている。本丸は東西二〇メートル×南北九メートル、高さ一メートルの長方形をなし、北半分程が若干低く削平している。本丸の東の隅には、九メートル×七メートル・高さ二メートルの物見台があり、西の隅には六メートル四方の櫓台があって帯郭が設けられていた。本丸の西側には三の丸があり、東西三〇メートル×南北二〇メートルの規模である。本丸の東側にある二の丸の入口手前には、番所と思われる広場があり、竪堀が馬蹄形に造られている。
物部城主 上原豊後守は、日蓮宗を深く信仰し、城の南麓に堂宇を建立した。これが正慶山・常福寺の開基であると伝えられている。(物部村誌)又、南西麓には諏訪神社の建立、高屋寺の再建、岸田には浅根山城、上延町には諏訪城など出城の築城を行っている。上原氏はある時期守護代ともなって、永く綾部西部を支配したが、元亀二年(一五七一)黒井城主赤井直正に攻められて落城した。  (『物部史誌』)

物部城跡

浅根山城

浅根山↑(坂根正喜氏の航空写真2007)南側上空より

浅根山↑(坂根正喜氏の航空写真2007)西側上空より

正念寺の裏山。浅根山公園があり、途中まで車で登れる。登り口の案内。
上原氏の居城と伝えるものはそのほかに浅根山(あさねやま)城(岸田)がある。
浅根山城(物部町岸田)
 物部城址の東側下市・上市の集落を経て、何北中学校を過ぎると犀川が向田・白道路から流れる川と合流して、岸田集落の中央を南西に流れている。この集落の北側に「殿様屋敷」と呼ばれる城跡のある浅根山がある。
 丹波志(何鹿郡之部)古跡陵墓の項に
 朝寝ノ城ト云古跡 物部村 片田ノ上ニ
  屋敷跡 正月元旦若水迎ニ出テ追討落城スト云 敵味方トモニ不知
と記されている。
浅根山は東西に細長い、高さ五〇メートル程の独立した小山であるが、頂上近くに岸田貯水場があり、それを少し上った所に腰郭がある。規模は小さいが雑木に埋もれながらも、ほぼ完全に近い遺構を残している。麓に曇華山・正念寺があり、迂回した犀川が外壕としての防衛線を果しており、東西に細長い頂上部分には上辺の巾七~八メートル・底部で二メートル、深さ六メートル程の堀切りで区切られた東部頂上を、土地の人は浅根山とか浅根ケ鼻と呼んでいる。
城跡は、東西約八メートル、南北一二メートル程のその中心部分の郭の東側と南側を土塁に囲まれて、西側には矢倉台跡か、或は物見台跡か不明であるが、ほぼ梯形型の土塁でつながっている。郭内の隅に二ヶ所井戸跡が残り、そのうちの一つは一部が崩れてはいるが現地調査の時水をたたえていた。東と南の土塁は高さ約二メートル、上部で一・五メートル、底部で四~五メートルの堂々たるもので、この地方では他にあまり類を見ない。
西側の矢倉台跡とおぼしいものは、東西五メートル、南北およそ七メートル、中央部分の約四メートル四方が、やや高い盛り土となっている。建物の跡であろうか、石垣碇石は認められない。中心部の西側の大堀切りの更に西に、もう一つ小さな堀り切りがあり、その西側は雑木の茂った削平地が続いている。中心部分程人工の遺構は歴然としていないが、人工による削平地であると考えられる。
浅根山は地高にして五〇メートル程度の小山であるが、東方には白道路方面や、北方の向田・志賀郷から山間部への眺望がよく、規模は小さいが物部城の支城として恰好の要地であったと考えられる。  (『物部史誌』)

浅根山城跡

延徳元年(1489)の「位田の乱」では大槻・荻野などの土豪の反乱に苦しんだが、その後も何鹿郡西部では並ぶもののない存在であった。永禄11年(1568)頃のものと思われる信長朱印状は上原氏が隣接の丹後にも勢力を及ぼしていたことを示している。
  丹州本知並に丹後国在治(原注・有道)郷土下寺社本所付諸奉公方
  任御下知之旨不可有相違之状如件
   十月十四日  信長(朱印)
    上原右衛門少輔殿



《交通》


《産業》


《姓氏》
上原氏
戦に明け暮れた日々  ●物部上原氏の三五〇年
由良川支流の犀川中流右岸丘陵に、いくつかの遺構を伴う物部城跡がある。この地域は『倭名抄』に記載される何鹿郡一六郷の一つ物部郷で、現在の綾部市物部町に比定される。物部城主上原氏は、信州諏訪下社神官の出で、諏訪郡上原村に住み上原姓を名乗った土豪、いわゆる諏訪神党の一族と思われる。そして鎌倉時代も比較的早い時期に何鹿郡西部の地頭職を得て入部、以来この地を拠点に栄枯盛衰の途をたどった。
当地方に伝わる「上原氏由緒書」などによると、建久四年(一一九三)信州上田城主上原右衛門丞景政が源頼朝に従い、丹波何鹿郡を賜り物部に居城したとあるが、やはり承久の乱(一二二一)以後の新補地頭と見られている。ただし、『吾妻鏡』に文治二年(一一八六)三月入洛の北条時政が京都に留めおいた武士の中に「うえはらの九郎」が記され、『神氏系図』 には、上原九郎成政が建久四年に丹波国物部郷と西保地頭職を拝領したとある。上原氏来住資料としてかなり真実に近いのではないかとも考えられる。その居城は、初め下市の高屋山に築かれて後、現在の荒山に移し物部城と称した。
その後建武三年(一三三六)、物部(上原)孫神太が仁木頼章に従い京都・近江の合戦に参加し、暦応二年(一三三九)には仁木頼章の被官上原孫神太秀基が登場する。この両者は同一人物かもしれない。さらに明徳三年(一三九二)細川頼元の随兵物部九郎成基が現われる。上原氏が苗字を物部と併用しているのは、その本拠を何鹿郡物部郷に定めて後にその郷名を採って付けたのであろうが、物部の苗字は明応二年(一四九三)頃を最後に使用されなくなる。
上原氏が史上最も脚光を浴びるのは、賢家・元秀父子が丹波守護(管領)細川政元の重臣として近侍し、丹波守護代として勤めた一三年間(一四八二~九五)である。この間、山城国一揆・近江の六角氏征伐・丹波国一揆・明応の政変など打ち続く動乱に明け暮れたようである。ことに丹波国一揆(一四八九~九三)は船井郡から奥三郡にまたがる広範かつ強力な一揆で、その中心拠点は上原氏の物部城に近い位田城であり、激しい攻防戦が繰り広げられた。この合戦の模様は、『綾部市史 上巻』にかなりくわしく紹介されている。
上原元秀は文字通りの実力者であった反面、傲慢な振舞いが多く、細川内衆からの反感の中で明応二年死去した。元秀死後の守護代職は父賢家が引継いだが、彼もまた不遇の内に二年後にその職を失ない程なく死去して、家は賢家の長男神四郎が継いだが振るわなかった。続いて上原豊後守政忠・同周防守・子息衛門大輔が登場した。
永禄一一年(一五六八)九月、足利義昭を奉じて入京した織田信長より上原右衛門少輔宛に下知状が下され、信長の丹波攻略に先立つ下地工作を物語っている。しかし、織田方との内通を察知した氷上郡の強豪赤井直正は、元亀二年(一五七一)に上原氏を攻め滅ぼし、入部以来三五〇年の歴史を閉じることとなった。(塩見光一)
(『図説・福知山綾部の歴史』)


物部の主な歴史記録




伝説



城山
口碑によると上原右ヱ門尉政忠の居城であったが赤井悪右ヱ門に亡されたといふ。今に尚城跡がある。(高さ十五丈 周囲六町程、字物部の中央に孤立する。)中腹には妙見宮、山麓には諏訪神社を祭ってゐる。

曾我兄弟の墓
建久年間当村に居城し六万石を領してゐたと伝へられてゐる上原右ヱ門之尉が其の親戚であった曾我兄弟が、父の仇、工藤祐経を討ち取り目出度本懐を遂げて討死したので其の冥福を折る為に建碑したものであると伝はってゐる。兄祐成の墓は荒廃して畑地となってしまったが弟時致の墓は尚存してゐる。

首荒神
字物部小字高屋にある薮林中に小祠を祀ってゐたが今は開墾せられて田地となってゐるが上原右ヱ門之尉の首と埋めた所であるといひ伝へて居る。

石隈の石室
石の隈は古くは一村であったであらうが現在は口石の隈は字新庄に属し奥石の隈は字物部に属してゐる。石室は奥石の隈の地に在って地元の者は之を石棚とよんでゐる。其の教は七、八箇ある。室の入口は南方に面し、其の中の大なるものは十七八名も入ることが出来る。現時ほ大部分破損せられて原形と存するものは殆んどない。其の中には荒神の境内となって居る所もあり。又池となって居る所もある。  (『物部村誌』)


曽我兄弟の墓
 物部小学校のグランドの北側台地に、曽我兄弟の墓と伝えられている小さな五輪の墓石がある。世に名高い曽我兄弟の仇討ちは、鎌倉・室町時代以来、孝子・義挙の鑑として能や浄瑠璃・歌舞伎等で親しまれてきた。
 曽我十郎祐成、同五郎時政兄弟の父は、伊豆の豪族河津祐泰で安元二年(一一七六)一族の工藤祐経に伊豆の狩場に於て射殺された。後程、母は二児を連れて曽我祐信に再婚したので曽我と称した。
 その後、曽我兄弟は父祐泰の仇を討つべく転々として機会をうかがうこと一八年、辛苦の末建久四年(一一九三)五月二八日、富士の裾野の狩り場で祐経の幕舎をつきとめ、風雨をおかして討ち入り目出度く本懐をとげた。しかし、この時、兄は討たれ弟は捕らえられて松ケ崎で弑せられた。頼朝は兄弟の孝心に感じ、義父祐信に曽我荘の年貢を免除して兄弟の菩提料とさせたという。
 上原蘇右ヱ門丞景正が、この建久四年の巻狩の功によって丹波国何鹿郡六万石を与えられ、物部に入部したのがこの事件の直後のことである。上原氏は親戚筋に当る曽我兄弟を憐れと思い、その冥福を祈るため墓石をこの地に建立したものと伝えられている。兄祐成の墓は荒廃して畑地となり、現存のものは弟時致の墓であるとされている。
(『物部史誌』)





物部の小字一覧


物部町
南車田 北車田 東中碩 西中碩 六地蔵 高屋善徳 濁淵 戸尻 東町筋 西町筋 安楽寺 柳原 靭堀 西前田 北前田 南前田 古市場 上初田 下初田 下河原 大谷 太ケ鼻 荒山 岫 南桜ケ坪 西桜ケ坪 岡ノ後 野座 小野座 市ケ坪 西之宮 上町裏 城山 蓮池 大淵 常谷 高倉前 麦尾谷 狭間 山下 上川原 馬州 南中縄手 北中縄手 金屋 北馬場 大熊座 常盤谷 奥ノ谷 建田 稲郷 大清水 須波岐 横枕 横椽 大田 竹中 中谷 寺谷 石橋 石塚 知阪 早間尻 早間頭 桑迫 桐ケ迫 ニッ山 博労坂 菅谷 南柏原 北柏原 天野 中野 折目 白岩 五反田 下山 船迫 梁谷 東野 鳶谷 才ケ谷 岸田 松山 上塩田 下塩田 的場 広畑 東樋ノ口 西樋ノ口 東物部 朝根ケ鼻 浅根山 鷺ケ谷

『物部村誌』
字物部
「耕地」 南石隈、東石隈、池ノ谷、北石隈、風呂谷、南太ゲ鼻、太ゲ鼻、下川原、建田、稲郷、大清水、須波岐、横枕、大田、横椽、竹中、中谷、寺谷、石橋、石塚、知坂、早間尻、桑迫、桐ケ迫、早間頭、ニッ山、博労坂、天野、中野、北車田、菅谷、五反田、南柏原、折目、白岩、北柏原、南車田、東中磧、西中河原、六地蔵、高屋、善徳、濁淵、東町、西町、南前田、戸尻、安楽寺.柳原、靱堀、西前田、北前田、古市場、下初田、大谷、上初田、東桜ケ坪、西桜ケ坪、岡後、野座、小野座、市ケ坪、西ノ宮、上町裏、城山、蓮池、大淵、常谷、高倉前、麦尾谷、狭間、山下、上川原、北中縄手、馬洲、金屋、北馬場、南中縄手、鳶ゲ谷、才ゲ谷、岸田、松山、上塩田、下塩田、的場、広畑、東樋ノ口、西樋ノ口、北岸田、朝根ゲ鼻、 計九十
「林野」 荒山、大熊座、常磐谷、浅根山、奥ノ谷、岫、鷺ゲ谷、石隈、下山、船迫、梁ゲ谷、東野、 計十三

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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